長崎の古写真考 1」カテゴリーアーカイブ

長崎の古写真考 目録番号:5258 茂木長崎ホテル(4) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5258 茂木長崎ホテル(4) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5875 茂木若菜川河口(3)
〔画像解説〕
茂木村の入り江に注ぐ若菜川(大川尻)を北浦方面の岬へと渡る若菜橋。河口付近は42間
(約75m)あり、明治中期に土橋から木橋に架け替えた。右手には長崎ホテル茂木支店があった。左先には北浦へ続く道がある。

目録番号:5258 茂木長崎ホテル(4)

目録番号:3827 茂木長崎ホテル(1)
〔画像解説〕
大正初期の茂木長崎ホテルの絵葉書写真。明治39(1906)年松ヶ枝長崎ホテルの茂木支店として景勝の地塩見岬で開業した。写真には茂木長崎ホテルの従業員が玄関で写されている。建物は和風寄席棟造り2階建て。2階の廊下には洋風のヴェランダがめぐらされている。外国人の客も多かった。

■ 確認結果

きょう、2012年3月17日付朝日新聞長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に掲載された「茂木の若菜橋 アーチ橋に舶来の風」。
解説は「長崎から南東に約8㌔続く茂木街道の終点に若菜川の河口があります。英海軍の見習い将校ヘンリー・スチュアートは1890(明治23)年、茂木に旅行し、河口を撮影しています。…」
「若菜橋を渡らずに直進したところは元庄屋の森岡平左衛門屋敷(現茂木郵便局)でした。ここには1906年、道永エイが外国人のための茂木長崎ホテル(のちのビーチホテル)を建てます。木造2階建てベランダ付きのおしゃれな洋館でした。…」

長崎大学データベースでは、目録番号:5875「茂木若菜川河口(3)」と、目録番号:5258「茂木長崎ホテル(4)」の作品である。
「若菜橋」についていうと、若菜川の「河口付近は42間(約75m)あり」で、新聞解説の「幅75㍍の河口にかかるのは若菜橋です」は、橋の全長と読まれかねない。

きょうの問題は、次の「茂木長崎ホテル(のちのビーチホテル)」についてである。誤解を解くよう2008年から指摘している。茂木には同じようなホテルが2つあった。
目録番号:5258「茂木長崎ホテル(4)」は、決して「道永エイが建てた(実際は前ホテルを買収建て直し、後に「ビーチホテル」と改称した)」茂木左側岬、庄屋宅跡の方の茂木ホテルではない。長崎学ハンドブックⅡ「長崎の史跡(南部編)」28頁参照。

この建物は、次の目録番号:3827「茂木長崎ホテル(1)」のとおり、茂木右側岬、玉台寺から潮見崎の方へ向かう途中、新田にあった「茂木長崎ホテル」(後の松柏楼)の古写真である。
ホテルとしての開業・閉業年代は不明。小料理店に変わり「松柏楼」は、大正12年頃から昭和
12年頃まであったらしい。跡地は現在の「高崎湯」裏手ではなく、左側アパートとなったところである。
以上は、「茂木商工会30周年記念誌」平成2年刊の44〜45頁に、貴重な記事と古写真がある。よく読んでもらいたい。
本ブログ次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/1535

目録番号:5258「茂木長崎ホテル(4)」は、アルバム名: 絵葉書(長崎地域) 。ヘンリー・スチュアートが1890(明治23)年、茂木に旅行した際、「若菜橋」とともに撮影した写真ではない。これも誤解して読まれる写真の掲載の仕方と思われる。
2つのホテルの背景の山並みは、明らかに違う。昨秋、せっかく「茂木さるく」に出かけられたなら、このような現地研究もお願いしたかった。

茂木町「裳着神社の由緒」現地説明板に、茂木ホテル(後のビーチホテル)の古写真があったので、最後に追加した。両ホテルの造りと建物背後の山手の違いを良く見て判断してもらいたい。
本ブログ次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/1818
また、ブライアン・バークガフニ氏の研究紀要「古写真と絵葉書に見る茂木街道」が、長崎大学附属図書館「古写真研究 第3号」2009年5月発行57〜62頁に掲載されている。これに詳しい茂木ホテルの写真がある。
本ブログ次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2795

長崎の古写真考 目録番号:5868 茂木への道(5) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5868 茂木への道(5) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5868 茂木への道(5)

目録番号:1365 茂木街道(2)
〔画像解説〕  超高精細画像
この写真は、茂木街道の峠から下り始める茂木側の街道を撮影した、明治20年(1887)代後半の写真である。ガラス乾板に焼き付けられた、手彩色のスライド写真を画像化したものである。茂木村(現長崎市茂木町)は長崎市の東南約8キロメートルの場所にある。長崎から茂木へ行くには、長崎半島の付け根の尾根を越える必要がある。この尾根の峠を過ぎると、茂木街道は一気に長崎半島東斜面を茂木に向けて下り始める。この写真は明治20年後期の頃の茂木街道の、茂木に下る川の街道を撮影したものである。江戸時代に、長崎から茂木に到る街道があったが、明治時代になり、人力車や荷車が通行する近代的な道路を開削する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。明治20年(1887)6月25日、午後1時より、当時の茂木村田上名において開通式が行われた。女性の服装や人力車の内装から、明治後期の写真と思われる。

目録番号:2264  茂木街道(3)
〔画像解説〕
江戸期から使われた長崎から茂木にいたる街道であり、写真は田上から下った柳山辺りを撮影している。この道路は勾配が急で荷馬車や人力車の通行に不便なことから明治18(1885)年に新道(旧県道)が建設され、昭和9(1934)年には新県道(現国道324号線)が開通した。

目録番号:4718 峠の人力車(2)

■ 確認結果

きのう、2012年3月3日付朝日新聞長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に掲載された「茂木街道の転石付近 開削後まもない光景」。
解説は「上の写真は英海軍の見習い将校ヘンリー・スチュアートが1890(明治23)年、開削されたばかりの茂木街道を通って茂木へ旅行した際に撮影したものです。…場所は転石付近で、茂木方向を写しています。…
1894年ごろに撮影された下の写真は、絵の具で彩色された幻灯機用のガラス板です。同じ写真が横浜の写真家玉村康三郎のアルバムに収蔵されているため、製作者は玉村と思われます。… 写真に写る街道は、まだ新しい道の雰囲気を伝えています。中央の人力車は写真右下方向に曲がって山道をくだり、平口橋を経て茂木に至ります」とある。

長崎大学のデータベースでは、上の写真は目録番号:5868「茂木への道(5)」、下の写真は目録番号:1365「茂木街道(2)」。玉村アルバムの同じ写真は、目録番号:1365「茂木街道(2)」の作品である。
写真は田上から下った「柳山辺り」は、旧街道の道なので解説誤り。この項は次を参照。
https://misakimichi.com/archives/1879
いずれも、明治20年(1887)6月開通した「茂木新道」すなわち「明治旧県道」の、転石から平口橋の谷間へくだる旧カーブ付近を、撮影しているのは間違いない。

上の写真は、ホテル古都あたりから撮影している。少し下って谷間が広け、カメラの向きを変えて撮影したのが、下の写真であろう。
今回、古写真考とするのは下の写真には、まったく同じような場所から撮影した参考写真がある。年代は新しいと思われるが、目録番号:4718「峠の人力車(2)」であるから紹介する。
転石から「明治旧県道」の旧カーブを河平川の方へ下って行き、高架橋(唐八景トンネルの国道324号)の下にあるのが、「平口橋」である。

長崎の古写真考 目録番号:3799 茂木街道(4) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3799 茂木街道(4) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3799 茂木街道(4)
〔画像解説〕   超高精細画像
茂木村(現長崎市茂木町)は長崎市の東南約8キロメートルの場所にある。長崎から茂木へ行くには、長崎半島の付け根の尾根を越える必要がある。この尾根の峠にある場所が田上であり、途中の休息をとるために茶屋ができた。この写真は、明治20年(1887)頃の田上の茶屋を撮影した写真である。明治時代には、茂木は長崎から小浜、熊本、鹿児島方面へ人や物資を運ぶ重要な港であった。また、居留外国人の保養地として知られていた。江戸時代に、長崎から茂木に到る街道があったが、明治時代になり、人力車や荷車が通行する近代的な道路を開削する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。特に、田上の切り通しの開削工事が困難であった。明治20年(1887)6月25日、午後1時より、当時の茂木村田上名において開通式が行われた。田上峠は長崎から茂木に到る中継点に当たり、峠に茶屋ができて賑わった。

目録番号: 337 茂木街道田上(1)
〔画像解説〕   超高精細画像
上記と同じ。省略。

目録番号: 366 茂木街道田上(2)   ((1)と同じ写真。掲載略)
〔画像解説〕
長崎から茂木へ行く途中の峠。長崎から茂木への要路で田上峠は茂木口といわれていた。峠の茶屋と人力車が時代を感じさせる。整理番号8-11と同一ネガからの焼き付けと思われる。

■ 確認結果

先週、2012年2月25日付朝日新聞長崎地域版「長崎今昔 長大写真コレクション」に掲載された「田上の茶屋 木おけから湯気たつ」。
解説は「…この場所は、背後の田上の切り通しから下りてきた茶店です。写真には「長崎の茂木街道」と英語の説明書きがあります。先々週紹介した田上の交差点から茂木に少し下り、若菜川の源流となる小川と交わるあたりです。…下の写真は同じ場所を田上側から撮影しています。…」とある。

まぎらわしい説明だろう。「田上の交差点から茂木に少し下り、若菜川の源流となる小川と交わるあたり」とは、田上の交差点から200mほど下った橋のある「転石」角あたりを考える。やや遠過ぎる。上の写真の目録番号:3799{茂木街道(4)」は、茂木側から田上側を、下の写真の目録番号: 337「茂木街道田上(1)」は、田上側から茂木側を撮影している。
きょうの掲載記事「茂木街道の転石付近」も確認を要することがあり(次記事とする)、きょう一緒に現地で調査してきた。現在の写真はそれぞれのとおり。

河平のご年配長橋さんが、昔の田上の茶屋のことを良く覚えておられた。上の写真で言うと、左は「石津酒店」、右は「木村茶屋」という茶屋だろう。2月11日付の判明した「梶原茶屋」は、現在の「長崎バス田上発着場」など挟んで、その上の方にあったという話である。
戦後、昭和24〜25年頃までこの建物は残っていた。転石角には寿司・竹の子弁当の店があった。河平川の平口橋先には大楠の根元に「楠茶屋」もあったらしい。

「石津酒店」は、現在も同じ場所に酒店ビルがある。主の話でも位置的に間違いないだろうと確かめた。したがって、上の写真の撮影場所は、現在の茂木から上がってきた長崎バス「田上」バス停あたりから。山手からの小川と「出合う」と言うべき場所だろう。
田上のこの谷の川は、正しくは「河平川」の源流。田手原町から流れるのが「若菜川」本流である。長崎大学及び長崎市役所茂木支所で、茶屋名とも撮影場所の再検証をお願いしたい。

長崎の古写真考 目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1288 鍋冠山からの長崎港
〔画像解説〕 超高精細画像データベース
鍋冠山から大浦居留地、出島から長崎湾奥方向の北部をみた鳥瞰写真である。左下の大浦川に、慶応元年(1865)6月に架設された弁天橋がすでにあるが、明治2年(1869)2月に出島から築町、築町から新地にかけて、出島新橋、新大橋がまだ架かっていない。このことから、この写真の撮影時期は、慶応元年(1865)から明治元年(1868)の間である。この写真の特徴は、大浦外国人居留地、出島、長崎市街地の北部、対岸の飽の浦から稲佐地区、さらに長崎湾奥の浦上新田、これらの長崎湾の地形全体が撮影されていることである。大浦居留地は万延元年(1860)に埋め立てられたが、それ以外の地域は、ほぼ江戸時代のままの姿であるために、浦上新田が干拓された享保15年(1730)頃まで遡り、江戸時代中期の長崎の地形が現実感を持って見ることのできる写真である。鮮明な写真であるために、大浦外国人居留地や出島全域を拡大して見ることができる。

〔画像解説〕 メタデータ・データベース
右手に見える出島の右側に明治元年に架けられる大橋が写っていないことから、撮影時期は慶応年間。海上には多数の船舶が浮かび、長崎港の賑わい振りがうかがえる。

作品番号:10 星取山から長崎港を見下ろす  (28−23)長崎大学附属図書館所蔵
〔画像解説〕 ながさき・出島「古写真の世界」展 写真集 59頁
安政6年(1859)、日本が開国すると、もはやオランダ人を市街から隔絶する必要がなくなった。出島は、次第に周辺部が埋め立てられ、江戸時代の扇形の形を変形させ始める。古い出島の波止は壊されて、慶応元年(1865)に新しい波止201.6坪が築造された。慶応2年(1866)、外国人居留地への編入後、出島から浪の平に至る海岸道路を建設するために、慶応3年(1867)6月、出島の海側に4間幅の遊歩道が築造される。出島の外側に4間埋め立てて、新しい石垣が築かれた。この写真は、慶応3年から、明治2年(1869)に出島から築町に出島新橋が架設される間のものである。

作品番号:34 星取山から長崎港を見る    (96−58)長崎大学附属図書館所蔵
〔画像解説〕 同 写真集 63頁
星取山の山上から大浦居留地越しに長崎港を俯瞰したもの。大浦川には明治3年(1870)に架かる下がり松橋はまだなく、弁天橋だけである。出島の外回りに慶応3年(1867)に築造された遊歩道および馬回しが見えるが、その横と築町との間に明治2年(1869)架設される出島新橋はまだ見えないので、この写真は明治元年(1867)頃の撮影であることがわかる。湾奥、浦上川口には享保15年(1730)から埋め立てられた浦上新田(現・茂里町)の形がはっきりとわかる。右側は長崎市街地の中心部である。出島の右側には新地蔵の家並みが、大浦居留地の背後の丘には旗を立てた東山手9番のイギリス領事館が見える。海上には多くの艦船が停泊しているが、左中央の船腹の白っぽい船は砲門を持つ軍艦である。これらの艦船の集結は明治維新の緊張を伝えているようである。

■ 確認結果

2000年10月、浜屋百貨店で開催された日蘭交流400周年記念事業 ”ながさき・出島「古写真の世界」展”に展示された古写真。同写真集の8頁に部分、16頁に全体があった。
タイトルや画像解説は、「星取山」からだった。

長崎大学古写真データベースでは、目録番号:1288「鍋冠山からの長崎港」の作品。撮影場所は、「鍋冠山」ではない。「星取山」からが正しい。現地確認している。
再三、要望しているのに、今もって修正されないのは、どうしたことか。国の科学研究費補助を受けて構築されているデータベース。文化庁は長崎大学学長を指導してもらいたい。
この項は、次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2832

それぞれの画像解説は、上記のとおり。比べてみると「撮影場所」以外にも、「撮影年代」も少し幅があるようだ。説明はなるべく統一してほしい。
星取山山頂から今は木立のため、長崎市街が見渡せない。現在の写真は、少し中腹の造成中「港ヶ丘パーク墓苑」上から写している。

長崎の古写真考 目録番号:4813 茂木街道(5) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:4813 茂木街道(5) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:4813 茂木街道(5)
〔画像解説  超高精細画像〕
この写真のタイトルは「長崎からの茂木街道」となっている。撮影時期は彩色写真から見て、明治20年(1887)代である。写真の対象は、比較的規模の大きな住宅の前に止まる人力車に乗った若い女性と車夫の演出写真である。撮影場所は、道路の整備状況から判断して、茂木の港の近くではないかと思われる。明確な場所の特定はできていない。明治時代には、茂木は長崎から小浜、熊本、鹿児島方面へ人や物資を運ぶ重要な港であった。また、居留外国人の保養地として知られていた。江戸時代に、長崎から茂木に到る街道があったが、明治時代になり、人力車や荷車が通行する近代的な道路を開削する必要があった。そこで、長崎県は明治18年(1885)から茂木新道の開削に着手した。特に、田上の切り通しの開削工事が困難であった。明治20年(1887)6月25日、午後1時より、当時の茂木村田上名において開通式が行われた。

目録番号:3837 茂木街道田上梶原茶屋 (掲載略)

■ 確認結果

きょう2012年2月11日付、朝日新聞長崎地域版”長崎今昔 長大写真コレクション”に掲載された「田上の東郷・梶原茶屋」古老の証言から特定。解説は次のとおり。
「これまで撮影場所も建物の名前も不明でしたが、今年に入って長崎市の茂木支所職員が地元の古老に確かめ、昭和初期まで田上の中心地にあった東郷茶屋であることがわかりました。場所は現在の長崎バス田上バス停付近。手前の石垣は隣の茶屋、鶴見荘のものです」

「東郷茶屋」は、データベースでは目録番号:4813「茂木街道(5)」の作品。私も以前から田上の茶屋と思っていたが、深く調査はしなかった。看板「江戸町の広島岩作商店」も興味はあった。
ところで、本ブログこの古写真考は、別に「東郷茶屋」の疑問ではない。茶屋がそんないきさつでわかったなら、次のデータベース作品も、「撮影場所:神戸」となっているが、実は「茂木街道」関係の古写真なのである。

地元茂木の関係者や長崎大学附属図書館は、まだ知らないと思われる。早く正しい検証をお願いしたい。
この記事は再掲。次を参照。 https://misakimichi.com/archives/2218

目録番号:1962 山間の水車小屋  撮影地 茂木町の河平川岸
https://misakimichi.com/archives/2210
目録番号:1963 八坂神社      撮影地 鍛冶屋町の八坂神社
https://misakimichi.com/archives/2211
目録番号:1964 弟を背負う兄と妹 撮影地 茂木町の茂木街道「河平橋」手前
https://misakimichi.com/archives/2212
目録番号:1965 山腹から望む港町 撮影地 桜木町の弥生が丘バス停付近
https://misakimichi.com/archives/2213
目録番号:1966 漁村の風景     撮影地 茂木町の茂木郵便局前
https://misakimichi.com/archives/2214
目録番号:1967 海岸を散歩する外国人 撮影地 茂木町の茂木郵便局先
https://misakimichi.com/archives/2215

長崎の古写真考 目録番号:6063 大浦川中流域から東山手を望む

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6063 大浦川中流域から東山手を望む

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6063 大浦川中流域から東山手を望む

■ 確認結果

きょう2011年12月3日付、朝日新聞長崎地域版”長崎今昔 長大写真コレクション”に掲載された「下り松から東山手を望む」。次のとおり解説している。

写真説明文には「下り松 長崎」とあります。1874(明治7)年ごろ、南山手26番の高台から撮影された大浦居留地の後部です。撮影時期と写真の質から、撮影者は上野彦馬とも思われますが、外国人の可能性も捨て切れません。背後の丘に見える建物は建てかわった後の東山手12番館です。
…(大浦)14番は74年10月、水先案内人のジョン・スミスの妻ハンナ・スミスがコマーシャル・ホテルを開業しています。…

データベースでは、目録番号:6063「大浦川中流域から東山手を望む」の作品。長崎大学附属図書館企画・編集「長崎大学コレクション① 明治七年の古写真集」2007年長崎文献社刊の44頁にも、作品34として掲載がある。

この作品については、本ブログの次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/2335
https://misakimichi.com/archives/1931
https://misakimichi.com/archives/2176

以上を対比し、こんなことまでどうかと思うが、今回の朝日新聞解説文の問題点は、次のとおり。なるべく一貫性をもって解説してほしい。
(1) 撮影場所は、コレクション写真集では「南山手26番付近から」となっている。あえて「26番の高台から」と限定した理由。「26番付近の道路上から」と考えるのが、妥当ではないか。わざわざ他人の宅地内まで入って撮影する必要は感じられない。
(2) 撮影者は、データベースでは「上野彦馬」となっている。撮影年代も「未詳」
(3) 大浦「14番」は、コレクション写真集では「14番(外国人のバー)邸宅である」となっている。

撮影場所を限定する向きは、目録番号:3434「東山手から大浦天主堂を望む(1)」が、朝日新聞長崎地域版2011年9月10日付「長崎今昔」に掲載された際も、「東山手13番(現:活水女子大付近)から撮影した大浦外国人居留地」とあった。
https://misakimichi.com/archives/2887

長崎の古写真考 目録番号: 50 館内から出島を望む (再掲)

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  長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 50 館内から出島を望む (再掲)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 50 館内から出島を望む
〔画像解説〕 超高精細画像
日下部金兵衛アルバムに収められた一葉。旧唐人屋敷があった館内町の福建会館のあたりから長崎港を遠望したもの。画面左手の刹竿が立つところが土神堂で、中央にみえる橋が明治2年(1869)創架の梅香崎橋である。橋の左手に梅香崎の居留地の洋館がみえ、右手には旧新地蔵が並ぶ。橋の手前の入江は、現在の湊公園に当たる。新地の向こうには出島が望まれ、その右手の樹叢は小島の丘の先端で、対岸中央の山が稲佐山である。やや不鮮明ながら、出島の南東隅11番地(現神学校の場所)に建物がなく、梅香崎の海岸側には3番と4番の2棟の洋館しかないようだから、明治5〜6年頃の撮影であろうか。とすれば、F.ベアトの助手時代のものとなる。土神堂は明治維新以後、頽廃していたというので、画面と矛盾しない。手前の館内町一帯は、中国人たちが次第に前面の広馬場や大浦居留地に進出したため、空き地化していた様子がうかがえる。

■ 確認結果

目録番号: 50「館内から出島を望む」が、きょう朝日新聞長崎地域版2011年10月1日付「長崎今昔」に、「旧唐人屋敷跡から出島望む」として掲載された。
「1872年6月、唐人屋敷跡(現:館内町)から見た新地・出島方面です」「内田九一が明治天皇の西国巡幸に随行した時に撮影した写真を(日下部)金兵衛が入手したものと思われます」
撮影されている左手の白壁の建物は「ここは再度火災にあい、97年に再建され福建会館となります」「拡大すると旗竿に国旗が確認できます」と解説している。

新聞記事の解説は、ほぼ間違いなく修正されている。この作品は私が現地確認の上、2009年2月記事で、データベースの解説誤りを指摘していたので、次を参照。
https://misakimichi.com/archives/1606
「福建会館のあたりから長崎港を遠望した」のではなく、「福建会館の上から、その福建会館(現在)と長崎港を遠望した」写真である。

新しい事実がわかり、今回の新聞記事で修正されているのは結構だが、前記のとおりデータベースの超高精細画像〔画像解説〕は、明らかに事実と違うと思われる説明のまま。
「撮影者:日下部金兵衛」、「画面左手の刹竿が立つところが土神堂」と解説し、公開している。電算システムが硬直しているため、いつまでもたっても、どの作品も修正されない。
再三、要望しているが、困っているのは、利用者や出版社などである。間違って理解されないよう、早急な対応をお願いしたい。執筆者は長崎大学附属図書館長となられた。新聞記事とする前に、まずデータベースから正しくしてほしい。

長崎の古写真考 目録番号:3434 東山手から大浦天主堂を望む(1) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:3434 東山手から大浦天主堂を望む(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:3434 東山手から大浦天主堂を望む(1)
〔画像解説〕 超高精細画像
この写真は、東山手の丘から大浦居留地背後と南山手を撮影した写真である。撮影時期は、明治10年頃と思われる。写真の正面には大浦天主堂があるが、創設時にあった正面両端の尖塔がない。大浦天主堂の右下に、明治8年(1875)に完成した羅典神学校が見えている。その左下が妙行寺、その右がベルビューホテル(現全日空ホテル)である。その上の松の木のところにグラバー邸が建っている。ベルビューホテルより写真下に建つ洋館の一列が下り松居留地で、確認し辛いが、その前を大浦川が写真中央左から右へと流れ長崎港へ注いでいる。その大浦川へ突き当たるように通る正面の道路は、海岸から大浦海岸通、大浦1番通に次ぐ、大浦2番通りである。大浦居留地の背後には、倉庫や小規模な工場のような建物が密集している。和風と洋風の混在した、明治初期の長崎の外国人居留地の様子が撮影されている。

目録番号:6163 東山手から大浦天主堂を望む(2)
〔画像解説〕 ボードインコレクション 超高精細画像
長崎を訪れた写真家フェリックス・ベアトが東山手から撮影した大浦外国人居留地と大浦天主堂ですが、撮影時期は大浦天主堂が完成しているので慶応元(1865)年と思われます。建築を指導したのは天草の棟梁の小山秀之進です。その右には司教館や文久3(1863)年に建てられたグラバー邸が鮮明に見えます。グラバー邸の松は曲がっているところから長崎弁で「よんご松」、その右下に見える松は地名となる「下り松」と呼ばれました。 -6163-

■ 確認結果

目録番号:3434「東山手から大浦天主堂を望む(1)」が、朝日新聞長崎地域版2011年9月10日付「長崎今昔」に掲載された。
「ウイルヘルム・ブルガーが1870年、東山手13番(現:活水女子大付近)から撮影した大浦外国人居留地です」と解説している。

新聞記事の解説はほぼ間違いないようである。現在の写真を私は東山手13番館の2階ベランダから写してみた。2階からの高低差があるが、大浦天主堂と妙行寺の位置は合う。中央の大通りは、大浦海岸通りから3本目で、大浦2番通りであろう。
ただ、撮影地を「東山手13番」とは限定しないで、13番館下あたりの車道からでも撮影できたのではないだろうか。

この作品には、データベースに関連作品がある。ボードインコレクション中、F.ベアト撮影の目録番号:6163「東山手から大浦天主堂を望む(2)」が、同じような構図で撮影している。
こちらは明らかに大浦天主堂と妙行寺の位置が違う。中央の大通りは、大浦海岸通りから2本目で、大浦1番通りであろう。
柴多一雄氏(前長崎大学附属図書館長)著「長崎古写真紀行」長崎文献社2011年6月刊90〜91頁に掲載され、現在の写真は「活水女子大構内」から撮影したとあとがきに記している。

私の感じでは、F.ベアト撮影(2)は大浦天主堂や妙行寺をまだ近く、下から見上げている。撮影地は活水女子大の高台からでなく、(1)の13番館下あたりの車道からまだ右へ下った場所(オランダ坂入口現:東山手館あたりの岩場)からではないだろうか。
同じ長崎大学なので、それぞれの解説は、正しい検証をして統一して説明してほしい。

新聞記事の「同年撮影のベアトの写真に写っている二つの尖塔が消えています。台風で飛ばされたようです」は、同年撮影とは(2)の作品のことだろうか。側面尖塔が無くなったのは台風のためか、改築のためか不明である。
撮影者が不詳のままになっていたり、撮影年代もバラバラである。新しい事実がわかったらデータベースやボードインコレクションHPは、すぐ正しく修正してもらわないと、利用者が戸惑うと思われる。

長崎の古写真考 目録番号:6272 海から見た大浦居留地(再掲)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6272 海から見た大浦居留地(再掲)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:6272 海から見た大浦居留地

■ 確認結果

目録番号:6272「海から見た大浦居留地」が、朝日新聞長崎地域版2011年8月20日付「長崎今昔」(ズーム拡大)に掲載された。
「外国人居留地の一等地、大浦バンド(現・大浦海岸通り)の1865年ごろの姿です。ボードイン博士が、自身が住む出島から撮影しました」と解説している。

撮影地は「出島」の西端あたりからに間違いないだろう。本ブログ2009年7月の次の記事で、状況判断できる近くの長崎水辺の森公園へ行って確認している。
https://misakimichi.com/archives/1870
データベースで不可解なのは、タイトルをなぜ「海から見た」のままとしておくのだろう。海上の船からの撮影ではない。陸地の「出島」から撮影できるのである。

そして、この作品は、これまでのデータベースと一体化されていないが、「超高細精画像」があり、「画像解説」がいつの頃か、数点に作成されている。
別のHP”日本古写真アルバム ボードイン・コレクション”の「幕末アルバム大VOL.3」か、「長崎のパノラマ 文久・慶応年間の長崎」を開き、確認しないとわからない。横断システムといいながら、そう構築されていない。どうやら私は、タイトルから無駄足を踏んだようだ。
ボードインコレクション解説は次のとおり。 

大浦居留地のバンドと呼ばれた海岸側を出島から撮影しています。右手には元治元(1864)年に創建された大浦天主堂が見えています。大浦海岸通りにはこの時期、11番にアメリカ人ファルリーヘルト、10番にフランス人ヒグネトル、9番に同カーイマンス、7、8番にイギリス人オールト、6番に同モルトハイ、5番に同グラバー、4番にオランダ人フワンドルテーキ、3番にアメリカ人ウォーラス、2番にイギリスのジャーディン・マセソン商会、1番にイギリス人ロイスが入居していました。
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長崎の古写真考 目録番号:1818 和船(4) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:1818 和船(4) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:1818 和船(4)
〔画像解説〕
四角の帆一枚で走る和船。これは主として関西以西で使われたいさば船とおもわれる。運搬用に使用された。わりに大きな船。撮影場所は不明。

目録番号:6762 和船(13)

目録番号:4533 和船(10)

■ 確認結果

目録番号:1818「和船(4)」と、目録番号:6762「和船(13)」は同じ写真。3枚目の目録番号:
4533「和船(10)」も、撮影位置が少し移動しているだけで、同じ船と港を写しているだろう。
撮影場所が、「長崎」だということがわかった。ブライアン・バークガフニさんのサイトだろう。「長崎古えはがき」の長崎港の中に、「(長崎名所) 海岸の景 View of Bund at Nagasaki」の絵葉書が掲載されていた。

同じ和船のようだが、向きが違う。目録番号:1818「和船(4)」の作品を試しに反転してみた。比較写真のとおり、ぴったり合致した。どちらかが、原版を反転している。
絵葉書に「(長崎名所)」とある以上、撮影場所は「長崎」と判断できる。
実際の撮影場所は、長崎のどこだろうか。茂木の若菜橋近くが状景が合う。河口には天草航路の長く突き出た波止場があり、そこから撮影できそうである。

背後の集落や山の景色は、3枚目の目録番号:4533「和船(10)」の方が、手がかりとなる。
茂木若菜橋の風景を、同「長崎古えはがき」から参考のため掲げる。データベースでは、目録番号:5260「茂木若菜川河口(1)」が同じ写真である。

なお、目録番号:4533「和船(10)」は、同じ写真が米国セイラム・ピーボディー博物館所蔵「モース・コレクション/写真編 百年前の日本」小学館2005年刊114頁に掲載されている。
同解説は次のとおり。「瀬戸内海と思われる」とあるが、撮影場所は不明としている。撮影年代は「1900年頃」となっている。

157 大和型の荷船  ca.1900
あまり大型でなく、500石以下かと思われる。喫水線が深いが、積荷が見えないので比重の重い荷を積んでいるのだろうか。明治後期の撮影であろう。撮影場所は不明であるが、瀬戸内海かと思われる。