長崎の石・岩・石造物 (長崎市)」カテゴリーアーカイブ

深堀城山尾根道ピークに残る石英の石積み  長崎市平山町

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深堀城山尾根道ピークに残る石英の石積み  長崎市平山町

長崎市南部、国道499号平山バス停から西側上に、九州電力岳路線12号鉄塔を通って深堀城山(標高350.4m)や善長集落へ登る昔の尾根道が残る。約40分登った標高250mくらいのピークに、この石積みがあった。
縦、横は約1.8m四方。2段重ねで高さ50cmほど。藩境塚でこのような四角の石積みを見ることがあるが、ここは藩や村境でもない。珍しいのは、石のほとんどが石英のかなり大きな厚い平石で積まれていた。

木立がなかったら景観が良いところで、上面が平らなのは座禅石のような感じもする。それとも古い時代の墓かとも考えたが、地元平山町の人に聞くと、ただ「角石」と呼んでいる。ピークへ登りきった尾根道は、ここからちょうどカーブして木立内の平坦な歩きとなる。
たしかに角の地点を示す「角石」に違いないが、昔からの公有林(現在は近くに長崎県林業公社植林地がある)と私有林の境石とも考えられる。

それにしても、見事な石英の石積みである。白さがひときわ目立った。近くで良くこれだけ石を集めたものだ。
深堀城山は、中世の山城跡。山頂を広く囲む石塁が残る。その遺構の一部であったら珍しい。柱状節理の風化したような俵石がある山腹も、この近くである。

武功山の刻み石  長崎市鳴滝3丁目

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武功山の刻み石  長崎市鳴滝3丁目

本河内または鳴滝から武功山を通って、烽火山へ登る登山道がある。大荷床手前の高いピークが武功山である。標高は340mくらい。山道の登りで1時間以上かかる。
先日、陸門氏(長崎歴史文化協会員)から、武功山のピーク岩背面に「徳太郎」「深山」らしいと読める字の刻みがあった。お堂があった跡らしく、越中・原田先生に聞いてもわからず、刻字の文献がないか、問い合わせがあった。

武功山までの途中には、近年の長崎私有林と水道用地標柱を10本ほど見る。各ピークの上には、自然石を地蔵のように積んでいたのを3ヵ所見るが、刻字まではこれまで岩面を気をつけて見たことがなかった。
中尾氏が調べてくれた。松浦東渓が文化8年(1811)脱稿したという「長崎古今集覧」の、森永種夫氏校訂昭和51年発行長崎文献叢書上巻348頁に、次のとおり「武功山」の記述があるが、これ以上はわからない。

武功山附仙人巌

図志曰鎮東北俗名二 向分(ムカイブン)一 松樹鬱蒼翠色一、乃為二 真道ノ旧塁一 中有二 仙人巌臥龍松斑虎石石鞍山刀落(ナタオトシ)之境 ○又曰仙人巌在二 武功山旧塁之東一 臨二 一瀬渓一 万治中樵夫適見二 一老人一 朱顔白髪草衣而座二 巌上一 還聞二 里胥即発レ 衆偏訪竟不レ 見二 其蹝一 因白レ 官或云山神時見レ 形也其後土人往々遇老人蘿衣扶レ 杖而立 △真道ハ長崎七家ノ一

私も武功山へ登り、ピーク岩を確認したが、背面に字らしきものは見つけきれなかった。手前の地中に埋もれた別の丸い石に、「奉」の字がかすかに浮き出ていたようなのは確認できた。
後日わかったのは、刻字がある石は、積み上げた下の大きな方の石。裏面に小さき字で、「徳太郎」と刻んでいるのは読めた。 

桜馬場天満神社(威福寺跡)石垣のキリシタン墓碑  長崎市桜馬場1丁目

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桜馬場天満神社(威福寺跡)石垣のキリシタン墓碑  長崎市桜馬場1丁目

新大工商店街の先、“シーボルト通り”から左へ入る。桜馬場天満神社は、参道橋や天井絵は有名だが、外回りの威福寺跡石垣にキリシタン墓碑?らしい石がはめ込まれている。 

「ナガジン」発見!長崎の歩き方「越中先生と行く 長崎、開港以前」3.開港時の遺構に出会う道〜夫婦川から桜馬場を歩く(桜馬場天満神社〜織部神社〜トッポ水)は、次のとおり。
「長崎の町ではよくありますよ。それが2つもあるんですよ」。あと1つはどこだろう。右の石のことか。  http://www.at-nagasaki.jp/nagazine/hakken0702/index2.html

越中先生
「私達は今、長崎の町を離れてシーボルトも歩いた“シーボルト通り”にいます。新大工町までは旧長崎の町でしたが、ここから右へ行くと長崎村字桜馬場郷です。ここには“長崎街道ここにはじまる”という碑が建てられています。つまりここは、江戸時代、江戸へと続く街道の起点となったところですね。この石碑の字は、前の市長さん、本島等さんに書いていただいたものなんですよ。この道をシーボルトが歩いたのは事実で、シーボルトはこの先にあるお寺の中で休み、お昼ご飯を食べたと著書『江戸参府紀行』に記しています。そのお寺というのが真言宗の威福寺(いふくじ)というお寺でした。」

出島の和蘭商館医として来崎したシーボルトは、江戸に上り、将軍に拝謁して献上品を送り貿易に対する謝意を表す商館長の毎年の行事(のちに4年に1度)である江戸参府に同行した。当時の威福寺は、江戸へ向かう際はここで別れの宴と旅支度を改め、帰途の際は、旅装を解く重要な場所だったそうだ。

越中先生
「威福寺は、長崎に初めて天満宮を持ってきた場所でもあります。昔はお寺とお宮と一緒にあったんですね。だから諏訪神社よりも古いお宮だったんですよ。そして、明治になってここでも神仏混淆禁止令によって神様と仏様を一緒に祀れなくたったので、桜馬場天満宮となったんです。シーボルトの時代はお寺でしたが、この界隈はそれ以前、長崎の城下町だったんです。さて、私はこの天満宮の中にあるモノを見つけましたのでご案内しましょう。」

隣のビルの壁面を削ってまでいかされた鳥居をくぐり抜け、すぐ左にある階段を下り、天満宮を取り囲む石垣に注目!
越中先生
「私がこの威福寺を調査しているときに、いろいろみつけたんですが、一つはこの石垣の中にキリシタン墓碑がでてきたんです。ここに石垣を作った年号が書かれているんですが、この石垣を作るときに、キリシタンの墓を壊してはめ込んだんですね。長崎の町ではよくありますよ。それが2つもあるんですよ。」

確かにこれは以前目にしたことがあるキリシタン墓碑の形。裏返った形で石垣にきれいにはめ込まれている。そして、石垣をよくよく見てみると、時代によって、石の種類、積み方に違いがあることがわかる。

星取墓地公園登り口の不思議な石積み  長崎市星取2丁目

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星取墓地公園登り口の不思議な石積み  長崎市星取2丁目

星取山のNTT長崎統制無線中継所の南東側尾根にある大正寺管理「星取墓地公園」。公園内の陸軍省「長崎要塞第二地帯標」の標石が、執念で掘った高橋氏によって「第二十七号」と番号確認のうえ、どう埋め戻されているか、宮さんの記事もあり先日2日11日、確認に行った。
墓地公園の要塞標は、次を参照。 https://misakimichi.com/archives/536

この1枚目写真の左側、九電送電鉄塔が立つ場所は、墓地から一段低く草の広場となっている。墓地公園への登り口道路となっている。鉄塔の根元にある石積みがある。以前見かけたときは、旧戸町村との藩境石塚かとも感じたが、そんなに古い石積みではない。
結構大きいので、今回よく写してきた。コンクリートにより固めた所がある。何か記念碑が立っていて、記念碑が倒れ横にした台部分とも思える。

上には平たい大石を乗せてかぶせている。表面に線刻がある。この字をどう読めるだろうか。「山下」?とかは、かろうじて読める。記念碑か顕彰碑、特別な墓石とも思える。
さて、この石積みの正体は? 地元か地主、寺あたりに聞いたら、すぐわかるだろうが、手間がいる。謎は多い方が楽しい。どなたか知らないだろうか。

野母崎海岸で発見された長崎初の恐竜化石

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野母崎海岸で発見された長崎初の恐竜化石

毎日新聞2010年7月3日付の記事は次のとおり。レプリカが長崎市野母崎行政センターで16日まで展示されているので見に行った。資料は会場パネルとなった配布されたパンフレット。
レプリカは7月21日から長崎市科学館(油木町)で展示され、化石実物が9月初めから同館で公開される。
1962年、高島炭鉱から見つかった上腕骨は、日本最初の恐竜化石ではなく、哺乳類と訂正されている。最後の写真は野母崎行政センター玄関ホールの壁画。

長崎初恐竜の化石 ハドロサウルス類と確認 野母崎で

長崎市野母崎の海岸から白亜紀後期(1億年〜6500万年前)に生息した大型草食恐竜ハドロサウルス類の化石が見つかったと、福井県立恐竜博物館が2日、長崎市で発表した。
全国で恐竜化石出土例は二十数例あり、長崎県内から恐竜化石が発見されるのは初めて(全国18道県目)。ハドロサウルス類は幅広いくちばしを持ち、主に二足歩行したという。化石は左ひざ頭部分で幅約28センチ、高さ約30センチ。個体の全長約10メートルと推測される。

同博物館の宮田和周(かずのり)主任研究員が04年、西九州の地層研究のため野母崎を訪れて発見。形状などから09年にハドロサウルス類の化石であることを確認し、修復作業を経たうえで発表した。
同博物館の東(あずま)洋一特別館長は2日、長崎市役所で田上富久長崎市長に報告。「恐竜化石で、部位がわかりやすいものはまれ。長崎市の地層から今後も重要な資料が発掘される可能性が高い」と話した。
5日から長崎市役所などでレプリカが公開され、9月初めから実物が長崎市科学館で展示される。  (毎日新聞 2010年7月3日)

手 袋 岩  長崎市戸町4丁目

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手 袋 岩  長崎市戸町4丁目

女神大橋の戸町側歩道の右方のピークに、大きな岩があり、岩の下に不動明王などの石祠が見える。戸町辺りから眺めると手袋のように見えるので、「手袋岩」と呼ばれている。
この岩には、女神大橋側から登れない。トマス金鍔次兵衛が隠れたという金鍔谷の平屋建物の真照寺の後ろを通り登る道が、かろうじて残っている。
「金鍔谷」の2008年12月記事は、 https://misakimichi.com/archives/1503
ほしなべ氏「金鍔の手袋岩」記事は、http://blogs.yahoo.co.jp/hoshinabedon/24087816.html

4月13日夕方近く、金鍔谷から訪ねてみた。寺の後方の道脇にすぐ地蔵1体が立ち、この道が本道と思われる。荒れているが、踏み跡を金鍔谷の上方へだいたいまっすぐ登って行くと、約20分ほどで「手袋岩」へ着く。
岩は小岩と大岩がつながり、これが戸町側から手袋の形に見えるのではないだろうか。鞍部から両方の岩へ上がれるが、危険なので十分な注意が必要である。
小岩に地蔵2体(1体は首なし)、大岩の後ろへ回り込むと女神大橋から見えた不動明王と女神像の石祠があった。長崎港口の高い所にある岩の上。展望は写真のとおりすばらしい。

岩永弘氏著「歴史散歩 長崎東南の史跡」2006春刊の96頁による説明は次のとおり。
魚見岳台場跡にあるような明治時代の「女神検疫所境」標石があると聞いていたので、探したら現在の長崎検疫所側へ向かう尾根上に、1本が残っているのを確認した。

手 袋 岩

金鍔大師院真照寺(長崎四国第24番霊場)背後の山は、丁度戸町辺りから眺めると手袋の様に見えるので付近の人は手袋岩と呼んでいます。裏山一帯は急峻な森林地帯で、少し冒険心が必要で真上に屹立した大岩があります。頂上の岩祠に不動明王と女神像が祭られ、秘境地の感があります。

湾月石(三日月石)ともう1つの大石  長崎市伊良林1丁目

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湾月石(三日月石)ともう1つの大石  長崎市伊良林1丁目

長崎市伊良林1丁目の光源寺近くの2つの霊場に、それぞれ大石が祀られている。湾月石(三日月石)は長崎名勝図絵にも紹介されている珍しい石らしい。
岩永弘氏著「歴史散歩 長崎東南の史跡」2006春刊の35、40頁要旨は次のとおり。

光源寺右側の路地に長崎西国第21番霊場があり、堂の横に長さ1mの半月形の凹みがある大石がある。古来「湾月石」の名で神石として祀られ、眼病を患う者が祈れば応えがあると伝えられている。「三日月石」とも言う。
もう1つは、光源寺から若宮通りを歩いて1分先、長崎四国第41番霊場の伊良林観音堂の左側。巨石は幅3m、高さ2m。刻まれた字は経年、読めるのは「安永三甲午天(1774)奉納大無妙典全部塔」とある。大石前に石柱は「弘法大師霊場第六番札所・大正十五年四月」

HP「広助氏の丸山歴史散歩」の2004/07/09記事によると次のとおり。
B−26:灣月石(わんげついし/みかづきいし)【光源寺境内】
灣月石は光源寺の裏手にある巨大な石のことで、真ん中に三日月の形をした傷があります。江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会にも紹介され、現在もそのままの形で残っています。
一方、光源寺山門前のから若宮稲荷神社の方に進むと伊良林観音堂(沿革不詳)がありますが、そのお堂の脇にも大きな石があって、一説には、空の上からお月様が落ちて来てお月様は途中で半分に割れ、一つは光源寺の横に、もう一つは伊良林のところに落ちたといわれています。

小ヶ倉水源池上の立岩  長崎市上戸町

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小ヶ倉水源池上の立岩  長崎市上戸町

次は長崎市上戸町、小ヶ倉水源池上の立岩。星取山のアンテナのちょうど下くらいの山中となる。見事な垂直岩で大師堂がある。戸町・田上間の新道ができて、行きやすくなった。
小ヶ倉水源池の左側から新道を田上へ上がって行く。逆に田上の準提観音から市民の森への車道を行き、途中の分岐から下る。分岐に「立岩大師堂 徒歩約10分」の案内標識がある。
岩永弘氏著「「歴史散歩 長崎東南の史跡」2006年春刊の67頁による説明は次のとおり。

立 岩 大 師

準提観音より市民の森への道を5分ほど下り、戸町線道路の道を600m下ると、右側土手に立岩大師の案内表示があり、巾1mのセメント道があります。谷に向かって70mほど下ると霊場立岩大師があります。深山幽谷の地です。通り抜け洞穴、石仏・女神・地蔵などが祀られています。
今は雑木が茂り山道も判然としませんが、茂木戸町間のルートとして、道行く人々もお参りしたことが考えられます。田上の先、河平バス停下の谷道、茂木旧道に「戸町二至ル」の碑が残っており、山を越えてこの谷を下って行ったことでしょう。
戻って新道を下って行き、小ヶ倉水源池わきを通り、戸町バイパスへ出ることになります。

茂木の立岩 (2)  長崎市茂木

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茂木の立岩 (2)  長崎市茂木町

茂木から宮摺へ向い、潮見崎先の「立石」バス停から海岸を歩いて行く。茂木町教育委員会「茂木町郷土誌」昭和33年刊、第10章観光茂木の136頁による説明は次のとおり。
大田南(蜀山人)の歌がある。「またたくひあら磯浪のたて岩を 島このみする人にみせはや」
(2)は、潮を見計らって12月17日午後に再訪。立岩の近景。岩の裏側にも回った。

立 岩

注蓮ヶ崎の後にあたり、海辺をはなれて海中にあり、悄然としてそびえ起り、衝き立ち秀でる頂上に松あり、昔は五葉の巨松なりしが、中頃枯れて後又生れ出たるは常の松なり、隻巌ならび立つ、一つは大きくして数十丈、一つはやや低し、盆石を見るごとし。  (長崎名勝図絵より)

茂木の立岩 (1)  長崎市茂木町

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茂木の立岩 (1)  長崎市茂木町

茂木から宮摺へ向い、潮見崎先の「立石」バス停から海岸を歩いて行く。茂木町教育委員会「茂木町郷土誌」昭和33年刊、第10章観光茂木の136頁による説明は次のとおり。
大田南(蜀山人)の歌がある。「またたくひあら磯浪のたて岩を 島このみする人にみせはや」
立 岩

注蓮ヶ崎の後にあたり、海辺をはなれて海中にあり、悄然としてそびえ起り、衝き立ち秀でる頂上に松あり、昔は五葉の巨松なりしが、中頃枯れて後又生れ出たるは常の松なり、隻巌ならび立つ、一つは大きくして数十丈、一つはやや低し、盆石を見るごとし。  (長崎名勝図絵より)