月別アーカイブ: 2009年5月

東長崎の散策 (4) 矢上の風景・史跡  長崎市矢上町

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東長崎の散策 (4) 矢上の風景・史跡  長崎市矢上町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(4)は、矢上の風景・史跡。長崎街道に沿って、矢上神社の続きから。

矢上神社の本殿と天井絵、池の地蔵、神社横の観音堂の馬頭観音などと「札馬持中」の銘、教宗寺と本堂、大イチョウ2本と八房の梅、日見腹切坂の慰霊碑を教宗寺が保管していた頃の説明板、矢上村字宿に建っていた明治33年9月建県道標石「←喜々津 諌早 長崎→」「←有喜 愛野」、馬場の街道沿い旧家と現在の長龍寺橋へ続く道、長崎市立東長崎中学校、長崎市東長崎支所・東公民館合同庁舎、昭和57.7.23長崎大水害最高水位を示す支所前銘板と横断歩道橋の青線、馬場の八郎川沿いにある同大水害碑、矢上浄水場の取水堰、正覚寺のモミの木 

長崎さるくコースマップ「矢上界隈」62〜63頁による説明は次のとおり。

写真  1〜     五 矢上神社
弘化4年(1281)9月「平原」という所で夜毎に不思議な光があった。土地の人が見に行ったところ、それはなんと宝剣であった。この剣は「天国の剣」で神様が外敵を追い払う時にこの剣を箭として使ったに違いないと考え、「箭の神」と称して祀った。「箭神」の「箭」を「矢」、「神」を「上」としたのが地名の由来。
江戸時代には、大王社・大王権現と称し、明治5年(1872)正式に矢上神社となる。神社の天井絵は、幕末からの書画が見られる。神社横の観音堂には、馬頭観音や石燈籠には「札馬持中」の銘が見られる。例祭は10月17日で、矢上くんちと呼ばれ、シャギリや間の瀬狂言、中尾の獅子舞等が奉納される。

写真  6〜     六 教宗寺
文政9年(1826)2月15日、オランダ商館長の江戸参府のおり、シーボルトもこの寺で昼食をとっている。また、佐賀藩が長崎警備の時、家臣団の宿泊所でもあった。

東長崎の散策 (3) 矢上の風景・史跡  長崎市矢上町

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東長崎の散策 (3) 矢上の風景・史跡  長崎市矢上町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(3)は、矢上の風景・史跡。長崎街道に沿って番所橋から進む。矢上神社は次に続く。番所橋の古写真(大正初期)は、東長崎地区連合自治会編「2000年の東長崎」平成13年刊の巻頭写真から。

現在の番所橋とアーチ式石橋だった古写真(大正初期)、矢上番所跡、諫早領屋敷跡と正門の石桁橋、矢上宿の本陣と脇本陣の説明板、長崎市立矢上小学校、国道沿いの長崎自動車学校、同校内の古い石垣とクロガネモチの大木、矢上八幡神社の大クス(長崎市指定天然記念物)、矢上神社、同境内の珍しいケンポナシの木、新日見トンネルの貫通石による安産跨ぎ石、滝の観音の石橋模型

長崎さるくコースマップ「矢上界隈」62〜63頁による説明は次のとおり。

写真  1〜     壹 番所橋(矢上番所脇の橋)
番所橋は天保9年(1838)に架設されたが、慶応3年(1867)に洪水にて流失し、この石材を用いて明治初期再架設。大正12年(1923)鉄筋コンクリートで架設。現在の橋は、昭和61年(1986)10月の架設で由緒ある如く、擬宝珠の親柱となっている。
〔矢上番所〕
旧矢上村は、佐賀鍋島領の家老諌早氏の知行地で長崎代官支配地と境界を接していた。矢上番所は、長崎街道の要所で、平屋葺きの建物と門があり、長刀、弓矢、槍、鉄砲等を置くなど、役人が往来者の取り締まりや警備にあたった。長崎に向かう武士、留学生等の旅人は通行手形を示し、質問に答えた。山手側に番所、海手側に高札場があった。

写真  6〜     弐 諫早領役屋敷跡
役屋敷は長崎開港に伴い、佐賀藩主、諫早領主、肥後藩主との報告、連絡、紛争、願書の処理等が多かったため、往時には3名が執務した。周辺の民事・刑事等の案件その他を専決処理した。裏には武道場や稽古場等があったという。明治になり、民間に払い下げ、一部は改修されているが、面影は残している。特に石垣は「亀の子くずし」という積み方で、諫早石工の技術が見られる。

写真  9〜     参 本陣跡
国道を隔てた長崎自動車学校の所にあった。佐賀藩内では御茶屋とか上使屋という。長崎警備のため往来する大名や幕府関係者の宿泊や休憩所である。広大な敷地に豪壮な建物があって、便所も床付き漆塗りが施されていた。明治4年(1871)民間に払下げ、解体された。矢上小学校付近には、脇本陣があり、人馬継ぎ所等の宿の施設があった。

写真 13〜     四 矢上八幡神社の大楠
江戸時代は、八幡様と滝の観音の末寺(放生山)であった。鳥居の柱には、肥前の石工・武富戸左衛門の銘がある。笠木の残欠は肥前鳥居である。大楠には、鎮西八郎為朝伝説がある。このクスノキは、八幡神社の境内、石段の上にある2本。南側は胸高幹囲5.3m、北側は同10.15mと県下有数の巨木である。(市指定天然記念物)

写真 17〜     五 矢上神社
弘化4年(1281)9月「平原」という所で夜毎に不思議な光があった。土地の人が見に行ったところ、それはなんと宝剣であった。この剣は「天国の剣」で神様が外敵を追い払う時にこの剣を箭として使ったに違いないと考え、「箭の神」と称して祀った。「箭神」の「箭」を「矢」、「神」を「上」としたのが地名の由来。
江戸時代には、大王社・大王権現と称し、明治5年(1872)正式に矢上神社となる。神社の天井絵は、幕末からの書画が見られる。神社横の観音堂には、馬頭観音や石燈籠には「札馬持中」の銘が見られる。例祭は10月17日で、矢上くんちと呼ばれ、シャギリや間の瀬狂言、中尾の獅子舞等が奉納される。

東長崎の散策 (2) 田中の風景・史跡  長崎市田中町

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東長崎の散策 (2) 田中の風景・史跡  長崎市田中町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(2)は、田中町の風景・史跡。中尾ダム上の集落と山間部。

中尾集落の高台から中尾ダムを望む、中尾集落と上は木場峠へ上がる市道、宿町との九電鉄塔尾根にある陸軍省「長崎要塞区域標」「第三十二号」、田の川内奥の谷の妙蓮の滝、木場峠近くにできた長崎カトリック中央霊園、木場峠、グランド上から矢上方面と中尾峠方面を望む、グランド先にある普賢菩薩の祠、中尾峠と虚空蔵菩薩の祠、中尾峠にある徳永又吉の胸像(峠越えの野菜売り行商から新大工町に八百屋を開いた。昭和28年建)、中尾峠下りから本河内方面を望む

東長崎の散策 (1) 田中の風景・史跡  長崎市田中町

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東長崎の散策 (1) 田中の風景・史跡  長崎市田中町

西彼杵郡矢上村、北高来郡古賀村と戸石村が合併して昭和30年2月11日に東長崎町が誕生。昭和38年(1963)4月20日に長崎市に編入された。長崎市の東端に位置する。
地勢は西、北、東の三方が200〜500mの山系によって囲まれる。標高450mの普賢岳、行仙岳を中心にほぼ馬蹄形に平坦部が開け、八郎川、戸石川が流れ橘湾にそそいでいる。対岸には牧島が天然の良港を成している。
矢上は長崎街道25宿のうち、長崎から数えて2番目の宿場町として栄えた。「植木の里」として有名な古賀は400年の歴史を誇る。

東長崎の散策(1)は、まず田中町の風景・史跡。中尾ダム上の山間部は次へ続く。東望の浜の古写真(大正初期)は、川徳旅館駐車場の現地説明板と東長崎地区連合自治会編「2000年の東長崎」平成13年刊の巻頭写真から。

マルキョウ先国道右手白山権現祠にあるクロガネモチの大木、東望山砲台跡(長崎市指定史跡)、東望の浜海水浴場跡の桟敷(川徳旅館)と古写真、埋立地にできた長崎花市場と長崎市中央卸売市場、長崎街道沿い浜の大王神社、宿町との高台にある長崎卸センター、中尾ダムと中尾大橋、ダムに沈むため解体されたアーチ式石橋「鮎帰橋」の残柱と新しい橋、中尾大橋近くにあった旧川道の明治34年8月建「西山・矢上」道標(集落で保管)、橋近くの高台から中尾ダムを望む

長崎さるくコースマップ「矢上界隈」62〜63頁による説明は次のとおり。

写真  2〜     3 砲台跡(市指定史跡)
文化元年(1804)のロシア船来航、文化5年(1808)のフェートン号事件により、幕府は沿岸警備の強化を諸藩に命じた。諫早家は、文久3年(1863)領内の東部、東望・牧島・蛎道の3箇所に砲台を置き、慶応2年(1866)完成。東望山砲台跡の直径3.6mの円形台座は珍しい。明治2年(1869)に廃止となり、同8年に取り除かれた。

写真  4〜     2 東望の浜跡
遠浅の砂浜は、大正の初期頃から長崎近郊の海水浴場として賑わった。時代と共に海水の汚染や砂の流失のため、昭和40年(1965)に廃止された。その後、埋立て造成され、長崎市中央卸売市場等に利用されている。

写真  8〜     1 中央卸売市場
長崎市中央卸売市場は、昭和50年(1975)に、長崎市尾上町での取扱量の増加等に伴い、東望の浜埋立の地に移転し、業務を開始した。

長崎の西の空の夕日  09−10

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長崎の西の空の夕日  09−10

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔。以下、続く。
変わった景色とし、電線をなくすため、自宅近くにも出かけ写す。

写真 1〜 7  平成21年 5月26日の18時06分頃
写真 8〜11  平成21年 5月26日の19時10分頃 前の写真の1時間後  

現川・間の瀬の虚空蔵山から三方境を越え喜々津へ (2)  平成21年5月

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現川・間の瀬の虚空蔵山から三方境を越え喜々津へ (2)  平成21年5月

平成21年5月24日(日)晴のち曇り。現川・間の瀬の両虚空蔵山から三方境を越え喜々津へ。参加8人。17日が雨のため延期した。
JR現川駅10時発ー現川虚空蔵山ー間の瀬虚空蔵山ー三ツ山町林道終点近く(昼食)ー前岳トンネル上の市道峠ー尾根出合いー三方境塚ー大岩ー四角山林道終点ー喜々津虚空蔵公園ー正法寺横ーJR喜々津駅16時半着(約14km)

市内近郊のJR線を利用したハイキングコース。現川から喜々津までなだらかな尾根の縦走路で、新しく見つけたルートを入れる。JR現川駅から右に見えるピークが現川虚空蔵山。伐採の右境目に集落の参詣道が上がる。三角点252.5mあり。石室の祠がある。
尾根を北西へ登ると、三角点321mが間の瀬虚空蔵山。どちらも東長崎方面の展望が良い。九電鉄塔を通り三ツ山町の境界上まで出て昼食。

少し戻り、長崎バイパス前岳トンネル上の畦別当峠まで約40分行く。稜線沿いの平坦な山道である。前岳の虚空蔵はパス。峠の市道を横切り、すぐフェンスの階段を上がる。荒れた尾根道があり、まっすぐ登ると津屋岳方面からの尾根道と約30分で合う。境塚がある地点。あと少し登って三方境標高424.2mへこれで繋がる近道のルートとなる。イバラがひどく伐採と道標が必要だろう。
後はいつものコース。諫早領大草と大村領伊木力村の藩境塚をたどり、四角山林道終点の三叉路へ出る。鎌倉山・水洗山へはお預けとし、喜々津虚空蔵公園の展望台で時間を過ごし、JR喜々津駅へ向けてまっすぐ林道や山道で下った。正法寺横が喜々津からの登山口である。
最後は、長崎に帰って鹿尾橋の夕暮れ。

現川・間の瀬の虚空蔵山から三方境を越え喜々津へ (1)  平成21年5月

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現川・間の瀬の虚空蔵山から三方境を越え喜々津へ (1)  平成21年5月

平成21年5月24日(日)晴のち曇り。現川・間の瀬の両虚空蔵山から三方境を越え喜々津へ。参加8人。17日が雨のため延期した。
JR現川駅10時発ー現川虚空蔵山ー間の瀬虚空蔵山ー三ツ山町林道終点近く(昼食)ー前岳トンネル上の市道峠ー尾根出合いー三方境塚ー大岩ー四角山林道終点ー喜々津虚空蔵公園ー正法寺横ーJR喜々津駅16時半着(約14km)

市内近郊のJR線を利用したハイキングコース。現川から喜々津までなだらかな尾根の縦走路で、新しく見つけたルートを入れる。JR現川駅から右に見えるピークが現川虚空蔵山。伐採の右境目に集落の参詣道が上がる。三角点252.5mあり。石室の祠がある。
尾根を北西へ登ると、三角点321mが間の瀬虚空蔵山。どちらも東長崎方面の展望が良い。九電鉄塔を通り三ツ山町の境界上まで出て昼食。

少し戻り、長崎バイパス前岳トンネル上の畦別当峠まで約40分行く。稜線沿いの平坦な山道である。前岳の虚空蔵はパス。峠の市道を横切り、すぐフェンスの階段を上がる。荒れた尾根道があり、まっすぐ登ると津屋岳方面からの尾根道と約30分で合う。境塚がある地点。あと少し登って三方境標高424.2mへこれで繋がる近道のルートとなる。イバラがひどく伐採と道標が必要だろう。
後はいつものコース。諫早領大草と大村領伊木力村の藩境塚をたどり、四角山林道終点の三叉路へ出る。鎌倉山・水洗山へはお預けとし、喜々津虚空蔵公園の展望台で時間を過ごし、JR喜々津駅へ向けてまっすぐ林道や山道で下った。正法寺横が喜々津からの登山口である。
最後は、長崎に帰って鹿尾橋の夕暮れ。

日見の散策 (10) 潮見の風景・史跡  長崎市潮見町

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日見の散策 (10) 潮見の風景・史跡  長崎市潮見町

長崎を旅立つ人は、「西の箱根」と云われた難所の日見峠を越した。諫早・矢上方面から長崎へ向かう人はこの地で身づくろいをして、長崎へ入った。長崎街道往来の重要な中継所であった長崎市の日見地区は、市街近郊の住宅地などに変貌しているが、現在も街道はトンネルに姿を変え、国道34号と長崎自動車道がこの地区を通り、長崎の中心へ入る交通の玄関口となっている。

日見の散策(10)は、潮見の風景・史跡。大山神社は県道下の潮見川沿いに大クスノキが見える。

網場金比羅岳から潮見集落を眼下に見る、潮見川改修記念碑、県営バス潮見町終点、大山神社、クスノキとスギの連理樹?、潮見海岸の岩場、社会福祉法人橘会知的障害者更生施設潮見が丘学園の遠景、潮見橋脇の主要地方道野母崎宿線太田尾〜潮見開通記念碑(1991年10月28日建立)

日見地区公民館編「日見の史蹟等」2005年3月刊の91頁による説明は次のとおり。

写真  4〜     91 大山神社
大山祇命。天保2年(1831)5月建立。社殿の奥にいらっしゃる。
大山神社。昭和2年(1927)11月9日建立。記録は残っていない。

日見の散策 (9) 春日の風景・史跡  長崎市春日町

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日見の散策 (9) 春日の風景・史跡  長崎市春日町

長崎を旅立つ人は、「西の箱根」と云われた難所の日見峠を越した。諫早・矢上方面から長崎へ向かう人はこの地で身づくろいをして、長崎へ入った。長崎街道往来の重要な中継所であった長崎市の日見地区は、市街近郊の住宅地などに変貌しているが、現在も街道はトンネルに姿を変え、国道34号と長崎自動車道がこの地区を通り、長崎の中心へ入る交通の玄関口となっている。

日見の散策(9)は、春日の風景・史跡。大戦時の網場砲台跡と立岩(ルイ14世岩)は、老人ホーム橘の家下の尾根と海岸にあるが、難路で危険。
網場砲台跡は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/7

網場から春日への県道、あば湾海づり公園だった沖に浮かぶ消波堤、社会福祉法人日春会特別養護老人ホーム橘の家、大戦時の網場砲台跡と天井鉄環・外の換気穴、立岩海岸から矢上団地を望む、立岩(ルイ14世岩)と立岩水神祠、若松家墓地、春日の地蔵堂、春日の集落、大石の入口、竹林内の大石と白竹神社祠

日見地区公民館編「日見の史蹟等」2005年3月刊の77〜85頁による説明は次のとおり。

写真  7〜     81 立岩水神様
立岩・ルイ14世岩。岩を側から見ると祠(水神様)が見える。日見地区のペーロン大会で優勝したチームはお礼と海上祈願にお参りする。

写真 10〜     66−1 地蔵堂
昔は、潮見町に春日町の者も行って一緒に地蔵祭りをしていたが、何か事情があっのか、春日町で分かれて祭りをすることになり、…昭和11年(1936)に寄付を募って地蔵堂を現在地に建立した。…地蔵堂内には地蔵菩薩、子安観音、弘法大師様を合祀している。…平成14年(2002)…堂の大規模修理を行った。

写真 13〜     63 大石さん(白竹神社)
県道大石バス停から西側山手20m程。此処にある大石がどこから現れたか不明である。大きな石の側に祀ってある。いわれについては山形県に関係しているようで、地元には直接関係ないようである。しかし、地域に雷が落ちないように雷の神として祀ったと言う話はある。
周囲は竹林であるが、昔は竹林は下の方に僅かに在るだけだった。周囲には、楠の大木が何本もあったそうで、この大石の麓からも大きな楠が伸びていたそうである。今は竹に駆逐されて、周辺に僅か数本残っているだけである。
白竹神社 安永4年(1775)建立(初代)。大正8年(1919)4月吉日建立。

バス停大石の設立ばなし
『春日町から垂水までの途中にバス停が欲しいと要望が出て、当時の自治会長(若杉氏)が運動して通学する子どもの為にバス停を設置してもらった。その時停留所名を大石神社の側だから「大石」でいいだろうと提案した。少々異論はあったが最終的に「大石」に決定した』(寄稿 若杉恒雄氏)