長崎の西の空の夕日 その4
長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電線は邪魔。以下続く。
写真 1〜2 平成20年 3月 4日の18時 5分頃
写真 3〜4 平成20年 3月17日の18時25分頃
写真 5〜8 平成20年 3月30日の18時05分〜35分頃
長崎の西の空の夕日 その4
長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電線は邪魔。以下続く。
写真 1〜2 平成20年 3月 4日の18時 5分頃
写真 3〜4 平成20年 3月17日の18時25分頃
写真 5〜8 平成20年 3月30日の18時05分〜35分頃
嬉野市嬉野町に残るアーチ石橋 嬉野市嬉野町
佐賀県嬉野市嬉野町に残るアーチ石橋は、5橋である。同市になった塩田町にも2橋あるが、後日訪ねたい。湯野田橋は、昔の銘柱が2本、脇に保存されている。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」には佐賀県のもあり、説明は次のとおり。
写真 1 第 97 番 湯 野 田 橋 嬉野町湯野田
明治22(1888)年 長さ 約22.0m 幅員 約7.5m
温泉街の入口、国道34号線の湯野田バス停横に架かる。
ばってん亀さんにご自身の故郷の石橋を教えていただいた。感謝!
写真 2 第 98 番 湯野田無名橋 嬉野町湯野田
年代は不明 長さ 約 8.0m 幅員 約3.5m
湯野田橋の上流にかかる。
橋の名前が判らなかったから「無名橋」としてあるが、本来はこの橋の架かる道が長崎街道。こちらのほうが「湯野田橋」であったろうと思われるが、下流に湯野田橋があるので致し方ない。
ばってん亀さんにご自身の故郷の石橋を教えていただいた。感謝!
写真 3 第 111 番 皿屋谷の眼鏡橋 嬉野町上不動区皿屋谷
明治期 長さ 約 5.0m 幅員 約2.0m
天然記念物の大茶樹の手前。
不動山地区は切支丹の里とも、お茶の発祥の地としても有名だ。この地には4基の石橋があったが、この橋の下流にあった皿屋谷下石橋は、河川改修で撤去され、現在は3基が残っている。
写真 4 第 112 番 天満宮前の眼鏡橋 嬉野町上不動区皿屋谷
明治期 長さ 9.0m 幅員 1.0m
天満宮の前に架かる。
不動山地区は切支丹の里とも、お茶の発祥の地としても有名だ大茶樹には行かずに左手の登山道に向かう途中の左手。この地には4基の石橋があったが、現在は3基が残っている。
写真 5 第 113 番 井 手 元 橋 嬉野町上不動区
昭和32年4月 長さ 約 5.0m 幅員 約3.0m
元は木橋であったが、水害で流れて天神様の石橋に木橋の残骸が溜り水害の規模を大きくしたとのお話を茶畑のご主人から伺った。すぐ下流の天神様の石橋の姿に愛着を感じているようだった。
武雄市(山内町)に残るアーチ石橋 武雄市山内町
佐賀県武雄市に残るアーチ石橋は、4橋である。いずれも山内町にある。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」の中に佐賀県のもあり、説明は次のとおり。
写真 1 第 114 番 宿 田 橋 武雄市山内町大字宮野
大正14年3月 長さ 18.0m 幅員 3.8m
町指定文化財
国道34号線から、相知への県道を走って右手に見える。地元の石工、山口龍三・文蔵親子及び大工山口竹作等によって建造されたと云う。
写真 2 第 180 番 鳥海の六地蔵橋 武雄市山内町大字鳥海の山内東小舟原分校の上流側に架かる。
明治期 長さ 4.2m 幅員 2.1m
県道から分校に入って右側の上流に向かうとすぐ。左上手には観音様と六地蔵が迎えてくれる。
大変立派な祠であるが、波佐見の皿山大神宮にも佐賀の名工、筒井関平作の祠が奉納されているように石材加工の名工が多かったことがしのばれる。右手に見えるのが文化6年(1,809年)作の六地蔵。
写真 3 第 181 番 黒髪神社の御神橋 武雄市山内町大字宮野の黒髪神社境内
未確認(そんなに時代の有る物だとは思えない) 長さ 4.2m 幅員 3.6m
なかなか良い感じの御神橋
二の鳥居は、肥前の鳥居と呼ばれる特徴を持っている。文化財の指定を受けているようだが、佐賀は肥前の鳥居の本家本元。佐賀県内には多くの肥前の鳥居が存在する。
写真 4 第 178 番 狩立の大切踏切近くの石橋? 武雄市山内町大字宮野の大切踏切から佐世保寄りに25mほど
年代は不詳 長さ 約2.5m 幅員 約2.7m
鉄道沿いの小川というか側溝に架かる。形状は紛れもなく石造アーチ橋なんですが、頂部に構造物が在るし、近くの人に聞いても、ここに踏み切りか何か有って渡っていたとの話は聞けない。
笹や雑草を刈ると良いのだろうが、刈ってしまうと楽に軌道敷き内に入れるから、子供なんかには危険だろうか?気になって仕方ないのでアップしてみることにした。
近くには昭和30年ごろ架橋の狩立鉄道橋梁が佐賀よりにある。
さが名木100選 25 黒尾のイチョウとケヤキ 武雄市朝日町大字中野
国道34号線白岩球場入口交差点から左折。武雄市総合庁舎前を通りJR佐世保線のガード下をくぐり、水源地前から右折し伊万里へ行く県道270号線に入る。川古の大楠へ行く途中となる。朝日町中野で県道498号線と合う手前左手に朝日第2保育園があり、この奥に黒尾神社がある。
神社入口にイチョウがあり、イチョウはさが名木100選の木である。参道を上がって境内右側にケヤキの大木がある。
佐賀県同パンフレットによる説明は次のとおり。
25 黒尾の大銀杏
・所 在 地 武雄市朝日町大字中野6741
・推定樹齢 500年
・大 き さ 樹高 25m 幹回り 9m 枝張り 16m
・登録番号 06074
このイチョウが祀られている黒尾明神神社の創祀は、建仁2年と言われ、武雄では武雄神社に次ぐ古い神社である。元来この銀杏は、2本の幹であったのが、1本は根元より切り取られ、その後から数本の若枝が出ており、樹勢は雌木で極めて盛んである。
市天然記念物(昭和49年4月15日)
なお、鶴氏HP「妖樹の森」リストの中の説明は次のとおり。
黒尾の大銀杏
所在地 佐賀県武雄市朝日町大字中野6741、黒尾神社
樹 齢 500年 樹 高 25m 幹回り 9m 根周り 15m 枝張り 20×18m
武雄市指定天然記念物 さが名木百選
武雄温泉の北方3kmほどのところに「黒尾大明神」という古い神社がありますが、その鳥居のそばには「黒尾の大銀杏」と呼ばれる、恐龍のような姿の銀杏が立っています。
イチョウは、根元から大小二本の幹が、互いに引き裂かれたような形をしています。東側の幹は巨幹で東の方へほぼ45度斜め方向に、うねるように伸びていますが、西側の幹は、裂けた根元から垂直に立ち上がっています。
これは、元々は根元から二本の幹が分岐して成育していたものが、いつの頃か、西側の幹が根元から切り取られたため、その後そこから芽生えたヒコバエが成長して、今の様な姿になったものです。
秋の黄葉の頃には、恐竜が黄色い羽を広げて今にも飛び立とうとしているようにも見え、なかなかユニークな姿のイチョウです。
黒尾大明神の「ケヤキ」」
所在地 佐賀県武雄市朝日町大字中野、黒尾神社
樹 齢 210年 樹 高 25m 幹回り 4.7m 枝張り 25m
佐賀県名木古木
武雄市から伊万里へ向かう国道498号線を走っていると、朝日町中野の黒尾山の山腹に、一際目を惹く巨木が立っています。 それがこの黒尾大明神の「ケヤキ」で、黒尾大明神を祀る黒尾神社の境内に聳えています。
ケヤキは、地上7〜8m付近から放射状に6本程に分岐、ケヤキ特有の逆さ箒の優美な姿で伸びあがっています。黒尾神社の境内は、黒尾山の山腹高台にあるため、遠方から
もこのケヤキの雄姿を眺めることができ、葉が色づく晩秋には一層その存在感が高まります。
なお、黒尾神社の入り口には「黒尾の大銀杏」がユニークな姿を見せています。
さが名木100選 99 嬉野のチャノキ 嬉野市嬉野町大字不動山
国道34号線嬉野市街入口から虚空蔵山の登山口となる皿屋谷へ県道106号線により入る。上不動で千室橋を渡って皿屋谷へ左折する。皿屋谷に大茶樹入口バス停があり、登山口は左へ行くが、車道をまっすぐ進むと、大茶樹のある入口に着く。
佐賀県同パンフレットによる説明は次のとおり。
99 嬉野の大茶樹(チャノキ)
・所 在 地 嬉野町不動山上不動
・推定樹齢 340年
・大 き さ 樹高 4m 枝張り 8m
・登録番号 49647
嬉野茶の茶祖として崇められている吉村新兵衛が、江戸時代、皿屋谷一円に茶を栽培し、その中の一本が現在の大茶樹と伝えられている。
また、大茶樹の茶葉を献上茶として精製し、天皇陛下に飲用に供したこともある。
国天然記念物(大正15年10月20日指定)
なお、現地説明板は次のとおり。
国指定天然記念物 嬉野の大茶樹 指定日 大正十五年十月二十日
茶はつばき科に属する常緑の灌木で製茶飲用として広く栽培されている。年月の経過した茶には十月頃に白色五弁の花を咲かせその果実に通常三個の種子をもつ。
この嬉野の大茶樹は元来は一本で樹高約四m、枝張約十二mを測り樹齢は約三四〇年を推定され茶の代表的巨樹として歴史的学術的に評価の高いものである。
この皿屋谷地区には嬉野茶の祖として吉村新兵衛が祭られている。吉村新兵衛は役目のため肥前白石郷(現白石町)からこの地に移住し、慶安年間に往来札に関して法度に触れ、切腹と決められたが、先代の武功により助命され、その後茶の栽培に尽力し、嬉野茶を創始したとされている。
吉村新兵衛は藩主鍋島勝茂が逝去したおり(一六五七)に白石の居宅にて殉死を遂げている。
この大茶樹は、この頃に植栽されたもののひとつであると伝えられている。
嬉野町教育委員会
千室神社のクスノキ 嬉野市嬉野町大字不動山
嬉野市街入口から虚空蔵山の登山口となる皿屋谷へ県道106号線により入る。上不動で千室橋を渡って皿屋谷へは左折するが、千室神社はこの橋の右正面にある。
現地説明板は次のとおり。
町指定天然記念物 千室神社のクスノキ 指定日 平成二年九月一日
樹 種 クス(クスノキ) 漢 名 樟
樹 齢 八〇〇年 高 さ 二〇米 幹 廻 六・九米 枝 張 二四米
昭和五十一年三月県の銘木として指定を受けた。クスは関東以西から九州および中国などに分布する常緑高木で、全体に芳香があり、枝は種々の器具を作り、また樟脳を採り薬用とする。
所有者 嬉野町上不動区 千室神社
千室神社の由緒など不明であるが、嬉野・吉田郷土誌には弘治元年(一五五五)の建立であると記されている。また「神社台帳」によれば、祭神は大国主大神と記してある。
嬉野町教育委員会
俵坂関所跡の藩境石 佐賀県嬉野市嬉野町大字不動山
長崎・佐賀県境、国道34号線俵坂峠手前切り通し右上へ移設されている長崎県側の折れた「従是大村領」の藩境標石は、次の項で紹介している。
https://misakimichi.com/archives/705
これは峠を越えて嬉野町へ下る国道すぐ下の旧道「長崎街道 俵坂関所跡」に立つ「従是北佐嘉領」の藩境標石である。
関所跡の現地説明板は次のとおり。
長崎街道 俵坂関所跡
江戸時代、幕府の管轄を関所、藩の管轄を口留番所と呼び、正しくは俵坂口留番所である。戦国時代にすでに関所としての機能があったと伝えられるが、創設の時代は不明である。
江戸時代になると長崎街道として佐賀、大村両藩の藩境の要地となり、特にキリシタンの取締りが厳しかったといわれる。敷地面積二百余坪、建物は間口四間(七.二m)奥行七間(三.六m)の構えで、侍一名、足軽九名が監視にあたり、通路には門札が建てられ、その両脇には竹の柵が巡らされていた。
大名行列御通行のおりには、番所役人が威儀を正して平伏し、送り迎えをしたといわれる。
明治維新を向かえ明治四年(一八七二)の廃藩置県によって廃止になった。
嬉野町教育委員会
今村川岸のハンノキ自生地 諌早市真崎本村名
西諫早中核工業団地入口から長崎日大高校の方へ左折し、三浦回りの県道37号線へ入る。津水大橋から今村川沿いを行くと今村橋があり、長工醤油先から小橋を渡り川の右岸土手道を進むと、すぐ右手の小さな谷間低地がこの木の自生地となっている。
水門がある広場まで進むと、有名な今村川岸の大村・諫早藩境標石が立つところである。
現地説明板は次のとおり。
ハンノキ自生地
北方性の落葉広葉樹で南西限とされた天然記念物です。昭和四十六年頃新聞に掲載されたため、文化財指定を嫌い地主により切り取られました。難をまぬがれたもの、新たに芽が出たものが十数本自生しています。
水質のある低地に生え、幹は高さ十五メートル、胸高直径六十センチメートルに達します。花は十一月から三月で新葉に先だって開き、落葉前に咲きます。
田の畦に植えて稲木にしますが、材は建築材具、家具に用い、樹皮からは染料、タンニンがとれます。
一九九九年三月 西部地区の環境と文化財を守る会
今村川岸の藩境石塚 大村市今村町
国道34号線西諫早の貝津町交差点から長崎日大高校の方へ左折し、三浦回りの県道37号線へ入る。津水大橋から今村川沿いを行くと今村橋があり、長工醤油先から小橋を渡り川の右岸土手道を進むと、水門がある広場にこの藩境標石が立つ。
現地説明板は次のとおり。塚は説明板上の高台にすぐ2基ほど見られる。
藩 境 石 塚
ここ今村川の川岸に立つ標柱には「従是(これより)東佐嘉領真嵜村 西大村領今村、此下江川(えごう)」と書かれています。これは藩政(江戸)時代の国境石柱で、ここを起点として藩境石塚が約三十メートルおきに点々と諫早・大村境を北上しています。
大村郷村記によると、享保十年(一七二五)に設置され、その数三百数十基、大村は丸塚、諫早は角塚を交互に築きました。大村藩・佐賀藩共に厳重に守って来たもので、修理の場合も両者役人立合いのもとに厳正に行いました。しかし戦後の開発、開拓によって、その多くは消失しています。当会のこれまでの調査では、六十基が西部丘陵で確認されていますが、今後、未踏査の区域の調査が進めばもっと増えるものと思われます。
藩境石塚は、その時代、命がけで護ってきた貴重な境界標柱であると共に、文献史料を伴う歴史遺産であり、大切に保存すべきものである。
讃州谷(説明は略)
一九九九年三月 西部地区の環境と文化財を守る会
長崎の春到来 桜の開花と国際観光船入港
平成20年3月24日、長崎海洋気象台は、長崎市でサクラが開花したと発表した。平年より1日早い開花宣言。今月末から4月初めにかけて、見ごろを迎える見込み。
松が枝国際観光埠頭には、オランダの大型客船 ”Statendam” が入港していた。
帰省した子が写しに行ったが、両方とも近くに寄れない。