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岩永 弘氏資料 「長崎近郊のみさき道」 2001年初夏

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岩永 弘氏資料「長崎近郊のみさき道」 2001年初夏

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。岩永 弘氏資料「長崎近郊のみさき道」。2001年初夏刊「長崎“街道周辺の史跡”」に収録。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行41〜43頁ですでに紹介済み。写真は、上戸町二本松山中の「みさき道」道塚と、ダイヤランド入口手前の「源右衛門茶屋」などの碑。

岩永 弘氏資料 「長崎近郊のみさき道」 2001年初夏作成
「長崎“街道周辺の史跡”」に収録   143〜150頁

江戸時代、長崎から長崎半島野母崎町の脇岬にある観音寺まで、みさき観音参りと言って長崎の善男善女が七里の山道を歩き通してお参りした。元気なものは夜明け前に出発して、夜遅く帰着する一日がかりの行程で、無理な人は泊まりがけで往復した。新婚夫婦も手を携えてお参りしたという。この風習は、現代のような交通網の発達しない昭和前期ころまでつづけれられたとのことである。この道程を「みさき道」と言って、今魚町の信者が天明四年(1784)50本の道塚を寄進したが、今日、確認できるのは8本ほどしか残っていない。
時代の進歩とともに交通道路が逐次建設されて、みさき道は寸断され、また山道も荒れていて昔のみさき道をたどることはできない。今日、わずかに残る道塚や道中の史跡など、まず長崎近郊のみさき道を辿りながら往時をしのんでみることにしょう。

◎十人町のみさき道塚
新地の湊公園さき、十人町にのぼる坂の角は太閤寿司で、すぐ右に上る階段が続いている。若干のぼった右側の町内掲示板と電柱の間に、高さ70cmの朽ちた石塚が立っている。町中にあり、いわゆる一番目の道塚と見てよいだろう。なんの説明板もないが大切に保存してほしいものである。
だらだら坂のとちゅうには、フランスの文豪ピェ—ルロチと日本娘お菊さんが一ヶ月あまり新婚生活を送った寓居跡もあり碑が立っている。
十人町の町名は江戸時代、港の遠見番十人の役宅があったところからきている。坂段をのぼりつめると、右側赤レンガ塀角に大きな居留地境の碑が残っている。旧幕時代、外国人はこの区域外に居住することは禁止されていた。
道路左側塀には記念碑がはめられていて、文久二年(1862)日本最初の英国聖公会堂(新教)がたてられた跡、鎮西高校(現、諌早市)の前身、鎮西学院発祥の地ということなどが記るされている。昔、みさき道として、この地は低い峠であった。
右に活水女子大の赤屋根校舎、赤レンガ塀の続く石畳の道、三角溝の側溝と異国情緒ただよう道を左の方へ進んで行く。車もときどき通るくらいで静かである。やがて道向いに南山手のグラバー園、大浦諏訪神社、妙行寺、国宝大浦天主堂そして下方に孔子廟と、長崎独特の風景が目に入ってくる。

◎オランダ坂
急な石畳の坂である。途中、左側にお寺の誠孝院、右側は再建された東山手洋館群で古写真などの資料が展示してある。往時のみさき道は、この坂を下ると入り江の迫った石橋電停あたりから急な坂道の続く出雲町へと上がって行った。

◎出雲町から二本松神社へ
出雲町から二本松神社へのぼる道は一帯が急斜面で住宅が密集し、狭い車道も曲がりくねっている。出雲天満宮わきをとおり、あえぎながら上がっていくと、やがて峠で小さな二本松神社が有る。ここには昔、長崎に入るための関所が設けられた戸町峠である。
右側のみちは鍋冠山(169m)に通じていて公園も設けられ、港夜景の美しいところである。長崎の南から東にかけて山裾を縦断する県道(小ヶ倉—田上線)が建設中で、上戸町からこの二本松までおよそ千mは既に完成していて目下(平成11年)田上までの延長工事が進行中である。

◎戸町のみさき道
鍋冠山裾一帯の市営アパート群を見ながら二本松神社より、ゆるやかな広い車道を200mくだると左側に入り込む道がある。このみちは350m先にある九州セルラー電話(株)上戸無線局へ通じている。避雷針をつけた大きな四本柱塔がすぐ目につく。
無線局の手前より左側の林に下る幅2m程の山道がある。この道が当時のままの「みさき道」である。なだらかな山道を3分ほど進んで行くと三叉路となり、道塚が立っている。林内にあるため摩滅することなく「みさ起みち」「今魚町」とはっきり刻まれている。真っすぐ進むと上戸町の墓地群へ、下って行くと弁慶岩橋のところへ出る。

◎弁慶岩橋あたり
三叉路で下り坂の山道を100mおりて行くと、ちょうど弁慶岩橋(1984年架)の袂に出る。谷に渡された橋である。ここよりさらに100m先の林に、守る人も居ないような荒廃した祠と弁慶岩がある。朽ちた立岩不動明王の赤鳥居、岩窟の祠、そして、数々の像が祭られている。
目につくのは、色あせた彩色陶製?の女神像である。おさげ髪で袴をつけ、靴を履いた姫の姿である。由来は知るすべもないが、空想すると500年の昔、戸町を放浪した草住御前がモデルかもしれない。黒石の老女像は話によるとここの創始者の由なるも、名前は分からない。
さらに奥の峻険な岩の坂段を60mほどのぼると堂々たる断崖窟(広さ4㎡)内に熊野権現大明神が祭られている。頂きは樹木がしげっていて弁慶岩の全容がつかめない。弁慶岩橋ができる前、小さな牛若丸岩もあったとか、近くの人の話である。下側に広い車道が通じていても、いま尚この地域は秘境の趣を呈している。ここの探訪を終えて、先程の三叉路に戻り真っすぐ進んで行く。

◎戸町長崎氏の墓
三叉路から林内の「みさき道」をあるいて七分で視界がひらけ斜面墓地帯にでる。下り坂途中に戸町長崎氏の墓がある。天正時代(1580年代)長崎甚左衛門の三番目の弟、重方(惣兵衛)は妻の実家戸町氏に迎えられ、戸町惣兵衛と称し戸町の地頭として戸町を支配したが、のち長崎に戻った。この墓は後継一族の墓で正面両側の墓碑(長崎丈左衛門、同夫人)戒名の中に勇猛という字がはいっているのも、なにか曰くありそうである。

◎宝 輪 寺
墓地をくだり、すぐ戸町バイパスの横断歩道をわたると、左角はガソリンスタンドでこの前の道を五分ほど歩いて行くと右うえに宝輪寺が見える。宝輪寺は小高い丘のうえにあり、この地は大昔、深堀氏の祖、三浦氏の居城、城の尾砦のあったところで今でも片方は険しい谷で、大昔の面影をのこしている。境内隅には霊をなぐさめるべく城の尾砦武士の墓碑がある。
宝輪寺は寛永18年(1641)修験僧、増慶が八幡町に大黒天を祭ったのが始まりで、その後、油屋町(清水寺下、いまの西田病院あたり)にうつり、昭和前期まで同地で、現在この地に再建されている。幕府直轄の寺としてこの寺は格式があったようで、元禄年間長崎奉行所の法螺貝安置所として不測の時とか、奉行巡検のさい用いられた。この法螺貝は本堂内の右側に安置されている。
本堂前面には後奈良天皇(在位1526−57)勅願所と書かれたおおきな木札もその格式をしめしている。境内に各人が幸を祈願するための「なで大黒」が据えられている。また長崎四国38番霊場でもある。

◎境界石標
宝輪寺を拝観後、さらに進んでいくと戸町中学校のところに出る。中学校を左に見て六分程まっすぐ進むと三叉路に出る。左側のゆるやかな下り坂は戸町バイパスに通じている。これまで歩いてきた道は旧道で、「みさき道」でもある。さらに少し歩いて行く途中の左側、原田邸(新小が倉1丁目1番)のかどに「従是南佐嘉領」の石標がたっている。長崎は江戸時代、天領であったが、この一帯から南は鍋島藩の所領であった。もう少しで戸町峠バイパスの峠である。

◎二力士墓
戸町バイパスはゆるやかな坂となり、峠わきに二力士の墓が移設されている。団地のダイヤランドは峠のさき左にはいったところである。二力士の説明碑がすえてあるのでそのまま掲載しょう。

◎みさき道塚と谷桜力士墓
二力士墓碑の道向かいは高比良造園で、園内上の土手隅に「みさき道塚」が残っている。文政六年(1823)今魚町と刻まれている。また上段土手の竹林内に円筒形の谷桜力士(俗名川向実松)の墓がある。明治25年10月15日建之と刻してある。みさき道沿いにあり、行き来する人も香華を手向けたことであろう。
長崎近郊のみさき道探訪もとりあえずここまでとして、さきの二力士説明碑にある源右衛門茶屋にも関係のある古い話を紹介して終わることにしよう。

◎虫追いの行事
昔8,9月頃、村中の子供青壮老年総出で虫追いと言う行事を行った。青赤の色紙で登旗をつくり、太鼓、鐘などを打ち鳴らして小ヶ倉海岸より源右衛門茶屋まで行列して、再び引き返した。そして海岸で為盛、糖盛二人の武士のワラ人形を立てて、射落とした。
伝説によると為盛、糖盛と言う二人の武士が敗戦して百姓家にかくれたが、百姓がその筋に密告し連行された。このとき武士は大いに怒って、吾らが死んだら虫になって村民に仇を打つであろう、と言い残した。このため後年、村民たちは二人の人形を作り、射落として虫追いの行事をするようになった。 「大正7年小ヶ倉村郷土誌、小ヶ倉尋常小学校」より

(注) 筆者は長崎市南公民館の歴史講座などを長年にわたり担当されているだけに、長崎市近郊の街道など9コースについて、実際に歩いたガイドブックとなっている。ただ、上戸町長崎氏の墓や宝輪寺下の道を「みさき道」のコースとするのには、疑問があろう。

前掲わたりどり氏HPなどと言い、多くの方の「みさき道」研究が、市中からなんとか小ヶ倉や土井首、深堀あたりまではたどりつくが、その先がホニャラ…で終る。
長崎街道や時津街道などに比べ、深堀道・為石からの長崎往還・御崎道・野母道・川原道など、肝心の地元街道の正しい検証が、これまでほとんど行われなかったと言える。本会の研究レポートやこのブログを参考とし、地元をはじめ多くの方が研究を進めてほしい。

わたりどり氏HP 「みさき道」 掲載年不明 

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わたりどり氏HP 「みさき道」 掲載年不明 

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。平成18年当時のわたりどり氏
HP 「みさき道」 掲載年不明。HPは削除か。現在では見当たらない。 
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行37〜39頁ですでに紹介済み。南長崎ダイヤランド内の「みさき道」は、次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/362
写真は、ダイヤランド内の籠立て場だったと思われる付近からの小ヶ倉と港外の島の遠望。

わたりどり氏HP 「みさき道」 掲載年不明

みさき道、いよいよスタートです!
第1日目 長崎の町ん中を出て  4月16日晴れ

スタートの十人町までやってきた。ここから、脇岬・観音寺までの長い徒歩の旅が始まる。スタートの道塚を見つけた。もっとしっかりしたものと思いきや、意外にもろそう。よくこれが道塚だとわかったものだ。十人町の道塚 町の掲示板の横にひっそりと。住宅地の小さな石畳の通りを歩いてゆく。
ほどなく、ピエル・ロチ寓居の地 と書かれた石碑の横を通る。長崎に滞在したフランス海軍士官がピエル・ロチ(ピエール・ロティ)が、この町で日本人女性と共に1ヶ月間過ごした記録を著した『お菊さん』は今でも出版されている。しかし、長崎にはこのような話はよくあるが、1ヶ月だけの恋って辛くはないだろうか。そんな彼らの思い出の前を通り過ぎる。
またほどなくして、遠見番跡 と書かれた案内板の前に着く。案内板には「鎖国時代、外国船の入港・出港に際しての監視及び長崎奉行所までの伝達機関として野母・小瀬戸・梅ヶ崎・勧善寺(後に永昌寺)に遠見番が設置されていた。この付近に遠見番10人の官舎が設けられていたことから、十人町 と名付けられた。」と書いてある。そうだったのか…だから十人町。歴史を感じるなぁ。しかしここから野母まで通うの大変だったろうな…(毎日じゃないだろうけど)

振り返ると長崎の市街地が少し見える。石畳の細い道。住宅の間の普通の通りという感じ。この細道を登りきると、大きな通りに出た。通りを右に行く。いわゆる、オランダ坂 という有名な道だ。上の画像の洋風の建物は活水女子大学。少し進んで下を見下ろすと…おお、これまた洋風建築。なかなか異国情緒漂う雰囲気。表から見ると…あ、屋根の間から孔子廟の屋根が! ↓の下です。(孔子廟はこんな感じ) せっかく高台の気持ちのいい道だったのに、下り坂となり早くもオランダ坂終点。下から見たオランダ坂終点。けっこう急登!?
一度、石橋電停付近へ出て、バス道路を横切り、お肉屋さんと果物屋さんの間の通りを行く。道なりに行くとグラバー園にショートカットできるスカイロードの入り口につきあたるのでそこを左に。ここから完全な、住宅地の通路となる。車の通れない細道。
ほどなく、共同の水場?のような場所を目にする。昔はここで、井戸端会議などやっていたのかな… 蛇口の下が濡れている。まだ使われているのかな。チビももを抱いてずんずん歩く。まわりを見渡せば… 左側 丘にへばりつくように立ち並ぶ家々。右側 どこまでも続く横道。車の入れないこともあり、石段には猫がくつろぎ、子供が遊ぶ。迷路のような歩き道。ああ、長崎の典型的な家並だ。とても懐かしく思えた。ほどなく出雲二丁目。車道に合流したところで今日の行程はおしまい。

第2日目 わたしのふるさと  5月4日晴れ

1日目の終点、出雲からのスタート。車道と合流し、もくもくと二本松へ向けて登る。石垣のムラサキカタバミを愛でる私。昔からの道だからか、あちこちで神様が見守っておられる。道のところどころで神様を祀ってある。容姿は様々。この道は昔、戸町道と呼ばれていたらしい。戸町⇔市街地の重要な道。現在では昭和40年以降に造られた県道が戸町へのメインルートとなっているが、実はこの出雲→上戸町の道が圧倒的に近い。徒歩では特に。
カンカン照りの中を歩きに歩いてやっと頂上…二本松地区へ到着。正面は二本松神社。この社殿は昭和4年に作られたらしい(石碑より)。この神社をとりまく戸町道は、昭和8年に改修されたらしい(石碑より)。現在の道の状況から言えば、移築した方がスムーズに通行できそうな感じにこの神社は立ちはだかっている。でもあくまで神社はこの場所、という住民の声が聞こえそうだ。この位置にあるからこそ、昔の風景を思い浮かべることができる。旧道 という雰囲気を醸し出している。二本松地区から見た景色 海が見える。
大きな道路を渡って、左の細道へ入る。民家が立ち並ぶ。ここからも景色がよく、稲佐山と鍋冠山が同時に見える。やがて、道路をはずれて山道へ…さぁ、ここからが昔のままのみさき道。石垣の跡 きちんとした道だったらしい。石段もきれいに残っている。道幅も広い。そして、ほどなく道塚発見!!間違いなくここはみさき道。しかもきれい!!!ほぼ完璧な形で残っている! ↓アップはこちら。江戸時代の道しるべとは思えない…風雨や人々の開発の手から逃れた貴重な一本。

山を抜けるとこの景色 もう上戸町に到着。県道へ出て、ガソリンスタンドの横の道へ入る。右手は広い敷地・立派な庭木・おおきな鯉のぼりが並ぶ…そう、武家屋敷のよう(実際、長崎港を開いた長崎最後の殿様・長崎甚左衛門の三番目の弟の筋の子孫が住んでおられるらしい。しかもその方は私の同級生)。戸町中学校の脇を通り、新戸町を歩く。公民館前の蓑川永太郎翁の記念碑の前を通過。通いなれた中学の通学路がみさき道だったなんて… 昔よりひらけて、空が広くなった気がする。
これより南は佐賀領 と書かれた石標。なんと新小ヶ倉から南側は佐賀の領地だったのだ。しらなかった。坂を上り、県道にぶつかる。モスバーガーで一服して再び歩き出す。峠のガソリンスタンドの隣の造園屋さんの中に道塚は立っていた。これは探しに探した。草の中に埋もれている。ここからは宅地造成により昔の道はどうだったか定かではない。
道塚付近に建つ力士塚。天保10年頃に東京相撲で活躍した二子島力士と慶応4年ごろに宮相撲で強豪であった熊ヶ谷力士のもの。またこの界隈はみさき道の主要路で、観音寺参りの商人や、深堀武士たちの往来も激しく一軒の茶屋があったと伝えられ、今でも「ゲンネン茶屋」(源右衛門茶屋)と呼んでいる(碑文より)。

下る。くぐる。登る(206段)。わざわざダイヤランドにここまで回り道してアプローチしたことはなかったなぁ。そしてダイヤランド(新興住宅地)に入り、籠立て場(昔の休憩ポイント)に到着。って、かなり殺風景な籠立て場(跡)だな。たぶん昔の籠立て場からこんな景色が見えていたはず。
ここからまた山道に入る。この道がまた細い。昔は殿様の通る「殿様道」といわれていたらしいが、まったくその面影はない。かごが通れる幅じゃない。ほとんど斜面。景色だけは素晴らしい。しばらく藪を歩くと鹿尾川の上に出る。川へ下りてみると、昔のみさき道であったという飛び石のなごり?のような風景に出会う。川には他に大きな石は見当たらない。当時は飛び石を渡って↓の神社を経由していたという。
川沿いに国道へ出て、横断歩道を渡る。土井の首郵便局の道を通る。ここは私が幼稚園の時、毛井首から土井の首へ一人で毎日通った通園路だった(さらに土井の首からバスに乗って浪の平まで通っていた)。誘拐の危険性も少ない、古きよき時代の話である。海へ出た。土井の首村の役場の跡を通る。そういえば小学生の頃は、洋風な白っぽい木造の建物がまだあった! あれは役場だったのかなぁ… しかし、土井の首村が長崎市に編入されたのは昭和13年。もしあれが役場だったとしたらあの建物はかなり古いものだったということになる。今は取り壊され、こんな感じに。土井の首は、私が5歳から12歳までを過ごしたふるさと。ふと、同郷の福田清人先生の「春の目玉」を思い出す。

春の目玉
ぐっと大きく 目を見開いて  すべてのものを よく見よう  君の目玉に映るものを
よく見分けて どんどん伸びていこう  君の美しい心は 君のよく澄んだ目玉に
春の光のようにあらわれる
土井の首小学校の学び舎で、大きな声でのびのびと歌っていた。あの頃が懐かしい。福田先生がどういったお方かというお話はここでは割愛させていただくが、みさき道に関する句を詠まれ、諏訪神社に句碑があるという。
岬道 おくんち詣での思い出も
なつかしい思い出を胸に土井の首を去る。江川の橋を渡る。昔、母から叱られると決まって「お前は、江川の橋の下でひろった」と言われていた。いくらなんでもこんなドブに捨てる人はいないだろう、と子供ながらに思っていた…(苦笑) 末石の工業地帯を歩く。末石は私が物心つくまでの間暮らしていたところ。私が詳しいのはこのあたりまで。やがて、新道の高架をくぐって深堀へ入る。雰囲気がこれまでとがらりとかわる。町のところどころに、波止恵比寿。旧道にもかかわらず人の往来がはげしい。ほどなく武家屋敷跡に到着。歴史ある深堀の町については、次回、出発時に。(写真略)

(注) 第1集では、資料掲載を省略したHP。九州東海大学W.Ⅴ(ワンダーホーゲル)部OGで長崎在住の方か。歩いた年がHPでは不明。現在ではこのHPは見当たらない。今となっては貴重な記録。当時の著名な方などの資料コースをもとに、「みさき道」を踏査されたと思われる。

上戸町墓地を通り、ダイヤランド入口ではいったん小ヶ倉側へ下り、ダイヤランドへアプローチ。そんな回り道は考えられない。きついはずで籠立て場の場所も違う。土井首から毛井首経由は、明治になって開けた道。江川橋や平瀬の海岸道もなかった。
資料コースはその後、修正されているようだ。三和町郷土誌の概念図も了承をお願いしたい。

小ヶ倉バイパス下「お水場」が、「みさき道」の道筋だったか。

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小ヶ倉バイパス下「お水場」が、「みさき道」の道筋だったか。

小ヶ倉バイバスの途中、「南長崎スイミングクラブ」(小ケ倉町2丁目)右横に、「御崎道」を説明した立派な石碑があると、宮さんが先日、訪ねていた。
http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/28176382.html
バイパスは良く通るが、バイパス開通記念碑くらいに思って、注意して見たことはなかった。
碑文が気になるところがあり、私も確認してきた。地元の老人会・自治会関係の篤志な方が、平成元年に建立した碑である。碑文は次のとおり。

碑  この丘に立ちて
江戸時代、この地は「御崎道」と呼ばれる街道が通じていて、脇岬の観音寺へ参拝する人たちや、深堀の侍たちが休息し、水を飲んだ場所である
御崎道は、長崎、脇岬間七里(ニ八k)の行程で、この上の峠には一軒の茶屋が設けられていた
現在でも残る一本の「みさき道」と刻まれた道塚に、多くの旅人で賑わった頃の事が偲ばれるのである。現在この地は戦後のあいつぐ都市計画によって、一大ニュウタウンとしてめざましく発展しつゝある(以下、略)

碑が建つバイパス道下の橋脚の場所に、昔から「お水場」と呼ばれる所がある。水源は「長崎市上下水道局用地」となっており、地元のため「長崎市立 老人憩いの家 お水荘」が建っている。「お水場」を「御崎道」の道筋とし、説明するため建立された碑のようである。
しかし、これは現在、大型団地となっているダイヤランド内の「みさき道」の道筋について、誤解があるだろう。

長崎医学伝習所生「関 寛斎」日記の文久元年(1861)4月3日の記録は次のとおり。
…小ヶ倉の入口にて小憩す、右に笠山岳あり此より加能峠にて、やうやう下る五六町にして平地あり、望遠鏡を用ふるに最も佳景なり、直下は小ヶ倉港内の小島眼前に見え、西南は西海緲々たり、加能の下り口は海面に張り出し眺望尤もよし、南岸の砲臺或は隠れ或は顕る、西岸に彎あり突出あり。下りて一彎に出で岩上の奇岩を渡り一の間路を行く…

小ヶ倉小学校創立百周年記念誌「小ヶ倉のあゆみ」昭和53年発行の、四、ふるさと史料 79〜80頁の説明は次のとおり。
(7)御水の池
塩谷川の上流、現ニ号バイパス橋下、ニ丁目団地自治会公民館前の一角にあった。佐嘉藩主鍋島公が軍船用のために堤を築いて貯水したとも、また深堀鍋島公が茶水用に築堤したとも伝えられるが定かではない。築堤があったことだけは事実であるが、ニ丁目団地の造成によって現在はその痕跡もない。ただ清澄な清水が枯れることなく流れている。この清水も早晩その姿を消すことになりそうだ。哀しいことである。鉄分を含有し、道の尾温泉に類似の冷泉ともいわれる。
(注)築堤は嘉永年間と伝えられ、面積約八十坪ほどだったという。また所在地の字名を下獅子渡との記録もあるが、これは下猪渡の誤りであろう。小ヶ倉の旧字名に類似のものとしては上猪渡、下猪渡の二つがある。後日の考証を期待したい。

両資料のとおり、「お水場」が「みさき道」の道筋だったとはほとんど考えられない。本ブログの次の記事を参照。文久元年や明治34年の街道地図にも表れていない。
https://misakimichi.com/archives/393  ほか。詳しくは研究レポートを。
実際に歩いてみるとわかるだろう。水は小ヶ倉峠の「源ネン茶屋」や「鹿尾川渡り」で補給できたのに、なぜ途中で、水場のため大きく下ったり、登ったりする必要はない。

4枚目は、ダイヤランド入口近く高比良園芸(小ヶ倉峠源ネン茶屋跡)道角にある力士墓と御崎道の碑。ここのは問題ない。後ろの写真もダイヤランドから。

西大道・元松尾の「みさき道」道塚と「三和町字図」による字の境

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西大道・元松尾の「みさき道」道塚と「三和町字図」による字の境

A 西大道の道塚地点は、岳路みさき道との分岐か

晴海台団地の上を過ぎ、そのまま直進して鮨の市衛門から90m位行き、右手の畑道に入る。桑原氏の畑はここである。この先すぐ道は二手に分れ、ここに道塚が建って「みさき道」は左を指し車道上沿いを行く。一方、右手の道は畑の中をだんだんと下り、いったん晴海台と松尾への車道に出、墓地脇からそのまま住宅の中の小径を蚊焼小学校の正門まで下る。この道は蚊焼大川沿いに岳路へと続いているのである。
岳路海水浴場バス停下に「みさき道」の道塚があることから、岳路に真直ぐ続くこの道の分れを、海沿いを行く「岳路みさき道」の分岐でなかったかと推定したわけである。明治17年信教の自由が認められても、カトリック教会に復帰することに反対して善長から岳路に移住した人は、先祖の墓が善長にあるため、この道を通って墓参したし、八幡社の祭礼も昭和7年頃まで守ったと言われる。

B 字名の「西大道」とはどういう意味か

平凡社「長崎県の地名 日本歴史地名体系43」58頁の「御崎道(みさき道)」の説明によると「正保2年(1645)長崎代官末次平蔵のもとで国絵図作製のために村境が定められるが、「野母道」「大道」などするのが(「御書其外書抜」菩提寺文書)、当道に相当する」とある。
「御書其外書抜」をこれ以上調べるすべは知らないが、「大道」は「みさき道」に関係してつけられた字名と思われる。ただ、この「西」「東」は、みさき道の「大道」が西回りと東回りとあると考えられかも知れないが、そうではないようである。三和町の三村(蚊焼・為石・川原)では、広い字は便宜的に二つに割っていることが多く、字の方角で例えば「東」「南」とかも出て来る。一番多いのはやはり「東」「西」である。深く考える必要はないようである。
平山台上タンク地点からこの道塚まで字名は、「東国安」「赤道」「東下り道」「東大道」「西大道」となる。すべて道に関係してつけられたと思うが、「東下り道」は開成学園前の晴海台側斜面である。「みさき道」がここから下ったという意味でないようである。今は埋立て晴海台団地となった谷間へ下る道があった意であろうと思う。
土井首村のダイヤランドから鹿尾川の渡り場まで、同じように字「古道」「大道」がある。団地が開発されると従来の字名や境が変わる。今のうちにこういった資料は調査しておく必要がある。思えば「みさき道」のルート探しは、ダイヤランド・鶴見台・平山台・晴海台と団地巡りの感じがする。

C 字の境はどうして決められたか

ただ関心するのは、この先秋葉山側の三和史談会が設置した「みさき道」看板のある長阪入口まで、このあたりは見事に字の境が「みさき道」となっているのである。正保2年国絵図作製のため村境が定められたと先で記したが、村の中の字もこのとき同時にある程度が定められ、その境として主に使用されたのは、やはり当時不動と考えられた街道の道や山の尾根・谷・川でなかったろうか。
従って、時代がさがり道が変っても、今の字境が古道であったことが多い、とも言えるのである。ここで得た教訓は、岳路の道塚判定に生きた。なぜあの場所にあるのか。上の道路の工事で滑ったのでないかと不思議であった。その時はまだ蚊焼村古地図は資料として持たなかったが、字境図を見るとちょうど三つの字境に建っていたのである。この字境が古道であったと推測された。後で蚊焼村古地図と明治地図が手に入り確認すると、そのとおりであった。

D 蚊焼に道塚がなぜ多いのか

「みさき道」の道塚はこの西大道のほか、国道に出る手前、元松尾にもある。蚊焼に現存する道塚は岳路も入れると4本である。このほか蚊焼で道塚があったとされるは、次のとおり8箇所である。
①平山台上タンク地点 ②国道から古茶屋坂登口(桑原組倉庫裏) ③同坂途中の鳥山宅前 ④草積祠先島村宅角 ⑤蚊焼峠推定地点 ⑥妙道尼信女墓付近  蚊焼桑原兄夫婦の記憶談 ⑦平山台の裏口三叉路 ⑧蚊焼上防火水槽付近      中島氏「野母半島みさき道図」説明から
考えられるのは、蚊焼は「みさき道」のちょうど中間地点に当り、深堀と平山方面から両方の道が交錯していること、そして先も徳道回りか岳路回りか、詳しい地図などなかったためと思われる。このあたりは都市化が及ばない山間部であり、船で長崎から蚊焼へ石を運びやすかったこともあるかも知れない。蚊焼を主に調べた結果のため数が目立つが、他の地区でも聞けば出てくるであろう。
蚊焼は、深堀菩提寺の末寺地蔵庵が古くからあり、明治13年寺として独立。地蔵も多い。

晴海台団地上あたりの「みさき道」と「蚊焼村彩色絵図」

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晴海台団地上あたりの「みさき道」と「蚊焼村彩色絵図」

A 晴海台団地の上あたりは、街道がそのまま車道となったといわれるが本当か

一部区間を除いてほぼ間違いない。このあたりは高島が正面に見え海の景色がよい。昔の街道の雰囲気を残す。県立図書館に佐賀藩が作成した各村の古地図があったが、蚊焼村はなかった。あるとき三和公民館ホールの民俗資料コーナーを覗いていたら、展示ケースの中に肝心な地図を見つけた。萬延元年(1860)「彼杵郡深堀蚊焼村彩色絵図」である。複写ものかA3サイズの小さな地図である。原図はどこにあるかわからない。当時の村の様子と道がわかる貴重な地図である。大籠の村境から「みさき道」をなぞると、岳路上の高浜・河原村境までほとんどそのとおりである。この地図は蚊焼茶屋と蚊焼峠の判断にも役立った。

B 県養護学校のところに道塚があったのは本当か

ここは平山方面から蚊焼を結ぶ最短路で小径があったが、街道でなかったようである。このため養護学校のところに道塚が建っていたことは考えられる。ここにあった道塚は、西大道に畑を持つ蚊焼の桑原氏が自分の畑に持っていき、西大道にあった道塚とともに畑の蓋石としていたところ、20年前頃、三和町の関係者によって発見された。西大道にあった道塚は元の場所に戻し、この養護学校の1本は三和公民館に運び展示していたが、平成15年6月三和農水産物加工品販売所「みさき駅さんわ」が公民館前にオープンしたため、12月に説明板をつけてこの入口に屋外展示されることとなった。

C 県養護学校の分岐は、どんな道だったか

道塚はさておきこの小径の道は、長いこと課題を与えた。平山から来ると片田医院から右手へ平山台上タンク地点に登るのが街道である。養護学校は左手上に見えるのになぜ遠回りをするのか。三角形に例えると右辺へ行かず底辺が近道である。実際に平山天満神社の裏手から平山台上グランド右の林を通り谷を上がると開成学園のグランドの左下にでて養護学校正門のカーブ地点に出るのである。団地内は道が喪失しているが、開成学園の敷地内は許可を得て道跡を確認した。立派な道跡があった。
解決したのは、関寛斎の帰路の記述である。蚊焼茶屋から長崎道分れは半里ばかり。ここは茶屋の位置が遠くなっても1.5kmしかない。そして八幡山峠とする新田神社は見えない。明治地図を手に入れるとやはり小径でしかなかった。しかし蚊焼の人が平山を通って長崎方面に行くのによく使われた街道並みの道でなかったろうか。

八幡山峠はどこか。平山台上のタンク地点は、どのように考えるか

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八幡山峠はどこか。平山台上のタンク地点は、どのように考えるか

A 八幡山峠はどこか

深堀城山に八幡神社が祀られており、八幡山は城山のことである。ただ「峠」となるとどこをいうか。文献はなく今もって断定はできない。最初は一の鳥居をそのまま登り善長あたりを考えていた。しかし、これは登りすぎである。「女の坂」が街道となると、大籠町新田神社しか考えられない。
関寛斎日記には深堀から二十丁の距離とある。実測では菩提寺から新田神社は2091m。このあたりは村役場・学校分校が昔はあり、今も稲荷神社・六地蔵堂がある。新田神社脇は道路でだいぶん切り削られているが、尾根のちょっとしたピークで眺望がよい。そして字名も「丸尾」という。赤土からの道に続き城山へ登山道も上る。峠の形態が考えられるのである。
さらにここから蚊焼峠まで三十丁と日記は記している。実測でちょうど3026mあった。平山台上のタンク地点は帰路の「長崎道分れ」であって、「八幡山峠」となるとこの新田神社の地点しか考えられない。

B 竪に赤白青の旗號の黒船は、どこの国の船でどの地点で見たか

竪(たて)に赤白青の三色旗號とあり、フランスの黒船と思われる。横ならオランダである。安政6年(1859)、幕府は長崎・神奈川・函館を開港。アメリカ・ロシア・イギリス・フランス・オランダとの貿易を許可しており、長崎は鎖国の特権を失った。この当時、フランスの船はすでに来航していたのである。
黒船を見た地点は、深堀を午後発足して「二十丁許にして八幡山峠に上がり中程にて黒船を見る」とあり、そして峠道の暑さを説明し、後「三十丁計にして蚊焼峠の入口の茶屋に至」ったとある。中程とは、八幡山峠の手前か、その先の蚊焼茶屋までの間か。どちらとも取れるが、素直に解釈すると、八幡山峠(大籠新田神社)までの中間地点。前の地蔵を過ぎ二つほど尾根を回った所、赤土三叉路に建つ農道竣工記念碑の上の尾根あたりで、長崎港口にいたフランスの黒船を見たのではないだろうか。今は木立に覆われ展望はきかない。
蚊焼茶屋の中間地点とすると、晴海台団地の上あたり。ここは海の景色が良く夕日がきれいである。

C 平山台上のタンク地点は、どのように考えるか

ここは帰路でまた説明するが、関寛斎の帰路で言う深堀と長崎道の分岐点となる重要な地点である。平山方面へ下る道もあり善長へ上る道もあり、「みさき道」と四叉路をなす。深堀藩の立場で考えれば竿浦・平山・布巻・為石の領内に行くのに、一番近くて使いやすい地点の道でなかったろうか。
今の平山台バス終点の三叉路とはどうやら違うようである。三叉路に道塚があったと言われる。確かにここも近道の小径があり、考えられないことはない。しかし、街道としての分岐でなかったようである。蚊焼桑原兄氏の記憶では、道塚があったのは三叉路でなく、このタンク地点のようである。そしてここは、明治地図の里道(大籠村路)である。

「女の坂」が深堀から蚊焼へ行く街道だったか。「女の坂」の伝承とは

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「女の坂」が深堀から蚊焼へ行く街道だったか。「女の坂」の伝承とは

A 「女の坂」が深堀から蚊焼へ行く街道だったか

蚊焼への街道は今の有海を行く車道でない。これは赤土の三叉路に建つ農道竣工記念碑に昭和11年7月とあり、後でできた道である。古地図をよく見ると同じようなルートを取り、街道は実はこの車道の40〜50m位上を行っていた。
その道は「おんなの坂」また「おなごの坂」と呼ばれる。深堀藩の文箱を持った注進侍が前を遮った身重の女を切り捨てた伝承と女を弔う地蔵があるらしい。森氏の話とつじつまが合い、菩提寺右の尾根道を一の鳥居の方へ行き手前の教会墓地から右に山道に入ってみた。
農道ができたため長年歩かれてなく、地蔵先はひどい道だった。5回ほど通ってルートを探し道を整備した。この道は大籠町迎川橋の善長教会へ上る車道第1カーブ水場に出る。地蔵は近隣にない立派な作りで後背に石を抱え、お堂があったか瓦が残る。首なしとなっているのが惜しいが、これもこの地特有の歴史を感じさせる。教会墓地からすぐ奥の谷間にあるので、ぜひ一度見てほしい。

B 「女の坂」の伝承とは

長崎県史談会編「長崎県郷土誌」臨川書店 昭和48年刊の412頁は次のとおり。

深堀村 女の坂(地蔵堂)

深堀村と隣村蚊焼村とを繋ぐ一條のだんだら坂路がある。この山路を約八丁程登れば更に一つの坂にさしかゝる。これが即ち女の坂だ。路の左手の小藪の中に古い地蔵尊が見られる。何時頃から女の坂と呼び、何時頃からこの地蔵尊を安置したものか詳かでないが、然おほよその見當は想像される。

古老の言傳へでは、幕政時代に當領主の命を受けて注進(使者)が文箱を携えて此の坂路を往来し、急を要する時もし途中を妨げる者は切り棄て御免を許されてゐたのである。或夜急ぎの注進が此の坂にさしかゝつた時、隅々妊娠の身重を横たへて路側に休憩してゐる一婦女に逢ふた。注進と知るや、あやしい者ではございません…と言葉も終らぬに、エイじやまするなとばかり一刀の下に斬り棄てた。

其の後注進を始め人々が夜路にこの坂にさしかゝると、さもうらめしそうな姿態の女が現れ通行人に呼びかけるやうになった。女の亡霊!女の坂!口から口へと傳はる噂、いつのまにか在所にひろがった。領主の御聲がゝりで同志相寄り此所に地蔵尊を迎え女の霊をなぐさめたのは其後まもないことだった。彼女の姿は現はれぬようになった。この傳説を知る者は夜分の通行には今も尚気味はよくないと言傳へている。

(注) 「女の坂」(おんなのさか・おなごのさか)は、深堀菩提寺右の八幡社一の鳥居の尾根道を行き、途中の教会墓地から右の分岐へ入る。ここから320m(深堀陣屋から913m)行った植林の切れた谷奥に立派な首なし地蔵がある。廃仏毀釈と思ったが、この資料にその記述はない。
後背の石がある珍しい地蔵で、お堂は壊れたか、瓦や燈籠石が谷筋に散乱している。この道の先にも「三界万霊」地蔵があり、大籠町迎川橋の善長車道登り口の第一カーブの水場に出る。

文久元年「深堀郷図」(長崎歴史文化博物館蔵)に地蔵堂がこの場所に描かれており、それ以前の安置と断定してよい。古地図が史料となる。
私は深堀の歴史を良く知る深堀5丁目有海の森節男氏から、この道は深堀経由の「みさき道」であり、深堀と大籠の集落を結ぶ。通学路でもあったと教えてもらっていた。
村岡豊氏HP「長崎県の坂」も、「女の坂」を訪ね「みさき道」?と記していた。

深堀の町中を道はどう通ったか。「佐賀の臣深堀某の居なり」とは

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深堀の町中を道はどう通ったか。「佐賀の臣深堀某の居なり」とは

A 深堀の町中を道はどう通ったか

十八銀行深堀支店前の割烹「たなか」から道は石段を下りバイパスのガード下に行く。ここが深堀水軍の根拠港御船手である。戸泊にかけていかにも構築した港らしく見事な石組みがある。ナフコの道もここにある岩河の地蔵へ出たようである。戸泊に地蔵が多い。

深堀の町中を道はどう通ったか。町中の道もなるべく正確にしたい。長崎市深堀支所に明治18年深町要氏によって編さんされた地番入りの古地図が書庫に保管されている。これが森氏が言われた地図であった。街道と考えられる道が赤線で太く塗られ、それが今も町中を通る車道とおりであった。深堀の町中はあまり変わってない。

関寛斎は小港に出て「戸数百戸許」と記している。明治18年「西彼杵郡村誌」の深堀村の戸数は社寺を入れて680戸。少なすぎるのでこれは「戸、数百戸許」の意味だろう。長崎から深堀まで三里。一行は12時前に深堀に着いて、鯛をあつらえ例の烏賊も煮て昼食とした。

B 「佐賀の臣深堀某の居なり」とは

深堀鍋島氏は佐賀藩家臣で大配分格。諫早氏・神代鍋島氏の二領も深堀と同じ佐賀藩である。文久元年当時は、最後の深堀藩主10代(深堀家では29代)茂精(しげきよ)の時代。知行六千石といわれる(平幸治著「肥前国深堀の歴史」)
居宅の陣屋跡は、現深堀町5丁目深堀カトリック教会の上手にある。

深堀に入る峠とはどこか。明治29年深堀「森家記録」と「鳥越」とは

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深堀に入る峠とはどこか。明治29年深堀「森家記録」と「鳥越」とは

A 深堀に入る峠とはどこか

峠と考えられるのは、ナフコの谷を上り深堀のアパートに抜ける峠で、土井首では「殿様道」と言われる。真鳥氏も書かれている岩河の地蔵尊へ出る道である。しかし長崎から行くときになぜそう遠回りしなければ深堀に入れなかったのか。
関寛斎日記に書いている「入口に峠あり」にひっかかり、その頃は明治測図の地図を持たなかったため疑問であった。ある時、深堀の街道を聞きに深堀神社に行ったとき、有海の森節男氏の方が詳しいと言われ、お宅に伺うと重大な記録を見せられた。
明治29年2月祖父に当る方が長崎に行き、帰りに船が出なかったため「みさき道」を歩いて深堀へ帰った記録を残していた。内容を見てびっくりした。関係するところは僅か400字位の書き付けであるが、「源右エ茶屋」「蚊乃川の飛石」「土井首の浦道」の字が飛び込み、続いて「鳥越の嶮坂は実に足を変はす能はず」とある。深堀に入る最後に鳥越の嶮坂が待ち受けていたのである。

よく聞くと今の記念病院や三菱グランド辺りに100m位の山があり、これを越さないと深堀に入れなかった。末石先は平瀬と同じく海岸は断崖で通れなかった。鳥越とは今も字名がある。1968年(昭和43年)深堀〜香焼間の海面埋め立てが完成し三菱重工が進出。削り取られた山手には新住宅団地ができて、深堀は新旧共同の町となった。
深堀はかって山に囲まれた要塞であった。この山をならす現代の所業に驚くとともに、関寛斎日記以来の「みさき道」の街道を記録した史料が出現した。森氏には大籠に行くのに八幡神社一の鳥居手前に道があった示唆もいただき、また深堀の古地図を貝塚遺跡資料館に掲示しているとの話も聞いた。大変お世話になった方である。

B 明治29年(1896)2月 深堀の「森家記録」と「鳥越」とは

(長崎から深堀までの記録)
(略)高島通船を求るも便者なきを以て出船未定なりと詮方なく陸行に決し(略)午前十時半より出発、曇天大雨正に降らんとの様にて傘なくただ身体一つなり、浪の平三菱炭鉱社前にて微雨次第に其度増さんとするの有様なり、心を紊して再び鉄橋の側なる通舟へ戻さんか果た前進せんと思案しつつ前進し遂に前陳の如く陸行に決し進行す。
朝食僅かに一杯空腹を覚ゆ、源右エ門茶屋に至らば麺包菓子を購はん、亦降雨甚だしくば何処に休まんと其れを恃みに行きしに幸いにも天我を憐れみしか差したる降雨もなく然れ共(略)我をして落胆せしめたり。即ち源右エ門茶屋の戸は皆閉まりて不在なり。
故を以て暫時は近隣に彷徨するも遂に思い切り(略)渡舟に仍らず蚊乃川の飛石を越え土井ノ首の浦道に通り江川に至る、其時の疲労甚だしく鳥越の嶮坂は実に足を変わす能はず杖に倚り頂上に達し深堀東北隅の市街を見るを得たり。当時の喜悦例うるに物なし。円城寺を左にし猫山を過ぎ本町を通り、漸く午前零時半無事帰宅殆ど二時間を要せり、(略)

関寛斎が歩いた文久元年(1861)から35年後、「みさき道」のうち深堀までの道を記した明治29年2月の貴重な史料である。深堀町5丁目森節男氏が祖父の記録として保存されていた。

浪の平から小ヶ倉「源右衛門茶屋」へ行き、茶屋は当時も現存していた。そして鹿尾川はまだ「飛び石」渡りである。あと「土井首の浦道」を通っている。森氏によると親戚の現鶴見台原口病院がこちらにあったらしい。当時は網代先の海岸埋立てが進み、深堀への近道となったのか。
「鳥越」とは、現在の記念病院から三菱グランド一帯である(最近大型商業施設「フレスポ」となっている)。香焼埋立て前は100.2mの山があり、末石先は当時、海岸断崖であった。鳥越を越さないと深堀へ入れなかった。ここが深堀「入口の峠」なのである。
「猫山」は円成寺裏手の山。野良猫が多かった(住職話)。有海に家のある森氏は、近道なので猫山を通ったらしい。

なお、当時の「鳥越」の地形を推測できる写真が、中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の巻頭にあったので転載した。上の写真中央の小山が「鳥越」。次の写真は、小ヶ倉小学校創立百周年記念誌「小ヶ倉のあゆみ」昭和53年刊から同じく昔日の姿。赤丸のところに小山が写されている。

江川はどうして渡ったか。末石橋地蔵堂の建立由来書きとはどんなものか

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江川はどうして渡ったか。末石橋地蔵堂の建立由来書きとはどんなものか

A 江川はどうして渡ったか

江川へ入る道はこのほか街道をそのまま進み、落矢川沿いと太田川沿いに入る道がある。それはわざわざ遠回りでないだろうか。そして二つの川は江川河口で合流する。今のジョイフルサン前の江川橋は川幅が広く橋はなく、ここは小さな入江となっていた。いずれかの入る道を通ってこの江川河口に来てこの川の合流点を二本の小橋で渡る。この辺りは地蔵が多く、地元の人がそう言っている。
小魚や烏賊を刀で切り獲った小渚は、ここ江川河口ではないだろうか。
橋を渡るとバイパス末石橋脇の地蔵堂がある。中を覗いて貴重なものを発見した。夕暮れどき川端で殿様の行列を横切った天草古着商人が切られ、それを弔う建立由来書きがあった。ここは間違いなく深堀道の道筋であった。

B 末石橋地蔵堂の建立由来書きとはどんなものか

深堀バイパスを行きマリンセンターから水産高グランド下の大田川に架かる末石橋の右手脇に地蔵堂はある。以前は川端にあったらしい。「文久三年建立。四国第十九番立江寺本尊延命地蔵。平成元年八月移転建立」。左壁面にいかにも手作りで、横長のベニア板に黒のマジックでそのまま書いた由来書きが取り付けられている。全文は次のとおり。
独特の節回しの文章は読んで楽しく、しかも重要であった。深堀の殿様行列を横切った天草古着商人が切り殺され、その菩提を弔うため長崎市籠町中村雪女の建立とある。同女と商人の関わりやこのマグック書きは誰が書いたか興味をそそる。
この近く末石公民館の所に勢至地蔵堂があるが、「みさき道」はそこは通らなかったようである。末石の海岸は当時断崖で、海岸に道はなかったと考えられる。

末石橋地蔵堂の延命地蔵建立由来書き 地蔵堂内壁面に板書き取り付け

「今から百三十五年前、文久三年の亥の年二月吉日に現在地に地蔵菩薩を建立した。地蔵菩薩の由来とは、昔佐賀鍋島侯と深堀侯の参勤交代行列の際、天草の古着商人が通りがゝり日暮の頃であるし、行列の前を横切りそのため家来に取おさえられ、殿の御前である、無礼だ、名をなのれと」
生れは、天草(「蓮ノ池」と添え書きあり)塩田のそだちで、首のおちるは、この小川」それから夜毎道行く人の灯りを消し、袴のすそを引張り、エッサ、ホッサのかけごえで世の人をおびやかすので、菩提を弔うために 長崎市籠町 中村雪女 の建立されたのである」(原文のまま 平成10年記か)