長崎の石・岩・石造物 (長崎市)」カテゴリーアーカイブ

金 鍔 谷  長崎市戸町4丁目

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金 鍔 谷  長崎市戸町4丁目

約370年前、西坂の地で殉教し、先週の11月24日に行われた列福式で、福者に列せられたトマス金鍔次兵衛。禁教の時代にあって、キリシタン迫害の中、人々の救いのために命を捧げた。
次兵衛神父が潜伏した外海・神浦扇山町の「次兵衛岩」洞窟は、長崎さるくガイド山崎政行氏が、25年前に奥深い山中で発見した、列福式にあわせた探訪会と現地記念ミサの様子が、全国にテレビで流れ、山崎氏は朝日新聞「ひと」欄に紹介された。
12月6日には、長崎学さるくでも「次兵衛岩」洞窟を訪ねる行事がある(空き人員少々)。

ところで長崎市戸町にある「金鍔谷」。知っている人は多いが、洞窟内部はあまり写真により紹介されていない。自宅へ帰る途中の国道499号線脇なので、寄ってみた。
女神大橋の手前に「金鍔」バス停があり、信号機のあるところから左の坂段を登るとすぐである。
長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」平成14年刊、108頁による説明は次のとおり。
後ろの写真は、夫婦川町・片渕2丁目の城ノ古址。「不動堂」と龍頭岩左の窪地、「金鍔谷」と呼ばれるのはこの一帯か?。
西坂町の日本二十六聖人記念館の庭には、武士姿の金鍔次兵衛像がある。

227 金 鍔 谷  (所在地:長崎市戸町4丁目30番)

金鍔谷は、金鍔次兵衛が潜伏した所と伝えられる。次兵衛は大村の生まれで、最初、有馬のセミナリョで教育を受け、さらにマニラのコレジョに進み、アウグスチノ会の修道士となり、トマス・デ・サン・アウグスチノと称し、後に神父に叙階された。
寛永8年(1631)頃、密かに帰国、以後、キリシタンの指導にあたった。次兵衛は長崎奉行所の馬丁などいろいろな者に変装したが、特に武士に変装、金鍔の脇差を帯びていたので、金鍔次兵衛と呼ばれた。次兵衛の探索は日増しに厳しくなり、同11年(1634)には佐賀、平戸、島原、大村の4藩に命じて、西彼杵半島全域で山関と呼ばれる大掛かりな山狩りが行われたが、次兵衛の行方はわからなかった。
しかし、同13年(1636)ついに捕らえられ、苛酷な拷問の後、西坂で穴吊りの刑で殉教した。現在、次兵衛が潜伏とした所は、金鍔谷とか次兵衛岩とか呼ばれ、この金鍔谷の他、琴海町の次兵衛岩や城ノ古址の金鍔谷なども著名であるが、特に城ノ古址の金鍔谷は、次兵衛が志賀親朋によって逮捕された所という。

戸石の銀鉱跡?金山(かなやま)  長崎市戸石町

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戸石の銀鉱跡?金山(かなやま)  長崎市戸石町

布袋厚氏著「長崎石物語」長崎文献社2005年刊146〜147頁に、明治の終わりころまで続いた「川平金山」の話がある。
私も現地を実際に調査し、2カ所の坑口跡が、今も現存しているのを確認している。市南部の藤田尾海岸にも金山跡がある。
川平金山の項を参照。 https://misakimichi.com/archives/262
藤田尾の金山は次項。 https://misakimichi.com/archives/281

「川平金山」は長崎市の北部地域。同著によると「川平金山の一帯から、西は長崎市と時津、長与が接する百合野付近、東は帆場岳をへて現川周辺にいたる東西10km、南北5kmの範囲に、安山岩質のマグマが地中で冷えて固まった岩石が分布している」
「川平の金鉱は、川平閃緑岩類の岩石に微量にふくまれていた金が熱水によって溶けだし、特定の場所にあつめられて形成された」そうである。

私が今回訪ねたのは、市の東部地域、「戸石の金山(かなやま)」である。下記の東長崎郷土誌により最近、その存在を知った。
現川周辺の延長線上に位置するが、「川平金山」と同じ岩脈か、別の岩脈か、私には何も説明ができない。中尾には銀山があった古記録がある。八郎川を挟んだ戸石のは、単純に図から見ると「行仙火山岩類」の区域である。
11月17日(月)に長崎学さるく「三ツ山と六枚板の史跡をさるく」において、江越先生を講師として川平金山跡を訪ねるため、戸石の金山も早急に確認しておく必要があった。

戸石町の現地は、長崎市立戸石小学校の正門の方から戸石保育園前を通って、奥へ入る道路がある。東長崎ゴルフガーデンの裏手山腹を行き、農園入口で行き止まりとなっていた。
ちょうどこの区間の中間ほどの谷間に、大きなミカン農家と倉庫があり、その先にすぐ1軒の空き家が右手の石垣上にある。この家の横の岩面に、写真のとおり坑口を開けていた。

柵をして横穴の中は立ち入り禁止。水を抜いている2本の塩ビ管がある。小さな穴が空いて水が噴出していた。
近所のミカン農家の主の話によると、この横穴はかつて、「金」でなく「銀」を採掘した坑道跡のようである。山の反対側の民家の方に出口があった。入口の柵から中に入ってもすぐ崩壊があり進めないし、出口側も崩壊のたため、今は確認できないということであった。

今回の報告はとりあえずここまで。詳しい資料が見当たったら、また報告したい。
東長崎地区連合自治会編「2000年の東長崎」平成13年刊、郷土の誇り31頁による説明は次のとおり。
29 金   山 (かなやま)

戸石小学校の裏山を一つ越すと俗称かなやまという所がある。そこに一軒の家があるが裏手の山腹におよそ千五、六百メートルの横穴がある。入口は狭いが中に入るにしたがって広くなり、こうもりがすんでいる。
人々は昔、金を採掘した跡だと言っているが、地質は安山岩で、岩石中にも、洞内から流れる水にも金属光沢のある鉱物を含んでいるが、繊弱な岩石であるから金鉱であるかは疑わしい。十数年前まではこの清水を薬湯として入湯したものであった。

長崎の長寿者顕彰碑  長崎市東小島町    

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長崎の長寿者顕彰碑  長崎市東小島町

長崎に江戸時代の長寿者を顕彰した古い石碑が残っている。長崎市丸山町の料亭「青柳」に陰陽石を見に行った時に聞いたのだが、「上の墓地にも珍しい石がある」とわざわざ女将さんが案内してくれた。
青柳の玄関前から30mくらい坂道を登った正覚寺の上の墓地内、浦川家の墓所。
背丈はある細長い石柱。刻字は「寶?暦三年葵五月」(1753年)、「白米拾俵」、「志摩?」が読み取れる。女将さんの話では、100歳を迎えた長寿者がいて、長崎奉行から米10俵を賜った、という石碑だそうである。

女将さんが石碑を教えてくれたから、料亭青柳HPの「広助氏の丸山歴史散歩」を見ると、次のとおり紹介があっていた。
最後の2枚は、長崎グラバー園の最奥、旧スチイル記念学校の土手で見た石碑。「昭和五年四月十二日 ミキ リンジャ」と刻んでいる。何かわからない。知っている方がいれば教えてほしい。

「長寿の塔」 2005年6月25日記事

C−39:明治屋(浦川家)墓所【正覚寺墓域】
江戸末期の嘉永5年(1852)小島郷に住む明治屋九右衛門の妻(セキ)は100才という長寿となり、当時の第105代長崎奉行牧志摩守義制から米10俵の褒賞をもらいます。セキの出生は宝暦3年(1753)で、褒賞をもらった嘉永5年(1852)で亡くなりますが当時としては大変珍しいことで、墓碑には没年のほか出生年まで刻まれ、さらに墓碑の前には褒賞を頂いたことなどが刻まれた長寿の塔が立っています。
なお、夫である明治屋九右衛門は73才で亡くなっています。
墓碑「宝暦三年出生 嘉永五年 満壽正百歳卒」
長寿の塔「右者長寿ニ付御手当米十俵被・・大和守殿被仰渡・・牧志摩守殿被」

(追 記 平成21年1月23日)
正覚寺の上の墓地内の碑は、長崎に関するあれこれ、よもやま話HP「長崎雑記帳」にも「長寿の碑」として掲載されていることがわかった。同説明は次のとおり。

長寿の碑     08・4・25

新長崎年表(長崎文献社)1852年の項に、わずか一行「小島郷、セキ、長寿のため米10俵を給与される」との記述がある。
正覚寺の墓地内に、法名、浄誉壽光大姉のお墓と、その前に、この史実を記した石碑が建っている。石碑はかなり朽ちていて判読できない部分もあるが、江戸時代、宝暦3年(1753年)生まれのセキ女が嘉永5年(1852年)100歳となり、久大和守が仰せつけ候段牧志摩守(時の長崎奉行)が、お手当米拾俵を与えたことがわかる。碑文の久大和守は幕府老中、久世大和守広周と思われる。(1851年〜1855年老中在職)
かの時代に100歳を迎えたこと自体は驚異的なことであったに違いなく幕府の耳にも届いたのであろう。長寿にご褒美が出ていることが嬉しい。今の政府や多くの自治体首名は見習うがよい。
今から10年余も前のことではあるが、アメリカの先住民地区を訪ねたことがある。食事時のこと、最初に食卓についたのは老齢者である。ついで子どもと女性、訪問者である我々を含めて働き盛りの青壮年は最後であった。高齢者は尊敬を受け、大切にされる。これが本来の人間社会の姿である。

鎮鼎同窓会記念碑  長崎市浪の平町

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鎮鼎同窓会記念碑  長崎市浪の平町

国道449号線により戸町方面に向かい、浪の平交差点から左折して「長崎市南公民館」まで行く。公民館の横に老人福祉施設「つばき荘」が併設され、車道はカーブして南山手へ上がる。
「鎮鼎同窓会記念碑」は「つばき荘」の裏にあり、車道がカーブするところに入口の石段がある。碑面が車道側を向いていないため気付かないが、立派な大きな記念碑である。

長崎市南公民館やつばき荘の今の敷地は、明治初期に地元の実業家(貿易商・書家)小曽根乾堂により建てられた鎮鼎小学校(当初は小曽根小学校)の跡地である。
長崎市立浪の平小学校の前身となるが、浪の平小学校も学校統廃合により2007年3月に閉校。4月からは北大浦小学校・南大浦小学校と統合し長崎市立大浦小学校となっている。

岩永弘氏著「歴史散歩 長崎東南の史跡」2006年刊、90〜91頁による説明は次のとおり。
明治30年頃の同校舎の古写真は、HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベースから。

(2)鎮鼎同窓会記念碑 (南公民館右土手小庭内)

太平寺脇の坂段を上がり、上の道路に出ると100m先方に長崎市南公民館があります。この入り口の右庭に畳2枚程の大石の記念碑があり、鎮鼎同窓会昭和十年五月小曽根星堂書と刻してあります。浪の平小学校の前身は、明治11年(1878)小曽根乾堂が私費で建てた小曽根小学校で、明治20年(1887)校舎を新築して鎮鼎小学校と改称しました。そして背後の鍋冠山は別名鎮鼎山とも呼ばれました。

【鎮鼎:ちんてい】明治4年(1871)5月、日清修好条約の為、全権大使伊達宗城に書記として従った小曽根乾堂が天津で李鴻章に会い、篆刻を与え李鴻章からは鎮鼎山房の書をおくられたので、これをとって呼ばれたものです。

戸石の六地蔵塔  長崎市戸石町

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戸石の六地蔵塔  長崎市戸石町

長崎市にあるものでは一番古い。市指定有形民俗文化財。長崎市戸石地区事務所のすぐ裏手の山中高台にある。地区事務所入口の消防建物の左角から細い道を上がって行くとすぐである。現地説明板は次のとおり。
最後の写真は、諌早市唐比天満社の六地蔵塔を参考のため。

市指定有形民俗文化財   戸石の六地蔵塔    指定年月日 昭和52年7月20日

この戸石の六地蔵塔は、肥前東部旧佐賀領を中心に分布する重制石幢(とう)の六地蔵で、この型式の六地蔵は、筑後肥前型と呼ばれ室町時代中期以後、江戸時代前期にかけて流行したもので、長崎市にあるものでは一番古い。
基礎と竿石は連続二石積みの角柱である。竿石には円・角・月型の彫り抜きがあり、各地蔵は蓮台に立つ厚肉彫りの立像である。
島原の乱(1637〜1638)後、この地に宝瑞庵が創設されたといわれるが、六地蔵銘は慶長9年(1604)であるから、これよりも古く、もともとこの地に存在していたものか、宝瑞庵創設後他から移したものかは不明である。
長崎市教育委員会  (62.12設置)

深堀城山の善長谷の座禅石  長崎市大籠町

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深堀城山の善長谷の座禅石  長崎市大籠町

深堀の菩提寺、六代賢外普門和尚が座禅を行い悟りを開いた。「座禅石」が寺背後の山、深堀城山(標高350m)の北西側山腹、善長谷に残っているという。

善長集落へは、深堀または平山台から行き、大籠町の迎川橋脇に教会入口の案内標識がある。善長谷カトリック教会前に車を置き、集落の横道により畑地の中を深堀方向へしばらく行くと山腹鞍部に出て4叉路となる。右上の山頂八幡社への参道山道を登ると、すぐ「←お水・座禅石」の標識があり、左へ入る。230歩で座禅石に着く。
幹まわり3.7mのタブノキ老木が横に立つ。お水場はさらに120歩先の沢である。

座禅石には、たしかに五言絶句のような刻字があった。字が小さく読み取れない。深堀の歴史を良く識る有海の森節男氏を訪れて聞いたが、文意を記録したものはない。自分も何と刻んでいるかわからない。菩提寺も同じであった。一度、拓本を取る必要があるだろう。下の谷に二つに割れた石の痕跡を探したが、何もなかった。

中尾正美編「郷土史深堀」昭和40年刊の説明は次のとおり。

(三八) 座 禅 石
菩提寺六代賢外普門和尚が座禅を行い悟りを開いた処で、此の故に禅定谷と呼ばれる様になり訛って善長谷となったとも言われる。此処には五言絶句の石があるが、現在は風化してその文意さだかならずして且つ二つに割れている。座禅をしたであろうと想像される境石をもって仕切ってある。
此処の空をおほふ老木は其の当時のもので今に到るも繁茂しこれを切れば祟があると信じられて誰も伐る者がない。

(三九) 藩主の水
座禅石より東約百米の谷に清水が垂れ落ちている。現在は善長部落の用水に取水されているが、盛夏時には渇水する程の水量である。善長にお水方がいて所要に応じて運んでいた。

長崎市立図書館敷地に残った新興善小学校の跡碑と樹木  長崎市興善町

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長崎市立図書館敷地に残った新興善小学校の跡碑と樹木  長崎市興善町

長崎市立図書館は、平成20年1月5日オープン開館する。前の新興善小学校の跡地。校舎の正門あたりだったところの角に、学校の歴史を刻む跡碑が樹木と共に残された。
図書館の前にある「メモリアルの森」の説明板は次のとおり。

メモリアルの森

この敷地には、原爆が投下された後、救護所として利用された長崎市立新興善小学校が建っていました。
敷地に残る跡碑と共に樹木を移植、保存し歴史を引き継ぐメモリアルの森とします。
跡碑
特設救護病院の跡碑
新町尋常小学校跡碑
長崎市興善尋常小学校碑
地恩報徳
校名札(正門)
保存樹

いちょう
ハクモクレン
ヒトツバダゴ

高浜の「石鍋」と岬木場の「鍋岩」  字名の謎

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高浜の「石鍋」と岬木場の「鍋岩」  字名の謎

為石石鍋製作所跡は、三和中学校上の墓地から左の寺岳登山道に入る。すぐ白川稲荷神社で赤鳥居道を登り、上祠から下に下ると右手の山際に跡の岩面2つがある。掘りかけの途中の石鍋も残る見事な岩面である。すでにこれは前に紹介している。

高浜にも「石鍋」という字名がある。長崎市高浜公民館の以前の講座資料、松尾秀喜氏作成「たかはま字名の由来考」44〜45頁は次のとおり。
本村名 石 鍋 いしなべ
いしなべ…は、石で作られた鍋や釜の作り出された所の字名でしょう。長崎新聞社の長崎大百科事典によると、平安期末から鎌倉期に西日本一帯に使用された石鍋(石材・石製)には硬質の滑石が用いられ、その製作所跡が西彼半島、野母半島の山中に見られる…と記されてあるところから、此処の石鍋の字名も石鍋作製による字名でしょう。
長野観音さんの手洗器と八幡神社の手洗器は石鍋の原型ともいわれる。当地の石鍋の由来。

長野観音堂跡の公民館庭先にある手洗石も前に写真で紹介した。さて、この高浜の「石鍋」の字名。地元の人に場所を聞いて探しに行った。野母崎高校のずっと上の方の谷間で大野集落となる。中を川が流れ、橋の左上斜面をいう。川を上流へつき上げてずっと付近を調べたが、人工的な岩面は見あたらなかった。このあたりの畑所有者本村さんや字名資料松尾氏の話でも何も残っていないそうだ。 驚いたのは、この川に小さいながら落差10mほどの見事な滑滝があった。滝の名前はないらしい。

返って橋の下流側に、写真のとおり人工の跡がある大岩と小岩があった。大岩は上に祠が祀られ、下部はえぐられ自然のものかどうかわからない。
近くにある小岩は石材として切り出されたような跡がある。畑の人に聞くと明治時代造られた長野観音堂の石垣は、ここから石を出したという話であった。しかし、ここは字名の「田郷」となる場所である。この岩も名前はないらしい。

あと1つ岬木場の「鍋岩」は、昭和62年「木場子供会発表会資料」3班の項に次のとおり記されている(資料は高浜公民館保存文書)。
”なべ岩”について
1 目  的
・身をかくすため
2 長  さ
・横に約150mあり、老人の話を聞くと10mぐらいは中に入っていかれたそうです。
3 由  来
・なべの形をした岩が見つかったから「なべ岩」と呼ばれています。
・平家の「おちびと」ががたどりつき、ほったものと言い伝えられています。
4 生活した様子
・岩に「のみ」でけづったあとがある。
・焼山に段々畑があり、そこで作物を作っていたとみられる。
・中に入った人の話によると、入り口のところに物をついたうすがあったそうです。
現在は土が積もって形しかわかりませんでした。

「なべ岩」のこの資料による場所絵図は上に掲げた。描かれている運動場の位置から、今の岬木場バス終点の上方でゴルフ場の進入道路となっているあたりの山でないだろうか。運動場は、サイクリング道路の一段下に見るグランドのようだ。この上はゴルフ場敷地となって、今は調べようがないと思われる。

樺島のミニ神社「伊津岐島神社」  長崎市野母崎樺島町

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樺島のミニ神社「伊津岐島神社」  長崎市野母崎樺島町

長崎市野母崎樺島町のバス終点のすぐ先、「かばしま ふれあい広場」の中にあるミニ神社。資料を調べてもう少し詳しく紹介したいが、何も持ち合わせがない。ご覧のとおり鳥居が小さく、高さ1.6m、柱の間は1.3mしかなかった。
鳥居には「伊津岐島神社」「大正八年八月建立」「樺島村弁天町中」と刻まれている。宮島の「厳島神社」の流れをくむ神社だろうか。

安産祈願などで、女性が這って鳥居をくぐる神社があるが、樺島の「伊津岐島神社」のは中途半端だった。何なのか、広場にいた地元のおばさんに聞いてみた。
昔はここはまだ樺島の湾内で海だった。岩礁がありその上に祀っていた神社だったので、鳥居は小さかった。岩があった同じ場所にそのとおり復元しているということだった。

「ラビリンス」郊外編として、またまとめて紹介したい。

「歳旦塚」(さいたんつか)は芭蕉の句ではない

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「歳旦塚」(さいたんつか)は芭蕉の句ではない

長崎市西山本町9番30号松本宅の家囲い一段下の庭にある。「長崎の歳旦貰ふ歳暮哉 芭蕉翁」と刻まれ、「歳旦塚」と言い芭蕉の句として紹介されることが多い。本ブログ先項も他本から間違って紹介していた。

実はこの句は芭蕉の句ではない。西山の中尾氏の協力により文献があることがわかった。長崎手帖社「長崎手帖 No.11」昭和33年1月25日発行の「碑をたずねて 6」27頁に、次のとおり中西啓氏の稿「歳旦塚について」があったから載せて訂正したい。
長崎にある句碑は、タッちゃんのブログ「あしたのビルフィッシャーのために(その1)」がよく調べられてわかりやすい。「歳旦塚」を参照ください。「長崎名勝図絵」も『傍に芭蕉翁の歳旦塚あり』と記述しているらしい。

歳旦塚について    中 西  啓

西山の奥、椿原の祗樹林(旧崇福寺末庵)の跡に歳旦塚と呼ばれる巨石が残っている。
歳旦塚という名は、芭蕉翁の句として
長崎の歳旦貰ふ歳暮哉
を巨石に刻んだ為に起ったものであるが、これは実は江戸座の俳人湖十の作で、芭蕉の句ではない。然し長崎の大原洵美及び加賀金沢の暮柳舎三世北圣が志主となって祗樹林の境内にこの句碑を建立した時は既に芭蕉に仮托されたものである。
金沢出身の梅室は化政時代の大家であるが、この句を称して文政二年刊、古賀梅調の「牛あらひ集」の序に引用している程である。但し梅室は「六七十年むかしの句なるよし」と云っていて、芭蕉作とは述べていない。そしてさすがにこの句の意味も正しく理解している。
元来、この句は歳旦の意味が判らなくては句意も摑めないであろう。即ち、この歳旦は当時年始に発行されていた歳旦帖のことで、年末に長崎の歳旦帖を貰う程交通が開けていることを詠ったものである。先頃、長崎で出された二・三の歳旦帖を管見に入ったので別の機会に紹介したいが、長崎の歳旦は当時としては特異なもので、在留唐人に題字を書かせたものもあり、今日も尚何となくエキゾチックな匂いを保っている。
この句碑が特に意義があるのは、芭蕉の誤伝句を伝えたということの他に、寛政十年作劉雲台の七言詩と、陸秋実撰、程赤城書の長文が刻まれているからである。秋実の文には芭蕉が長崎に来遊したかの様に記してあり、芭蕉の九州来遊のことを記した偽書簡が流布していた頃とは云え、祗樹林が西山に移ったのが芭蕉没後であることも考慮してないけれども在留唐人が俳諧を理解する上に一つの契機を与えたものとして国際文芸交流の大切な郷土史蹟と云えるであろう。然しこの句碑も次第に曾っての清閑な環境を失って了ひ、歳旦の意味と共に忘れ去られようとしている。                                  (筆者 長崎学会々員)