月別アーカイブ: 2009年6月

「ふるさと」の古写真考 P.63 グラバー園(昭和62年)

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「ふるさと長崎市」の古写真考 P.63 グラバー園(昭和62年)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。

懐かしき風景・街並み  P.63 グラバー園(昭和62年)
〔写真説明〕
高台からウォーカー邸(写真左の建物)と自由亭(右の建物)を望む。ウォーカー邸は明治の中頃、大浦天主堂の隣に建てられ、イギリス人ロバート・ウォーカー・ジュニアが暮した。この家は西洋風の円形のベランダや、屋根から突き出した日本風の庇など和洋折衷の洋館である。
自由亭は、江戸時代の終わり頃出島のオランダ人のもとで修行したという草野丈吉により、日本で初めて開かれた西洋料理のレストラン。自由亭廃業の後、検事正官舎として使われていたが、昭和49年グラバー園に移築復元された。(撮影:松尾○○氏)

■ 確認結果
高台とは「長崎グラバー園」の上の山、鍋冠山(標高169.2m)山頂展望台からグラバー園内をズーム撮影している。
写真左の建物は「旧ウォーカー邸」だが、右の建物は「旧自由亭」でなく、建物案内図のとおり、遊歩道対面にある「旧長崎地方裁判所長官舎」なのである。
鍋冠山から撮影しているので、拡大写真で言うと「旧ウォーカー邸」の左上(実際は下の方)木立の中に、白い煙突の先端部分が写っているのが「旧自由亭」となる。

グラバー園公式HPによる「旧長崎地方裁判所長官舎」の説明は次のとおり。
明治16年頃、長崎市の上(うわ)町に建てられた長崎地方裁判所の官舎。官舎が洋式建築を取り入れているのはとても興味深く、当時、西洋の家が近代化の象徴だったことを伺わせます。内部は日本人の設計によるもので、暖炉はなく、板張りの洋間と畳敷きの居間があります。原爆で数多くの建物が失われたにもかかわらず、居留地の外側に建てられた洋風の官庁建築として唯一残る貴重なものです。
現在「レトロ写真館」として、レトロファッションで記念撮影ができます。

「ふるさと」の古写真考 P.86 ネズミ島と神ノ島海岸(神ノ島1丁目・明治20年代)

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「ふるさと長崎市」の古写真考 P.86 ネズミ島と神ノ島海岸(神ノ島1丁目・明治20年代)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。

懐かしき風景・街並み  P.86 ネズミ島と神ノ島海岸(神ノ島1丁目・明治20年代)
〔写真説明〕
写真中央がかつて海水浴場として知られたネズミ島である。皇后島とも言い神功皇后伝説にちなむ島である。左手は小瀬戸側であるが、現在は島との間が埋め立てられて工業地帯と化している。写真右手は魚見岳でその裾には魚見岳台場跡が、左手の山裾には神崎台場跡が存在し、かつて異国船の警護にあたっていた。(提供:鎮西学院)

■ 確認結果
長崎港口のネズミ島(皇后島)を写した古写真だが、神ノ島海岸から撮影されたものではない。現地へ出かけて確認するとすぐわかる。神ノ島1丁目の神ノ島桟橋及び神ノ島教会のマリア像海岸岩場から写した現在の写真と比べてもらいたい。
山の形は違うし、説明した場所の位置があわない。

古写真は、神ノ島海岸の前面の島「高鉾島」から撮影されたと思われる。無人島で簡単に渡れない。平成18年12月にある調査があり、釣り船を仕立てて高鉾島へ行った。
「高鉾島の正体不明な台座石」を参照。 https://misakimichi.com/archives/140
その際、写しておいた状況写真があった。古写真は高鉾島の海岸砂浜から黄線の範囲を写しているようだ。高鉾島は殉教の島。ネズミ島とともに外国人の遊歩場となったのでないか。

古写真の右手は、「魚見岳」の裾ではなく「天門峰」の裾。「神崎台場」は長崎港口の「魚見岳台場」の対岸にあった。天門峰の南端となるので2つの台場跡とも写ることはない。女神大橋はこの港口に架かった。
ネズミ島の左手は、小瀬戸の集落と上は小瀬戸遠見番所があった山で、現在はみなと坂団地ができている。ネズミ島の奥に写っている山は、右側から障子岩山(西泊ヶ丘)・西泊中の鞍部・帆掛山と思われる。

マリア像海岸岩場へ再び行くと、高鉾島へ突き出た防波堤があった。先端から大きく写したのが後ろの2枚。中央の鞍部にある白い建物の長崎市立西泊中学校が確認できるであろう。 

海岸の鳥居? 川原と戸石の鳥居  長崎市宮崎町・戸石町

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海岸の鳥居? 川原と戸石の鳥居  長崎市宮崎町・戸石町

海面に立つ鳥居は優雅で、広島の宮島神社は有名である。長崎県内では、対馬市豊玉町仁位の「和多都美神社」で見た(写真1〜2)。

長崎市内では見かけないが、海際すぐ近くの岸辺に立つ大鳥居は2つある。
川原海水浴場の手前に立つ「池の神神社」の鳥居(写真3〜4)と、戸石漁港に立つ「戸石神社」の鳥居(写真5〜6)。

ねずみ男石? 新鮮食彩 「市むら」の門石  長崎市かき道1丁目

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ねずみ男石? 新鮮食彩「市むら」の門石  長崎市かき道1丁目

新鮮食彩「市むら」は、八郎川の河口、かき道橋のそばにある和食専門店。橘湾で育てた虎ふぐをはじめ、戸石港に水揚げされる新鮮な魚や、地場産の旬野菜の料理を食べられる。
かき道橋交差点から矢上団地へ上がる坂のカーブのところに、「市むら」の出入口がある。門石に大きな石が両脇にあった。特に右側は茶色の大きな石を立てている。

このあたりは八郎川の河口埋立地で、昔からここにあった石かと聞いてみたら、13年ほど前「市むら」開店の際、門石とするためどこかから運んできた石らしい。とりあえず写しておいた。
写真を見ると、これも「ねずみ男」でないか。活水坂の「ねずみ男の木」を載せていたので、この石も紹介しておく。

「ふるさと」の古写真考 P.115 埋め立て工事(昭和32年)

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「ふるさと長崎市」の古写真考 P.115 埋め立て工事(昭和32年)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。

交通体系の完成と発展する長崎  P.115 埋め立て工事(昭和32年)
〔写真説明〕
深堀(写真手前)ー香焼(写真中央)の埋め立て工事で、深堀城山から撮影されている。写真はまだ途中段階のもので、香焼島に深浦・長浜の旧海岸線をみることができる。中央右の山は高岳で麓の工場は川南造船所である。また、中央にある島は松島であるが、このような島々は埋め立ての際に姿を消していった。香焼島の先にみえる島は沖ノ島である。(撮影:大塚○氏)

■ 確認結果
「深堀城山から撮影されている」と説明しているが、深堀城山(標高350.4m)の山頂は、木立があって展望はどこも効かない。正しくは山頂から北へ尾根を緩やかに10分ほど下った愛宕神社跡の広場からである。
この高台からの展望はすばらしく、伊王島から長崎港口にかけての景色が広がり、深堀の町と三菱造船所香焼工場の全景が俯瞰できる。

香焼島の先に見える島(古写真左上の島)を、「沖ノ島」と説明している。これは間違いであろう。沖ノ島の上の島「伊王島」である。伊王島のこの海岸埋立地が現在の「やすらぎ伊王島 長崎温泉」となっている。
最後の写真は、深堀ー香焼埋立地内に今も残るかつての岩礁「女島」神社。

「ふるさと」の古写真考 P.98 時津の家並(明治30年代)

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「ふるさと長崎市」の古写真考 P.98 時津の家並(明治30年代)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。

懐かしき風景・街並み  P.98 時津の家並(明治30年代)
〔写真説明〕
大村湾に接する西彼杵郡時津村とその港。手前の民家が密集したところは浦郷。大村との往復にこの時津港が利用された。カトリックの殉教者である26聖人は1597年2月5日にここから上陸し、翌日西坂で処刑された。背後は浜田郷で、高い山は長与の琴尾岳。  

■ 確認結果
「長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5653 時津の家並み」の項の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/1566

当時の集落の全体と港が、西から東方へ見渡されるある程度の高台。国道交差点から時津川の西岸へ現在の「新地橋」で渡る。長与町立長与図書館の上手の高台、戦没者や原爆死没者の慰霊碑のある公園が、古写真の撮影場所と思われる。 
この公園は、宝永5年(1628)から浦郷北泊「稲荷大明神」が祀られ、地区の守護神となっている。公園片隅に現在も赤鳥居があり、古い石祠や灯篭が残っている。ゲートボール場や学童保育「つくしんぼ」の運動場として利用されている。

古写真の背後は浜田郷で、高い山は長与の「琴尾岳」と説明している。間違いであろう。左上鞍部のところが「扇塚峠」。写真に写っている右の高い山は「仙吾岳」(標高375.6m)と丸田岳方面。「琴ノ尾岳」(標高451.4m)は、左方の奥となるので古写真に収まっていない。現在の写真では、大きなアンテナが目印となる山である。

「ふるさと」の古写真考 P.97 茂木の家並(明治30年代)

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「ふるさと長崎市」の古写真考 P.97 茂木の家並(明治30年代)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。

懐かしき風景・街並み  P.97 茂木の家並(明治30年代)
〔写真説明〕
茂木の若菜川上流を高台から望む。若菜川は満潮時には潮が満ち込む。奥の下流には木製の若菜橋が見える。手前の瓦葺き屋根は円成寺。藁葺き屋根もまだ多い。茂木は長崎の要衝であったため歴史的には教会領・天領・島原領・代官領と変わり、明治12年茂木村となった。昭和37年に長崎市に編入された。

■ 確認結果
円成寺の高台の墓地から、若菜川と茂木の家並みを写している。海から言うと「若菜川上流」だが、撮影場所の説明は「若菜川河口を高台の円成寺墓地から望む」としないとわかりにくい。「藁葺き屋根もまだ多い」は「家並みには」が必要である。

茂木は有馬領だったが、秀吉によって収公され天領となった古賀・日見など七ヵ村のひとつである。天領七ヵ村の支配は諸侯の各藩や代官に分属し、以後も天草代官・島原松平・同戸田・長崎代官と転々とした(『長崎県史』対外交渉編)。
茂木はあくまで天領。支配者が変わっただけであるので、説明に難点がある。

下部の古写真は、P.67の「茂木町(昭和36年)」(提供:長崎市)。この写真は潮見崎観音から撮影されたと思われる。
最後の写真は、茂木港の入口を立石海岸上を行く市道から。

「ふるさと」の古写真考 P.96 茂木街道の水車(明治30年代)

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「ふるさと長崎市」の古写真考 P.96 茂木街道の水車(明治30年代)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。

懐かしき風景・街並み  P.96 茂木街道の水車(明治30年代)
〔写真説明〕
茂木街道茂木側の道中にあった水車小屋。茂木は長崎に運ばれる農水産物の集荷地であったが、水車小屋は玄米を精米する重要な工場であり、製粉にも使われた。左に街道が見えるが、水車小屋は街道のそばにあったため旅人の絶好な休息場でもあった。明治初期の同じ水車の写真と比べて轍(ワダチ)が大きく、改良の跡がみえる。

■ 確認結果
「長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:365 茂木街道(1)・5250 茂木街道の水車」の項を参照。  https://misakimichi.com/archives/1521
田上の転石から明治県道を、河平川(若菜川の支流、黒橋近くで若菜川と合流)沿いに下る。アーチ式石橋「河平橋」が残る下方の河平川川岸に、2つの大きな水車小屋があった。

明治県道は、古写真の右側を行くので、写真に写らない。左側に街道の道のように見える上段は、切り拓かれた畑である。中段は水車を回す上流から引いた水路、水車の下が河平川の流れとなる。誤認されているので、位置図を作成した。
明治34年測図国土地理院旧版地図でもこの場所に水車小屋が表示されている。
2つの水車小屋跡はビニールハウスや梅畑となって、水路の跡も今はわからない。

「ふるさと」の古写真考 P.72 福田の海水浴場(昭和30年頃)

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「ふるさと長崎市」の古写真考 P.72 福田の海水浴場(昭和30年頃)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。

懐かしき風景・街並み  P.72 福田の海水浴場(昭和30年頃)
〔写真説明〕
昭和30年頃の撮影と思われる。福田はかつて海水浴場としても賑わった。同海水浴場は、現在の福田本町、かつて“福田の千本松原”と呼ばれた一帯であったが、現在では景観が一変、わずかに残る松が当時を偲ばせるばかりである。(提供:長崎市)

■ 確認結果
福田本町の丸木橋の河口砂浜に「旧福田海水浴場」の標柱が立てられているが、この先の福田漁業協同組合がある海岸埋立地も、当時は砂浜で海水浴場だったと思われる。
漁港の中に古い突堤が残り、この水神を祀っている場所あたりから、海水浴風景は撮影されたのであろう。
千本松原は、サンセットマリーナ入口で現在の長崎市立福田小学校校庭外側、田子島台場跡あたりに、その後植えた松の大木数本が見られ、史跡説明板がある。

「ふるさと」の古写真考 P.66 鍋冠山付近より市街中心部(昭和35年頃)

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「ふるさと長崎市」の古写真考 P.66 鍋冠山付近より市街中心部(昭和35年頃)

長崎市制施行120周年記念写真集「ふるさと長崎市」(長野県松本市(株)郷土出版社2008年12月刊)に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。
確認が済んだものをその都度、最新の写真の状況を添えて報告したい。気の向くままの調査のため、掲載順は不同である。

懐かしき風景・街並み  P.66 鍋冠山付近より市街中心部(昭和35年頃)
〔写真説明〕
写真中央左の近代的な建物は昭和28年新築された長崎県庁。その左上の尖塔は中町教会。写真中央奥には同34年に建てられた真新しい長崎市役所が見える。まだ別館がないことから昭和35年頃の撮影と思われる。大きい建物はほとんど公共施設か学校で、写真中央煉瓦造りの活水学院が異彩を放っている。右手には海星高校。その上には佐古小学校の旧校舎が見られる。この頃まで斜面は住宅より段々畑が多く、よく耕されているのがわかる。(提供:長崎市)

■ 確認結果

この写真は、鍋冠山(標高192.2m)の山頂から撮影されている。山頂展望台から北東方向は木立が伸び、右手の海星高校からを確認できないが、望めた部分だけで判断しても、鍋冠山の山頂から撮影された写真に間違いない。
したがって、タイトルを「鍋冠山から見た市街中心部」と変更してよいのではないか。