月別アーカイブ: 2008年10月

長崎の長寿者顕彰碑  長崎市東小島町    

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長崎の長寿者顕彰碑  長崎市東小島町

長崎に江戸時代の長寿者を顕彰した古い石碑が残っている。長崎市丸山町の料亭「青柳」に陰陽石を見に行った時に聞いたのだが、「上の墓地にも珍しい石がある」とわざわざ女将さんが案内してくれた。
青柳の玄関前から30mくらい坂道を登った正覚寺の上の墓地内、浦川家の墓所。
背丈はある細長い石柱。刻字は「寶?暦三年葵五月」(1753年)、「白米拾俵」、「志摩?」が読み取れる。女将さんの話では、100歳を迎えた長寿者がいて、長崎奉行から米10俵を賜った、という石碑だそうである。

女将さんが石碑を教えてくれたから、料亭青柳HPの「広助氏の丸山歴史散歩」を見ると、次のとおり紹介があっていた。
最後の2枚は、長崎グラバー園の最奥、旧スチイル記念学校の土手で見た石碑。「昭和五年四月十二日 ミキ リンジャ」と刻んでいる。何かわからない。知っている方がいれば教えてほしい。

「長寿の塔」 2005年6月25日記事

C−39:明治屋(浦川家)墓所【正覚寺墓域】
江戸末期の嘉永5年(1852)小島郷に住む明治屋九右衛門の妻(セキ)は100才という長寿となり、当時の第105代長崎奉行牧志摩守義制から米10俵の褒賞をもらいます。セキの出生は宝暦3年(1753)で、褒賞をもらった嘉永5年(1852)で亡くなりますが当時としては大変珍しいことで、墓碑には没年のほか出生年まで刻まれ、さらに墓碑の前には褒賞を頂いたことなどが刻まれた長寿の塔が立っています。
なお、夫である明治屋九右衛門は73才で亡くなっています。
墓碑「宝暦三年出生 嘉永五年 満壽正百歳卒」
長寿の塔「右者長寿ニ付御手当米十俵被・・大和守殿被仰渡・・牧志摩守殿被」

(追 記 平成21年1月23日)
正覚寺の上の墓地内の碑は、長崎に関するあれこれ、よもやま話HP「長崎雑記帳」にも「長寿の碑」として掲載されていることがわかった。同説明は次のとおり。

長寿の碑     08・4・25

新長崎年表(長崎文献社)1852年の項に、わずか一行「小島郷、セキ、長寿のため米10俵を給与される」との記述がある。
正覚寺の墓地内に、法名、浄誉壽光大姉のお墓と、その前に、この史実を記した石碑が建っている。石碑はかなり朽ちていて判読できない部分もあるが、江戸時代、宝暦3年(1753年)生まれのセキ女が嘉永5年(1852年)100歳となり、久大和守が仰せつけ候段牧志摩守(時の長崎奉行)が、お手当米拾俵を与えたことがわかる。碑文の久大和守は幕府老中、久世大和守広周と思われる。(1851年〜1855年老中在職)
かの時代に100歳を迎えたこと自体は驚異的なことであったに違いなく幕府の耳にも届いたのであろう。長寿にご褒美が出ていることが嬉しい。今の政府や多くの自治体首名は見習うがよい。
今から10年余も前のことではあるが、アメリカの先住民地区を訪ねたことがある。食事時のこと、最初に食卓についたのは老齢者である。ついで子どもと女性、訪問者である我々を含めて働き盛りの青壮年は最後であった。高齢者は尊敬を受け、大切にされる。これが本来の人間社会の姿である。

鎮鼎同窓会記念碑  長崎市浪の平町

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鎮鼎同窓会記念碑  長崎市浪の平町

国道449号線により戸町方面に向かい、浪の平交差点から左折して「長崎市南公民館」まで行く。公民館の横に老人福祉施設「つばき荘」が併設され、車道はカーブして南山手へ上がる。
「鎮鼎同窓会記念碑」は「つばき荘」の裏にあり、車道がカーブするところに入口の石段がある。碑面が車道側を向いていないため気付かないが、立派な大きな記念碑である。

長崎市南公民館やつばき荘の今の敷地は、明治初期に地元の実業家(貿易商・書家)小曽根乾堂により建てられた鎮鼎小学校(当初は小曽根小学校)の跡地である。
長崎市立浪の平小学校の前身となるが、浪の平小学校も学校統廃合により2007年3月に閉校。4月からは北大浦小学校・南大浦小学校と統合し長崎市立大浦小学校となっている。

岩永弘氏著「歴史散歩 長崎東南の史跡」2006年刊、90〜91頁による説明は次のとおり。
明治30年頃の同校舎の古写真は、HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベースから。

(2)鎮鼎同窓会記念碑 (南公民館右土手小庭内)

太平寺脇の坂段を上がり、上の道路に出ると100m先方に長崎市南公民館があります。この入り口の右庭に畳2枚程の大石の記念碑があり、鎮鼎同窓会昭和十年五月小曽根星堂書と刻してあります。浪の平小学校の前身は、明治11年(1878)小曽根乾堂が私費で建てた小曽根小学校で、明治20年(1887)校舎を新築して鎮鼎小学校と改称しました。そして背後の鍋冠山は別名鎮鼎山とも呼ばれました。

【鎮鼎:ちんてい】明治4年(1871)5月、日清修好条約の為、全権大使伊達宗城に書記として従った小曽根乾堂が天津で李鴻章に会い、篆刻を与え李鴻章からは鎮鼎山房の書をおくられたので、これをとって呼ばれたものです。

長崎グラバー園のソテツ・モッコウバラなど  長崎市南山手町

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長崎グラバー園のソテツ・モッコウバラなど  長崎市南山手町

JR長崎駅から大浦方面へ路線電車またはバスにより行く。大浦天主堂下で下車。徒歩7分。大浦天主堂の横に「長崎グラバー園」のゲートがある。入園料は大人600円。
グラバー園で目についた大きな樹木。旧グラバー住宅前のソテツは樹齢300年。右側にカラタネオガタマ。旧オルト住宅前のモッコウバラは、日本最古・最大の樹で樹齢は120年ほどか。

ゲート入口近くにアコウがあり、旧スチイル記念学校前に幹囲2.6mのマキ、レストハウス近くに幹囲3.25mのクスノキ、出口の長崎伝統芸能館前の遊歩道脇に幹囲2.2mのホルトノキ。
Otoji.K氏HP「長崎の樹木」の中の街路樹による説明は次のとおり。

グラバー園

グラバー園はクスノキ、アラカシ、イチョウなどに囲まれていて、アジサイはもとより、ツツジ、バラ、モッコク、トベラ、イロハカエデ、ナンキンハゼ、キャラボク、マサキ、トウネズミモチ、サルスベリ、ツバキ、イスノキ、ホルトノキ、シロダモ、オオカナメモチなどを見ることができる。
旧オルト邸宅。日本最大の モッコウバラがある。旧グラバー邸宅。現存する日本最古の木造洋館である。すぐ側にカラタネオガタマがあり、ソテツがある。
グラバー園は、洋館が点在し異国情緒あふれる場所だが、いろいろな樹木を見ることができる植物園でもある。

旧グラバー邸宅
右側にはカラタネオガタマがあり、ソテツがある。 グラバー邸ができた時、島津藩からソテツが寄贈された。樹齢約300年になる。

モッコウバラの古木
グラバー園の旧オルト邸のモッコウバラ。このモッコウバラは、日本最古で最大と言う。イギリスの商人・オルト氏がここに邸宅を建設したのが、1867年(慶応3年) なので、モッコウバラは樹齢120年ほどにはなる。

後ろの旧オルト邸モッコウバラの写真は、平成20年12月4日に追加。

長崎グラバー園 (2)  長崎市南山手町

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長崎グラバー園 (2)  長崎市南山手町

JR長崎駅から路面電車またはバスで大浦方面へ行き、大浦天主堂下で下車。徒歩7分。大浦天主堂の横に「長崎グラバー園」ゲートがある。入園料は大人600円。
南山手・東山手一帯は、日本でも最も古い洋館が多く残る国の重要伝統的建造物保存地区。中でもグラバー園は、眼下に長崎港が広がる絶景の地、南山手の丘に立地する。

外国人居留地であったこの地にもともとあった旧グラバー住宅・旧リンガー住宅・旧オルト住宅(いずれも国指定重要文化財)が保存されているほか、市内各所に点在していた6つの貴重な明治期の洋館を移築復元し、昭和49年(1974)に「グラバー園」として開園した。

長崎グラバー園の入園パンフレットによる説明は次のとおり。
(1)に旧リンガー住宅・旧オルト住宅、(2)に旧リンガー住宅の写真。
長崎版画は旧スチイル記念学校に、くんち出し物は長崎伝統芸能館に展示。
樹木は次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1441                  
時は幕末、外国人たちの街だった、南山手の丘

鎖国の時代、西洋への唯一の窓口となっていた長崎。
開国後は、長崎、神奈川(横浜)、函館、兵庫(神戸)、新潟の5つの町が開港され、それぞれの町に「外国人居留地」が造られました。
グラバー邸があるここ南山手も、眼の前に広がる長崎の港を望み、隣の東山手の丘とともに、外国の人々や文化を受け入れる居留地として栄えていたのです。
21歳の頃、グラバーはこの辺りでももっとも見晴らしのいい場所を選び、屋敷を構えました。
その後の大戦も、グラバーの邸宅やリンガー邸、オルト邸は奇跡的に戦禍をまぬがれました。
現在は長崎市内から移築された6つの洋館とともに、当時の長崎の風景を今に留めています。

K  旧グラバー住宅
真上から見ると屋根が四葉のクローバーの形をしている旧グラバー住宅は、江戸時代末期に建てられた、日本最古の木造洋風建築で国の重要文化財に指定されています。中には愛用のステッキや釣り道具など、グラバーゆかりの品々が展示されているほか、天井裏には隠れ部屋も残されています。

F  旧リンガー住宅
英商フレデリック・リンガーの旧邸は、外壁石造りの木造住宅。優雅な南欧風バンガロー形式の建物で、明治初期洋風建築として貴重な建物となっています。

G  旧オルト住宅
江戸時代末期に天草出身の職人・小山秀之進が手がけたウィリアム・オルトの旧邸。タスカン様式の列柱が印象的で、ポーチ横には日本最古で最大級の木香バラが茂っています。重要文化財に指定され、裏手には当時の厨房や貯蔵庫がそのまま残されています。

長崎グラバー園 (1)  長崎市南山手町

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長崎グラバー園 (1)  長崎市南山手町

JR長崎駅から路面電車またはバスで大浦方面へ行き、大浦天主堂下で下車。徒歩7分。大浦天主堂の横に「長崎グラバー園」ゲートがある。入園料は大人600円。
南山手・東山手一帯は、日本でも最も古い洋館が多く残る国の重要伝統的建造物保存地区。中でもグラバー園は、眼下に長崎港が広がる絶景の地、南山手の丘に立地する。

外国人居留地であったこの地にもともとあった旧グラバー住宅・旧リンガー住宅・旧オルト住宅(いずれも国指定重要文化財)が保存されているほか、市内各所に点在していた6つの貴重な明治期の洋館を移築復元し、昭和49年(1974)に「グラバー園」として開園した。

長崎グラバー園の入園パンフレットによる説明は次のとおり。
(1)に旧リンガー住宅・旧オルト住宅、(2)に旧リンガー住宅の写真。
樹木は次を参照。  https://misakimichi.com/archives/1441                  
時は幕末、外国人たちの街だった、南山手の丘

鎖国の時代、西洋への唯一の窓口となっていた長崎。
開国後は、長崎、神奈川(横浜)、函館、兵庫(神戸)、新潟の5つの町が開港され、それぞれの町に「外国人居留地」が造られました。
グラバー邸があるここ南山手も、眼の前に広がる長崎の港を望み、隣の東山手の丘とともに、外国の人々や文化を受け入れる居留地として栄えていたのです。
21歳の頃、グラバーはこの辺りでももっとも見晴らしのいい場所を選び、屋敷を構えました。
その後の大戦も、グラバーの邸宅やリンガー邸、オルト邸は奇跡的に戦禍をまぬがれました。
現在は長崎市内から移築された6つの洋館とともに、当時の長崎の風景を今に留めています。

K  旧グラバー住宅
真上から見ると屋根が四葉のクローバーの形をしている旧グラバー住宅は、江戸時代末期に建てられた、日本最古の木造洋風建築で国の重要文化財に指定されています。中には愛用のステッキや釣り道具など、グラバーゆかりの品々が展示されているほか、天井裏には隠れ部屋も残されています。

F  旧リンガー住宅
英商フレデリック・リンガーの旧邸は、外壁石造りの木造住宅。優雅な南欧風バンガロー形式の建物で、明治初期洋風建築として貴重な建物となっています。

G  旧オルト住宅
江戸時代末期に天草出身の職人・小山秀之進が手がけたウィリアム・オルトの旧邸。タスカン様式の列柱が印象的で、ポーチ横には日本最古で最大級の木香バラが茂っています。重要文化財に指定され、裏手には当時の厨房や貯蔵庫がそのまま残されています。

梅園身代り天満宮 の御神橋  長崎市丸山町

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梅園身代り天満宮 の御神橋  長崎市丸山町

思案橋から丸山公園の料亭「花月」前まで行き、左折して有名な丸山本通りに入る。中ほどに「長崎検番」の建物があり、案内標識により右の路地に入り、石段を上ると「梅園身代り天満宮」に着く。
2007年、境内に「御神橋」が再建されているが、次の記事と写真のとおり石桁橋である。
fwd−net 長崎・諫早HPの中「石造アーチ橋以外の石橋・桁橋など」による説明は次のとおり。
梅園身代り天満宮

長崎の花町、丸山、中の茶屋に隣接する、梅園天満宮。吉永小百合扮する愛八姉さんの「ぶらぶら節」で、すっかり有名になってしまいました。…
丸山からの狭い石段を登って境内に入ると真っ白く塗られた鳥居に出会う。丸山の芸子衆がご贔屓なので、白粉塗りの鳥居だと地元の酔客の言。案外そんなものかもしれない。…

【再建された御神橋】
昨年11月(2007年)の大祭を前に、御神橋が再建された。その際、無くなっていた欄干の親柱が2本見つかった。この御神橋が扁平な石造アーチ橋(石拱橋)ではないかとの情報も有って、今日、確認に来た。
結果としては、石桁橋であった。橋の上に見える平行の石は厚さ5cm程度の石板で、両側のカーブした桁に6cm程の、ぬすみが切り込んであり、それに乗せられたものであった。
スパン1.9m、幅員もまた1.9mの石桁橋。部材は樹脂系のコーキングが施され、しっかりと復元されている。消失してしまう石橋の中にあって、こうして復元される石橋が有るのは嬉しい。

【現地説明板】            身代り天神で有名な「梅園身代り天満宮」

祭  神  菅原道真公(正殿)、宇賀御魂神(稲荷社)
創  建  元禄13(1700)年
所  在  肥前国彼杵郡長崎村小島郷
現在地  長崎県長崎市丸山町2番20号
お社のいわれ
ここの天満宮は、元禄13年(1700)丸山町乙名安田次右衛門によって創建され、以降丸山町の氏神様として親しまれています。
元禄6年(1693)安田次右衛門が二重門(現丸山交番付近)にて、梅野五郎左衛門に襲われました。そして、自邸に担ぎ込まれたが不思議なことにどこにも傷が無く、身代りに庭の天神様が血を流して倒れていたそうです。その後、この天神様を身代り天神様と呼ぶようになりました。
そのほか明和安永年間(1770年頃)より、この場所は長崎奉行の許しにより芝居や見世物、相撲の興行が行われるようになり、また、花町に接していることから、遊女や芸者さんが多く参拝していました。さらに明治31年(1898)社殿大改修の際には文人墨客により天井絵を奉納されています。
また、第2次大戦時、丸山町の出征を命ぜられた者は必ず参拝したそうですが、身代り天神によりすべて無事に帰還したそうです。
祭  事  節分祭 2月3日  天満宮祭 11月第2日曜日
平成12年6月吉日  丸山町自治会

長崎グラバー園と中島川岸のハートストーン

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長崎グラバー園と中島川岸のハートストーン

長崎の主な神社・寺などの縁結びや安産の「陰陽石」を見たついでに、長崎観光名所の「ハートストーン」も訪ねた。見つけたら恋の願いが叶うという。写真は次のとおり。

写 真  1〜 8  長崎市南山手町 長崎グラバー園
2つある。小さな石で表示板はない。人だかりがないときは探すのに苦労する。
写 真  9〜18  長崎市諏訪町 中島川岸(眼鏡橋近く)
はっきりしたのは1つ。そのほかハートに似た砕石が5〜15個はあるという。

長崎の主な神社・寺などの陰陽石

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長崎の主な神社・寺などの陰陽石

長崎諏訪神社の長坂参道にある敷石の陰陽石を見たついでに、思い出した長崎の主な神社・寺などの同じような陰陽石を訪ねてみた。写真は次のとおり。
長崎市内の全般と詳しい説明は、岩永弘氏著「長崎周辺”石・岩・陰陽石”」2002年新春刊があるので参照。

写 真  1〜 4  長崎市上西山町 諏訪神社の「縁結びの陰陽石」を再掲。
一の鳥居付近に男石、四の鳥居付近に女石、拝殿前に合体石。
写 真  5〜 8  長崎市矢上町 矢上神社。「安産股ぎ石」
新日見トンネルの貫通石の八角形玄武岩。平成5年9月(株)間組が奉納。
写 真  9〜12  長崎市丸山町 料亭青柳の「陰陽石」
玄関前。上の割れているのが女石。白い浜石を挟み、その下が男石という女将の話。
写 真 13〜15  長崎市東小島2丁目 正覚寺の「陰陽石」
そのものズバリ。立派な表示板が設置されている。

古写真に残る石橋風景  (7)矢上の番所橋

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古写真に残る石橋風景  (7)矢上の番所橋

国道34号線により東長崎の番所橋バス停まで行く。旧長崎街道の道が国道沿いにあり、中尾川に架かる国道の橋から1つ上流に行くと、この橋が街道の「番所橋」である。
東長崎地区連合自治会「2000年の東長崎」平成13年刊、郷土の誇り26〜27頁による説明は次のとおり。
大正初期の番所橋古写真は巻頭グラビアから(田中町織田武人氏所蔵)。番所の見取図は5頁、眼鏡橋の図は26頁から。
現在の橋は、現地説明板にあるとおり、昭和61年(1986)10月の架設で、由緒ある如く、擬宝珠の親柱になっている。第四代となる。

20.番 所 橋

矢上駅の西端、田の浦川の北岸近くに番所をおき、諫早からの役人がいて一々厳重な取調べをした上で、長崎に伺いをたて、許可があって初めて通ることができる。この田の浦川の橋が番所橋で、橋のたもとには、頑丈なカンヌキをした扉があり、その両側に柵をめぐらして取締まったものである。これほどに大事なところであるので、鍋島閑叟公時代、1838年(天保9年)美しいメガネ橋が架けられた。

第一代 欄干式両眼鏡橋五合円型、番所橋。1838年(天保9年)冬架設。…
第二代 欄干式片目鏡五合円、明治橋と改称。1872年(明治5年)冬架。…
第三代 鉄筋コンクリート、番所橋。1923年(大正12年)10月架。…

日本地図をはじめて作り上げた伊能忠敬は、1812年(文化9年)11月22日に、番所橋を通り測量している。
測量日記によると「長崎街道御料所日見村、佐賀領矢上村界より初、矢上村枝鳥合場、枝五次郎、枝東望、12町9間1尺。目鑑橋7間、枝矢上村駅問屋場、2町26間…」とある。この「目鑑橋」は、眼鏡橋と思われる。その後1867年(慶応3年)6月の大洪水のため破損し修復を計画していたが明治を迎えた。
1872年(明治5年)架設され、この頃は「輪橋」として記録が見られる。この輪橋の形は、やや形としては変形をしている。破損した橋の材を用いて修復された跡が見られる。その後、1922年(大正11年)の大地震で失われた。

長崎の西の空の夕日  その12

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長崎の西の空の夕日  その12

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔。以下続く。

写真 1〜 4  平成20年10月17日の17時31分頃
写真 5〜 8  平成20年10月27日の17時24分頃
写真 9〜12  平成20年10月28日の16時29分頃
これが「軍艦島」と呼ばれる長崎港口にある炭鉱閉山の島、端島(はしま)。