月別アーカイブ: 2008年8月

長崎孔子廟・中国歴代博物館  長崎市大浦町

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長崎孔子廟・中国歴代博物館  長崎市大浦町

日本で唯一、中国人の手によって建てられた本格的な廟が、長崎市大浦町の「長崎孔子廟」である。創建は明治26年(1893年)。昭和57年(1982)の改築には、中国政府などの絶大な協力を受け、すべての資材や石像などを中国から取り寄せ完工。一新している。
併設の中国歴代博物館は、中国国家博物館および北京故宮博物院から直接借り受けた文物を展示している。館内は撮影禁止。
後の写真は、近所に見られる洋風建物。上手は昭和会病院。

(追 記 平成20年9月28日)
毎年9月の最終土曜日に午後1時から「孔子祭」が開催されている。入場無料。本年9月27日の孔子祭の様子は、あすみさんブログを参照。
http://blogs.yahoo.co.jp/takealittlewhile100reasonswhy/36065335.html
http://blogs.yahoo.co.jp/takealittlewhile100reasonswhy/36067841.html

孔子廟のカイノキとシナサワグルミ  長崎市大浦町

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孔子廟のカイノキとシナサワグルミ  長崎市大浦町

長崎市大浦町の孔子廟。儀門の正面池の縁に一対のカイノキ(楷樹)がある。別名「孔子木」。孔子に関係する所には必ず植えられる樹。
孔子廟HPによると、本廟創建の明治26年に植えられた。「トネリハゼノキ.ランシンボク」として説明板があった。近くに「シナサワグルミ」も2本あった。
Otoji.K氏HP「長崎の樹木」の中の街路樹による説明は次のとおり。

カイノキ(楷樹)

ウルシ科ランシンボク属 落葉高木 雌雄異株
葉は偶数又は奇数羽状複葉だが、頂小葉が欠けることが多く偶数羽状複葉が多い。小葉は5〜9対で卵状披針形。4〜5月、葉腋に円錐花序をだし、淡黄緑色の小さな花を多数咲かす。核果はちいさな球形で藍黒色。秋に紅葉する。
枝が直角に伸び、葉の成長が整然としていることから「楷書体」にちなんで名がついたとも言われている。ランシンボク、トリネコバハゼノキとも言う。中国原産で、中国では山東省の孔子廟に植えられていることで有名。大正末期に渡来し、学問の木として孔子に縁のある場所に植えられていることが多い。
長崎市・「孔子廟」のカイノキ。このような木が二本と、若木が数本ある。ハゼノキに似るが、触れたがかぶれなかった。6月で花の時期を逃した。

孔子廟の石橋「碧水橋」  長崎市大浦町

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孔子廟の石橋「碧水橋」  長崎市大浦町

長崎市大浦町の孔子廟に、昭和57年(1982)モニュメント橋として総大理石の石橋「碧水橋」が造られた。
「碧水橋」は儀門の正面池にあるが、奥の大成殿と中国歴代博物館との間にも、同じような造りの石橋を見る。手前は自販機部分のようにえぐられていない。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。

写真      第 105 番    孔子廟の石橋(碧水橋)    長崎市大浦町(孔子廟)
昭和57(1982)年    長 さ 約4.5m   幅 員 約1.6m
総大理石のモニュメント橋。
孔子の霊をまつる聖廟は、佐賀県多久市や各地に造られているが、中国式建築の聖廟となると、長崎の孔子廟だけではないだろうか? 当時の清国が明治26年に清国の資金と指導で、日本人の手で建てられたという。日清戦争の最中でも、当時の長崎県は華僑の人たちの安全を保障すべき指示を出していた。

よみがえる出島 国指定史跡「出島和蘭商館跡」  長崎市出島町

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よみがえる出島 国指定史跡「出島和蘭商館跡」  長崎市出島町

出島は、日本の近代化に大きな役割を果たした重要な歴史的文化遺産。大正11年(1922)に国の史跡に指定された。
敷地の完全公有化が終わり、一段と整備されている。庭園を主にスナップ。

後ろの4枚は、平成20年12月4日に追加。

出島和蘭商館跡の「きゃぴたん橋」  長崎市出島町

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出島和蘭商館跡の「きゃぴたん橋」  長崎市出島町

出島は、日本の近代化に大きな役割を果たした重要な歴史的文化遺産。大正11年(1922)に国の史跡に指定された。
「きゃぴたん橋」は、昭和40年の庭園整備事業の一環として造られ、名前は架橋時に愛称としてつけられたもの。袂の布石に石工3人の名を刻む。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。

写真     第  67  番    きゃぴたんばし     長崎市出島(出島和蘭商館跡)
昭和40年      長 さ 約5.0m   幅 員 約1.2m
出島和蘭商館跡の庭園内に架かる橋。
小さいが端正な作りの橋。袂の布石に石工の名があり一部「坂本」などの文字が読める。
きゃぴたん橋は、各種の出島絵図に描かれているアーチ橋を参考に、昭和40年の庭園整備事業の一環として橋の上のブドウ棚と共に作られたものだそうです。名前については、当時の名前の有無も不明で架橋時に愛称としてつけられたものだそうです。
長崎市教育委員会 出島復元整備室 担当 高田氏の回答による。

立山役所の専用水源 狭田井と椎木泉  長崎市西山1丁目

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立山役所の専用水源 狭田井と椎木泉  長崎市西山1丁目

「長崎古今集覧」などに紹介された長崎の主な名水水源が、現存しているのか、いないのか調査した記録が、「長崎水道百年史」長崎市水道局1992年刊30〜32頁にある。
この中から、立山役所の専用水源として使われた、2つの水源を取り上げてみる。

背畠泉(狭畠泉)  井の側に古樹の桜あり因て桜水ともいふ此水は清冷にして甘美也(長崎市西山1丁目ー現存)
この水は、立山奉行所専用の水源として1674年(延宝2)水樋支配役倉田次郎右衛門が奉行牛込忠左衛門の命により立山役所まで1,420mの水樋(竹樋)を布設した。井の所有者には、年銀700匁を使用料として支給された。1796年(寛政8)には、竹樋から土管に布設替えされた。
椎  木  泉   妙見社の上にあり往古瓊々杵尊此地に降遊ましませし時これを汲んで用に供せしといふ味殊に清冷にして茶を煮るに最佳なり傍に椎の木あり枝葉扶疎たり因て此名を得たり(長崎市西山1丁目ー現存)

また、丹羽漢吉著「長崎おもしろ草第二巻 史談切り抜き帳」長崎文献社昭和52年刊の「水は軽いほど上等 昔から長崎の飲み水苦労ばなし」の中、141頁の記述。

…西山方面を見ると、…また、桜井というのもある。傍に桜の老樹が美事に栄えていたから桜井と呼ばれたが別名、狭田(せばた)井ともいった。この水は寛政8年(1796)、ここから約1,400メートルの土管をひいて、立山役所の専用水道となったから、一般人は使えなかった。この桜井については長崎名勝図絵は記載していない。奉行所専用であったからであろう。
それから、西山妙見社の近くに椎の木泉(みず)というのがあった。天孫瓊々杵尊が崇嶽(たかだけ 今の金比羅山上宮)降遊のみぎり、汲んで用いられた、という、味がきわめて佳良、かつ清冷な水であつたため文化7年(1810)、ここから約730mほどの掛樋をひいて、これまた立山役所の専用水となった。この椎木泉は長崎名勝図絵はその名を記し、奉行所専用とは書いていない。それ以前に執筆されたのであろう。…

銭屋川(中島川)を水源とした倉田水樋は、標高の関係から立山役所へは引けなかった。このため立山役所専用水樋が必要となり、倉田水立山水系とでも呼ぶべきものが設置された。その後は、西山郷椿原の水源から引くなど変遷や拡張はあっている。
「椎木泉」は、西山妙見神社へ行くと本殿の右手に手水場があり、山手から水が引かれている。神社が設置した説明板があって、湧水が奉行所の水に使われたことを説明しているので、すぐわかる。

さて、一方の当初設置された桜井こと「背畠泉(狭畠泉)」である。水道百年史に井戸の現存写真があるが、場所は「西山1丁目」としか説明していない。水道局へ尋ねても場所を知る人がもういなかった。
原爆犠牲者慰霊世界平和祈念式典の「献水」に水を汲んでいる立山公園右上の谷の水場を見に行った。写真の井戸とは違う。
(後日、市原爆調査課へ尋ねてわかったことは、ここは「長崎古今集覧」に「立山の後にあり清水也冬夏水の涸るる事なし」と記された「験剤泉」である)

西山3丁目の長崎楽会中尾氏へ聞いてみた。
貴重な昭和12年4月21日付新聞記事の写しを、中尾氏が持っていた。中尾氏はしかし、どうしてこの記事を持っているのか覚えもなく、自分で現地の井戸を確認したことがない。さっそく出かけて調べてくれた。

金比羅山神社への参道は、立山グランドのところに一の鳥居があり、立山からが本道である。あと1つ、上西山から狭田の谷を上がる金比羅山裏道(近道)がある。
「背畠泉」の井戸は、この裏道の参道沿いにある。バス通りを行くなら、立山公園への登り口からすぐ右手の狭い車道に入る。横へ奥まで進むとこの谷に小さな橋があり、これから小川沿いの石段を50mほど登る。家では右方4軒目、石村宅手前の下の段となる畑に、目指す井戸がある。

塩ビ管を結わえた蓋で覆い、井戸は良く保存されている。この辺りは金比羅山から伏流水が多く湧き出ていたのであろう、昔は田が作られていた。「狭田」はそんな字義と考えられる。近くの小川が出合う三角地に今も別の井戸があり、ここに「水神」の石柱が立っていた。
ここまでの途中にも石組みの手の込んだ造りのものを数箇所見た。「狭田井」前の小橋は、下を覗くと桁石橋であった。

現地の昔は、車道小さな橋下の西山1丁目自治会長、田浦稔氏が詳しい。30年ほど前、立山公園入口から昔の道を広げてここまで車道を造った際、古い土管が見つかった。立山役所への水樋土管の一部とわかり、井戸畑の所有者松本氏から長崎市水道局へ寄贈した。現在、長崎市田中町卸団地内の東長崎浄水場3階にある長崎水道資料館に展示されている。
田浦会長は、金星観測の煉瓦観測台は前から知っており原口先生を案内している。展望台下に柱状節理の「鉄砲石」があるとのことで、中尾氏はすぐ調べに行っている。

市に確かめると、「西山1丁目485番地」は、平成7年2月住居表示変更により「西山1丁目32番22号」へ、「せばた」の表記はいろいろあるが、正式な字名としては「瀬畑口」である。小さな橋がある車道上が「瀬畑」の区域らしい。(この項は、一般的な表記「狭田井」をタイトルにした)
HP「名水大全長崎県」によると、「狭田井  長崎市面山?   名水百選候補  井戸」と項目だけ載り、詳細は出てこない。
さるく説明板など設置して、存在を広く知らせてよい史跡と思われる。
後の方写真2枚は、ここが原爆献水用の水場「験剤泉」と思われる。「狭田井」はまだ右方の谷にある井戸で、高さは少し下がる。

中尾氏資料の長崎新聞(今の長崎新聞社とは違う)の昭和12年4月21日記事は次のとおり。本文は旧字体で書かれ、コピーでは字が判読できない。
「長方形の石に文字のあるようだ」とあるが、字らしきものは今見てもまったくわからない。
記事による発見者、長崎観光会山本氏とは、当時の住所長崎市下西山町22番地「山本亀三尾」氏であろう。「柴嶺」とも名のられた。昭和11年頃の長崎観光会史跡めぐりの資料があり、著述者・役員として名前がある。

立山奉行が使用の井戸長崎観光会が発見

長埼市西山町1丁目に西山梅屋敷と称する谷間から金刀比羅宮に登る近道が出来ているが、その六合目位の所に昔は桜の大木がありて土堤が築かれたケ処に清水をこんこんと噴出する井戸が長崎観光会山本氏によって発見された。
この井戸は土管を通じて諏方神社に送り、更に之を奉行所にの供給したものであると言われている。今は桜樹も土堤もなく、畑中に井戸ばかり残されてこの付近一般の飲料に使用されて居るが、今の所有者は西山町1丁目485番地(字瀬畑)松本密太郎である。
因に此の井戸には祈念碑があったものか目下井戸側に使用されし長方形の石に文字のあとあるも字体判明しない。

なお、長崎歴史文化博物館の一部復元された長崎奉行所立山役所に、井戸があったようなので、後日訪ねた。井戸は2箇所にあり、説明板のとおり4の場所に発掘され、敷地内の他の井戸の石も一部使い復元されたのが、最後の写真である。、

倉田水樋水源と水神社跡  長崎市伊良林1丁目

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倉田水樋水源と水神社跡  長崎市伊良林1丁目

立山役所の専用水樋水源であった金比羅山裏道の「狭田井」俗にいう桜井の井戸と、西山妙見社近くの「椎の木泉」を見る前に、倉田水樋水源と水神社跡をもう少し詳しくふれてみる。
長崎市伊良林1丁目の「倉田水樋水源跡」記念碑と「長崎水道百年史」による説明は、次を参照。立山役所は標高の関係から、倉田水樋は引けなかった。
https://misakimichi.com/archives/1202

このときは、若宮稲荷神社境域の川まで暗渠を遡り、そこの写真を載せたが、「倉田水樋水源跡」記念碑が建つ場所は、中島川と合流するところ。現在はやや広い駐車場となり、駐車場奥の路地を隔てた住家の庭先に、古い石柱や石積みを見て写真は撮っておいた。
水神社は銭屋橋近くであったが、民家が密集してきて移転している。丹羽漢吉氏の次の話を読むと、ここあたりがかつてあった水神社跡のはずれになるのではないだろうか。

大正年間の倉田水樋水源「銭屋川」(中島川)の古写真は、「長崎市水道九十年の歩み」5頁から、水樋支管は同101頁の掲載写真から。長崎水道資料館は現在、矢上浄水場4階にある。
倉田水樋の祖、次郎右衛門は銭屋川の伏流水に目を付け、川の中に堰を築き、井筒で汲み上げたところ、堰を越えるような勢いで、水が吹き上がり、これを近くの八幡町地上に引き上げることに成功した。この水車は「倉田車」と呼ばれて名物となった。

ここの「水神社」と八幡町「水神湯」という風呂屋の話はおもしろい。昭和52年の刊本だから、この当時まで「水神湯」はあった。この頃の地元を知る長崎楽会中尾氏へ確かめると、八幡町通りの中にあり、もう「八幡湯」としか言わなかったそうである。
丹羽漢吉著「長崎おもしろ草第二巻 史談切り抜き帳」長崎文献社昭和52年刊の34頁の話は次のとおり。

後の写真は、大正9年に本河内水源池下へ移転、現存している水神神社。宮司は本に登場する渋江家。霊石の「かっぱ石」も一緒に運ばれ、大鳥居は寺町「幣振り坂」のいわれを伴った諏訪神社一の鳥居を移設したものである。

きれいな川に戻してくれ! カッパと水神さんの公害防止運動

八幡町に水神湯というお風呂屋さんがある。薬湯の、きれいな公衆浴場で遠くからもわざわざ湯治に来る客があるそうだ。この水神湯の名の起こりは昔、近くに水神社を祀っていたかららしい。
水神社(大正9年、本河内水源池下に移転、現存)は、はじめ炉粕町の日本銀行支店の並び、諏訪神社寄りのところにあった。元文4年(1739)八幡町に移り、水難守護の霊験きわめてあらたかで、海路安全を願う唐人はもとより阿蘭陀人までも年々財貨を寄贈して厚く尊信したといわれる。…

桜谷神社のスギ  長崎市東立神町

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桜谷神社のスギ  長崎市東立神町

長崎港の対岸、三菱長崎造船所立神ドックのある東立神町の右方谷間の最奥部に「桜谷神社」はある。古書の長崎地名考に「桜谷は立神郷にあり、花の頃遠くこれを望むに雲のごとく霞のごとし。邑の少女春遊する所なり」
明治16年(1883)拝殿などの新築の折、参道に桜の木が多く植えられたということであるが、今では桜谷の名を偲ばせる面影はなく、大杉があった。

桜谷神社へは、立神バス停近くの立神公園から右手へ谷間の道を上って行く。暗渠の通りと石段をかなり登って20分はかかる。次を読んで大杉2本を確認してきた。
最上部社殿にすぐ着く手前参道の右下の大岩前に立つ。幹囲は2.9mと2.5m。市街地に残るスギとしては大きく感じる。この道は「ホタル越し」という木鉢へ抜ける古道でもあったらしい。
岩永弘氏著「歴史散歩 長崎北西の史跡」2006年春刊35頁による説明は次のとおり。

立神の桜谷神社

立神バス停で下車すると近くに立神公園があります。右側の緩やかな坂を進むと直ぐ立神公会堂があり、入口左側に台座を含め高さ4mの記念碑があります。…坂道を5分ほど上がって行くと桜谷神社の鳥居があります。文化5年(1808)建立。途中、みこし堂があり立派な神輿が保管してあります。秋のお祭りは11月3日の由。続く石段の両側は山で小川が流れ、左斜面帯は竹林です。

二の鳥居は昭和8年(1933)建立。これより石段を100段ほど登ると右手にちょっとした小広場があり、運動公園の立て札が立っています。さらに60段ほど登って一休み、上方に目をやると、再び110段あまりの石段と目指す桜谷神社が見えます。空気も良く又、環境も良いので疲れは其れほど感じません。

境内右下の大岩前に天然記念物と言ってもよいような見事な杉の大木が2本屹立しています。右先の大きい方は根回り2.9mで直径92cm、左の方は根回り2.5m直径72cmです。立神公園から神社まで20分位です。…

小野小学校のハナキササゲ  諌早市小野町

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小野小学校のハナキササゲ  諌早市小野町

国道57号線により小野・森山の方へ向かう。諫早市街からの県道55号線に続く市道と合い、しばらく進むと小野小学校のグランド前を通る。このあたりは現在、国道拡幅工事中。干拓の里入口のまだ手前となる。

諌早市の名木「きささげの木」は、小野小学校グランドの国道側隅にある。国道をグランドの先まで行って、右折すると国道側校門から見られる。古い学校なので、校舎の高台にモミやユリノキの大木もあった。
Otoji.K氏HP「長崎の名木」リストの中の説明は次のとおり。

ハナキササゲ(花木大角豆)

ノウゼンカズラ科キササゲ属 落葉高木
樹皮は灰褐色で縦に割れ目がある。葉は対生し広卵形で浅く3裂するか、ほとんどしない。6〜7月、枝先に円錐花序を出し4〜5cmの白色の花を咲かす。内側に紫色のすじある。花冠はロート状で5裂し唇状になる。縁はあまり縮れない。果実は細長い朔果。

オオアメリカキササゲとも言う。同じ北米原産でアメリカキササゲがある。こちらは、3cmほどの白色の花で、花の内側に紫色の斑点があり、縁が縮れるのが特徴。
諫早市・小野小学校にあるハナキササゲ。諫早市の名木の一つ。

小野小学校HPによる「校歌」は次のとおり。作詞はあの宮崎康平、作曲は山口健作氏。いちょうの梢とともに2番目に「きささげの花」が歌われている。
HPの次記事「小野の紹介」「小野の風景」も為になる。「きささげの木」の植えられたいきさつと樹の大きさが、以下のとおりあった。
この外、小学校の中庭は「小野古墳」で、出土品は小学校玄関の陳列ケースにおさめられている。小学校上のこんもりとしげった森は、戦国時代に築かれた「小野城跡」。
画伯野口弥太郎は、6年生の半年間小野小学校に在学し、野口家は小野小学校となりに白壁の土蔵のある家である。小学校のとなりは大楠の「宗方神社」で、これらの紹介と学校の風景写真などがある。
小野小学校の校歌

1 きよらに晴れる多良の峰  緑にかおる朝のつゆ  いちょうの梢に陽がのぼるよ
ああうるわしのまなびやに  なつかしのかねはなる  なつかしのかねがなる

2 はるかにわたるしらぬい橋  光にかける青い夢  こんぴら山に雲がわくよ
ああふるさとのまなびやに  きささげの花はさく  きささげの花がさく

3 ゆたかにみのる小野平野  あかねにそまる空の色  宗方の森に陽が沈むよ
ああとこしえのまなびやに  ゆりかごの鳥はなく  ゆりかごの鳥がなく

「きささげの木」

小野小学校の運動場には,「諫早市の名木百選」に選ばれたキササゲの大木があります。中国原産の落葉高木で別名「あずさ」とも言われます。ささげの形に似た長さ30センチメートルにもなる実をつけ,中の種は腎臓病の薬とされています。
このキササゲは,宮崎康平氏の作詞による校歌にも歌われ,樹齢80〜90年,樹高15メートル,幹周り3メートルもある大木です。昭和8年に松崎留男先生が久留米の植木屋より購入され,旧校舎の玄関に植えられたそうです。
今日も,このキササゲの木は,小野っ子たちを優しく見守っています。

慶巌寺の磨崖仏三十三観音  諌早市城見町

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慶巌寺の磨崖仏三十三観音  諌早市城見町

諫早公園の眼鏡橋から見ると、本明川の対岸に見える寺が慶巌寺なので、近くの公園橋などを通って行く。 慶巌寺の参道橋を渡り石段にかかる。岩肌に彫った小さな観音像がある。参道のここのはもっとも右端となるので、川沿い道路の駐車場へ行くと説明板があり、「慶巌寺の磨崖仏三十三観音」の全体が見渡せる。

寺下の崖面の左右に、小さいながら精巧に彫られた表情豊かな三十三体の観音像。まだ彩色が残るものも見られる。一部、崖は崩落している。左隣家の先へも続いているので、回り込んで見る。
諫早には、久山台近く新屋敷交差点から入ったところに同じような磨崖仏三十三観音があり、御手水観音には富川渓谷のような磨崖仏群49体があるので、これらも見てみたい。
いずれも諌早市指定文化財や史跡。現地説明板は次のとおり。
HP ” いさはやWEB情報室 ”の「諌早の歴史と文化を知ろう  名所旧跡編」が、<諫早市の文化財(市教委)>からこれらをよく紹介しているので参照。

慶巌寺の磨崖仏三十三観音  市指定有形民俗文化財 昭和59年7月26日指定

本域南端の第三紀僧砂岩の岩肌に、西を起点として33体の観音菩薩像が整然と彫刻しています。光背型(仏・菩薩の背後に有る光明を示す型)にえぐり込んだ中に、観音像を陽刻してあり、高さ約40cm、幅30cm前後を測ります。観音像の右側には、「西国三十三所○○番」というように番号が陰刻されています。

建立の縁起については、あまり明確ではありませんが、「観音経」に説くように、観音菩薩が33に変化し衆生を救済するという三十三観音信仰思想と庶民の救いを求める願望が合致して成立したものと思われます。
崖面のほぼ中央に記銘があり、
「明和七年  西国三十三観音大士願主福田源太夫母  二月吉祥日」
と記しています。明和七年は西暦1770年に当たります。

なお、三十三観音の祀り方には、石塔の上に観世音菩薩を据えて祀る形と磨崖仏として崖壁に彫り込む形があり、前者では永昌町の八天狗社・金比羅岳頂上の権現堂周りのもの、後者では久山の磨崖仏が知られています。
いずれも当時の民間信仰、習俗を知る上で貴重なものです。
平成11年3月31日                    諌早市教育委員会