金鉱の夢をかけた藤田尾の「金山」(かなやま)

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金鉱の夢をかけた藤田尾の「金山」(かなやま)

次は三和町教育委員会広報誌「あなたと広場」No.234平成13年11月号の掲載記事。浦里宇喜男さんの「三和町内地名のルーツ その23」から藤田尾の金山海岸に金鉱坑道跡が残る話。このシリーズは本にまとめられ、三和公民館にある。
別項の川平金山の跡を探す前、浦里先生や藤田尾荒木氏から場所を聞き、金山海岸一帯を一度、平成19年8月23日に藤田尾側から探しに行ったのだが、わからなかった。

9月15日再調査。今度は別項の「天保8年領界目印石」のある飛瀬海岸道から下り、海岸伝いに藤田尾側へ探す。約20分ほど行ったところに小川が流れてきており、赤茶けた鉱脈の地層の岩壁にポッカリと坑口を開けていた。
中に入ると反対側の岩面からも坑口を造り、合流した所は広々とした地下空間。次の記事どおり見事な坑道跡が残っていた。市内で第1級の金山跡の史跡である。採掘がいつの時代のものか詳しく調べたい。

この川口は、字「昼ヶ迫」と字「金山」の境。藤田尾のやや手前となる「三和工業残土埋立地」の下側海岸となる。これより川沿いに下る道が当時の道だったが、排水溝が造られ下りにくい。
8月に行ったときは、もう少し海岸を行けば坑口を見つけたのにすぐ手前でやめていた。海岸の岩に黄色ペンキで大きく「6」と「5」とか書かれており、その間のちょうど中間地点となる小川の脇である。字図に場所を赤点で表示した。

なお、坑内地面に写った黄ビニールの土のう袋は、最近、防空壕跡などで子どもの事故があり、危険防止のため全国各地でこのような入口が塞がれた。
ここも土のうで塞いでいたが、台風の風波で壊れ、中に押しやられたものである。

その23 金鉱の夢をかけたのか藤田尾の「金山」  三和史談会 浦里宇喜男

為石の町並みから約一km、藤田尾地区に入ってからすぐのところに「金山」(かなやま)なる字名がある。また、地元藤田尾では「かなほり」との別名もあるという。県道野母崎宿線から海岸にかけての斜面一帯で、現在は楠などの大木が繁茂しており、結構な深山である。
去る十月八日、史談会の中島勇先生の案内で、坑道跡を訪ねてみた。県道より海岸に向かっての急傾斜を一歩一歩踏みしめながら下りて行くと、天草島を真正面に見る海岸に到着する。

そこは小さな岬だが、大きな岩、岩の連続である。その岩を巡った所に海に向かってポッカリと口を開けているのが坑道跡である。満潮線から高さ二mの位置にある。入り口付近は、高さは一・四mほどしかないが、広さは四畳半ほどもあるので、元々は波浪による洞穴だったのだろう。しかし、内壁は削ったようにきれいに岩肌が露出して、二〜三cmの褐色の鉱脈が六本、奥に走っている。
そして、その奥に、二つの坑道が口を開けている。高さは一mほどで、右のは五〜六mほどで止まっているが、左のはもっと延びており、暗くてはっきりしないが十mはありそうだ。

それにしても、わずか三cmほどの鉱脈をよくもまあ丹念に掘り進めたものである。ほとんど無駄な部分ばっかりの石を何年掘ったのであろうか。いや、何十年掘っていったのか。いつかはきっと鉱脈は大きくなるに違いない。或いは、褐色の鉱脈がさん然と輝く金色に変るに違いない、という一念でノミを刻んでいったのか。その思いと執念に感動すら覚え、三cmの鉱脈を見つめるのである。

坑道入り口付近の岩壁には、銅を含んでいるのか岩肌が緑色になっているもの、また、鉄分が含まれているらしく、褐色に染まっているものが見受けられた。やはりこの一帯の土地は、字名のように「金属」(かね)に関係の深い土地だと痛感した。
坑道正面に立つと、左右は大きな岩礁地帯で、県道からの騒音もなく、唯々、波音だけの世界であった。