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朝日選書  84P写真  30 「亀山社中」の撮影場所と「興福寺」の位置

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朝日選書  84P写真  30 「亀山社中」の撮影場所と「興福寺」の位置

2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)の84P写真「30 立山の旧長崎奉行所と官立師範学校」(幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:6030 の作品)には、中央手前の風頭山中腹に明治初期の「亀山社中」と思われる建物が写っており、現在、話題となっている。

朝日新聞では、2009年12月11日付第1面の記事 ”これが「龍馬の商社」 明治初期の建物写真、初確認”に続き、12月23日付の長崎地域版に”「亀山社中」確認 沸く龍馬ファン”の記事が載った。この項は次を参照。
https://misakimichi.com/archives/2154
https://misakimichi.com/archives/2158
古写真に写った風頭山中腹の「亀山社中」と思われる建物には別に異論はない。
私が前の2記事により疑問にしているのは、この古写真を撮影した場所と解説図にある「興福寺」の位置である。

これまで撮影場所は、朝日選書も「聖福寺から」と解説していたので、納得していた。
しかし、12月23日付の新聞記事では「現在の長崎市玉園町の丘の中腹から撮影したとみられる。…写真の中から旧長崎奉行所の堀の位置や山の稜線を目印に撮影場所を特定した」と現地からの写真を掲載して変った。
はたしてそうだろうか。現在の地形図・現地写真及び諸資料により、私のヤボな推測を関係者の参考としてもらうため、少し補足して説明してみる。

国土地理院の詳細地形図は、前の記事の航空写真及び現地写真とともに見てもらいたい。古写真の撮影場所とするそれぞれの地点から中島川岸の桶屋町、大屋根の「光永寺」とその奥の「興福寺」を望んだ場合。玉園町の「聖福寺上手から」(開山老和尚塔所の入口あたり)が赤線、「玉園墓地から」(新聞掲載の玉園町の丘の中腹)が青線の向きとなる。

現地写真は、古写真との比較において必要な部分だけ拡大し、現在、ビルの間に見える寺名を入れた。「興福寺」は大棟中央上に「瓢瓶」(火災除けの意の瓢箪形まじない)があるので確認できる。背景の風頭山、彦山の姿などからも総合的に判断すると、古写真と比べ下段の「聖福寺上手から」の方が、現地写真は似ていることがわかるであろう。
朝日新書の写真下解説図にある「興福寺」の位置は、現在の「興福寺」左横の「浄安寺」を間違って解説していると思われる。「浄安寺」の左横は現在も二層屋根の特徴がある「三宝寺」である。撮影場所を「玉園墓地から」としたため、「興福寺」が古写真上の「浄安寺」の位置に来てる。

では、古写真において「興福寺」はどの建物だろうか。位置からすると手前大屋根の「光永寺」越しにすぐ左上に写った建物が「興福寺」の山門と思われる。山門は寺町通りの斜めに建っている。寺内奥の媽祖堂と大雄宝殿は、現在「聖福寺上手から」望むと、山門の一部とともに確認できる。「光永寺」は現在の「P 七福マンション」裏あたり。「興福寺」はちょうど「光永寺」右から中島川を一覧橋で渡った通りの突き当たり(寺町通りに出る)の場所にある。

しかし、「興福寺」の媽祖堂と大雄宝殿が、古写真上でなぜはっきり写らなかったのだろうか。前の記事では木の茂みの後ろだろうと説明した。「東明山興福寺」HPの縁起に、重要な昔の寺の様子を描いた絵図(年代不明)があった。大雄宝殿前の広場に当時は大松か大楠が5本立つ。寺町通り側にも桜らしい木が3本生えている。
「長崎墓所一覧 風頭山麓篇」(長崎文献社昭和57年刊)掲載俯瞰写真(長崎市提供写真と説明あり)でも、同広場と寺町通り側に木立があったことが確認できる。

古写真で「興福寺」の位置がわかりにくく、古写真の撮影場所をはっきり特定できないのは、中島川岸の「光永寺」が高いマンションやビルに囲まれ、まったく見えないためである。それなら寺町の「興福寺墓地」へ出かけてみよう。
興福寺の大雄宝殿大棟の「瓢瓶」後ろは、現在「長崎女子商業高校学生寮」テニスコートとなっている。絵図によるとこの場所も昔は興福寺の寺域で、寺の付属建物が描かれている。古写真の撮影場所を逆の方向から見た場合の景色が広がる。「光永寺」の屋根の形が山門入口の方向から確認できる。その先にあるのは玉園町の「聖福寺」だろう。

龍馬動く?  長崎歴史文化博物館に像展示

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龍馬動く?  長崎歴史文化博物館に像展示

長崎市風頭公園の坂本龍馬像(制作1989年)、高島港公園の岩崎弥太郎像(同2005年)の原型が、新年1月3日から長崎歴史文化博物館(1階エントランス)に並んでお目見えする。
きよう行ったら、搬入しオープンの準備中だった。両像とも市内在住の彫刻家山崎和国氏の作品。長崎龍馬会HPなどによる除幕式お知らせは次のとおり。

■坂本龍馬像・岩崎弥太郎像除幕式
日 時 平成22年1月3日(日) 10時30分〜11時
場 所 長崎歴史文化博物館(1階エントランス)
式次第 ①音楽演奏 西由美子氏・有馬史氏 ②館長挨拶 長崎歴史文化博物館 大堀哲 ③来賓紹介 ④太鼓演奏 銀屋町鯱太鼓 ⑤除幕 ⑥来賓挨拶 長崎県知事 金子原二郎 長崎市長 田上富久 ⑦制作者挨拶 彫刻家 山崎和国 ⑧音楽演奏 西由美子氏・有馬史氏 ⑨閉式

朝日選書  40P写真  11 中央の橋は「長久橋」か「万(よろず)橋」か

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朝日選書  40P写真  11 中央の橋は「長久橋」か「万(よろず)橋」か

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書の40P写真「11 新大橋から中島川上流を望む」(幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:5881「中島川河口(2)」と同作品)の、私の前の記事は次のとおり。
https://misakimichi.com/archives/2146
朝日選書の39P解説記事によると、「中央に見える木橋は長久橋。…この写真は中島川の河口に架けられた新大橋の上にカメラを据えて撮影されています」に間違いないようである。

幕末・明治期日本古写真データベースには、目録番号:4030で「中島川河口(1)」があり、同解説は次のとおり。これが説明している「大橋」は、「新大橋」でなく「銕橋」(くろがねばし。通称てつばし)だろう。そうでないと「この写真の橋は、大橋の下流に架かる長久橋ということになる」とならない。わかりにくい解説と思われる。

中央の山は三つ山、その手前左側に金比羅山、右側が健山(たてやま)と烽火山の稜線である。右側に旧西浜町、左側は築町である。横浜で発行された写真付き新聞”The Far East”の明治4年(1871)5月1日号に同じアングルの写真が掲載されており、それにも同じ木橋が写っている。仮に、この写真の橋が中島川河口の大橋ならば、大橋は明治元年(1868)8月、長崎地方裁判所参議井上聞多の監督指導のもと、本木昌造が製鉄の橋に架替えており、”The Far East”に掲載された橋と異なるため、この写真の橋は、大橋の下流に架かる長久橋ということになる。長久橋は、寛永年間に島原城主松倉豊後守重政が最初に架設し、豊後橋と呼ばれた。寛文12年(1672)博多屋清右衛門が架け替え、長久橋と改称された。以後、架け替えが重ねられ、中島川変流工事に際し、明治22年(1889)プラットトラス形式の橋に改め、昭和5年(1930)鉄筋コンクリート橋に変わった。

ところで、目録番号:4030「中島川河口(1)」や、目録番号:5881「中島川河口(2)」と同じような光景で、中島川河口を撮影した古写真が、データベースでは見つけきれないが、長崎大学附属図書館に所蔵されているのではないだろうか。
まず1点は5枚目。長崎であいの会ウェブサイト「中島川グリット」石橋に関するコラムに出てくる古写真。 http://nagasaki.n-grit.com/  川に浮かぶ船の数が違う。同会のは写真出所が明らかでないが、次のとおり「明治後期 万橋(よろずばし)」と解説している。

浜の町の入口?
鉄橋から万橋を望む。昔から長崎で一番歩行者の通行量の多いところ。写真の時代も鉄橋の賑わいはそうとうなものだったに違いない。今の風景にかさねて想像すると楽しい。右は浜市アーケード入口へ、路面電車も走っている。左は仕事帰りの人が立ち並ぶ中央橋のバス停。
今も昔もかわらないのは遠くに見える山の稜線。金比羅山と健山の間にかすかに帆場岳(三つ山)が見える。

次の2点は6枚目。長崎市教育委員会編「長崎古写真集 居留地編」平成15年刊第3版の129P図ー4 居留地建設と橋の架設。写真・15「出島新橋・新大橋・梅香崎橋」(長崎大学附属図書館)とある。
この古写真には「長久橋」は写っていないが、右側「新大橋」の上は、明治22年に築町に完成した十八国立銀行社屋だろう。その右端に写る2階建木造家屋。白く塗った屋根に特徴がある。

目録番号:4030「中島川河口(1)」や、目録番号:5881「中島川河口(2)」の左端に写る家屋と同じ建物と認められる。対岸の右側の建物も同じであろう。したがって、「中島川グリット」が説明する「明治後期 万橋(よろずばし)」とはならないと思われる。
中島川は上流を見ると、万橋手前から北東に湾曲し、万橋は川の斜めに架かっている。下流の鉄橋から真直ぐに写すとするなら、背景の山は変るだろう。
古写真の背景の山並み、右から烽火山から健山、奥の帆場岳(三つ山)、諏訪神社の森と金比羅山の尾根(東尾根。いわゆる立山ではない)の重なりを、両橋で比較するとはっきりした結論が言えるが、高いビルが林立した中心繁華街。山並みは橋から写せず、満足な確認はできない。

朝日選書  84P写真  30 「亀山社中」はどこから撮影されたか

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朝日選書  84P写真  30 「亀山社中」はどこから撮影されたか

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書の84P写真「30 立山の旧長崎奉行所と官立師範学校」(幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:6030 の作品)には、中央手前の風頭山中腹に明治初期の「亀山社中」と思われる建物が写っており、話題となっている。
この項は私もすぐ現地調査し、作品の撮影場所は「玉園町の聖福寺すぐ後ろの上手墓地の道から」と12月21日の記事にしている。 https://misakimichi.com/archives/2154

朝日新聞では、2009年12月11日付第1面の記事 ”これが「龍馬の商社」 明治初期の建物写真、初確認”に続き、きのう12月23日付の長崎地域版に”「亀山社中」確認 沸く龍馬ファン”の記事が載った。
これまで撮影場所は、朝日選書も「聖福寺から」と解説していたので、私は納得していた。
この経過は次を。 https://misakimichi.com/archives/386

しかし、今回の新聞記事では「現在の長崎市玉園町の丘の中腹から撮影したとみられる。…写真の中から旧長崎奉行所の堀の位置や山の稜線を目印に撮影場所を特定した」と変った。「ほぼ同じ場所から見た現在の様子」が下の写真。
新聞記事では写真が見にくいので、私が写していた同じ写真を載せる。3枚目が新聞社が撮影している玉園町の丘の中腹すなわち「玉園町墓地から」の写真。4枚目が私が撮影場所と思った「聖福寺上手から」の写真。

3枚目の写真が、新聞社がほぼ撮影場所としている「玉園町墓地から」の同じ現地写真。古写真と比べて違和感を覚えた点は次のとおり。
(1)写真の全体を眺めて、まず遠近感と高度感の違いを感じる。
(2)旧長崎奉行所(現長崎歴史文化博物館)前通りや玉園通りの向きが違っている。
(3)玉園通りの上下旧家の宅地が、玉園墓地に変ることは考えられない。
(4)風頭山と奥の彦山の稜線の重なりが合わない。左側豊前坊の全部が写っていない。
(5)諏訪の森(現長崎県立図書館付近)の木立が、背景の彦山山頂右側まで張り出している。
(6)上野彦馬の撮影。行きやすく当時の写真機が据えられる場所に限られる。

私は12月12日と14日現地調査をした際、玉園墓地も念のため写真を撮っていた。それが3枚目だが、しっくりせず、50mほど歩いて「聖福寺の上手」の道へ行って4枚目を写した。
今では古写真とまったく同じような景色は撮れない。目的とする対象物が写らないときは、全体を理解してもらうため、撮影場所をある程度少し変えることは私もあるが、この古写真については今までの解説どおり、「聖福寺の上手」あたりからの撮影と考えた方が妥当ではないだろうか。
朝日新書の写真下解説図にある「興福寺」の位置とも、関係者によってさらに検証をお願いしたい。「興福寺」大雄宝殿は、大棟中央上に大きな「瓢瓶」(火災除け)が写る建物と思われる。

私が撮影した場所は具体的には、「聖福寺」大雄宝殿の背後、開山老和尚(鉄心)塔所がある石段の入口あたりの道。全体の景色はこの場所からしか今は写せない。古写真の左下に1本の木が写っている。偶然にも同じような場所に大きくなったような木がある。 
朝日新聞の写真と記事は、これまで疑問点が多い。撮影場所を特定するのは良いが、慎重に調べ、正しく報道してほしい。本年元旦付「開港150年」長崎港を写したベアト撮影古写真の実際の撮影場所、立山墓地内の地点も少し違うのではないか。
この項は次を。 https://misakimichi.com/archives/1575

大草駅から水洗山・普賢岳・鎌倉山の縦走  平成21年12月

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大草駅から水洗山・普賢岳・鎌倉山の縦走    平成21年12月

平成21年12月23日(水 天皇誕生日)曇り一時小雨。諌早市多良見町の山、大草駅から水洗山・普賢岳・鎌倉山の縦走。参加6人。20日予定を雨のため延期。
JR長崎駅9時6分発長与経由竹松行乗車。大草駅→水洗山→普賢岳→鎌倉山→四角山林道→西川内→市布駅15時15分着(徒歩距離約12km)

3年ぶりにこのコースを歩く。通常は逆コースなので、大草から登ると高岩神社上の急な農道からの登山道入口がうろ覚え。適当に登って行くと、野副名上の三等三角点234.9mピークへ出た。南西尾根に方向修正。尾根を伝うとやっと水洗山(標高290m)に着いた。
普賢岳(標高322m)の手前で12時となり昼食。

この縦走路は展望が効かない。以前は普賢岳から大草小学校が少し見えていたが、それも見えなくなった。鎌倉山への途中で新しくできた林道へ出た。山腹の林道をそのまま下ると、鎌倉山(358.2m)へは登り損ねたようだ。西川内上の三叉路へ出る。朝霧の道標がもうない。
三叉路から昔の部落道を西川内の谷奥へ下る。本日の目的はこの旧道探索と、西川内の大正12年道路改修道標の標石。旧道はまだ使える。標石は上部に指差しマークのある珍しいものだ。市布駅で45分ほど列車待ち。16時3分長崎行きで帰着した。

宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/22834768.html
のりさん、迷宮への誘いは、 http://blogs.yahoo.co.jp/type2218/10767794.html

長崎の西の空の夕日  09−26

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長崎の西の空の夕日  09−26

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。

写真  1〜 3  平成21年12月 6日の16時47分頃から
写真  4〜 5  平成21年12月 8日の17時12分頃から
写真  6〜 7  平成21年12月16日の16時26分頃から
写真  8〜10  平成21年12月22日の 7時23分頃から 冬至の朝焼け
写真 11〜12  平成21年12月22日の17時 2分頃から 冬至の日没

ボードイン・コレクション、 7月10日国登録有形文化財に

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ボードイン・コレクション、7月10日国登録有形文化財に

長崎大学附属図書館(長崎市)が所蔵する、オランダ人医師アントニウス・ボードイン(1820〜85年)が日本で収集した江戸末期〜明治初期の古写真「ボードイン・コレクション」が3月19日、国の登録文化財として文化審議会から答申された。6月くらいに国の登録となる予定だと、前に新聞記事により伝えていた。 https://misakimichi.com/archives/1669

その後、登録はどうなったのだろうと思っていたところ、朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」が、2009年12月朝日出版から発行された。序章11頁の文中に「このボードイン・コレクション528点は、2008年に国の登録有形文化財に指定されました」とある。
「2008年」は、明らかに「2009年」の間違い。

HP「国指定文化財等 データベース」を見ると、次のとおり「主名称:ボードイン収集紙焼付写真」は、2009年7月10日、国の登録有形文化財(美術工芸品)となっていた。
新聞・テレビでその後の登録の報道はあまりなかったようだし、長崎大学・長崎県・長崎市の広報も、HP上では今見かけない。

長崎大学附属図書館が所蔵する「幕末・明治期日本古写真」は、文部省科学調査研究費の補助を受け構築したデータベースである。このような内容で全国に公開されていると、今後も見る人・利用する人に多くの迷惑をかけると思われる。
国の登録有形文化財となったので、大学関係者へさらに一層の研究と整備をお願いしたい。

国指定文化財等   登録有形文化財(美術工芸品)

主名称: ボードイン収集紙焼付写真
登録番号: 5
枝番: 0
登録年月日: 2009.07.10(平成21.07.10)
部門・種別: 歴史資料
ト書:
員数: 528点
時代区分: 江戸〜明治
年代:
検索年代:

解説文: 幕末から明治初頭に日本に滞在し、医学教育に努めたオランダ人医師アントニウス・F・ボードイン(Antonius Franciscus Bauduin 1820-1885)と、貿易会社社員であり、のちに領事を兼任したその弟アルベルト・J・ボードイン(Albertus Johannes Bauduin 1829-1890)が収集した写真である。
アントニウス・F・ボードインは、オランダに生まれ、同国で医学を学び、陸軍医学校の教官を勤めた。既に出島に居留していた末弟のアルベルト・J・ボードインの薦めもあり、文久2年(1862)、ポンペの後任として長崎の養生所で教鞭をとるため来日した。また、その後も大阪仮病院や大阪陸軍病院、大学東校においても教鞭をとり、明治3年(1870)帰国している。
アルベルト・J・ボードインはオランダ貿易会社社員として安政5年(1858)に来日し、のちに駐日オランダ領事も兼任した。明治7年の帰国後、1875年に駐蘭日本公使館書記官となり、1884年には同一等書記官として勲四等旭日章を授与されるなど、長く日本との関係を保っている。
本写真は、彼らが主に日本滞在中に収集・撮影したもので、数枚を除き、銀襴の表紙を施した3冊の和装大判アルバムと、クロス貼りに革背表紙の洋装小判アルバム1冊に貼りこまれている。
これらの写真はコロジオン湿板法により撮影され、主に鶏卵紙に印画されており、和装アルバム3冊は、パノラマ写真や四つ切判の大型写真から、縦15㎝横10㎝程の小型の写真までからなり、洋装アルバムには名刺判大のものが収められている。
3冊の和装アルバムには、開港直後の日本の記録を残したことで著名な写真家ベアト(Felice Beato)の撮影した写真が数多く収められている。ベアトはスタジオを構えた横浜を中心に、鎌倉・江戸・神奈川・大坂・長崎等各地で撮影しており、当該アルバム内の写真にも、これらの地の風景・風俗が記録されている。また、上野彦馬や堀與兵衛、中川信輔など、草創期の日本人写真家の撮影した写真も含まれる。また、これらの和装アルバムには、アントニウス自身が長崎で撮影した写真も認められ、兄が時々風景等を撮影していたことを伝える弟アルベルトの書簡がこれを裏付けている。
なお、和装アルバムに収められた写真、長崎で撮影されたものが最も多く、風景・風俗、ボードイン兄弟や知人の肖像、記念写真等も収められ、居留外国人の生活の一端を伝えている。また、鎌倉事件、生麦事件など攘夷事件の現場や下関戦争の写真、ベアトとスタジオを共同経営した画家ワーグマン(Charles Wirgman)が描いたこれらの事件や戦争のスケッチを複写した写真も収められている。
洋装アルバムは、前半に明治初頭の日本の政府要人の肖像写真であり、後半は洋風建築の官公庁や日本各地の景勝地の写真で構成され、中には複写を重ねたものも含まれる。各写真には被写体名を墨書した小紙片が添えられており、日本人の関与を窺わせる。また、明治11年竣工の陸軍省の写真が含まれており、この洋装アルバムが兄弟の帰国後に成立し、その後に兄弟が入手したものと推測される。
二人の没後、収集された写真は彼らの兄弟である第八子のドミニクス(Dominicus Franciscus Antonius Bauduin)の子孫に伝えられ、そのうち528点が平成19〜20年に長崎大学に譲渡された。長崎大学ではこれらの全てデータベース化して公開するなど、保存・公開の体制を整えている。
本件写真は、幕末・明治初頭の日本の姿と居留外国人の有様とを伝えるまとまった写真コレクションであり、写真史上・文化史上に資料価値が認められる。

朝日選書  84P写真  30 立山の旧長崎奉行所と官立師範学校

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朝日選書  84P写真  30 立山の旧長崎奉行所と官立師範学校

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書  84P写真  30 立山の旧長崎奉行所と官立師範学校

政治の中心だった立山の旧長崎奉行所(左)のそばに維新後、官立師範学校(右)が建てられた。この高台にあった県立美術館・県知事公舎は、長崎歴史文化博物館に建て替わった。山の中腹に見えるのは、亀山社中と思われる。 
上野彦馬撮影か、1874年、鶏卵紙、27.7×21.2、『上野彦馬冨重利平合同アルバム』

〔解説記事  82P〕  旧長崎奉行所と官立師範学校

1874年、聖福寺から写された長崎奉行所(高台の左)と新築の官立師範学校(同右)です(写真30)。
この高台には元カトリック教会が建っていましたが、その後、隠れキリシタンを取り締まる井上筑後守の屋敷となりました。教導するためにやってきた外国人宣教師にキリスト教の考えを捨てさせた話は、遠藤周作の「沈黙」でおなじみです。
敷地内には奉行が住む御本屋と、側近が勤める長屋および土蔵が立ち、犯罪者を裁くお白洲が置かれ、判決は犯科帳に記されました。維新後も九州鎮撫総督の住居として使用され、政治の中心だった奉行所が文教地区に変わるのは、1872年の文明開化がきっかけでした。
外国語を教えていた西役所の広運学校がここに移転。その後、長崎外国語学校から長崎英語学校に改称され、長崎中学につながります。長崎官立師範学校は、1875年の設立です。
その後、江戸時代の建物は失われ、1963年に県知事公舎が建ちました。2005年には長崎歴史文化博物館の建設に併せ、奉行所が復元されました。博物館の向こう側の、山の中腹に見えるのは、亀山社中と思われます。
立山は、キリスト教の布教から弾圧へ、幕府支配の中心から文明開化の中心へ、さらに文教地区から県知事公舎へと変遷し、今は博物館として長崎の歴史文化を伝える中心となっています。

■確認結果

幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:6030「旧長崎奉行所と師範学校」 撮影者:上野彦馬 撮影地域:長崎 年代:年代未詳 の古写真。

朝日選書の古写真解説で、疑問とする点をこれまで見てきた。これが最後となり頁を前に遡って見ていただく。長崎は来年にかけて、龍馬ブームで盛り上がる。
「長崎市亀山社中記念館」(伊良林2丁目)は、坂本龍馬ゆかりの亀山社中の遺構として現在に伝わる建物を長崎市が当時の姿により近い形で整備し、本年8月1日から公開している。

2009年12月11日付朝日新聞の第1面となった記事 ”これが「龍馬の商社」 明治初期の建物写真、初確認”。 朝日選書 84P写真「30 立山の旧長崎奉行所と官立師範学校」の中から、建物を拡大した写真が載せられている。
記事には、市民グループ「長崎居留地研究会」(会長=姫野順一・長崎大学教授)が11月、写真の中の旧長崎奉行所の位置や山の稜線から撮影場所を特定。後景の山の中腹に、亀山社中だった建物が写っているのを確認したとある。

さっそく私も現地調査へ行った。この古写真は「聖福寺」(玉園町)の大雄宝殿後ろの上の墓地の道(開山老和尚鉄心塔所入口あたり)から撮影されたものと思われる。亀山社中の建物は、新聞記事のに間違いないと思われるが、通りの前の家にふさがれ、双眼鏡でもはっきり見えない。
どなたか望遠の大きい、立派なカメラを持って、みんなにわかるように写してきてほしい。

朝日選書の写真下の解説図では、寺の位置に疑問を感じたので確認したのだが、高いビルやマンションが建って、これも写真を写せない。はっきり確認はしてないが、解説図の「興福寺」は「浄安寺」ではないか。その左の「三宝寺」は二層屋根に特徴がある。
手前大きな屋根の「光永寺」のすぐ左に屋根があるのが、「興福寺」の山門のように思える。媽祖堂、大雄宝殿は木立の後ろとなるが、古写真では確認できない。
位置関係を見てもらうため、長崎新聞社「長崎県航空写真集 ふるさと旋回」昭和60年9月刊の16、17頁から航空写真(クリック拡大)を借りたい。

なお、解説記事中「その後、江戸時代の建物は失われ、1963年に県知事公舎が建ちました」とあるが、長崎奉行所があった同地に、1965年(昭和40年)開館した「長崎県立美術博物館」を含めて説明した方が良いと思われる。
同館は新しい「長崎歴史文化博物館」建設のため2002年に閉館。「長崎県美術館」は2005年4月長崎水辺の森公園に隣接した場所(出島町)に移築開館した。

朝日選書 201P写真  89 大浦バンドの洋館群

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朝日選書 201P写真  89 大浦バンドの洋館群

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書 201P写真  89 大浦バンドの洋館群

手前からアメリカのウォルシュ商会、同ケイス商会。イギリスのグラバー商会、同マルトビー商会。背後は鍋冠山。大浦天主堂の尖塔が見える。
上野彦馬撮影、1874年、鶏卵紙、27.1×21.2、『上野彦馬冨重利平合同アルバム』

〔解説記事 199P〕  欧米の商社が立ち並ぶ最盛期の大浦バンド

豪華な洋館が軒を並べる最盛期の大浦海岸通り「バンド」です(写真89)。海に突き出した波止場から撮影されています。写真原板は1874年、アメリカ海軍大尉R・E・カーモディが軍艦アシュロットに乗ってアジアを周航したときに入手した写真アルバムに収載されています。
手書きのメモは英語で「アメリカ海軍のお店」と読めます。左端の和風白壁の大浦3番館には、領事でもあったアメリカ人ジョン・ウォルシュの商会が入居し、隣の大きなベランダ付き洋館の4番館ではアメリカのケイス商会が開業していました。長崎港に入港したアメリカ艦隊の水夫たちは、バンドから居留地に上陸し、このアメリカ海軍御用達の店で買物を楽しんだようです。

中央にある、れんが造りで修道院のような5番館には、1870年に倒産したグラバー商会が入っていました。グラバーに資金を調達して回収不能となったオランダ商事会社は、78年に建物を競売にかけます。
その奥のベランダが突き出た大きな6番館では、ロンドンからやってきたサミュエルとジョン兄弟がマルトビー商会が開業し、茶の輸出などを手がけていました。1880〜1941年にはイギリス領事館が入居するのですが、1908年に建て替わった赤れんがの建物は長崎市児童科学館、長崎市野口彌太郎記念美術館を経て、現在整備中です。
5、6番館は、坂本龍馬が長崎を訪問した1865年ごろに撮影されたボードインの写真(本書には収録していない)では建築中でしたが、この写真では立派に完成しています。
後方には、大浦天主堂の尖塔がわずかにのぞいています。
路上に人物がみえないのはシャッタースピードが遅かったためで、動くものは消えています。 

■確認結果

幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:6058 「大浦海岸通りの洋館群」  撮影者:上野彦馬 撮影地域:長崎 年代:年代未詳 の古写真。

朝日選書の写真下解説「背後は鍋冠山。大浦天主堂の尖塔が見える」、解説記事「後方には、大浦天主堂の尖塔がわずかにのぞいています」が、私たちには見えない。
データベース 目録番号:6058 の原画を確認すると、はっきり写っているのに、朝日選書200頁と201頁のちょうど綴じ目となったためである。編集の際、配慮がほしかった。

古写真の撮影場所は、出島からも考えられるが、大学データベース資料「長崎居留地の敷分割 1868年(慶応3年)」図から、解説記事にあるとおり大浦海岸通りの梅香崎側「海に突き出した波止場から撮影されています」のに間違いないようだ。

朝日選書 192P写真  83 幕末の新地蔵と出島

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朝日選書 192P写真  83 幕末の新地蔵と出島

長崎大学附属図書館所蔵「幕末・明治期日本古写真」の中から、厳選した古写真が解説をつけて、2007年6月から朝日新聞長崎版に毎週「長崎今昔」と題して掲載されている。
2009年12月発行された朝日選書862「龍馬が見た長崎 古写真が語る幕末開港」(朝日新聞出版)は、これまでの掲載分を元に編集し直した本である。
本書による古写真解説で、撮影場所の説明など疑問とする点をあらためて述べておきたい。

朝日選書 192P写真  83 幕末の新地蔵と出島

明治維新直前の新地蔵(手前)とまだ海上に浮かぶ出島(奥)。出島の右奥の茂みは長崎奉行所西役所。 
ベアト撮影、1867年、鶏卵紙、21.0×18.3、『スチルフリード・アルバム』

〔解説記事 187P〕  文化映す貿易の要所、新地蔵と出島
1867年、ベアトが大徳寺から撮影した新地蔵と出島です(写真83)。新地蔵は中国貿易に、出島はオランダ貿易に使われました。沖には外国の軍艦が停泊しています。出島横の茂みは長崎奉行所西役所です。
出島は1636年にポルトガル人を収容するために造成されました。その後、オランダ商館が平戸から移されると、オランダ貿易に使われました。出島に古くから建っていた日本家屋は安政の大火で焼けましたが、幕末には写真のように植民地風のベランダを持つ洋館に建てかわっていたわけです。1867年末につけられる遊歩道や橋はまだ見えず、まだ扇形をしています。

新地は、五島町や大黒町にあった中国船の荷蔵が焼失したため、1698年に海を埋め立てて造成されました。1859年の長崎再開港で在住中国人たちは唐人屋敷から新地に移り住みました。開国で居住地を限定する意味がなくなったためでした。今では40軒ほどの中国料理店や中国雑貨店が軒を並べる長崎新地中華街の起源です。
「出島復元事業」は2000年の日蘭交流400年記念をきっかけに大きく進展し、「唐人屋敷復元事業」も進んでいます。長崎は国際交流の歴史の町として、町全体を立体的な博物館にして国際的に発信していくことが期待されています。 

■確認結果

幕末・明治期日本古写真データベース 目録番号:5384「新地蔵と出島(2)」 撮影者:F.ベアト 撮影地区:出島 撮影年代:明治以前 の古写真。同解説は次のとおり。
関連作品 目録番号:794「長崎出島とロシア人居留地」は同じ場所からの写真か。

大徳寺跡の高台から、新地越しに出島を遠望したもの。出島は、建物は殆どが洋館に建て替わっているが、慶応3年(1867)の海岸通りの築足しがまだなされておらず、江戸時代以来の姿を見せる。出島右端の入母屋造2階建ては、嘉永6年(1853)に新築された外科部屋(医師住居)で、この頃はクニッフレル商会保有の空き家だったが、明治元年以前に取り壊された。慶応3年6月にベアトが撮影した類似構図の写真では、新地の白壁土蔵がまだ工事中であったから、この写真は同年後半の撮影とみられる。出島右上の樹叢は長崎奉行所の西役所(現県庁)で、その向こうには現在の茂里町付近まで深く湾入していた長崎港が見える。さらに背後には稲佐地区の集落やロシア人仮泊地と稲佐山から岩屋山にかけての山並みが望まれる。新地の右側が中島川の河口部で、手前の水面のこちら側、樹木のあいだに見え隠れするのは本籠町の家並みである。

古写真の撮影場所は、現在の西小島1丁目「大徳寺」跡や「大徳寺の丘」とあるが、具体的にどこだろう。明治維新後、大徳寺が廃寺となると梅香崎天満神社が現在地に移転、神社は現在、籠町自治会が管理している。
新地や出島の周りが埋め立てられる以前の撮影であるため、当時の地形の参考のため明治
17年国土地理院旧版地図を掲げる。

梅香崎天満神社の現在の参道から写すと、構図が合わない。変流工事前の銅座川が真正面の右から左へ真横に流れていなければならない。旧版地図から判断すると、神社参道から右へ上がった「大徳園跡」が考えられる。
江戸時代末期から明治初年にかけて、大徳寺の庫裏のあったところに、アメリカの宣教師:ヘンリー・スタウトやフルベッキ、フランス領事のレオン・ジュリーなどが仮寓していた(広助様の丸山歴史散歩)。
「大徳園跡」は次記事と写真を参照。 https://misakimichi.com/archives/1860
古写真と同じ光景を、現在では写せない。稲佐山から岩屋山にかけての山並みは、唐人屋敷北東隅に「大徳園」の裏門があり、佐古小学校側から確認した。