月別アーカイブ: 2011年10月

多良山系の遠目山・春日越の縦走  2011年10月

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多良山系の遠目山・春日越の縦走  2011年10月

2011年10月23日(日)曇り一時雨のち晴。多良山系の遠目山(標高849m)へ。北川内から遠目越へ上がり、遠目山・春日越の稜線縦走。参加9人。みさき道歩会の例会。
萱瀬ダム8:45発−北川内林道入口9:15ー林道終点9:50−遠目越11:15−遠目山12:30着(昼食)13:00発−春日越13:45−林道終点14:40−北川内15:30−萱瀬ダム15:45着(徒歩距離約7.2km)

長崎を車2台で7:40出発し、高速道利用で萱瀬ダムへ8:45着いた。大橋公園に駐車。歩き出したが、遠目越登山口を地元で聞くといろいろ言い、時間をロスした。
北川内は右上の奥の集落。結局、国土地理院地形図どおりの道を行くことにした。配水場先の「北川内4号橋」を回り込むと、遠目山が望める。2軒の家へ上がる直線道路が林道入口である。

左の民家前を通り、コンクリート舗装の荒れた林道をつめる。終点にレスキュー「601」のポイントがあり、正しい遠目越登山道入口と確認できる。急斜面の登りが続き、尾根状の上に出て、やっと緩やかな横道となる。ここには大きな炭焼釜の跡が多かった。
遠目越11:45着。北川内へは標識に「2.5km」とあった。

経ヶ岳−郡岳のメインルートを伝い、遠目山へ向かう。手前の815mピークに萱瀬ダムが眼下に望める岩場があった。遠目山12:30着、昼食。山頂は展望のない広場。三角点がある。
13:00発。雨模様となる。途中の展望岩は霧がかかって、景色はまったく見えなかった。春日越13:45着。経ヶ岳・金泉寺へ先の道は、会でまた次の機会としたい。

春日越から北川内へ沢沿いに下る。ゴロ石がほとんどの下山路。沢を何回か右左へ渡るので、テープに注意する。林道終点に14:40出た。萱瀬ダムまでまだ1時間を要する。
登り口の北川内へ戻り振り返って仰ぐと、今頃、遠目山の稜線が青空に映えていた。3枚目の林道入口も、帰りに撮影している。

わが庭に自然石によるアーチ式石橋を造る

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わが庭に自然石によるアーチ式石橋を造る

殺風景なわが家の庭。大きな植木鉢とゴムシート敷きの「めだか池」が3つ。「ゆうこう」の苗木を植えているが、若葉は虫に食われた。
居間のソファーからいつも見えるブロック塀の角に、アーチ式ミニ石橋を造ってみた。

材石は三和地域特産の「蛇紋岩」を、石切り場跡から調達してきた。八郎岳山系の沢に造った「乙女橋」と同じ工法だが、杉の丸太の代わりに孟宗竹の残りやブロックなど使った。
できばえは写真のとおり。

橋の長さ1m、幅0.3m、高さ(拱矢)0.3mくらい。橋名は考えている。適当な石がなかなか揃わない。支えを外して気付いたが、左側が不安定だった。近いうちにまた造り直したい。
みなさんも挑戦してください。けっこう頭と力を使う。つつましい小さな庭でも、長崎らしい見栄えのする庭となるだろう。

最後の写真は、きょう夕方の空と軍艦島(端島)。

長崎の西空の夕日  11−09

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長崎の西空の夕日  11−09

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。

写真  1〜 2  2011年 9月 6日の18時44分頃
写真  3〜 5  2011年 9月23日の18時17分頃
写真  6〜 8  2011年 9月27日の18時11分頃
写真  9〜11  2011年10月 8日の17時46分頃
写真 12〜14  2011年10月18日の17時49分頃

自然石によるアーチ式石橋「(第2)乙女橋」が完成(続き)  八郎岳山系の沢

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自然石によるアーチ式石橋「(第2)乙女橋」が完成(続き)  八郎岳山系の沢

きょうも午前中、自然石によるアーチ式石橋「(第2)乙女橋」の現地へ。曇り日で小雨となった。橋の上部を小石で埋め、歩きやすいように平らな敷石を一面に乗せた。
計測すると、橋の長さは1.5m、橋の幅は0.8m、橋の高さ(拱矢)は0.7mほど。

靴の写真のとおり、私が数回、乗って渡っても大丈夫だった。頑丈な造りにできているが、念のため「実験石橋 乙女橋 危険 通行不可」のプレートを中央に取り付けた。

自然石によるアーチ式石橋「(第2)乙女橋」が完成  八郎岳山系の沢

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自然石によるアーチ式石橋「(第2)乙女橋」が完成  八郎岳山系の沢

長崎市平山町の長崎市民農園奥の谷間に、「千々峠」(乙女峠)登山道入口がある。200mほど登ると八郎岳(標高590m)から流れる1つの沢を渡る。小滝の渕尻を飛び石で渡っているが、増水した時に渡りきれないことがある。
本年7月30日、ここに自然石によるアーチ式石橋の架橋実験をし、一応、完成させた。
その様子は次に。  https://misakimichi.com/archives/2862

この石橋は、来年夏まで持てば良いと様子見していた。1か月も経たないうちに、台風の大雨による増水で流されていると聞いた。小滝の渕尻から少し下の本流に架橋していたが、右側山手斜面からの水流も相当あったのだろう。
普段はまったく水量のない小さな流れが変わり、石橋の根元を直撃、跡形もなくなっていた。余計に作った丸太のベンチが流れ、石橋を崩したことも原因だろう。

せっかく集めた材料の石は、下流にほとんど見当たらない。また石集めからしないとならないが、再挑戦することとした。丸太は残していた。川の水が冷たくならないうちだ。
架橋場所を今度は変えた。右手岸側の岩面と水流に関係のない中央に傾いた大石の間に架けることとした。
橋の長さは短くなり、最も大事な支保工が省ける。基礎はしっかりしている。ちょうど最適な岩・石の傾斜や高さがある。休憩の水場で、渡っても先がない「モニュメント」として、見てもらう石橋で良いだろう。橋の下は、水はまったく流れない。

きのう10月13日、「(第2)乙女橋」は、丸太を抜くとガチッとかんで完成した。中央の傾いた大石先の本流へ伸ばすと、2連の立派な眼鏡橋となる立地の良いところ。次の課題で考えてみよう。木橋でも良い。
今度の石橋は、小さな橋で両側が岩面や大石のため、前より強固になっている。私が乗って渡ってみたが、大丈夫だった。中央の大石は、簡単に動かないだろう。
しかし、あくまで実験石橋。適当な大きさの材石が揃わず、重心のかけ方によって、すぐ落下することもある。危険防止のため、最後のプレートを取り付ける。

大村市の自然名所めぐり  山田の滝・萱瀬ダム・野岳湖ほか

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大村市の自然名所めぐり  山田の滝・萱瀬ダム・野岳湖ほか

2011年10月4日(火)晴。山田の滝・萱瀬ダム・野岳湖ほか大村市の自然名所めぐり。参加4人。宮さんの車で高速道利用。
山田の滝を見に行こうと誘いがあったので、23日の遠目山・春日越縦走の北川内登山口下調べもあり、4人で出かけた。ついでだから、大村市のめぼしい自然を楽しんできた。
「山田の滝」は、滝の項に。 https://misakimichi.com/archives/2909

写真は、山田神社、山田の滝、琴平岳スカイパーク、萱瀬スギ(大名杉)、萱瀬ダム、妙見岩、野岳湖、鉢巻山ヒガンバナ
「妙見岩」は、萱瀬ダムの北川内から野岳湖への車道途中にある。クライマー岩場で、ハーケンが無数に打ち込まれていた。人面岩?だな。11枚目。

宮さんのブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/28651518.html

山田神社と山田の滝  大村市上諏訪町

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山田神社と山田の滝  大村市上諏訪町

長崎自動車道大村インターチェンジから、広域農道レインボーロードに入り諫早方向へ戻る。「上諏訪橋」の大村共立病院との分岐を過ぎ、下りにかかると「山田の滝」の案内板がある。左折して川沿いに進むと、「山田神社」の鳥居に着く。

奥の社殿まで行き、両側が断崖をなす大上戸川下流域の河原を、しばらく遡行する。人面岩、題目碑の渕を過ぎると、「山田の滝」が正面に見える。
滝の上部へは、社殿手前から左手植林地内の山道を上がると、砂防ダムまで行ける。直線滝の下に「山田の滝」が落ちている。

「山田の滝」は、次のHPが詳しく調べているので参照。「大村郷村記」には、以下のような記述があるそうだ。 http://www6.ocn.ne.jp/~fukusige/oomura-waterfall/yamadanotaki.html

池田分山田の奧にあり、滝の高サ拾間程、左右山層り巌聳へ、緑樹陰林として周囲の巌壁恰も屏風を立たるが如し、水は其の巌間伝ひ漲り落ちるなり、滝壺長サ拾間、横五間、深サ五尋程(此滝壺を迹驚の淵と云ふ) 水色藍の如し、水源は城の尾山・伏勢山の両谷より出る、御手水の滝の下流なり、滝壺右の方巌壁に七面大明神鎮座あり、往昔より災旱に遭時は、里人此淵に於て雨を祈るに必応験ありと云ふ、又左の方巌壁に碑銘文あり、此滝壺の下に又淵あり、題目淵と号し、滝壺より石を伝ひ、川中を下る事凡壱町程にして七面大明神の石鳥居あり、此鳥居際右の方路傍へ岩窟あり、窟中に日迢上人の石像あり、此所より又下る事三拾九間程にて、右の方路傍に山田権現の社同石鳥居あり 次に庵室あり 滝壺より庵室の間左右険山相対し、渓間には奇岩・怪石多く、渓川は曲折盤旋して此際を漲り流れ、或は淵となり、或は瀬となる、其水至て清冷なり、又河邊及山間には桜・楓数百株ありて、桜花の爛漫、楓樹の紅葉する頃は、遠近の遊人群参して、詩を賦し歌を詠して美景を賞す、誠に幽寂の霊境なり、此川の上流に滝あり、御手水の滝と云ふ、迹驚の滝より行程四町程、此間深山にて僅に樵夫の通ふ山径あり、甚険路なり

長崎市最大のイチョウは、茂木玉台寺の木?

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長崎市最大のイチョウは、茂木玉台寺の木?

長崎市鍛冶屋町、大音寺の本堂裏手の墓地内にあるイチョウが、長崎市指定天然記念物となっている。現地説明板は次のとおり。
長崎市の文化財HPは、「長崎市では最大のもの」と解説していないが、現地説明板を読むかぎり、イチョウは大音寺のが市内最大の木であり、天然記念物指定の一要件となったと思われる。

市指定天然記念物 大音寺のイチョウ
指定年月日 昭和51年7月20日  所有者 大音寺
イチョウは、中国原産の落葉潅木で雌雄異株である。日本には鎌倉時代に渡来したと考えられ、寺院の境内に老木が多いことから、僧侶によってもたらされたという。
このイチョウは、長崎市では最大のもので、胸高幹囲3.90m、樹高20m、斜上した枝は東西19m、南北17mの樹形をつくる。樹齢は300年をこえると思われる老木のために、枝の基部から多くの乳房状の突起を出している。この木は雄株で、もちろん「ぎんなん」はならない。
長崎市教育委員会 (平成元年3月設置)

はたしてそうだろうか。長崎市茂木町の玉台寺の境内に大イチョウがある。2008年12月の記事としていた。住職の話では、寛政4年(1782)眉山噴火(島原大変)で多くの人が亡くなり、漂着した死者をこのあたりに埋めた。それを栄養に大きくなった?らしい。

イチョウの紅葉には早かったが、きのう念のため、木の大きさを計測してきた。私の計測のため正確さを欠くが、大音寺のイチョウは、胸高(地上約1.3m)幹囲4.50m、樹高25mほど。
玉台寺のイチョウは、胸高幹囲5.10m、樹高30mほどと思われる。ともに雄株で実はついてない。玉台寺の方が幹囲は大きかった。

茂木町が長崎市に編入したのは、昭和37年(1962)1月。大音寺の木の指定当時、茂木はすでに長崎市内だった。幹囲だけが必ずしも指定の要件ではないだろうが、「玉台寺の大イチョウ」も長崎市天然記念物に指定しないと、茂木地区の人にとっては、片手落ちと感じるだろう。
茂木には、玉台寺の木と対をなす「裳着神社のイチョウ」がある。これは雌株で、2本は「夫婦銀杏」と呼ばれる。胸高幹囲3.80m、樹高20mほどだった。

大音寺のイチョウと、玉台寺のイチョウは、本ブログの次の記事を参照。紅葉時の写真も出てくる。東長崎の教宗寺境内にもイチョウがある。幹囲4mくらいだろう。
出島にしかないという県指定天然記念物「デジマノキ」が、琴海の尾戸町に樹齢140年以上の木が生えていた。これらについても長崎市において正しい調査や計測をし、正確な広報をお願いしたい。

https://misakimichi.com/archives/279
https://misakimichi.com/archives/1599
https://misakimichi.com/archives/2454

https://misakimichi.com/archives/1514
https://misakimichi.com/archives/1524
https://misakimichi.com/archives/2132

同様な例だが、南島原市や島原半島世界ジオパークHPと現地説明板で、北有馬町「面無橋」が日本唯一の自然石アーチ式石橋と記していた。
長崎市本河内高部水源池のダム底に「まぼろしの石橋」が残るなど知らせた。私に返答はなかったが、項目全体の内容や写真が更新されるきっかけとなったよう。

長崎大学附属図書館の「幕末・明治期日本古写真データベース」や、国登録有形文化財「ボードインコレクション」及び同写真集の画像解説に、疑問が多いのも困っている。
文化庁に対し、研究員の配置など含め、長崎大学学長を指導するよう先月、要望した。返答は今もってない。学生に任せた方が研究となり、予算を要せず成果があろう。

長崎の古写真考 目録番号: 50 館内から出島を望む (再掲)

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  長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号: 50 館内から出島を望む (再掲)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号: 50 館内から出島を望む
〔画像解説〕 超高精細画像
日下部金兵衛アルバムに収められた一葉。旧唐人屋敷があった館内町の福建会館のあたりから長崎港を遠望したもの。画面左手の刹竿が立つところが土神堂で、中央にみえる橋が明治2年(1869)創架の梅香崎橋である。橋の左手に梅香崎の居留地の洋館がみえ、右手には旧新地蔵が並ぶ。橋の手前の入江は、現在の湊公園に当たる。新地の向こうには出島が望まれ、その右手の樹叢は小島の丘の先端で、対岸中央の山が稲佐山である。やや不鮮明ながら、出島の南東隅11番地(現神学校の場所)に建物がなく、梅香崎の海岸側には3番と4番の2棟の洋館しかないようだから、明治5〜6年頃の撮影であろうか。とすれば、F.ベアトの助手時代のものとなる。土神堂は明治維新以後、頽廃していたというので、画面と矛盾しない。手前の館内町一帯は、中国人たちが次第に前面の広馬場や大浦居留地に進出したため、空き地化していた様子がうかがえる。

■ 確認結果

目録番号: 50「館内から出島を望む」が、きょう朝日新聞長崎地域版2011年10月1日付「長崎今昔」に、「旧唐人屋敷跡から出島望む」として掲載された。
「1872年6月、唐人屋敷跡(現:館内町)から見た新地・出島方面です」「内田九一が明治天皇の西国巡幸に随行した時に撮影した写真を(日下部)金兵衛が入手したものと思われます」
撮影されている左手の白壁の建物は「ここは再度火災にあい、97年に再建され福建会館となります」「拡大すると旗竿に国旗が確認できます」と解説している。

新聞記事の解説は、ほぼ間違いなく修正されている。この作品は私が現地確認の上、2009年2月記事で、データベースの解説誤りを指摘していたので、次を参照。
https://misakimichi.com/archives/1606
「福建会館のあたりから長崎港を遠望した」のではなく、「福建会館の上から、その福建会館(現在)と長崎港を遠望した」写真である。

新しい事実がわかり、今回の新聞記事で修正されているのは結構だが、前記のとおりデータベースの超高精細画像〔画像解説〕は、明らかに事実と違うと思われる説明のまま。
「撮影者:日下部金兵衛」、「画面左手の刹竿が立つところが土神堂」と解説し、公開している。電算システムが硬直しているため、いつまでもたっても、どの作品も修正されない。
再三、要望しているが、困っているのは、利用者や出版社などである。間違って理解されないよう、早急な対応をお願いしたい。執筆者は長崎大学附属図書館長となられた。新聞記事とする前に、まずデータベースから正しくしてほしい。