長崎の風景・史跡 (県 北)」カテゴリーアーカイブ

西海国立公園 九十九島水族館 海きらら  佐世保市鹿子前町 ( 長崎県 )

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西海国立公園 九十九島水族館 海きらら  佐世保市鹿子前町

2016年7月29日(金)快晴。妻が夏休み中の孫娘を連れて、佐世保市鹿子前町の「西海国立公園 九十九島水族館 海きらら」へ。こども向け催しが多く、九十九島遊覧船には乗る時間がなかった。

元・耶良埼の遠見台  対馬市厳原町東里 ( 長崎県 )

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元・耶良埼の遠見台  対馬市厳原町東里

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによる説明は、次のとおり。厳原港の東端にあるのが耶良埼(屋良崎)。フェリーターミナル手前からいずはら病院の高台に上がると、病院奥から屋良崎灯台へ下る山道がある。「元・耶良埼の遠見台」とされる石組み(写真4〜7)は、灯台上部の山頂三角点手前にある。

元・耶良埼の遠見台 やらざき
対馬市 厳原港 石望楼(四角錐) 高3.5m,頂辺1.9m,底辺3m 江戸末期? WEB/市教委 耶良埼山頂付近にあったものを移設(復元の程度は良くない)/乗船客しか入れない 「灯台役人が見張りに使用していた望楼の土台石組跡」と推定されている/粗加工の石材を布積崩し風に積み上げる 3 C

後ろの写真は、厳原港二号岸壁(厳原港湾合同庁舎裏。現在はジェットホイル乗船場内となっている)に移設された旧耶良崎灯明台(写真9〜13)と、厳原市街八幡神社境内にある春日灯籠(写真15〜17)

これら石組み、灯明台などの詳しい推察は、対馬海上保安部HPの次を参照。
・「耶良埼灯台・古代のロマン〜その1」
http://www.kaiho.mlit.go.jp/07kanku/tsushima/toudai/yara1/yomo3.html
・「耶良埼灯台・古代のロマン〜その2」 対馬藩設置の耶良埼灯明台について
http://www.kaiho.mlit.go.jp/07kanku/tsushima/toudai/yara2/yomo4.html
・「耶良埼灯台・古代のロマン〜その3」 対馬藩設置の灯明台は、寛永年代に設置されたのか?
http://www.kaiho.mlit.go.jp/07kanku/tsushima/toudai/kodairoman3/kodairoman3.html
・「耶良埼灯台・古代のロマン〜その4」 耶良埼山頂付近の石組みは、何の跡か?
http://www.kaiho.mlit.go.jp/07kanku/tsushima/toudai/yomoyama6/yomoyama6.html
・「耶良埼灯台・古代のロマン〜その6」 幻の古絵地図から
http://www.kaiho.mlit.go.jp/07kanku/tsushima/toudai/yomoyama8/yomoyama8.html

阿須川の開削と桟原城跡  対馬市厳原町桟原 ( 長崎県 )

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阿須川の開削と桟原城跡  対馬市厳原町桟原

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによる説明は、次のとおり。厳原市街から国道382号を厳原中学校まで北上。この一帯が桟原で、現在桟原城(桟原屋形)跡には陸上自衛隊対馬駐屯地が置かれている。
「阿須川の開削」とは、尾根の鞍部を掘り割って人口の川を通し、桟原屋形の濠となったというから、阿須川のこのあたりの話だろう。川面には降りられなかったので、桟原トンネル手前の橋上から写した。

阿須川の開削 あずがわ
対馬市 阿須川 付替え 万治2(1659) WEB/市教委 一部C護岸 対馬藩「中興の英主」と言われる第3代藩主(第21代宗氏当主)宗 義真が行った大事業の1つ/府中(現厳原)を水害から防ぐ目的で、府中の北にある振袖山から東の後山に連なる丘陵の鞍部を開削し、阿須川を新たに開削した 2 B

平成9年発行「厳原町誌」106頁の記録は、次のとおり。

阿 須 川
厳原の北西砥石淵から東に流れ、阿須湾に注ぐ川をいう。これは近世、寛文から延宝の間(およそ320年前)、桟原屋形(府中城)の築城に際し、袖振山から後山に続いていた尾根の鞍部を掘り割って、人口の川を通したもので、上流の知首川と砥石淵川が合流した水勢を、阿須湾に放水したわけである。
これは桟原屋形の濠であることはいうまでもなく、それに府中の水害を解消する機能があった。

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

桟原城

桟原城(さじきはらじょう)または桟原屋形(さじきばるやかた)は、長崎県対馬市厳原町桟原にあった城郭で、対馬府中藩3代藩主宗義真が金石城を拡張整備したのと同時期に新築された藩主の屋形。金石城からは市街をはさんで北東隣に位置する。

概要
万治3年(1660年)3月に着工し、延宝6年(1678年)に完成した。金石城に代わって新しく府城となった。対州府城または府中城とも称した。明治2年(1869年)に対馬府中を厳原と改称してからは厳原城(いずはらじょう)とも呼称する。現在城跡には陸上自衛隊対馬駐屯地が置かれている。
対馬府中の整備
着工と同時に府中城下町の町割と水利工事が行われている。1663年(寛文3年)には藩営ドックである「お船江」が完成し、1669年(寛文9年)には金石館に櫓門が築かれた。また、1685年(貞享2年)には桟原の南に子弟教育のための学校「小学校」が建てられた。厳原は、現在もこの時期の城下整備による街並みのようすをとどめている。
遺構
遺構としては、第三門であった高麗門が県立対馬歴史民俗資料館付近に復元されている(注 現在は厳原保育園の門柱に再移築されていた。写真13,14)。また、石垣の一部が現存しており、標柱(注 桟原屋形跡 写真2)で案内がなされている。

上見坂公園(上見坂堡塁)(2)  対馬市厳原町北里 ( 長崎県 )

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上見坂公園(上見坂堡塁)(2)  対馬市厳原町北里

長崎観光/旅行ポータルサイト「ながさき旅ネット」による説明は、次のとおり。厳原から国道382号線を北上、厳原中学校前を左折。県道44号線を進み上見坂公園入口を右折。厳原から10km、車で15分。

上見坂公園(上見坂堡塁)

厳原と美津島の町境にある標高358mの展望台です。展望台からは、日本の代表的な溺れ谷、入り江と島々が作り出す浅茅湾のリアス式海岸が箱庭のように眼下に広がります。遠く九州本土や韓国の山々が見えるのも国境の島ならではの眺望です。家族連れで楽しめる行楽地で、夏の夜は暗い海に漁火がきらめきファンタジックな景観は見事です。
遊歩道を奥まで歩くと、明治後期に築かれた砲座跡が姿を現します。口径15センチの火砲が4基据え付けられていましたが、実戦では一度も発射されることはありませんでした。

交通アクセス
対馬空港から車で約20分、厳原港から車で約15分

上見坂公園(上見坂堡塁)(1)  対馬市厳原町北里 ( 長崎県 )

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上見坂公園(上見坂堡塁)(1)  対馬市厳原町北里

長崎観光/旅行ポータルサイト「ながさき旅ネット」による説明は、次のとおり。厳原から国道382号線を北上、厳原中学校前を左折。県道44号線を進み上見坂公園入口を右折。厳原から10km、車で15分。

上見坂公園(上見坂堡塁)

厳原と美津島の町境にある標高358mの展望台です。展望台からは、日本の代表的な溺れ谷、入り江と島々が作り出す浅茅湾のリアス式海岸が箱庭のように眼下に広がります。遠く九州本土や韓国の山々が見えるのも国境の島ならではの眺望です。家族連れで楽しめる行楽地で、夏の夜は暗い海に漁火がきらめきファンタジックな景観は見事です。
遊歩道を奥まで歩くと、明治後期に築かれた砲座跡が姿を現します。口径15センチの火砲が4基据え付けられていましたが、実戦では一度も発射されることはありませんでした。

交通アクセス
対馬空港から車で約20分、厳原港から車で約15分

水崎遺跡  対馬市美津島町大字字仮宿 ( 長崎県 )

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水崎遺跡  対馬市美津島町大字字仮宿

長崎県教育庁学芸文化課HP「長崎県の遺跡大辞典」による説明は、次のとおり。県道24号により美津島町尾崎漁港へ向かう。漁港の先の方、大島の「都々地神社」が対岸となるあたりの畑地に遺跡説明板がある。 

遺跡名
水崎遺跡(みずさきいせき)

所在地 対馬市美津島町大字字仮宿
緯度 北緯34°18′59″ 経度 東経129°13′32″
標高 4m 地形 沖積地
種別 遺物包含地 時代 中世〜近世(12世紀〜17世紀前半)
資料所在地 対馬市教育委員会 指定状況 未指定
参考文献等 『水崎遺跡』 美津島町文化財調査報告書 第8集 1999
『水崎(仮宿)遺跡 』 美津島町文化財保護協会調査報告書 第1集 2001

遺跡・史跡の概略
遺跡は浅茅湾開口部付近の狭小な平坦地に位置する。町道拡幅に伴って1996年美津島町教育委員会によって調査された他、遺跡の重要性に鑑み2000年再度内容確認のための発掘調査が実施された。 当該地は15世紀前半頃、朝鮮王朝や琉球と交易を行っていた海商早田氏の拠点であったとされている。出土遺物は輸入陶磁器が主体を占め、中でも朝鮮王朝陶磁器が70%を占めている。また東南アジア産の陶磁器も5%を占め、琉球を通じて手に入れた状況が看取されている。
遺跡は14世紀後半から15世紀前半頃に一つのピ゜−クがあり、備前・信楽焼の甕の存在から15世紀から16世紀にも遺跡として継続し、以後17世紀前半頃まで連綿として継続している事が確認された。

主な遺構
掘立柱建物
主な遺物
1996年調査:国産陶器(備前・信楽)、中国産・朝鮮王朝陶磁器、ベトナム産陶磁器、石鍋:2000年調査:中国・朝鮮王朝・タイ・ベトナム陶磁器、メノウ製石帯、中国銭貨(含む大元通宝)

豊玉の猪垣  対馬市豊玉町横浦字白子ほか ( 長崎県 )

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豊玉の猪垣  対馬市豊玉町横浦字白子ほか

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。唐津から壱岐へ渡り、博多からの深夜便フェリーに乗り継ぎ対馬厳原港へ着いた。国道382号で万関橋を渡って北上。豊玉町横浦から塩浜の方へ向かうと山手鞍部に、「豊玉の猪垣」入口案内板がある。

豊玉の猪垣 とよたま、いがき
対馬市 横浦<長崎牧?> 野馬土手(石垣) 長145+96m,高1.1m 中世〜江戸期 県有形民俗 WEB/市教委 残存部の保存状態良好 対馬の農事業で有名な儒者・陶山訥庵の猪鹿追詰の際に築かれた石垣と伝承されてきた/近年の研究では、中世から近世元禄の頃まで設置されていた宗氏の馬牧場の一つ長崎牧の石垣であった可能性が指摘 2 B

HP「長崎県の文化財」による説明は、次のとおり。

豊玉の猪垣

有形民俗文化財(県指定) 
よみがな とよたまのいがき
指定年月日 1973年02月06日
所在地 対馬市豊玉町横浦字白子ほか

豊玉町塩浜の西南の尾根に,東西約240mにわたり,高さ1.1m,上幅0.6m,下幅1.2mの石垣が築いてある。対馬全島に類例がない。元禄の野猪狩りは,対馬藩政史上画期的な事業であったので,その遺構ともいう。ほかに山城説,斎垣(いがき)説もある。ただ西彼杵半島や五島各地に現存する猪垣に,構造がよく似ていること,ししがきは一般に鹿垣と書き,猪のみが対象でないことなど,村の共同防災用・狩猟用も加え,まだ考察の余地もある。

前平の鯨供養碑  平戸市的山大島 ( 長崎県 )

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前平の鯨供養碑  平戸市的山大島

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。的山大島(あづちおおしま)は、長崎県の平戸島の北方にある島。全島が長崎県平戸市に属する(2005年10月1日の現平戸市発足以前は北松浦郡大島村)。 通称で「大島」と呼ばれることも多い。
平戸島の平戸港や薄香港から平戸市営・美咲海送のフェリーが、的山大島の神浦(こうのうら)港と的山(あづち)港まで運航されている。一部の便は旧田平町の田平港(平戸口桟橋)にも寄港する。
画像提供は、平戸市教育教育委員会大島分室。

前平の鯨供養碑 まえひら
平戸市(的山大島) 真教寺 (鯨組井元氏の墓域) 石碑(駒型) 高122㎝,幅45㎝ 元禄5(1692) 市有形 市教委 /松崎憲三 原位置/中央で水平に折損→修復 (正面)「(梵字)鯨鯢三十三 死生」/西海捕鯨発祥の地とされる度島(旧・多久嶋)に近い的山大島に残る鯨供養碑/建立されている井元氏は寛文4(1664)〜享保(1726)の間捕鯨に携わった家系/捕鯨遺産 2 B

人柱観音供養塔  松浦市今福町東免 ( 長崎県 )

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人柱観音供養塔  松浦市今福町東免

松浦市HPの指定文化財一覧による説明は、次のとおり。観音堂場所は松浦鉄道今福駅近く、御厨・今福街道の「丹後橋」手前角である。松浦市史跡マップに追記した。
新田開発や人柱伝説は、「松浦市史」昭和50年発行の記録も載せる。新田石垣の遺構は現在では確認できない。海岸に捨て石が近年まで残っていたらしいが、護岸工事ですべて埋め立てられたと聞いた。

人柱観音供養塔  (ひとばしらかんのんくようとう)
市指定有形民俗文化財 平成21年9月30日指定
観音供養塔は砂岩製で、宝珠・笠・龕・中台・竿よりなっている。龕部は笠をはさんで上中下3段に別れ、各11体の観音像が刻まれている。供養塔の風化を防ぐため人柱地区の観音堂にて大切に保存されている。常時見学が可能である。
伝説によれば今から約300年前江戸時代の初め頃、当時は今福小学校の下からMR今福駅の奥まで海が入り込み潟となっていた。時の領主丹後守松浦信貞公はこの干潟を埋め立てて新田を造ろうと思われ、家臣の田代近松という人物にこの工事の監督をあたらせた。工事は海潮に侵され、幾度堤防を築いても崩壊し工事は頗る難工事で進捗しなかった。「堤防の崩れること数度、工事の完成しないのは海神が埋め立てを欲しないからであろう。だれか人身御供となり、海神に捧げれば堤防工事は完成するだろうと住民に相談したが互いに災厄を避けようとして誰一人申し出る者がいない。困った田代氏は、お互いに着けている袴に横ぶせをあてている者があればこの犠牲者と定めよう。」と提案し、住民も従った。袴を調べたところ横ぶせをあてたものは田代氏のみであり、田代氏は生きたるままの身体を白犬と共に堤防に埋められた。田代氏の人身御供の犠牲により堤防も完成し、埋め立て工事も竣工した。この埋め立ての犠牲となり、悲惨な最期をとげた田代氏及び白犬の霊を慰めんと、この観音供養塔を建ててその冥福を祈っている。

逃の浦の石塁(元寇防塁)  松浦市星鹿町岳崎免 ( 長崎県 )

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逃の浦の石塁(元寇防塁)  松浦市星鹿町岳崎免

現地説明板は、次のとおり。国道204号星鹿港入口に城山展望台への案内板がある。城山の麓、墓地の三叉路から左の海岸へ狭い車道を下る。

逃の浦の石塁(元寇防塁)
城山山麓の鷹島に面する汀線には、かつて、野面積みの石塁が約1kmにわたり延々と元寇の役当時のまま残されていました。しかし、昭和初期の台風で、星鹿浦防波堤決壊の時、修築材として沖の石を取ったので、石塁が大波に洗われ崩壊しました。原型をとどめているのはこの「逃の浦の石塁」だけとなりました。
海側は高さ2m・幅45〜50cm・内法高さ1m、総延長約300mの石塁で、その内側には幅5mの武者走りを思わせる平場があり、背後は崖がせまっています。
地元住民は、この石塁を夷狄から郷土を守るために、当時の領主・領民が共に血と汗を流して完成した「元寇防塁」として伝えています。
松浦市・松浦市教育委員会・松浦市観光協会