月別アーカイブ: 2014年7月

出島の表門橋「旧出島橋」は、アーチ式石橋だった ( 長崎県 )

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出島の表門橋「旧出島橋」は、アーチ式石橋だった

朝日新聞長崎地域版2014年7月25日の記事は、次のとおり。

「旧出島橋」橋台の一部出土 8月2日に見学会
国指定史跡「出島和蘭(オランダ)商館跡」の復元を進めている長崎市は24日、出島表門と対岸を結ぶ旧出島橋の取り付け部分「橋台(きょうだい)」の一部が出土したと発表した。
橋台は、橋を架けるため両岸から突き出た埋め立て部分。それぞれ先が三角形になり、その頂点のあたりに橋が架けられる。江戸時代の出島には、30メートル弱隔たった両岸から橋台が突き出し、長さ約4・5メートルの橋がかかっていたという。
出土したのは、出島の対岸側の橋台と護岸の計3カ所の石垣で、長さは2〜8メートル程度。対岸側にあった建物の撤去に伴い、6月から発掘調査を進め、7月上旬に出土した。橋台の幅が約14メートルだったこともわかったという。…

新聞記事では良くわからないが、この項は、本ブログ次を参照。出島の表門橋「旧出島橋」は、アーチ式石橋だった。「プロセイン・ドイツが観た幕末日本」169頁  ⅤⅠ−47 長崎、出島橋、1861年、ベルグによるスケッチに基づくフォトリトグラフも残されている。
https://misakimichi.com/archives/3573

出島復元「2050年目標」は、長崎市に整備審議会が提言をしている(朝日新聞2014年3月5日)。「出島表門橋架橋プロジェクト」は、長崎市HPを参照。
http://www.city.nagasaki.lg.jp/syokai/792000/792600/p025477.html
「3 架橋の課題」を次のとおり記している。現在のところプロポーザルで提案された表門橋デザインを見ると、アーチ式石橋の復元は困難なようであるが、「ミニ出島」模型くらいは、正しい石橋で展示してもらいたい。

1.明治以降の中島川変流工事により、出島は扇形の内側が約15m削り取られ、川幅が当時と異なるため、石橋の復元ではなく出島へのルートを復元するための架橋事業となります。
2.河川の管理、防災面の配慮が必要です。
3.出島側は国指定史跡なので、史跡を削り橋台の設置することができません。
4.架橋は、旧出島橋の歴史的考証を行った上で事業を進め、架橋する橋が“復元”と混同されないようなデザインにする必要があります。

長崎・アトリエ ウララブログに、明治初期にオーストリア人写真家スチルフリードによって撮影された出島表門橋の貴重な古写真があったので、次を参照。出典は不明。
(長崎新聞から引用) 当初木製だった表門橋は、1678年にアーチ型石橋(全長4,5m)へ架け替えられたそうである。 http://blog.livedoor.jp/aqua8288/archives/2013766.html

高島のゴリラ岩が姿を表す  長崎市高島町

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高島のゴリラ岩が姿を表す  長崎市高島町

高島港ターミナルから権現山公園展望台方向を望むと、右手にこの岩場が見える。山手の金松寺まで登ると岩が近くに見える。地元では「ゴリラ岩」という。
6月1日みさき道歩会で高島ウオーキングをしたとき確認していたが、S氏が翌週、高島金松寺で開かれたあの桟橋トマトソングシンガーのライブに参加し、詳しく写してきた。

これまで樹木が茂り、岩の姿が良くわからなくなっていた。本年5月に中学生を含む地元の有志が、危険な岩場の伐採作業を行い、再び姿を表したというのが、実状のようである。
この様子は、「高島っ子集まれ!Facebook」の次を参照。  https://www.facebook.com/takashima.ko

「マリナ—・オブ・ザ・シーズ」 今年、3回目の長崎入港

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「マリナ—・オブ・ザ・シーズ」 今年、3回目の長崎入港

2014年7月22日、長崎港に13万 トン超の大型クルーズ客船が入港した。長崎県美術館屋上庭園などから撮影。「マリナ—・オブ・ザ・シーズ」。今年、3回目の長崎入港。

マリナー・オブ・ザ・シーズ(バハマ)・ 総トン数138.279トン・全長310m・全幅48m・乗員乗客3.800人

諫早の史跡・石橋・巨木・歴史館めぐり(2)  2014月7月

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諫早の史跡・石橋・巨木・歴史館めぐり(2)  2014月7月

2014月7月20日(日)快晴。諫早をまち歩きし史跡・石橋・巨木・歴史館めぐり。参加5人。みさき道歩会の例会。13日が雨のため延期して実施。
諫早駅—諫早神社—慶巌寺—諫早公園(眼鏡橋・諫早山城跡・御書院・高城回廊)—諌早市役所—安勝寺—水月楼で昼食—天祐寺—諫早市美術・歴史館—諫早駅(徒歩距離 約10.5km)

長崎駅9:24発諫早行乗車。諫早駅から本明川沿いに下り、まず諫早神社へ。境内に大クス群と池に壊れた桁橋がある。神社前の川を飛び石で渡り、慶巌寺へ。寺崖に彫られた磨崖仏三十三観音と参道橋は珍しい。飛び石で対岸へ渡ると、諫早公園の里帰りした眼鏡橋ミニ模型前に出る。5分の1の大きさの模型。本物の眼鏡橋を渡って、諫早山城跡へ登る。山頂の樹齢600年の大クスは有名であり、高城の公園からは市内を眺望できる。

高城神社の方へ下り、御書院・高城回廊へ回って諫早市役所前へと出る。脇の川には小ヶ倉ダムから移築しているアーチ式の「小ヶ倉橋」がある。諫早眼鏡橋が水害前、もともと本明川に架かっていたところは、人道橋となり、由来の碑がある。対岸の安勝寺は諫早街道の道で、ここが本陣だった。
昼食のうなぎは、北御門が大混雑。先の水月楼へ行って食べた。

中央商店街アーケードを抜けて、本諫早駅前を通り、天祐寺へ諫早家墓所を見学に行ったが、墓所門を閉鎖しているのは、何とかしてほしい。以前の郷土館に代わり、新しい施設「諌早市美術・歴史館」が3月からオープンした。場所は東小路町2−33。前の諫早幼稚園跡地。周辺道路に案内板がまだ設置されていないので、場所がわかりにくかった。観覧料は常設展示200円。諌早の歴史文化を知ることができる良いミュージアムができた。きょうの目的はこの観覧が主で、諫早駅へ戻った。

諫早の史跡・石橋・巨木・歴史館めぐり(1)  2014月7月

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諫早の史跡・石橋・巨木・歴史館めぐり(1)  2014月7月

2014月7月20日(日)快晴。諫早をまち歩きし史跡・石橋・巨木・歴史館めぐり。参加5人。みさき道歩会の例会。13日が雨のため延期して実施。
諫早駅—諫早神社—慶巌寺—諫早公園(眼鏡橋・諫早山城跡・御書院・高城回廊)—諌早市役所—安勝寺—水月楼で昼食—天祐寺—諫早市美術・歴史館—諫早駅(徒歩距離 約10.5km)

長崎駅9:24発諫早行乗車。諫早駅から本明川沿いに下り、まず諫早神社へ。境内に大クス群と池に壊れた桁橋がある。神社前の川を飛び石で渡り、慶巌寺へ。寺崖に彫られた磨崖仏三十三観音と参道橋は珍しい。飛び石で対岸へ渡ると、諫早公園の里帰りした眼鏡橋ミニ模型前に出る。5分の1の大きさの模型。本物の眼鏡橋を渡って、諫早山城跡へ登る。山頂の樹齢600年の大クスは有名であり、高城の公園からは市内を眺望できる。

高城神社の方へ下り、御書院・高城回廊へ回って諫早市役所前へと出る。脇の川には小ヶ倉ダムから移築しているアーチ式の「小ヶ倉橋」がある。諫早眼鏡橋が水害前、もともと本明川に架かっていたところは、人道橋となり、由来の碑がある。対岸の安勝寺は諫早街道の道で、ここが本陣だった。
昼食のうなぎは、北御門が大混雑。先の水月楼へ行って食べた。

中央商店街アーケードを抜けて、本諫早駅前を通り、天祐寺へ諫早家墓所を見学に行ったが、墓所門を閉鎖しているのは、何とかしてほしい。以前の郷土館に代わり、新しい施設「諌早市美術・歴史館」が3月からオープンした。場所は東小路町2−33。前の諫早幼稚園跡地。周辺道路に案内板がまだ設置されていないので、場所がわかりにくかった。観覧料は常設展示200円。諌早の歴史文化を知ることができる良いミュージアムができた。きょうの目的はこの観覧が主で、諫早駅へ戻った。

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 25P 十人町から写した出島と新地

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 25P 十人町から写した出島と新地

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

25P 十人町から写した出島と新地。「ザ・ファー・イースト」1871年7月1日号

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

25P 十人町から写した出島と新地。「ザ・ファー・イースト」1871年7月1日号

●明治初期の新地と出島
横浜で発行された写真貼り付け英字新聞『ザ・ファー・イースト』の1871(明治4)年7月1日号に掲載された長崎の新地(右側)と出島(中央左側)の写真です。この新聞は文明開化が進む明治の初め、貼り付けた写真で日本各地を紹介し、写真による新聞報道の始まりとなりました。
撮影ポイントは十人町の丘の上で、左の木造家屋は江戸時代の遠見番所の名残です。…さらに、左端の大きな屋根の右横には梅香崎橋が確認できます。…

長崎大学古写真データベースでは、目録番号:1003「新地蔵と出島(1)」。超高精細画像による解説は、次のとおり。

日本で発行された英字新聞”The Far East”紙の明治4年(1871)7月1日号に掲載された写真で、撮影時期もその直前とみてよい。十人町の丘上から出島と新地、旧市街を望んでいる。いずれも明治2年(1869)に架設された出島右端の出島新橋、中島川河口部の長さ27間にも及ぶ新大橋、新地と梅香崎を結ぶ梅香崎橋がみえる。すべて木製の桁橋である。これらによって出島から大浦にかけての海岸通りは連結されて、そこには要所に街灯が立ち、居留地のバンド景観を形成し始めたのであった。出島のみならず、築町の地先(新大橋の左手)や新地の海側にも、和様折衷的な初期洋館が建てられていたのがわかる。しかし旧市街地には、出島の上の樹叢の中に旧奉行所西役所時代の家屋が残るのをはじめとして、在来の日本家屋が立ち並ぶばかりで、まだ洋館は一切みられない。遠く立山の裾には本蓮寺や福済寺の甍が見え、左手には湾入した長崎港が望まれる。

この項は、本ブログ次記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/1539
刊行本の解説は間違いないようであるが、撮影ポイントが「十人町の丘の上」だけでは具体的でない。「梅香崎橋」がすぐ左下に見えるのに、以前のデータベースは、「梅香崎の山手(中新町)からのアングル」と説明していた。

「十人町」の町名由来となった「遠見番跡」説明板は、現在、「みさき道」沿いに活水大学手前の路地に建てられている。「ナガジン」発見!長崎の歩き方によると、今の梅崎郵便局から坂段を登った十人町天満神社付近の「常盤崎」という一帯も考えられるので、研究をお願いしたい。
古写真の撮影地は、この神社あたり(ながさき出島道路オランダ坂トンネル入口上部)からではないだろうか。金比羅神社の尾根に山頂が覗かないこの下段あたりからとなる。

最近のヤフオク!で「横浜写真と呼ばれた明治期の小判手彩色写真」があった。これが手前右下に「梅香崎橋」を写している。解説は「梅香崎の高台から出島が撮影しています。出島の弧を描く海岸線と建物がよく判り…」とある。やはり十人町天満神社あたりからの撮影と思われる。
http://page8.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/h188842799
目録番号:1003「新地蔵と出島(1)」と同じ写真の目録番号:5901「新地蔵と出島(ステレオ写真)(3)」も、解説を合わせてもらいたい。

最後の刊行本紹介「連載「長崎今昔」を再編 出版」は、朝日新聞長崎版2014年7月18日の記事。

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 22〜23P 海から眺めた江戸時代最後の出島

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 22〜23P 海から眺めた江戸時代最後の出島

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

22〜23P 海から眺めた江戸時代最後の出島。2枚1組になり、写真の中にオランダ語の書き込みがある。1865〜66年ボードイン兄弟の一人が撮影

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

22〜23P 海から眺めた江戸時代最後の出島。

長崎大学古写真データベースでは、目録番号:6196「海からの出島鳥瞰」。ボードインコレクションによる解説は、次のとおり。「撮影者:空白」、「撮影年代:1863」のままとなっている。

文久3(1863)年頃、ボードイン博士が海上から撮影した出島です。左端の建物はカスタムハウス(税関)です。次の1番は出島通商会社、その横2番がボードイン博士の住居で、その横3番がボードイン領事の住んだオランダ領事館です。現在復元されている商館長の邸宅はこの領事館の写真が基礎となっています。この元カピタンハウスはシーボルト時代(1823年〜1828年)の姿を残しています。 -6196-

この項は、本ブログ次記事を参照。朝日新聞社『写真集 ”甦る幕末”』1986年刊14〜15頁のタイトル及び説明も、「長崎・出島。海側から見た」とあるが、私の単純な疑問点は次のとおりである。専門家による解明をお願いしたい。
https://misakimichi.com/archives/2180
https://misakimichi.com/archives/2318

(1)初期の写真機で、海上の揺れる船から撮影できただろうか。干潟から撮影したとの見解もあるが、外国の大型船か、手漕ぎの小型漕船が干潟に漕ぎ入れてまで写真を撮る必要があるのか。
(2)出島のこのような姿は、船上からでなく、梅香崎か大浦海岸から撮影できそうである。「長崎港精図」に赤線で示した2枚を組み合わせた写真ではないだろうか。陸上に必ず撮影できる地点がある。
(3)つなぎ合わせた中央下部にそれぞれ石柱らしいのが写る。最左端の黒ずみも、写真の汚損ではない。船上からの撮影としたら、こんな物は写らないのではないか。

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 14P 幕末長崎のパノラマ写真

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 14P 幕末長崎のパノラマ写真

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

14P 幕末長崎のパノラマ写真。1864年フェリックス・ベアト撮影

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

14P 幕末長崎のパノラマ写真。1864年フェリックス・ベアト撮影

長崎大学古写真データベースでは、目録番号:6158「長崎鳥瞰」。ボードインコレクションによる解説は、次のとおり。「撮影者:A.F.ボードイン」、「撮影年代:1865年頃」のままとなっている。

慶應元年(1865)頃撮影された長崎市街の鳥瞰写真です。中央には新地蔵、左手には出島の建物がよくみえます。出島の後の茂みには長崎奉行所西役所の建物も見えます。右手には、元治元年(1864)年8月に完成した分析究理所が見えます。全体的に江戸時代の長崎の姿が鮮明です。浦上の湾奥には干潟が確認できます。
-6158-

撮影者が「F.ベアト」、撮影年代が「1864年」と判明した理由の説明をお願いしたい。
目録番号:4878「星取山から見た長崎港(1)」に、ベアト撮影の同じような小島養生所建物を写した作品があるが、この拡大でもない。関連が不明。
目録番号:6158「長崎鳥瞰」の解説を正しくするのであるなら、まずデータベースを修正してから、発刊をお願いしたい。
この項は、本ブログ次記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/1928

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 巻頭2〜3P 星取山からの長崎市街のパノラマ ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 巻頭2〜3P 星取山からの長崎市街のパノラマ ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

巻頭 2〜3P (1)星取山からの長崎市街のパノラマ ベアト撮影 1864年
巻頭 2〜3P (2)勝海舟 1877年ごろ
巻頭 2〜3P (3)坂本龍馬 上野彦馬撮影局で井上俊三が撮影 1867年
巻頭 2〜3P (4)大浦慶
巻頭 2〜3P (5)息子の敬を抱く道永栄
巻頭 2〜3P (6)オランダ人医師ポンぺ
巻頭 2〜3P (7)イギリス商人トーマス・グラバー
巻頭 2〜3P (8)風頭からの長崎市街のパノラマ 1895年ごろ

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

巻頭 2〜3P (1)星取山からの長崎市街のパノラマ ベアト撮影 1864年

長崎大学古写真データベースでは、目録番号:6152「星取山からの長崎港鳥瞰」。目録番号:1288「星取山から見た長崎港(2)」と目録番号:4878「星取山から見た長崎港(1)」にも、ベアト撮影の同じような作品がある。
最近、やっと撮影地が私の指摘により「ドンの山」とか「鍋冠山」から、「星取山」に変わった。現地確認をまったくしていない。目録番号:6152「星取山からの長崎港鳥瞰」のボードインコレクションによる解説は、次のとおり。

星取山から見た長崎港の鳥瞰写真です。手前の大浦外国人居留地には、まださほど洋館が建て込んでいません。その右手の出島の扇形は鮮明で、その右側には長崎の市街が続いています。湾の奥は浦上まで入り込んで浦上川につながっています。 -6152-

この項は、本ブログ次記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2832
著者は長崎大学附属図書館前館長、現在でも古写真資料室研究員である。データベースの全面修正に尽力し、早く「撮影者:F.ベアト」と直してから、発刊するべきではないか。
国指定文化財「ボードインコレクション」の研究が軽く扱われている。

巻頭 2〜3P (2)勝海舟 1877年ごろ
巻頭 2〜3P (3)坂本龍馬 上野彦馬撮影局で井上俊三が撮影 1867年
巻頭 2〜3P (4)大浦慶
巻頭 2〜3P (5)息子の敬を抱く道永栄

幕末から明治へ−歴史のパノラマに登場する主な人物。48頁によると(2)(3)は国立歴史民俗博物館、140〜141頁によると(4)(5)は長崎歴史文化博物館、長崎文献社の所蔵写真か。ここでも注記が必要だろう。11頁【凡例】三との説明が合わない。
(3)坂本龍馬の写真については、高知県立坂本龍馬記念館などの次記事を参照。
http://www.ryoma-kinenkan.jp/study/qa/ryoma/post-1.php
http://ohya.hatenablog.com/entry/20130526/1369555805

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 巻頭 1P 風頭の物見遊山 ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 巻頭 1P 風頭の物見遊山 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

巻頭 1P (1)風頭の物見遊山 内田九一撮影 1873年ごろ(現・坂本龍馬像そばの旧石切り場)
巻頭 1P (2)浜町商店街の歳末大売出し 1910年代

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

巻頭 1P (1)風頭の物見遊山

長崎大学古写真データベースでは、目録番号:657「風頭山(1)」と、目録番号:1195「風頭山(2)」の作品。いずれもまだ撮影者:未詳、撮影年代:明治中期となっている。超高精細画像による解説は、次のとおり。

横浜写真の50枚組(小川一真製作と思われる)の小型アルバムに収載され、鉛筆書きでNagasakiとキャプションがある。長崎旧市街の東部に位置する風頭山の物見遊山の情景。山の麓には長崎有数の寺院が並び、中腹から頂上付近までそれらの墓地が続いている。明治以前にはこの山に清遊を試みる者も多かった。この山頂から長崎港を望んだ写真も多い。この場所は現在でも残る風頭山頂横の古い石切り場の跡であり、切り立った岩はそのためである。切り出された石は墓石に使われた。和服を来た男女31人が思い思いのポーズで写されているが、中には子供も数人いる。服装は当時の普段着として興味深いが、16人ほどの男性成人のうち5人が丁髷を結い、残りの7人は散切り頭であり、女性には和傘と蝙蝠傘を持つものがあり明治初期の風俗をよくうかがわせている。左手背後の市街は立山方面で、海の奥に浦上新田の縁が見える。明治10年代頃か。

この作品は、本ブログ次記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/2228
著者は長崎大学附属図書館前館長、現在でも古写真資料室研究員である。データベースの全面修正に尽力し、早く「撮影者:内田九一」、「撮影年代:1873年ごろ」と直してから、発刊するべきではないか。

巻頭 1P (2)浜町商店街の歳末大売出し

長崎大学古写真データベースでは、目録番号:5127「長崎濱町通り」の作品。まだ撮影者:未詳、撮影年代:未詳となっている。「岡部商店」?の幟など確認され、現在の浜町通りに間違いないのだろう。これも「撮影年代:1910年代」なら、データベースを早く修正するべきではないか。