長崎の古写真考 目録番号:6196 海からの出島鳥瞰(再掲)

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:6196 海からの出島鳥瞰(再掲)

朝日新聞長崎地域版きょう2010年4月17日付”長崎今昔 長大写真コレクション”に掲載された「幕末の出島 塀外され建物も一望」。海から眺めた江戸時代最後の出島の姿だそうである。
古写真は、データベース目録番号:6196、タイトル「海からの出島鳥瞰」の作品である。
この項は次を記事を参照。 https://misakimichi.com/archives/2180
私の一般的な疑問は、次のとおりである。この作品は、長崎歴史博物館で開催中の「幕末長崎古写真展」に出展されている。専門的な研究をお願いしたい。

(1) 初期の写真機で、海上の揺れる船から撮影できただろうか。干潟から撮影したとの見解もあるが、外国の大型船が干潟に漕ぎ入れてまで写真を撮る必要があるのか。
(2)右端の写真に写る山は、風頭山の奥に彦山。左端の写真に写る山は、稲佐山の立岩尾根ではないだろうか。中間の山、烽火山・金比羅山が中抜きされていると思われる。
(3)出島のこのような姿は、船上からでなく、梅香崎と大浦海岸から撮影できそうである。「長崎港精図」に赤線で示した2枚を組み合わせた写真ではないだろうか。
(4)つなぎ合わせた中央下部にそれぞれ石柱らしいのが写る。最左端の黒ずみも、写真の汚損ではない。船上からの撮影としたら、こんな物は写らないのではないか。

(2010年4月22日修正)
この作品は、実は朝日新聞社『写真集 ”甦る幕末” オランダに保存されていた800枚の写真から』1986年刊14〜15頁に掲載があった。タイトル及び説明は「長崎・出島。海側から見た」とあるだけである。同写真集を確認しなかった私が悪いが、4月18日に [ satemosatemo2008 ] 様から下のコメントどおり指摘を受けた。

「撮影方法は、カメラの三脚を使用できる小型の漕船(和船か大型船の救命用ボート?)を干潟に漕ぎ入れて固定する。撮影位置は現在の長崎税関付近と推定しています。
背景の山並みは右に英彦山、中央に烽火山、左端は立山付近だと思われます。金比羅山はもっと左に位置し、写っていません」

という見解である。参考のため『甦る幕末』から14〜15頁「長崎・出島」と、22〜23頁「長崎パノラマ」の掲載写真を後ろに載せる。鮮明な大きい写真を目にすると、背景中央のぼんやりした山がはっきり写っており、武功山・烽火山・健山である。左端は諏訪の森と立山付近と確認できた。出島の同じ建物は、撮影方向が違うが、「長崎パノラマ」が写しており、海上の撮影地点を推定する手掛かりとなるだろう。(4)の疑問は更に解明してほしい。