立山役所の専用水源 狭田井と椎木泉 長崎市西山1丁目
「長崎古今集覧」などに紹介された長崎の主な名水水源が、現存しているのか、いないのか調査した記録が、「長崎水道百年史」長崎市水道局1992年刊30〜32頁にある。
この中から、立山役所の専用水源として使われた、2つの水源を取り上げてみる。
背畠泉(狭畠泉) 井の側に古樹の桜あり因て桜水ともいふ此水は清冷にして甘美也(長崎市西山1丁目ー現存)
この水は、立山奉行所専用の水源として1674年(延宝2)水樋支配役倉田次郎右衛門が奉行牛込忠左衛門の命により立山役所まで1,420mの水樋(竹樋)を布設した。井の所有者には、年銀700匁を使用料として支給された。1796年(寛政8)には、竹樋から土管に布設替えされた。
椎 木 泉 妙見社の上にあり往古瓊々杵尊此地に降遊ましませし時これを汲んで用に供せしといふ味殊に清冷にして茶を煮るに最佳なり傍に椎の木あり枝葉扶疎たり因て此名を得たり(長崎市西山1丁目ー現存)
また、丹羽漢吉著「長崎おもしろ草第二巻 史談切り抜き帳」長崎文献社昭和52年刊の「水は軽いほど上等 昔から長崎の飲み水苦労ばなし」の中、141頁の記述。
…西山方面を見ると、…また、桜井というのもある。傍に桜の老樹が美事に栄えていたから桜井と呼ばれたが別名、狭田(せばた)井ともいった。この水は寛政8年(1796)、ここから約1,400メートルの土管をひいて、立山役所の専用水道となったから、一般人は使えなかった。この桜井については長崎名勝図絵は記載していない。奉行所専用であったからであろう。
それから、西山妙見社の近くに椎の木泉(みず)というのがあった。天孫瓊々杵尊が崇嶽(たかだけ 今の金比羅山上宮)降遊のみぎり、汲んで用いられた、という、味がきわめて佳良、かつ清冷な水であつたため文化7年(1810)、ここから約730mほどの掛樋をひいて、これまた立山役所の専用水となった。この椎木泉は長崎名勝図絵はその名を記し、奉行所専用とは書いていない。それ以前に執筆されたのであろう。…
銭屋川(中島川)を水源とした倉田水樋は、標高の関係から立山役所へは引けなかった。このため立山役所専用水樋が必要となり、倉田水立山水系とでも呼ぶべきものが設置された。その後は、西山郷椿原の水源から引くなど変遷や拡張はあっている。
「椎木泉」は、西山妙見神社へ行くと本殿の右手に手水場があり、山手から水が引かれている。神社が設置した説明板があって、湧水が奉行所の水に使われたことを説明しているので、すぐわかる。
さて、一方の当初設置された桜井こと「背畠泉(狭畠泉)」である。水道百年史に井戸の現存写真があるが、場所は「西山1丁目」としか説明していない。水道局へ尋ねても場所を知る人がもういなかった。
原爆犠牲者慰霊世界平和祈念式典の「献水」に水を汲んでいる立山公園右上の谷の水場を見に行った。写真の井戸とは違う。
(後日、市原爆調査課へ尋ねてわかったことは、ここは「長崎古今集覧」に「立山の後にあり清水也冬夏水の涸るる事なし」と記された「験剤泉」である)
西山3丁目の長崎楽会中尾氏へ聞いてみた。
貴重な昭和12年4月21日付新聞記事の写しを、中尾氏が持っていた。中尾氏はしかし、どうしてこの記事を持っているのか覚えもなく、自分で現地の井戸を確認したことがない。さっそく出かけて調べてくれた。
金比羅山神社への参道は、立山グランドのところに一の鳥居があり、立山からが本道である。あと1つ、上西山から狭田の谷を上がる金比羅山裏道(近道)がある。
「背畠泉」の井戸は、この裏道の参道沿いにある。バス通りを行くなら、立山公園への登り口からすぐ右手の狭い車道に入る。横へ奥まで進むとこの谷に小さな橋があり、これから小川沿いの石段を50mほど登る。家では右方4軒目、石村宅手前の下の段となる畑に、目指す井戸がある。
塩ビ管を結わえた蓋で覆い、井戸は良く保存されている。この辺りは金比羅山から伏流水が多く湧き出ていたのであろう、昔は田が作られていた。「狭田」はそんな字義と考えられる。近くの小川が出合う三角地に今も別の井戸があり、ここに「水神」の石柱が立っていた。
ここまでの途中にも石組みの手の込んだ造りのものを数箇所見た。「狭田井」前の小橋は、下を覗くと桁石橋であった。
現地の昔は、車道小さな橋下の西山1丁目自治会長、田浦稔氏が詳しい。30年ほど前、立山公園入口から昔の道を広げてここまで車道を造った際、古い土管が見つかった。立山役所への水樋土管の一部とわかり、井戸畑の所有者松本氏から長崎市水道局へ寄贈した。現在、長崎市田中町卸団地内の東長崎浄水場3階にある長崎水道資料館に展示されている。
田浦会長は、金星観測の煉瓦観測台は前から知っており原口先生を案内している。展望台下に柱状節理の「鉄砲石」があるとのことで、中尾氏はすぐ調べに行っている。
市に確かめると、「西山1丁目485番地」は、平成7年2月住居表示変更により「西山1丁目32番22号」へ、「せばた」の表記はいろいろあるが、正式な字名としては「瀬畑口」である。小さな橋がある車道上が「瀬畑」の区域らしい。(この項は、一般的な表記「狭田井」をタイトルにした)
HP「名水大全長崎県」によると、「狭田井 長崎市面山? 名水百選候補 井戸」と項目だけ載り、詳細は出てこない。
さるく説明板など設置して、存在を広く知らせてよい史跡と思われる。
後の方写真2枚は、ここが原爆献水用の水場「験剤泉」と思われる。「狭田井」はまだ右方の谷にある井戸で、高さは少し下がる。
中尾氏資料の長崎新聞(今の長崎新聞社とは違う)の昭和12年4月21日記事は次のとおり。本文は旧字体で書かれ、コピーでは字が判読できない。
「長方形の石に文字のあるようだ」とあるが、字らしきものは今見てもまったくわからない。
記事による発見者、長崎観光会山本氏とは、当時の住所長崎市下西山町22番地「山本亀三尾」氏であろう。「柴嶺」とも名のられた。昭和11年頃の長崎観光会史跡めぐりの資料があり、著述者・役員として名前がある。
立山奉行が使用の井戸長崎観光会が発見
長埼市西山町1丁目に西山梅屋敷と称する谷間から金刀比羅宮に登る近道が出来ているが、その六合目位の所に昔は桜の大木がありて土堤が築かれたケ処に清水をこんこんと噴出する井戸が長崎観光会山本氏によって発見された。
この井戸は土管を通じて諏方神社に送り、更に之を奉行所にの供給したものであると言われている。今は桜樹も土堤もなく、畑中に井戸ばかり残されてこの付近一般の飲料に使用されて居るが、今の所有者は西山町1丁目485番地(字瀬畑)松本密太郎である。
因に此の井戸には祈念碑があったものか目下井戸側に使用されし長方形の石に文字のあとあるも字体判明しない。
なお、長崎歴史文化博物館の一部復元された長崎奉行所立山役所に、井戸があったようなので、後日訪ねた。井戸は2箇所にあり、説明板のとおり4の場所に発掘され、敷地内の他の井戸の石も一部使い復元されたのが、最後の写真である。、