長崎の石・岩・石造物 (県南北)」カテゴリーアーカイブ

浦郷のともづな石  時津町浦郷 ( 長崎県 )

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浦郷のともづな石  時津町浦郷

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。国道206号時津町役場入口の次の交差点から時津中通りへ入る。中通りの突き当たりに八幡神社はある。神社の後ろ側が中央公園。

浦郷のともづな石 うらごう
(西彼杵)時津町 八幡神社・前 舟繋石 文政年間(1818-30)以前 WEB(みさき道人) 移設(もと、中通り)(昭和
60)現在の中通りの辺りが波止場だった時代(文政年間)に舟繋石として使われていた 2 C

本ブログ次を参照。 時津のともづな石  西彼杵郡時津町浦郷
https://misakimichi.com/archives/447

島原市指定有形文化財「礫石原環状石組遺構」  島原市礫石原町

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島原市指定有形文化財「礫石原環状石組遺構」  島原市礫石原町

国見百花台公園から島原市千本木へ行く途中、島原市礫石原町にある「礫石原環状石組遺構」。島原市指定有形文化財(考古資料)で、昭和59年1月10日指定。現地説明板は次のとおり。

礫石原(くれいばる)環状石組遺構

礫石原は三会扇状台地の最西部に当り標高270mに及ぶゆるい傾斜台地であります。この地一帯は藩政時代には砲術訓練の着弾地であり、明治維ごろはは禄を離れた藩士たちの牧場となっていました。
第二次世界大戦後間もなく未耕地約70haが開拓地に指定され、昭和21年(1946)入植がはじまり開拓が開始されるとともに各所で多量の遺物が出土し縄文晩期の重要な遺跡であることが明らかになりました。出土品は農耕生産の要素をもつ資料として注目すべきものであります。
この石組遺構は当時の埋葬施設の中心をなすものと考えられ附近からは合せ甕棺4基のほか焼灰の集積、集石墓10基の存在が確認されており、埋葬祭祀共同体を構成する重要な遺構であります。                       島原市教育委員会

猿岩・鉈岩などの奇岩  東彼杵郡波佐見町金屋郷・鬼木郷

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猿岩・鉈岩などの奇岩  東彼杵郡波佐見町金屋郷・鬼木郷

東彼杵郡の虚空蔵山(標高608.5m)山系。波佐見町側の金屋郷と鬼木郷奥の山に猿岩・鉈岩などの奇岩がある。
波佐見町「はさみ100選 ガイドブック」1987年刊13頁による説明は次のとおり。

猿岩・鉈岩の奇岩(金屋郷・鬼木郷)

波佐見町の南の山々は、虚空蔵火山の裾野にあたります。この火山は陶石・金鉱石・オパールの恵みを与え、猿岩・鉈岩などの奇岩景勝ともなりました。噴火による山体ができた後、何万年もの長い間に雨水に削られ(侵食)、永尾・中尾・鬼木・金屋・川内などの谷ができました。運ばれた土は波佐見田原となったのです。堅い岩だけが残って、猿岩・鉈岩となり虚空蔵山頂となって、そびえています。 

写真  1〜  3  猿  岩 (金屋郷)
県道1号線波佐見の舞相交差点から右へ入る。金屋神社の大鳥居が入口に立ち、谷間上まで車道を3kmつめる。高台に金屋神社があり、駐車場から眺めると右上に大きな猿岩が見える。猿岩の真ん中に穴があり、この穴に猿が住んでいたとか…の話がある。
次HPを参照。登路案内あり。 http://hasamiooen.fc2web.com/hasami-kanaya.html

写真  4〜  7  坊主岩?(鬼木郷)
金屋神社前の金屋林道を左へ進むと、鬼木棚田上の「鬼木清流水」の水場へ着く。林道は山腹をまだ横に鬼木林道として続き、鬼木川の上流左尾根上にこの岩が見える。
ガイドブックに説明がないが、目立つ岩。岩名は不明。地元で”ゲッカ??”何とか言っていた。他のHPで「坊主岩」が表われるので、この岩ではないだろうか。鬼木集落からも望める。

写真  8〜 10  鉈  岩 (鬼木郷)
鬼木林道は中尾郷上の道路案内標識がある三叉路へ出る。広域基幹林道虚空蔵山線とここで合流する。鉈の形をした鉈岩は先の坊主岩?の奥の尾根にあり、三叉路先のアンテナ付近から振り返らないと見えない。

小浜の「鬼石」  雲仙市小浜町北野

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小浜の「鬼石」  雲仙市小浜町北野

雲仙山麓の小浜町にある巨石「鬼石」。国道251号線の坂道が小浜へ下ったすぐの交差点から左折して、奥の山領まで行く。集落入口に「鬼石」の案内標識があり、右へ曲り長崎県立小浜高校の裏通りの方へ下って行くと、すぐ右手にある。
現地説明板は次のとおり。
鬼    石

この石は、島原半島随一の巨石と言われ、長さ12m、巾11m、厚さ6m。表面は平坦で、その面積は61㎡。そこには四体の地蔵尊が安置してある。この石にまつわる伝説は、例えば鬼が仏罰をうけて大きな石をもたされ、雲仙登山をしていたが、あまりの重たさに耐えかね捨てたものであるとか、この石のまわりを3回まわれば鬼が出るなどいろいろあるが、事実は雲仙火山大爆発の際、転げ落ちた石ということである。里人は、この石には霊魂がやどっているとのいい伝えから、この石を石材にしょうとする者はなかった。
観音菩薩像は昭和52年11月篤志者により建立されました。

すだらの森「おたちね観音」の標石  諌早市高来町小峰

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すだらの森「おたちね観音」の標石  諌早市高来町小峰

国道207号線によりJR肥前長田駅近く長田交差点まで行く。白木峰高原への案内標識があり、右折して五家原岳の中腹まで登る。
白木峰高原、国立諫早少年自然の家を過ぎると、広域基幹林道「多良岳横断線」と交差するので、右折して基幹林道へ入る。

五家原岳中腹を巻きながら約15分ほど行く。広い駐車場と橋があり、この上一帯が多良岳「修多羅(すだら)の森」で、案内板がある。仰ぎ見ると五家原岳のアンテナ塔が見える。小江川の上流となる。
橋を渡った先に、基幹林道からすだらの森や水神池へ上がる分岐があり、東屋と小駐車場がある。大モミが、この林道入口の右手斜面にすぐ見える。

水神池への中ほどのカーブのところに、「おたちね観音」まで上がる林道があり、右へ行くと林道終点に「おたちね観音」が立つ。案内板拡大図とおりの場所である。
ここの観音標石は珍しい。2体は道標として立っている。「右小江村」「左太良嶽」など刻み、建立者名もあり、明治時代の標石と思われる。
「左太良嶽」とは、中岳と多良岳の縦走路鞍部に出る道。ここから多良岳山頂が望める。

この標石は以前、先輩松林氏から聞き、2007年8月にすでに「五家原岳石楠花尾根の地蔵標石」により記事にした。その時は刻面をよく写してなかった。
大モミを今回写しに行き、改めて「おたちね観音」の標石も、刻面を撮ってきた。
なお、最初の写真は、国立諫早少年自然の家上の広域基幹林道「多良岳横断線」交差点に立つ標石。 これも「右たらみち」と刻む。

サンドパイプ(巣穴の化石)   佐世保市小佐々町

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サンドパイプ(巣穴の化石)   佐世保市小佐々町

サンドパイプ(巣穴の化石)が、佐世保市小佐々町楠泊の山中、道路沿い崖面に見られる。楠泊橋手前から冷水岳公園へ登山道路があり、その途中にある。
小佐々町指定文化財。現地説明板は次のとおり。

小佐々町指定文化財(第7号)  サンドパイプ(巣穴の化石)

この地層の断面をよく見ると、上から下に細長いパイプのようなものが入っており、その中には色の違った砂がつまっている。これは、カニ、アナジャコ、スゴガイなど、大昔の巣穴で、「生痕の化石」とも呼ばれている。
町中で、ここが一番広い範囲で、しかも立派に残っており、地質学上貴重なものである。
平成四年十月一日  小佐々町教育委員会

橋川内洞窟  佐世保市吉井町橋川内

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橋川内洞窟  佐世保市吉井町橋川内

吉井町中心部から佐々川本流に沿う世知原町への県道54号線により行く。橋本工業団地先に「橋川内洞穴」の案内標識があり、右折してサイクリング道路を越し少し上って行く。
植林地のカーブの所が橋川内洞穴の入口で、案内標識がある。植林の奥に洞穴が見え、歩いてすぐである。
吉井町「吉井町ふるさとガイドブック YOSHII−BOOK」平成6年刊4頁の説明は次のとおり。

橋川内洞窟 (町指定史跡)

橋川内洞窟の発掘調査は、昭和45年3月15日から10日間、町・県文化課・長崎大学により行われました。
調査の結果、最下層から出土した貝類は、カワニナ・イシマキガイ(淡水)・ツクシマイマイ・ナミギセル(陸)等で、縄文時代早期にはこの遺跡周辺は海の影響は受けておらず、海侵がなかったと思われます。
上層部にいくにつれ海水性のハイガイ・ハマグリ・アサリなどの貝類が見つかり、岩礁性の貝よりも泥底もしくは砂泥底に住む貝が多く、当時の海岸は河川の流出地形であったことが考えられます。
これらのことから、九州における海侵のピークを決定する重要な遺跡として、今後の緻密な調査が待たれます。

岩下洞穴  佐世保市松瀬町

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岩下洞穴  佐世保市松瀬町

長崎県指定史跡「岩下洞穴」は、佐世保市松瀬町にある。世知原町へ行くためたまたま通りかかり、寄ってみた。
国道204号線瀬戸越交差点の次となる田原町交差点から世知原町へ行く県道151号線へ入る。松浦鉄道左石駅の右高架と大野中学校など過ぎ、松瀬町簡易郵便局の先まで上って行くと、「岩下洞穴」の案内標識がある。右の細道へ下って行くと洞穴がある。
佐世保市教育研究会平成16年編HP「佐世保の歴史を調べよう」による説明は次のとおり。

岩 下 洞 穴 (いわしたどうけつ)

ここは昭和39年(1964年)佐世保市立大野中学校の生徒が発見しました。そして調査をした結果,以下のような物が見つかりました。
人骨(じんこつ)〔人の骨〕29体
土器,石器(石で作った器具),骨角器(骨で作った器具)
鳥や魚や獣の骨
炉(床の一部を切り開けて箱形にして,暖をとったり,煮炊きをしたりした所)の跡

これらによってここが縄文時代の早い時(約8000年前)から古墳時代(1700年前)までの長い時代にわたって生活の場として利用されていたことがわかりました。米作りだけに頼る必要がないほど,自然の幸(さち)に恵まれていたことがわかります。
では,どのような食べ物があったのでしょうか。

数多くのやじりや,やりが発見され,同時にたくさんの種類の動物の骨が見つかりました。イノシシやニホンジカ,アナグマ,ノウサギ,タヌキ,ニホンザル,ワシタカの一種,ヤマドリの一種などを食べていたのでしょう。また,カワニナや,ヤマトシジミ,ヤマタニシなどの貝類も見つかっています。近くの大野川から捕ってきたのでしょう。

狩りの道具以外では,石皿やスリ石も多く見つかりました。これは木の実を砕いたりすりつぶしたりしたことが予想されます。クリ,マテ,シイ,ドングリなどです。これ以外にも果物,山菜,木の実も食べていたようです。近くの森からとれたのでしょう。
また,海にいる貝や魚の骨も発見されました。これは,海の近くに住む人との交流があったことが予想されます。

写真をさつえいしたのは,8月のとても暑い日でしたが,岩のすきまからはとても冷たい空気が流れ出てきていました。昔の人にとってもここは,夏すずしく,冬暖かいところで,住みやすい場所だったのでしょうね。
発掘された人骨は長崎大学に保管(ほかん)されていて,石器などの遺物は佐世保市博物館島瀬美術センターに保管されています。ここは,長崎県指定の史跡になっています。

岩下洞穴(いわしたどうけつ)<行き方>
MR左石から,知見寺方向へ徒歩40分。もしくは,知見寺行きバスに乗り,天の久保バス停下車。徒歩5分。

福井洞窟  佐世保市吉井町福井

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福井洞窟  佐世保市吉井町福井

吉井町中心部から福井川に沿う松浦市への県道40号線へ入る。吉井北小学校を過ぎると福井町となり、すぐ県道の右脇に「史跡 国指定福井洞穴」の標柱がある。
神社の社殿裏手が福井洞穴である。
吉井町「吉井町ふるさとガイドブック YOSHII−BOOK」平成6年刊2〜3頁の説明は次のとおり。
福 井 洞 窟(国指定史跡)

この洞窟は、洪積世(約3万年前)から沖積世(現世)にかけて、人類が居住地として利用した遺跡です。昭和11年、社殿改築のとき洞窟床面が約1m掘削され、土器、石器、人骨等が発見されました。
その後、町の郷土史家、故 松瀬順一氏が学会に報告し、昭和35年から3次にわたり日本考古学協会西九州調査団による調査が行われた結果、深さ約6m、16層に分かれた地層から、3万年以上前の先史遺跡が確認されました。
昭和48年に佐世保市の泉福寺洞窟から豆粒文土器が出土するまでは日本最古(縄文早期約1万2千年前)の土器であった隆起線文土器が、細石刃とともにこの洞窟の3層から発見されました。
また、13層からは世界最古の石器が発見されるなど、旧石器時代から縄文時代にかけての遺物が層位的に出土しています。

泉福寺洞穴  佐世保市瀬戸越1丁目

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泉福寺洞穴  佐世保市瀬戸越1丁目

国指定史跡「泉福寺洞穴」は、佐世保市瀬戸越1丁目にある。柚木町へ行くためたまたま通りかかり、寄ってみた。
国道204号線瀬戸越交差点から柚木町・伊万里方面の国道498号線へ右折。松浦鉄道の泉福寺駅近くの踏切を渡ると佐世保工業高校前となる。右方に案内標識があり、右折し標識の道順により進む。駐車場はない。
佐世保市教育研究会平成16年編HP「佐世保の歴史を調べよう」による説明は次のとおり。

泉福寺洞穴遺跡

泉福寺洞穴は,1970年に大野中学校の生徒によって発見されました。相浦川の浸食か風化によってつくられたといわれ,大きな4つの洞穴から成り立っています。奥行約5m,夏は涼しく冬暖かな洞穴は大昔の人たちにとって最高の住居だったようです。
その後,1970年7月から10年間にわたって発掘調査されました。その結果,次のようなことが分かりました。

この洞穴は,後期旧石器時代から歴史時代に至るまで断続的に利用された洞穴遺跡。特に細石器に伴って,日本最古の縄文土器である豆粒文(とうりゅうもん)土器を出土し一躍有名になった。科学的年代測定によると,少なくとも12000年前の土器と推定され,現在なお世界のいずれの土器発生年代よりも古いために,縄文土器はおそらくこの土地で作り始められたものと思われ注目されています。

標高90mのアルコース砂岩の岸壁にあるこの遺跡は,風化作用によってできた四個の小洞穴が,大きな一つの岩壁に寄り添うように形づくられ,北風をさえぎり日当たりのよい南向きの斜面にあります。この自然洞穴は,洞穴特有の現象である年間の温度変化の少なさが住みよい居住性を与えたため,石器時代人よりたびたび使用されました。
洞穴の前は急な斜面で谷底の泉まで続き,小高い裏山を登れば相浦川などのながめがよく,生活環境は抜群の場所でした。