江戸期のみさき道 (往路後半)」カテゴリーアーカイブ

新春「みさき道」初歩き(岬木場経由)  2015年1月 ( 長崎県 )

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新春「みさき道」初歩き(岬木場経由)  2015年1月

2015年1月3日(土)晴。新春「みさき道」初歩き(岬木場経由)。参加2人。みさき道歩会の新春例会。
三和行政センター前広場9:40—蚊焼峠入口10:09—郷路八幡10:48—徳道里程道塚12:06(昼食)12:40—サイクリング道路終点13:38—モトクロス場13:57—殿隠山15:00—遠見山(標高259.0m)15:47—堂山峠16:25—脇岬観音寺17:03(徒歩距離 約15km)

恒例の新春初歩き行事。もう11年ほど前から継続して実施している。2日が荒天のため延期して実施したので、参加者は2人だけだった。会員が高齢化、そろそろ解散か?
いつものコースで、取り立てて説明することはない。古茶屋坂の入口先で、すぐ工事車道が横切る。奥の沢に砂防堤を築く工事は完成したが、さらに先の谷にも地滑りがあり、正月明けから車道を延長し工事にかかるらしい。展望は良くなった。

永一尾を過ぎ以下宿三叉路手前で、サイクリング道路に出合うところは、イバラやカズラのため、いつも草刈りに難渋していた。迂回ルートがあるので、利用できる。白テープが目印。尾根を間違わないように下る。
遠見山から久し振りに堂山峠経由で下ったが、堂山峠から脇岬観音寺までのみさき道本道の荒れ方がひどい。堂山峠はダンチクが生い茂り、標識も見当たらない。私たちで整備の必要があろう。寺手前の鶏舎は取り払われていた。

新春「みさき道」初歩き(岬木場経由)  2014年1月

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新春「みさき道」初歩き(岬木場経由)  2014年1月

2014年1月2日(金)晴。新春「みさき道」初歩き(岬木場経由)。参加16人。みさき道歩会の新春例会。一般参加も自由。毎年盛会である。
三和行政センター前広場9:40—蚊焼峠入口10.07—徳道里程道塚11:49—野母崎ゴルフ場管理事務所12:07(昼食)12:40—岬木場サイクリング道路終点13:43—モトクロス場—殿隠山林道14:22—遠見山(標高259.0m)15:13—前脇岬小学校尾根—脇岬観音寺
16:05(徒歩距離 約14.6km)

恒例の新春初歩き行事。もう11年ほど前から継続して実施している。元旦より風はなく、晴れた好天気となり暖かかった。
コース上、取り立てて説明することはない。古茶屋坂入口先で、すぐ新設車道が横切る。奥の谷の地滑り工事がまだ完成していない。「みさき道」のこの区間が、通行禁止になっているが、迂回して工事の状況を確認した。

今回は、野母崎ゴルフ場入口先のサイクリング道路から岬木場のグランドを下った。殿隠山は登らず、山腹の林道を歩いて近道したので、遠見山へ早く着いた。
堂山峠には回らず、前脇岬小学校体育館へ下る急坂コースを下った。脇岬観音寺は、3月末まで本堂改築工事中。国指定重要文化財「木造千手十一面観音菩薩立像」は、手前の拝殿へ移し畳上に横倒しとなって仮安置されていた。

新春「みさき道」初歩き(岬木場経由)  2013年1月

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新春「みさき道」初歩き(岬木場経由)  2013年1月

2013年1月2日(水)曇り。新春「みさき道」初歩き(岬木場経由)。参加21人。みさき道歩会の新春例会。一般参加も自由。毎年盛会である。
三和行政センター前広場9:40—蚊焼峠—徳道里程道塚11:34—野母崎ゴルフ場管理事務所11:51(昼食)12:20—サイクリング道路終点—モトクロス場13:47—殿隠山14:29—遠見山(標高259.0m)15:26—堂山峠15:50—脇岬観音寺16:20(徒歩距離 約15km)

恒例の新春初歩き行事。もう10年ほど前から継続して実施している。元旦は小雨だったが、今年も2日は、まあまあの天気曇り空。
いつものコースで、取り立てて説明することはない。古茶屋坂の入口先で、すぐ新設車道が横切る。奥の沢に砂防堤を築く工事らしい。展望は良くなった。

永一尾を過ぎ以下宿三叉路手前で、サイクリング道路に出合うところは、イバラやカズラのため、いつも草刈りに難渋していた。地図のとおり、迂回ルートを作っているので、利用できる。白テープが目印。尾根を間違わないように下る。
宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/30435062.html

昭和初期頃の栄上の岩屋  三和町文化協会誌「水仙」から

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昭和初期頃の栄上の岩屋  三和町文化協会誌「水仙」から

昭和初期頃の栄上の岩屋(通称 栄岩または岩家)のことが、三和町文化協会機関誌「水仙」第6号1991年(平成3年3月)発行の17頁に、地元武次久次氏の記憶として掲載されていた。
本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成19年発行71頁に、次のとおり考察していたが、その事実が確認され、栄上の岩屋の場所がスケッチによってわかった。
本ブログ記事は、次を参照。 https://misakimichi.com/archives/367

A 現在の国道蚊焼入口付近は、当時どのようであったか
詳しいことはわからないが、ここも峠と言われ、元松尾の道塚から真直ぐ来ると鞍部にあたり、道塚があった。栄上からは今の国道沿いに小道はあったが、体育館の所に大きな岩があり、当時はまだ主要路でなかったようである。明治以後整備されてだんだん通れるようになったのではないか。今の蚊焼入口バス停横の武次宅のところに茶屋があり、「みさき道」から下って休んでいたと聞いた(蚊焼桑原兄夫婦談)。浦歯科の谷から水はあったと思われる。
普通はここを蚊焼峠と考えがちだが、関寛斎の日記はそうでない。茶屋は峠の入口にあって、そこから長崎の港口と沖の諸島が見えなければならない。武次宅は尾根の反対側に下ったところにあり景色は見えない。これはこの道がメインになった大正の頃の話と思われる。…

武次 久次氏稿  栄上の岩屋(通称 栄岩または岩家) 

昔(昭和5,6年以前)の蚊焼村海岸から、けいばん山の坂道を登り栄上を通り、布巻から流れる大川を渡り(その頃は川は飛び石)大川沿いに道路が為石近くのとんとん川の難所を通り為石村に至り川原村まで通ずる幹線道路、その頃は荷物運搬の駄貸牛が5,6頭連なって毎日通っていた。
蚊焼から歩を発して今の蚊焼入口停留所付近からの右の谷間に下り曲がりくねった里道の山の裾野伝いに深い谷間を通り、道行く人の肝をえぐるような薄気味悪い大きな栄岩が道端にあった。現在、勤労者体育館の前辺りになる。その岩屋はスケッチに示すように大きな岩のかたまりに出来た、幅2間(4m)、高さ3m、奥行きが3m位の洞穴で丁度、家の屋根を思わせるように豪快な岩屋であった。

僕が16才(昭和9年)頃の記憶であるが、我が師の使いで為石まで月に1,2回通っていた。岩屋は道端にあり見上げるような大きな岩屋。薄暗い谷間に小さな川があり、せせらぎの音が聞こえ鬱蒼とした深い杉林に覆われ昼間でも薄暗く、その岩屋の奥から狐や狸のお化けが出てきそうな、そんな衝動に駆られ肝を小さくして通る道であった。
その気持ちの悪いところをたとえ師匠の言い付けとはいえ、朝早くまた夕方日没に通るときの恐ろしさは未だ大人になっていない僕は心の動揺計り知れなかった。恐ろしさのあまり小急ぎで岩の側を通り過ぎようとする時、岩屋の奥から白い煙が尾を引くように立ち上ぼり、その辺り一面に漂い奥の暗い所に真っ白い上着を着た髪のぼうぼうとはやした男、或は髪を前に長く垂らした女、雨のしとしとと降る日は恐ろしさこの上もない思いであった。

実はその当時、遍路さんや乞食、物貰い等が岩屋に一夜の宿を借り雨露をしのいでいた。また狐狸も時に出没していた。女子供達がその道を通るのを嫌がっていたのも無理はない。
その当時、県道が蚊焼まで出来たのは昭和5年の終わり頃で、野母港線が出来たのはその2,3年後である。現在の総合運動場の埋め立てが出来たのは31年頃である。それまでは谷間のたんぼの向かいの山裾の赤道を通って大川を渡り布巻為石に通ずる兵隊の分かれ道に出ていた。
現在の県道側の勤労者体育館敷地の荒造成の時は、未だ岩屋の頂点(頭部)は県道の地面から50cm位出ていた。その岩屋の頭に道行く行商の鰯売りの女達が鰯を1,2匹置いて交通安全を祈り、また狐にいたずらをされないようにと、商いをする女達の心暖まるしぐさであった。
実は狐狸が生の鰯がほしいため、いたずらをしていたと言う話もあり、商いの帰りはそこに置いた鰯は消えてなくなっていた。今はその岩屋の頭も見えず残念である。

その岩屋の現物が現在まで残っていたら三和町の町興しのアイデアに成っていたかもしれない。返す返すも残念である。出来うれば埋めたてまえを調べてその位置だけでも確かめて地上に小さな印の柱を建ててもらいたい。町当局にお願いする次第です。  (平成3年1月22日)

脇岬公民館「私たちの郷土 脇岬」 平成16年

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脇岬公民館「私たちの郷土 脇岬」 平成16年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。脇岬公民館「私たちの郷土 脇岬」平成16年から、観音寺、棚瀬、熊根の石灯籠、交通機関。野母崎町などは旧町名。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行122〜124頁ですでに紹介済み。写真は、遠見山から見た脇岬・樺島、棚瀬(ビーチロック)、熊根の石灯籠と奥に観音寺。

脇岬公民館「私たちの郷土 脇岬」平成16年  5〜10頁

〔6〕史跡、文化財
圓通山観音寺  709年行基菩薩によって建立される。
仏教伝来は538年(552年説もあります) 飛鳥寺は596年 法隆寺は607年
法隆寺建立よりわずか100年後に建てられた非常に古いお寺であることがわかります。
由来 野母崎町郷土誌より『七観音伝説』  肥後の国、宇土郡の丸木橋の由来により 「7つに切って流された橋木が次の7つの地に流れつき観音様としてまつられた。」熊本 松尾町、佐賀 太良町、高来町 湯江、飯盛町 田結、佐世保 福石、有家町 原尾、野母崎 脇岬

1 観音寺の文化財
ア 十一面千手観音立像〔国指定〕 象高2メートル半(8尺) 頬のはりは豊かで、穏やかに円満な面相は藤原彫刻で、象容は平安末期の特色をもち、頭体根幹部は一財(材か)で、寄せ木造りによって完成されている。
イ 天井絵〔県指定〕 花弁絵が主で、石崎融思一族のほか川原慶賀の名も見られる。
ウ 観音寺.宝篋印塔〔県指定〕 熊本の名僧「豪潮」長崎の福島清七の寄進により建立「豪潮塔」とも呼ばれている。県下では七基だけしかないと云う。
エ 梵鐘〔町指定〕 1491年 8尺(約2メートル半)の大鐘 天草から来た海賊に持ち去られる。1492年 宗像郡曲村相国山東光寺より購入。1745年 長崎金屋町糸屋氏浄財を募って資金を献上した。深堀藩家臣長淵九佐衛門、長崎鍛冶屋町の安山国久にこれを改鋳させる。
オ 観音寺にあるその他の文化財〔町指定等〕 僧形座像(なでぼとけ) 達磨大師半身画像 涅槃図 観音寺歴代住職頂相画像 慈悲円通 地獄十王図など

2 観音寺外で見る文化財、史跡
ア 棚瀬のビーチロック〔県指定〕 脇岬トンボロ(陸けい砂洲)の西海岸に、干潮時に現れる岩礁がある。この岩礁は洗濯板の様な形から土地の人は棚瀬とよんでいる。深成岩類や変成岩類が石灰質でかためられたもので、熱帯や亜熱帯の海岸にだけ見られる。第4紀中積世(8000年→4000年前)にできたものである。
イ 祇園山のノアサガオ〔県指定〕 (略)
ウ 弁天山の樹叢〔県指定〕 (略)
エ 杉家の墓碑群〔町指定〕 (略)
オ 神ノ上遺跡〔町指定〕 (略)
カ 熊根の石灯籠〔町指定〕 脇岬南側海岸五島灘から吹きつける荒波を受けとめるように、西南2キロメートルにわたり熊根という砂丘がある。この中央の高所に高さ約5メートルの大石灯籠がある。この付近は昔から航海の難所で遭難する船も多かったので村人たちが浄財を集めて天明2年(1782年)この大石灯籠を建立して航行する船の目印にしたと云う。「観音寺保存古文書より」

〔8〕交通機関
明治16年(1883年) 長崎—野母航路開始される(三山汽船)
年代は定かではないが、荷物運搬専用の船「渡海船」は脇岬—長崎間で運航されていました。
昭和10年(1935年) 野母—脇岬間にバス運行(長彼自動車KK)
その頃はまだ矢戸の山路や干潮時に磯づたいに歩く人が多かったようです。
この頃、長崎に行くには野母—長崎間の船便を利用していたが昭和16年頃の船賃は52銭だった。
(当時、大人が1日働いて1円もらうことは多くはなかった。したがって貧乏学生には52銭のお金がなく歩いて往復したことがしばしばありました。)
昭和15年(1940年) 長崎バスが長彼バスと合併する。
昭和16年(1941年) 戦時統制により経営合理化の為、野母−脇岬間は長期の運休となる。
その後、この間に馬車が運行されたが火災にあい中止された。
昭和18年(1943年) 県道、野母—長崎間開通する。
昭和23年(1948年) 長崎自動車、大波止—野母間の運行を開始して野母—脇岬線と連絡する。
昭和37年(1962年) 茂里町—脇岬間に延長される。

(注) 寛斎日記に表れた観音寺の清人の書「海天活佛」の額は、住職の話では今はない。「蒙古船化石」は洗濯板の形をした棚瀬(ビーチロック)のこと。珊瑚礁のある南方に多く見られるが、日本本土では宮崎県青島とともに、脇岬のは規模が大きく珍しい。
熊根の石灯籠は、伝承では「抜け荷灯籠」とも言われ、番所から役人が5日に1回来るので点灯しているかどうかで合図したらしいが、真偽は不明である。
野母商船の長崎—野母航路は、昭和38年8月廃止された。(野母崎町郷土誌年表)

野母崎町「野母崎町郷土誌」から観音寺・殿隠山・権現山など 昭和61年

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野母崎町「野母崎町郷土誌」から観音寺・殿隠山・権現山など 昭和61年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。野母崎町「野母崎町郷土誌」改定版 昭和61年から、(2)御崎観音寺禅寺、(3)高浜の八幡神社(殿隠山関係)と、遠見番所や関寛斎の野母権現山記録関係。野母崎町などは旧町名。

この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行121〜122頁ですでに紹介済み。写真は、祇園山から見た高浜海水浴場・殿隠山・遠見山と、野母権現山から見た野母全景の昔(昭和34年撮影 軍艦島資料館展示)と今、長崎方面。

野母崎町 「野母崎町郷土誌」 改定版 昭和61年

(2)御崎観音寺禅寺                133頁
(略)弘安4(1281)年、蒙古来襲のときに、この円通山から霊火が飛んで、南北に10里あまり連なり、陸へ上がることができずにいるうちに暴風雨が吹いて船は沈没した。これらの船は折重なって瀬になり、今でも残っているという話がある。(略)
野母崎に残る話は、九州西方の海域が江南部の進攻、退去の経路となっているので荒唐無稽と片付けるわけにはいかないので言い伝えのとおり収録した。(略)
また同寺の年表359頁の中に「1611 慶長16年 長崎のキリシタン本堂を襲う。」とある。

(3)高浜の八幡神社(殿隠山関係)     140〜141頁
(略)以上のように高浜は江戸時代、かなりはっきりいたにもかかわらず、深堀、高浜氏の名を使わず、三浦姓だけにとどめようとしている。深堀能仲と系図にはあるのに三浦能仲でとおしている。そして、源氏ゆかりの三浦氏でなく、平家落人としての三浦氏を表に出したいようにも受け取れる。殿隠山という名にこだわったのだろうか。これは「トノガクラ山」の訛ったものであると考える。狩倉というのは「中世、地頭領主が独占し、百姓の用益権に制限を加えた広大な山野」(柏書房〈日本史用語大辞典〉)をいう。深堀町の東、鹿尾川の京太郎町付近にあった京太郎狩倉と同じで殿(領主)の狩倉の意味であろう。殿隠山の落人伝説が架空なものとなれば、あと古里から高浜へ発展は深堀時綱が正安3(1302)年に惣領家から「あぐり高浜」を譲与され、その子政綱の時、高浜本村を与えられた高浜氏の発展が背景にある。
高浜では、はっきりしていることを隠して、古老伝説としてぼかしている。大正7年、郷土誌を編集する時、編者も同じ疑問を抱いていた。何故ぼかす必要があったのか。一つは天領と佐賀藩とはっきり区分する必要があったのか。(略)

1 野母崎町史年表(近世編)       249頁・264頁
1638 寛永15 松平信綱は島原からの帰途長崎に入り、外国船の入港に対する警報機関として、長崎の斧山(のちの烽火山)山頂に狼煙台、野母日野山(現:権現山)に遠見番所を設置させた。
(この注記中)(略)また、佐賀藩では脇御崎の鷹鳥山(銅山=堂山)山頂に遠見番所が設けられ、その外に高島や伊王島にも設けてあった。脇御崎遠見番所は高島に伝え、高島は深堀に送り、深堀は大黒町の佐賀屋敷に伝えて、そこから、長崎奉行所の立山役所に送る仕組みであった。そこで、天領側と佐賀藩側とどちらが早く伝わるか、競争となるために、野母の遠見番所では、佐賀藩に信号が解らないよう、時々合図の方法を変えたという。(略)

(注) 遠見番所は元禄元年(1688)頃から、白帆船注進に変わり旗で合図するようになっている。佐賀藩蔵屋敷跡は五島町寄りの長崎駅前交差点あたり。
殿隠山の狩倉というのが「中世、地頭領主が独占し、百姓の用益権に制限を加えた広大な山野」とすると、一般人の入域を制限したとも考えられる。遠見番所のあった遠見山といい、この辺りのルートは古地図や字図調査でも不明で、なお検証の必要がある。

「野母崎町郷土誌」は「みさき道」の記述はない。同年表264頁に次があるのみである。前掲の脇岬江上氏の資料も参照のこと。

1861 文久1 4月3日 長崎遊学中の関寛斎(のちに医者)、長崎—戸町峠—加能(鹿尾)峠—小ヶ倉—深堀—八幡山峠−蚊焼峠—長人—高浜—堂山峠—観音寺のコースで歩く。
4月4日 棚瀬をみて野母権現山の遠見番所へ行く。帰途は高浜を通り長崎へ向う。この日記の特徴は歩くコースがよくわかること。(長崎談叢19輯)

(注) 関寛斎一行が4日、棚瀬をみて「野母権現山の遠見番所へ行く」とあるが、これは同年表編者の誤りであろう。日記の関係文の前後は、「北風強きに由て向ひ風なる故出船なしと、由つて只一望のみにて漁家にて喫茶す」とあり、この後に「南西に高山あり」と野母権現山の説明が続き、野母を「五ツ半(今の午前9時頃)時発足し」た。「只一望のみ」とあり北風が強い日で朝の時間的に無理であろう。

野母崎町・野母崎町教育委員会「のもざき漫歩」 平成5年

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野母崎町・野母崎町教育委員会「のもざき漫歩」 平成5年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。野母崎町・野母崎町教育委員会「のもざき漫歩」平成5年から、3 高浜海岸の今と昔(高浜)と、6 野中の一本松。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行120〜121頁ですでに紹介済み。写真は「浜添」という高浜海水浴場あたりと、先の現料亭「松美」入口にある「忍の地蔵」、そして高浜へ下る途中、「延命水」水場の右側にあったという「野中の一本松」跡。

野母崎町・野母崎町教育委員会 「のもざき漫歩」 平成5年

3 高浜海岸の今と昔(高浜)          8〜12頁
(略)幼い私も、籠を届ける父について行くことがたびたびでした。野母方面へ行くのに、浜添から「忍の地ぞう」の下を通り、その浜へ出ると、なだらかな砂の道となっていました。そこは満潮時になると、潮がガンブリ満ちて通れませんでした。
小古里の浜の小川の尻も、崖地の下に石を並べて飛び石をつくり、その上を跳んで渡りました。海岸沿いは、ほとんど砂浜を歩いたり、石垣で護岸をしている、畑のきしを歩くのが普通でした。長浜から南越にかけて、五百メートルほども長い砂浜が続いていたので、幼い私の目には、物すごく広い砂原のように見えました。父の話によれば当時、小学校の運動会も、この地で催していたということでした。
浜添の海岸は、通称「前の浜」といいます。その砂の丘を「クマン峠」といいました。そこには毎年、夏になるとハマユウが白い花をつけ、快い香りを放って咲きました。渚では、ハマグリとシジミがたくさんとれていました。クマン峠から浜辺まで、なだらかな白い砂の流れが、南手から北へ長く続いた眺めは、海の青と調和して、それはそれは、絵になる光景をそなえておりました。(略)

6 野中の一本松               22〜24頁
現在、毛首の集落から東北の方向に三百メートル程へだてたところに『野中』という字があります。そこは徳道を経て三和町川原の方へ通じる道がひらけています。その途中に大きな松の木が一本あったことから『野中の一本松』と、いつのころからか村人は呼んでいたそうです。
それはそれは大きいばかりでなく、枝振りの美しさも他に類を見ない松でした。てっぺんまでの高さは二十メートル、周りが十五、六メートルもあったろうといわれています。まして、この木の近くに混々(滾々が正)と清水が湧き出て、通行人は言うまでもなく、当時黒浜、以下宿から本村の学校へ通う子供たちの憩いの場所でもありました。
ところで、この松は根ッコから一メートルぐらいのところが空洞になっていて、その中は畳二枚も敷ける程の広さで、おとなが立てるほどの高さはあったといいます。穴の中は自然にできたのでなく「金ノミ」で削りとられていたようで、内側の壁は風化した土はだを見るようでした。当時。村へ出まわる巡礼や、物乞いが、雨風をしのぎ冬の季節をここで過ごしていたようであります。
ところが、北風の強い昼下がりのできごとでありました。もうもうと立ちのぼる黒煙は、『野中の一本松』の方向だと村人たちがさわぎ出しました。もっとも近い毛首の人たちは手に手に手桶を持ってかけ上っていきました。近くの川から水を汲み、穴めがけてヒッかけたので、消し止めるには長くかかりませんでした。後になって村の人の話しでは、穴の中で焚き火をしての不始末からではなかったかということでした。そのことから二日、三日と経ったころ、松葉がだんだん緑を失い、ひと月とたたないうちに枯れ木となってしまいました。
この松の木の近くに、白くコケでおおわれた石碑が建っていますが、さらにそのそばにはお地蔵さまが祭られてあります。この松と碑とお地蔵さまの三体には何か因果関係があるのではないかと思われます。しかし、現在では巨木はなく地蔵さまと碑が、むかしの物語を秘めて、語ることもなく残っているだけであります。

(注) 現在、国道499号となっている県道長崎〜野母間は、昭和18年開通と野母崎町郷土誌年表にある。高浜海岸の話はその以前の思い出で、高浜から古里までの道の様子を伝えている。この頁には昔の海岸線と道を今と比較した地図がある。街道といわれる道と少し違うが、参考となる。浜添は今も字名「浜ゾ」で残る。

砂の丘「クマン峠」の名は不思議である。脇岬の砂丘も「熊根」という。「クマ」は道や川の折れ曲がっている所、あるいは奥の引っ込んだ所を言う古語らしい。曲がった地形をあらわすのか、熊野神社に関係するのか。

野中の一本松は、清水が湧く「延命水」の石祠の右側にあった。松ヤ二採取で戦後、枯れたという。この話は川原道の道筋であったことを伝え、黒浜・以下宿から高浜に行くにもここに上って、「みさき道」と合流していたと考えてよい内容の資料である。
このほか野母の漁師の始まり、観音寺の観音像の由来など史実と民話を平易に収録している。

三和町内地名のルーツ 長い尾根が続く蚊焼の「長一尾」

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三和町内地名のルーツ 長い尾根が続く蚊焼の「長一尾」

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。浦里宇喜男さんの「三和町内地名のルーツ」その32 長い尾根が続く蚊焼の「長一尾」。
三和町教育委員会広報誌「あなたと広場」No.243(平成14年8月号)に掲載。「三和町」などは旧町名。

字図は、三和町平成7年12月修正「三和町全図」から。関覚斎日記で「長人」とあるのは、現在の字名で「永一尾」である。普通は蚊焼峠から徳道に至る山林地帯を指す。字名の如く長い平らな一つの尾根で高低はあまりない。約3.5kmの稜線の道である。
蚊焼から鯨浜へ行く波戸峠や、山の反対側、徳道のサイクリング道路高所あたりからここを望むと、地形の特徴がよくわかる。永一尾の西側は三和町と野母崎町の町境であった。町境の稜線沿いに「みさき道」は南のピーク(石コロバカシ=黒岳)の方に向かう。

三和町内地名のルーツ その32 長い尾根が続く蚊焼の「長一尾」  浦里宇喜男

蚊焼本村から南に位置し、海抜100mから200mの広々とした山林地帯、ここが「長一尾」である。読んで字の如く、川原の秋葉山から、野母崎町高浜境まで、長い尾根が続いている。この尾根道が、11月24日、本町で開催された、長崎県地方史研究大会で、本町の史談会長、中島勇先生の講演テーマ、「観音信仰とみさき道」として、とり上げられたのである。ここで、三和町郷土誌での「長一尾」「みさき道」を繙いてみよう。(以下郷土誌より)

川原道をしばらく進むと焼却場に出るが、「御崎道」はこの焼却場の少し手前から山道にかかる。ここは「長一尾」と呼ばれ、秋葉山の頂上近くまで一気に上るのである。そして上りつめたところに郷路八幡が祀られている。平家の主従5名ばかりが、ここで果てたと伝えられており、元の墓も近くの林の中に残っている。

長崎医学伝習所生、関寛斎も「蚊焼島(日記原文から「峠」が正)の上三十丁(約三粁)ばかりを“長人”といふ、此の処東西狭くして直ちに左右をみる、東は天草、島原あたり、その中間より肥後を見る」と記述しているように、上るまでは大変であるが、いったん上ってしまうと、上は平坦な道を稜線に沿って進むので、寛斎の言うように、”東西狭くして左右を見る”という感じであろう。(以下省略)

また、この「長一尾」は旧深堀藩であった蚊焼村と、長崎代官支配の川原村との境界であり、その境界とり決めの古文書には次のように記してある。
今度、公儀より絵図の儀、仰下され候は、境目相改め候覚、一、かやき村、かわら村境の事、右のはしの川内(橋河内)河境より長ひとお(長一尾)山谷境大通より高浜境迄みなふわけ(稜線〔みのう〕わけ)なり。(以下略)

先日、秋葉神社お詣りの帰途、この長一尾のみさき道を歩いてみた。最近、長崎の某山岳会の好意で案内標識も整備されており、中高年の山歩きには最適のコースと感じた次第である。

この稿は本会の研究レポート第1集「江戸期のみさき道」平成17年9月発行152頁ですでに紹介済み。本ブログでも2007年7月27日記事に転載していたが、ルーツ全体をまとめたため、改めて再掲した、
https://misakimichi.com/archives/136

三和町内地名のルーツ 蚊焼と川原の最短の街道「川原道」

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三和町内地名のルーツ 蚊焼と川原の最短の街道「川原道」

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。浦里宇喜男さんの「三和町内地名のルーツ」その28 蚊焼と川原の最短の街道「川原道」。
三和町教育委員会広報誌「あなたと広場」No.239(平成14年4月号)に掲載。「三和町」などは旧町名。

字図は、三和町平成7年12月修正「三和町全図」から。本稿は蚊焼と川原を結んでいた「川原道」。長崎県立図書館所蔵「西彼杵郡村誌」明治18年(三和町郷土誌1054頁に転載あり)によると、「河原村」の項に「蚊焼村路 三等村ノ東北字宮田ナル高浜村路ヨリ分レ西北行シテ蚊焼村界(峠)ニ至ル長サ十五町巾一間」とある。蚊焼村には特に記されていない。
「みさき道」に関係する野母崎ゴルフ場内の地蔵墓石に刻まれた「川原道」は、高浜と川原を結んでいた街道(河原村からは「高浜村路」)のことである。

三和町内地名のルーツ その28 蚊焼と川原の最短の街道「川原道」  浦里宇喜男

蚊焼の南東丘陵地帯に「川原道」なる字名がある。為石地区の「橋山」、川原地区の「東橋山」に接し、旧村時代は村境をなしていた。町の環境センターは、「東橋山」に位置している。
さて、何故「川原道」なのであろうか。冒頭申し上げましたように、蚊焼と川原の最短の道が、この地を通っているからであろう。

ご案内のように、70年前の昭和初期、町内には現在の国道、県道は極一部しか開通しておらず、筆者の記憶では、現在の国道499号線が、県道として、布巻を通り蚊焼に通じていたようである。特に川原地区から長崎市に行くには、為石を通り現在の役場庁舎横を通って、蚊焼海岸から野母汽船を利用するのが、一般的な交通手段であった。
特に、川原地区の上揚、橋川(現上川地区)は、為石を経由することなく、この「川原道」を利用するのが直線的であり、また、経済的でもあった。

過日、この「川原道」に残っている旧街道を訪ねてみた。現在の町道蚊焼川原道線、また、環境センター敷地で中断されてはいるが、雑木林の中にその小径がある。そして、この街道の一番の高処と思われるところにお地蔵さんを発見した。像の正面は「南無菩薩」とあり、両側面に、願主、河原村、(氏名不詳)。建立が天保五年(1834)午十月となっている。

余談になりますが、面白いのは、街道とお地蔵さんの関係である。過る3月3日、深堀町の県営住宅団地から、竿の浦に通じる「殿様道」を歩いてみた。距離にして3km足らずの小径であるが、直線的なコースのため、山越えとなっている。この間、なんと、3体のお地蔵さんにお会いした。鎮座の場所も街道の難所と思われるところ、また、人里に遠いところにあり、旅人とお地蔵さんの関係を思い知らされた次第である。

この稿は本会の研究レポート第1集「江戸期のみさき道」平成17年9月発行152頁ですでに紹介済み。「川原道」については、三和町「さんわの足跡」平成16年発行の10頁「渡海船による行商」に思い出の記録がある。「主に里道(川原道)を通った」
最後の写真は、「みさき道」の蚊焼峠入口。「川原道」の一部でもある。なお地蔵は、「橋山」高処のは、地形変りヤブ道で未確認。「竿の浦」のは現ナフコ背後の谷道に現存している。

三和町内地名のルーツ 長崎半島の大往還だった「東大道」「西大道」

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三和町内地名のルーツ 長崎半島の大往還だった「東大道」「西大道」

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。浦里宇喜男さんの「三和町内地名のルーツ」その9 長崎半島の大往還だった「東大道」「西大道」。
三和町教育委員会広報誌「あなたと広場」No.220(平成12年9月号)に掲載。「三和町」などは旧町名。

字図は、三和町平成7年12月修正「三和町全図」から。晴海台団地上あたりの地域が字「東大道」「西大道」である。平凡社「長崎県の地名 日本歴史地名体系43」58頁の「御崎道(みさき道)」の説明によると「正保2年(1645)長崎代官末次平蔵のもとで国絵図作製のために村境が定められるが、「野母道」「大道」などするのが(「御書其外書抜」菩提寺文書)、当道に相当する」とある。

三和町内地名のルーツ その9
長崎半島の大往還だった「東大道」「西大道」  浦里宇喜男

蚊焼松尾の東側丘陵地に、「東大道」「西大道」なる字名がある。現在、この地を町道松原線(建設当時は大道松原線、昭和40年完工)が通っている。晴海台進入路から分岐して鶴南養護学校、開成学園の西側を通り長崎市の平山台団地に通じている。最近では「学園通り」なる呼び方もあるとか。また、国道499号線のラッシュを避けての香焼町への通勤者にも利用されているようである。

さて、大道なる地名の由来は何であろうか。中世城郭の研究者で、古代山城研究会荒濱茂先生の言によれば、鶴南養護学校の南側一帯の東大道、西大道、東井田は、深堀藩の居城であったろうとのことで、俵石城の支城(城砦)ではないかと言う。過日(7月13日)荒濱先生の案内で現地を踏査したが、雑木林の中に、砦の犬走りと称する石垣が原型に近い姿で残っており、その感を深くした次第である。その当時から、西大道、東大道と呼んでいたのであろうか。

「御崎街道(みさき道)」も、この地域を通過しており、脇岬の観音詣でや長崎港外停泊の唐船との交易関係者も、ここを通行したのである。
また、明治35〜6年頃までは為石、川原の小学校には、高等科がなく、更に進学するには深堀小学校の高等科に行く以外にはなく、この道を通学したとのことである。

中世の築城の時代から、現代まで「東大道 西大道」は字名の示すとおり、長崎半島の大往還であった。そしてご案内のとおり、この地域から眺める落日の景観は実にすばらしく往来の旅人は、腰をおろして一息いれたことでおろう。
「東大道 西大道」「御崎街道」「大道松原線」「町道松原線」「学園通り」。さて、21世紀の次の名は。 

この稿は本会の研究レポート第1集「江戸期のみさき道」平成17年9月発行151頁ですでに紹介済み。同「みさき道」のコースに関する素朴な疑問と考察の68〜70頁において、私たちの考え方を記している。本ブログでは、次の記事となるので参照。
https://misakimichi.com/archives/430
https://misakimichi.com/archives/431