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雲紋石はどこに  東小島の雷公岡?

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雲紋石はどこに  東小島の雷公岡?

長崎市愛宕1丁目、愛宕山の山腹にある「水紋石」は前の項でふれた。長崎文献叢書「長崎名勝図絵」74頁には、また「雲紋石」というのが、この愛宕山の対面となる東小島町八剣神社傍らの「雷公岡」にあったことを、次のとおり記している。

105 雷公岡(かみなりおか) 小島村にある。傍に八剣社がある。この下数歩の地を空吹という。

106 雲紋石 雷公岡にある。高さ五尺、徑(わた)り二囲ほどの石で、石の表面に、細雲が点綴するような模様がみられる。元禄の初め(一六九〇頃)附近の人が、土の中から掘り出した。大変珍しいので、役所に届け出た。昔南蛮人が彫刻したものではないかという意見も出たが、そうではないことで落着した。今、道路の側に移し、石地蔵を造って、その上に安置している。

今でも「雲紋石」があるのか。八剣神社は現東小島町。旧茂木街道の高島秋帆宅跡の先にあるので、このあたりで「雷公岡」とはどこかまず探そうと、地元の人に聞いているが、まったくわからない。岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」にも石の紹介がなく、不明となっているようである。

「雷公岡」については、昭和13年刊「長崎市史 地誌編名所旧跡部」祝捷山の項の中、300頁と301頁に次のように記されていた。

此の丘(祝捷山)に登るに三方面がある。…二は旧茂木街道よりするものである。即ち油屋町又は思案橋より東小島町正覚寺前に出て坂路を「雷公岡」に取り柿樹太郎、旻徳坂等を経て高僧都に至るものである。…

二、雷公岡(カミナリオカ) 或はカミナリとも云ふ。神成とも書く。八剣神社の上手の平地であるが、地名は八剣社勧請に因すること勿論である。後人雷公の字を借り用ふるのはその音によりてなせるものである。
此の附近維新前に於ける芝居興行地であった。維新前に於て市内各神社仏閣中維持困難の小寺社は、其の筋の許可を得、輪番を以て歌舞伎見世物等興行の勧進元となり其の純益を以て殿宇の修築を行つたものであつたので、此の附近に於ては四時興行物の絶え間が無かつた。
雷公岡の南上手に柿樹太郎、旻徳坂(鶴鳴高等女学校は大正七年寺町興福寺境内より此の附近に移転した)、北下方に八剣神社、高島秋帆宅址がある。…

以上を手がかりに、「雷公岡」「柿樹太郎」など八剣神社社務所の若い宮司にも聞いたが、わからない。なお、神社右奥は天満宮で菅原道真を祀る大きな石祠がある。左手上には「ライオンズマンション上小島」が建つ。地蔵はピントコ坂にかかる手前しか、このあたりではないが、そのような地蔵はここには見あたらないので、調査は行き詰っている。 HPによると、和歌山や北海道にたしかに「雷公神社」がある。しかし、祭神はいろいろなようである。

水紋石  愛宕山の山腹

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水紋石  愛宕山の山腹

長崎市愛宕1丁目にある。清水寺前—愛宕の下り一方通行の車道を行き、小島小の上方位のところから車道が山腹に分岐しているので、入ってすぐ愛宕山頂へ上る石段があり、人家が尽きる5分ほど登る。市貯水タンクのある下側の田中宅左にこの岩面を一部見る。岩水ないし若水大明神はもうない。近所の人の話では、ここに小川が流れていた。長年の水の浸食でできたものであろう。

岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊11頁の説明は次のとおり。
市貯水槽下の田中邸庭の崖で昭和初期、子供たちは「カマボコ岩」と言って良き遊び場所であった。古書に曰く「水紋石は高野平郷小野窪という所にあり。石面自ずから水波の紋ありて描けるが如し。この石のある所に稲荷社あり。若水明神という。※今はない

なお、長崎文献叢書「長崎名勝図絵」71頁の説明は次のとおり。
99 水紋石 高野平の東、小野の窪にある。立ちならぶ岩の石面は、皆自然に水波の紋が表われている。内に稲荷の神祠が祀ってある。岩水大明神という。俗に八兵衛稲荷と呼ぶ。

爺嬢石(じじばばいし)  上小島ピントコ坂

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爺嬢石(じじばばいし)  上小島ピントコ坂

長崎市上小島1丁目のピントコ坂途中にある。岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊34頁の説明は次のとおり。

長崎名勝図絵に曰く「僧都岡の坂道の折れ曲がる所にある。乳母の懐と言う。石は二つあって、北にあるのを爺石、南にあるのを嬢石と言う」
僧都岡は長崎女子高先の所謂ピントコ坂上一帯で、約200mのぼった左側墓地前に爺石がある。今も二本の木が茂り格好の休み場所である。嬢石は話によるともう少し上の民家のなかにあったが、砕かれ其の面影はないとか。この道筋は茂木街道だったので数々の史跡も残っている。

平松地蔵堂には俳人二宮岱雲の句碑や力士初瀬川の墓もある。この地蔵堂の真ん前に座するにもってこいの大きな平石がある。昭和年代、近くの子供の良い遊び石であったという。そこでこの石を”現代のばば石”と呼ぶことにしたいものである。

平成19年8月28日訪ねたが、爺石があるのは「唐島家墓」の入口。石を良く見たら、上面にこれを割ろうとしたのか、クサビ穴の列が残っていた。
平松地蔵堂は茂木道無縁塔からさらに登ったところ。南高から車道が下っている。岩永氏が”現代のばば石”とした石は、地蔵堂の道路向い側にある平石だが、植木鉢に占領されていた。最後の写真は二宮岱雲の句碑。

茂木道無縁塔  市指定有形文化財

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茂木道無縁塔  市指定有形文化財 

長崎市上小島2丁目、「ピントコ坂」の途中にある。現地説明板は次のとおり。

市指定有形文化財  茂木道無縁塔
指定年月日 昭和50年12月5日 所在地 長崎市上小島2丁目698
所有者 上小島2丁目自治会
正徳2年(1712)8月天然痘が流行し、翌年3月まで患者3千余人を数えたという。このとき、死者(主として子ども)を供養し併せて長崎の町に病気が入ってこないよう祈念するために、この供養塔を建てたと思われる。
正面には釈迦如来像を、右面には阿弥陀如来像を、左面には観世音菩薩像を、裏面には地蔵王菩薩像を、それぞれ石でつくり出しており、基礎石には獅子の像が彫り出されている。
長崎市教育委員会

砲痕石  国史跡高島秋帆別邸跡

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砲 痕 石  国史跡高島秋帆別邸跡

長崎市東小島町、国史跡高島秋帆別邸跡内にある。岩永弘氏著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊10頁の説明は次のとおり。

天保9年(1838)高島秋帆は、万才町の本宅が大火で類焼したので、小島郷(東小島町)の別宅に移った。庭園内に演習場を設け、砲術の指南を行った。大砲の的として使った石の砲弾の痕があり、砲痕石として保存されている。平成年度以前は裂けていなかったような記憶がある。経年か?。そばにあった説明板に次のように書いてある。

この砲痕石のある射的場は、もとは上部も側面も石で囲んだ石室状のものであったが、明治33年(1900)ごろ当時の所有者が、この石材を利用して雪見灯籠をつくった。このとき向こう正面だけ残したのが、この砲痕石といわれている。

琥珀石  松森神社境内

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琥 珀 石  松森神社境内

長崎市下西山町、松森神社境内にある。岩永弘著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊2頁の説明は次のとおり。

境内左側に、小池をまえにした大きな石が立っており、石の右上に「琥珀石」と刻まれている。
今日、字体の風化が進み近寄って見なければ良くわからない。古の記録では、巾9尺、高さ5尺余とありだれが寄進したか不明である。昭和の本「栄光の長崎」には次のように記載されている。
「この石の上手に一根3本の大きな松があったので新井白石が琥珀石と名付けた」

琥珀石は松などの樹脂が埋れてできた鉱石。現地の石はそんな石には見えず、命名がよくわからない。

松森神社のクスノキ群  長崎市上西山町

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松森神社のクスノキ群  長崎市上西山町

松森神社は、長崎市上西山町にある。諏訪神社のすぐ近くである。現地説明板は次のとおり。

市指定天然記念物  松森神社のクスノキ群    指定年月日 昭和49年6月18日  所有者 松森神社
クスノキの巨樹は、地上まもなく数本の支幹に分かれ、支幹はさらに大小の枝を出して、雄大な樹形をつくる。そのためか、クスノキの巨樹は独立樹が多く、巨樹の群生はあまり見当たらない。
松森神社には、境内を中心とした狭い地域に、7本のクスノキが群生している。最大のものは、胸高幹囲7.80m、樹高25m、東西30m、南北30mの枝張りは、球状の樹形をつくり、盛り上がった根張りは雄大である。樹齢は300年をこえると思われる。
長崎市教育委員会 (平成元年3月設置)

善長谷教会上の「ゆうこう」の木  長崎市大籠町

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善長谷教会上の「ゆうこう」の木  長崎市大籠町

柚の新種「ゆうこう」については、別項の寄稿、川上正徳氏「長崎学とゆうこう」により紹介している。実は優しい香りと筋の山があるのが特徴。川上氏は「ゆうこう」の木が、大籠・土井首・東樫山・出津・佐賀県馬渡島などキリシタンの地に多く見られ、木の分布を丹念に現地調査している。

そのうち、今のところ一番大きい木は、大籠町善長谷カトリック教会の上にあるとのことで、8月27日写真撮影に行った。ルルド奥の竹林内とその上方の道脇にそれぞれある。
ルルドのは竹に負けず背が高いが、辺りは竹林のため樹勢が衰えている。道脇のは、根元から2本に分かれ、太いのは幹回り1m以上、高さは8mぐらいある。手前の枝に青い実をつけていた。外に教会から左へ行った最奥の民家の下にも数本まとまってあるとのことであった。

「ゆうこう」は珍しい木なので紹介した。近くの「善長谷開拓碑」(別項)の回りにエノキやタブの大木があった。教会のシルエットが美しかった。

(追記 平成20年1月14日)
現地を再訪する。実が黄色い写真。ルルドのは実が3個しかなかった。上の道脇のは手前枝の小木のみ成っていた。最後の3枚は教会左上の奥の方畑地斜面に立つ木。たわわに実っているが、根元を見ると大小3本が寄り添った木であった。

鹿尾川遡行

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鹿尾川遡行

平成19年8月26日(日)、涼を求め近場の鹿尾川を遡行。参加11人。土井首バス停から鳴滝を見物し、鹿尾ダム堰堤先の橋脇から沢に入る。1週間くらい前から雨が時々降り、今朝も降ったので、水量はほどほどにある。

この川は大きな滝はないが、上部は高度を一気に上げるので、危険な登りとなり、ルートの取り方に気を使う。初めて沢登りする人が多く、なるべく登山靴が濡れないようにして、2/3ほど沢を登ったところで昼食にした。

あと1時間くらいかけて熊ヶ峰の登り口となる鹿尾河原に着いた。熊ヶ岳は次回に残し、植林地の河原でゆっくり時間を過ごし、帰りは川沿いの西尾根山道を下り、土井首へ戻った。沢の途中にダイヤランドや岩屋山方面がよく見え、高度を感じるところがあったはずだが、今回は気づかなかった。植林の木立が伸びたせいかも知れない。

万寿山「望呉山」の三字は、「石穀山」の字跡に彫ったか

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万寿山「望呉山」の三字は、「石穀山」の字跡に彫ったか

長崎文献叢書第一集第三巻「長崎名勝図絵」(長崎文献社昭和49年刊)の241頁、「茶臼山」の説明は次のとおり。同書は文化・文政年間の執筆であったとされる。

284 茶臼山  俗に頂守山(ちょうすだけ)という 長崎の北にある。金山と続いている。山頂は二つ盛り上がった形をしており、北のを雌頂守、南のを雄頂守という。雌頂守の上に、伊勢大神宮祠があるが、いつ頃から祀られたものかは、判らない。雄頂守は俗に風頭というが、東にも風頭山があるので、こちらを女風頭、むこうを男風頭という。この南に低くて平らな山がある。奇岩怪石が露出しているが、中に屏風を立てたような大石がある。これは木庵和尚の書いた石穀山の三字を彫ってあったが、今は磨滅して読めなくなっている。最近望呉山の三字を彫ってあるが、誰の書なのか聞いていない。山の西麓を浜原(はまびら)という。…

「望呉山」碑のある場所の山は、立山の「ホテル長崎」の左。最近、老人ホーム「プレジールの丘」が建ち、その赤い建物裏となる。この「望呉山」碑については別項ですでに写真を紹介しているが、私がそのとき確認を忘れていたのは、屏風を立てたような大石の「望呉山」の三字は、はたして木庵和尚「石穀山」の字跡を削って彫られているのかということである。

「長崎名勝図絵」の記述はいろいろ考えられるので、また再確認に大石を見に行った。写真は上のとおり。近くに同じような屏風を立てたような大石はないし、「望呉山」の刻面はたしかに薄く丸く削った跡に彫られている。「石穀山」の字跡はもはやまったく確認できない。碑の裏面も考えられるが、ただの平面で無刻だった。

なお、長崎市立博物館「長崎の史跡 Ⅲ(歌碑・句碑・石碑)」によると、この碑のある山は「万寿山」といい、新しい「望呉山」の字は「鼓缶子」が刻んだことから望呉山と呼ばれたとされている。たしかに左の脇字に「巳未二月鼓缶子題」と刻んである。
金比羅山頂上の神社上宮右横の大岩に彫られている同じ木庵和尚書「無凡山」の字も、ほとんど消えかかって見にくいものとなっている。