川原大池公園の薬草講座
2016年9月27日(火)快晴。三和公民館の薬草講座で、妻らが長崎市南部の川原大池公園へ。サクラも咲いていた。
カワラタケ、キツネノマゴ、ヌスビトハギ、アキノノゲシ、ジュズダマ、ミカン草(毒)、スイレン、フウトウカズラ、クズの花、クサギ、ガネブ(山ブドウ)など
川原大池公園の薬草講座
2016年9月27日(火)快晴。三和公民館の薬草講座で、妻らが長崎市南部の川原大池公園へ。サクラも咲いていた。
カワラタケ、キツネノマゴ、ヌスビトハギ、アキノノゲシ、ジュズダマ、ミカン草(毒)、スイレン、フウトウカズラ、クズの花、クサギ、ガネブ(山ブドウ)など
伊能忠敬顕彰碑建立記念足跡探訪ウォーキング 第1回(2)
2016年9月24日(土)快晴、伊能忠敬測量日記に基づき、第1回は主に市中心部の長崎測量足跡探訪ウォーキングを行なった。午前9時に炉粕町の止宿、旧大同庵跡(現・立正佼成会長崎支部)に集合。宮の下公園で昼食、午後3時に恵美須町の船津橋で解散した。
講師は、長崎街道ネットワークの会会長・顕彰碑をつくる会の江越弘人先生。参加者26人。
第2回は、10月8日(土)、午前9時飽の浦公園集合、市対岸の海岸部を歩き、茂里町ココウォークで午後3時解散。参加料1000円。申込みは、江越先生へ電話かFAX 0956−856−1531
伊能忠敬顕彰碑建立記念足跡探訪ウォーキング 第1回(1)
2016年9月24日(土)快晴、伊能忠敬測量日記に基づき、第1回は主に市中心部の長崎測量足跡探訪ウォーキングを行なった。午前9時に炉粕町の止宿、旧大同庵跡(現・立正佼成会長崎支部)に集合。宮の下公園で昼食、午後3時に恵美須町の船津橋で解散した。
講師は、長崎街道ネットワークの会会長・顕彰碑をつくる会の江越弘人先生。参加者26人。
第2回は、10月8日(土)、午前9時飽の浦公園集合、市対岸の海岸部を歩き、茂里町ココウォークで午後3時解散。参加料1000円。申込みは、江越先生へ電話かFAX 0956−856−1531
伊能忠敬長崎測量関係資料 入江氏作成
上記の伊能忠敬長崎測量関係資料は、顕彰碑をつくる会入江氏が作成したものを、参考のため載せる。
伊能忠敬長崎止宿跡記念碑が完成 除幕式を行う
伊能忠敬が日本地図を作成するために、この長崎の地を測量して回ったのは文化10年(1813)、今から203年前のことであります。そこで私たちは、有志の方々のご協力により、長崎における伊能忠敬宿泊の地(旧大同庵跡・現在は炉粕町 立正佼成会長崎支部、旧諏訪荘跡地)に顕彰碑を建てることにいたしました。
この顕彰碑建立に際しましては、立正佼成会様からは快いご快諾をいただきました。また、長崎市からも細やかなご配慮をいただくとともに、「伊能忠敬測量止宿跡」のさるく説明板まで設置してくださいました。
伊能忠敬が、この長崎の地をより綿密に測量し、記録に残したことを多くの人々に知ってもらい、より多くの人々が長崎を訪れることを願っています。
当日は除幕式の後、梅松鶴で祝賀会を行った。伊能忠敬長崎測量関係資料は、顕彰碑をつくる会入江氏が作成したものを、次記事に載せる。記念碑正面字体は、伊能忠敬測量日記から本人自筆の字とした。
最初の新聞記事は、2016年9月19日付長崎新聞と読売新聞のニュース。
伊能忠敬足跡探訪記念ウォーキングは、次の日程で行う。参加費1000円。要申込
・第1回 9月24㈰(土) 9時大同庵跡出発—市中心部—船津町瓊浦公園15時30分
・第2回 10月8㈰(土) 9時飽の浦公園出発—梁川橋—ココウォーク15時30分
事務局江越までファックス又は電話でお願いします。 ☎095−856−1531
(追 記) KTNテレビ長崎の2016年9月22日「みんなのニュース」は、次のとおり。
伊能忠敬の記念碑除幕式 2016年9月22日 12:07
江戸時代、全国を歩いて測量し正確な日本地図を作ったことで知られる伊能忠敬が、長崎での測量の際に宿泊した場所の跡地に記念碑が建てられました。伊能忠敬が長崎に来た日に合わせて18日に行われた除幕式には、顕彰碑をつくる会の関係者などおよそ40人が出席しました。記念碑は今から203年前、日本の地図を作るため長崎を測量した伊能忠敬の功績を称えようと建てられました。伊能忠敬の測量日記によりますと、長崎市の諏訪神社の下には「大同庵」という場所があり、測量隊はそこに16泊して長崎の海岸線などを測量したということです。つくる会の入江正利会長は「やっぱり長崎の町というのは、江戸時代は勉学に励んでいる人にとっては理想のというか希望の町だった。伊能忠敬がここにきて縦横に測量したのも、そういうところに意味があるんじゃないかと思う」と話していました。今月24日と来月8日には記念ウォーキングも開催されます。
鍋 谷 橋 都城市安久猪之谷
HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」宮崎県の石橋によるデータは、次のとおり。都城市内から日南方面へ国道222号を約17km、現橋の上流に見える。
№216 鍋谷橋
都城市安久猪之谷
市指定有形文化財
平成16年9月8日指定
安楽川支流
橋長:上流側32.7m、下流側38m 橋幅:4.04m(4.64m) 径間:16.9m
架設:明治38年
都城市内から日南方面へ国道222号線を約17Km、現橋の上流に見えます。安楽川は、下流は志布志町に流れており、幾つもの綺麗な石橋が架かっています。
鍋谷(なべたに)橋
「鍋谷橋(現在・二俣橋)は、当時庄内村で請負業をしていた伊地知新七が生活道路橋の工事を引き受け明治38年に完成させた石造りの単一アーチ橋である。高さ20.2m、長さ上流側32.7m、下流側38.0m、幅4.5mは県内有数の規模を誇る。」
都城市教育委員会
諸 田 池 徳之島町諸田
サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。天城町役場の北方、天城交差点から右折して、県道80号により島の東側、徳之島町諸田まで行く。諸田または次の諸田池バス停から西側へ入ると「諸田池」に出る。
県道は諸田を過ぎると亀徳港に着き、夕方発のフェリー波之上により私は鹿児島新港へ戻った。
諸田池 しょだ
(大島)徳之島町(徳之島) 溜池 寛文10(1670) 町史跡 WEB(みさき道人) /WEB 現在、南西糖業・徳和瀬工場の冷却用水施設/製糖期が終わると水が抜かれる/堰堤部C補強 薩摩藩の新田開発奨励策により、代官・伊地知筑右衛門が築造/嘉永4年(1851)、代官所の命で井之川の役人達が自費で池を掘り直したとの記録あり 3 C
徳之島町HPによる説明は、次のとおり。
諸田池 史跡区分 史跡 所在集落 徳之島町諸田
諸田池は薩摩藩の新田開発奨励策にのっとって、寛文10年(1670)代官 伊地知 筑右衛門(いじち ちくえもん)の時に竣工しました。道の島(大島郡)で最初に施行された大事業でした。水面面積3町8反余(約3.7ヘクタール)の広さもあり、この貯水によって40町歩の田地が開発され、併せて諸田村に観音堂が初めて建てられました。これを機に藩の指導の下、島内全域で新田開発等が進められ、同時に農民の監視・指導にあたる横目といわれる島役人も配置されるようになります。また、1690年には沖永良部島にも新たに代官を置くなど、この頃から薩摩藩による離島支配の体制が徐々に変わっていきました。諸田池横のシキントウ墓に葬られている文書奉行 伊地知 重張(いじち しげはる。1692年死去)らによる系図や古史料調査・収集が始まったのもこのすぐ後のことでした。なお諸田池は周辺から土砂が流れ込み、貯水量が減ったことから、嘉永4年(1851)、代官所の命により井之川の役人たちが自費で池を掘り直したとの記録もあります。
現在、南西糖業徳和瀬(とくわせ)工場の冷却用水施設として使用される諸田池は、製糖期が終わると水が抜かれ、渡り鳥たちの格好の餌場となる浅瀬が広がるため、野鳥観察の場としても知られています。
古源泉(ふるげんごーいじゅん) 天城町松原
サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。徳之島平土野港から県道
83、80、629号を直進して北上。天城町松原漁港近くの港橋まで行くと、橋脇に「松原神社 ふるげんごーいじゅん 約100m先左折」の案内板があり、松原神社まで標識に従い進む。
神社境内に、「古源泉の由緒」を書いた銘板が立つ。「古源泉」とは神社後ろ側の町道沿いにあり、泉の形から「子宝泉」とされているものである。
古源泉 ふるげんごー、いじゅん
(大島)天城町(徳之島) 松原 湧水 古代 WEB(みさき道人)/現地解説板 保存状態良好/現役 航海安全の守り神として代々受け継がれてきた「神の泉」で、遣唐使への水の供給にも使われた 1 B
当部のオキナワウラジロガシ 天城町当部
天城町発行ガイドブックによる説明は、次のとおり。徳之島平土野港から県道83号を南下。瀬滝から三京ダムの方へ左折、ダム大橋手前から天城町当部へ入ると、集落奥の駐車場先に「東又泉」がある。「東又泉」の少し手前入口に「日本一大きな実のなる オキナワウラジロガシ ←」案内板があり、谷奥の水場上に生えていた。
オキナワウラジロガシ
山深い森に生えることが多いのですが、当部では民家の奥に自生しています。板根が発達し、堂々とした風格があります。秋には日本最大級のドングリがたくさん実り他の地域のものとくらべると、特に丸みが強く愛らしい形をしています。
東又泉(あがりまたいじゅん) 天城町当部
サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。徳之島平土野港から県道83号を南下。瀬滝から三京ダムの方へ左折、ダム大橋手前から天城町当部へ入ると、案内板があり、集落奥の駐車場先に「東又泉」がある。
東又泉 あがりまた、いじゅん
(大島)天城町(徳之島) 当部 湧水 江戸期 WEB(みさき道人)/現地解説板 コンクリート化/現役 徳之島内随一の湧水/薩摩藩亀津代官所の代官がわざわざこの水を取り寄せ美味に感心したとの伝承→「代官水」との別称 2 B
天城町HPによる説明は、次のとおり。
18.東又泉(当部)
アガリマタイジュン(東又泉)は,島内随一の湧き水であり,昔から村人の飲料水は勿論のこと生活用水として重宝がられてきました。因みにその名水の知名度は,薩摩藩当時の亀津代官所にまで知れわたり,その部下のものを遣わしてこの水を取り寄せて試飲し,その美味のとりこになったとの言い伝えがあり,このことから別名代官水とも呼ばれている。