月別アーカイブ: 2008年10月

古写真に残る石橋風景  (6)現川自然石アーチ式石橋群

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古写真に残る石橋風景  (6)現川自然石アーチ式石橋群

現川焼で知られる東長崎の現川地区に、小さな自然石アーチ式石橋が少なくとも6橋あったそうである。
石橋群として長崎市指定有形文化財に指定されていたが、JR長崎本線の新線工事で2橋が消え、昭和57年(1982)7月の長崎大水害により4橋が流失、すべての石橋が消失している。

長崎市現川町へは、矢上から県営バスがあるが、JRでは長崎駅から15分足らずですぐ着く。
現川駅のそばに「じげもん市 現川物産館」があり、中に長崎大水害で流失した石橋の古写真(樫ノ木渡瀬橋・山川橋・小藤橋・山の神橋)を展示している。
架橋されていた場所の位置図はない。諫早郷土館の織田先生や地元の野口幸徳氏に確かめたところ、最後の図のようになるようである。

「樫ノ木渡瀬橋」とは、現在の「屋敷橋」の場所に架かっていた石橋を、以前にそう呼んでいたようである。
JR長崎本線の新線(市布経由)は、大水害前の昭和47年(1972)10月開業。現在の現川駅ホームのところに「尾崎橋」、トンネル口近くに「正納屋橋」という小さな橋があった。新線工事で撤去。アーチ式石橋だっと聞くが、まだはっきりした確認がとれていない。

東長崎地区連合自治会「2000年の東長崎」平成13年刊、東長崎の石造物42〜43頁による説明は次のとおり。小藤橋の写真も同頁にあった。
本河内の橋とは、高部ダムの湖底に眠る「まぼろしの石橋」などと思われる。

② 現川の石橋

アーチ橋の生命は、砕石にあるが、現川の石橋は自然石に近い石を使っていて、石橋の常識を破っている。
架橋は、明治2〜3年頃(1869〜70)長崎の本河内で山石を集めて架設した橋を見た中島土市が、現川の住民と共に5橋を架けました。
1982年(昭和57年)7月の長崎大水害で、市指定有形文化財であったが流失しました。

なお、高城台小現川分校(当時は矢上小の分校)先にあった「小藤橋」は、道口辰三郎先生が油絵に描き、現在は矢上町長崎市東公民館に飾ってあり、美しいアーチの姿をとどめている。
後ろの写真は、その油絵と現在の小藤橋。「現川物産館」の石橋写真も道口先生の撮影らしい。
それに物産館に展示されている現川の古絵図。杉澤翁昭和7年図で、表題は「現川維新前後の面影」とあり、「樫ノ木渡瀬橋」のみ、アーチが描かれているようだ。

長崎大学経済学部の「学校用(地?)」標石  長崎市片淵4丁目

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長崎大学経済学部の「学校用(地?)」標石  長崎市片淵4丁目

長崎市新大工町の交差点から長崎大学経済学部の裏門の通りへバイクで行った。裏門を過ぎて少しカーブの道を上がったところ。道路左の道脇に、少し傾いた小さな標石を目にしたので、引き返した。
写真のとおり、「學校用(地?)」の古めかしい標石。前後の道脇には、すべて新しいコンクリート製の「長崎大学用地」境界標が立っている中、珍しく残った1本の標石だった。

長崎大学経済学部のHPによると、学校の沿革は次のとおり。取り立てるほどの標石ではないが、学校の歴史は古く、学校は変遷している。
いつの時代のものか? どの学校の当時のものか? と、ひとしきりは思いをめぐらかせる標石ではないだろうか。
気になるのは、頭部に付けた金属の方向がある新しい小プレート。都市ガスや水道管などの引き込み口の古い標石があるようである。

●長崎大学経済学部の沿革

長崎大学経済学部は、その前身である長崎高等商業学校が、東京高商(一橋大)、神戸高商(神戸大)に次ぐ第三高商として明治38年3月に長崎県西彼杵郡上長崎村片淵郷(現長崎市片淵)の地に設立されて以来、一世紀の歴史を迎えました。
長崎高等商業学校は、わが国近代史と歩みを同じくして発展を遂げた後、第二次世界大戦中の昭和19年4月に長崎経済専門学校と改称されました。なお、その際、長崎工業経営専門学校が併設されましたが、同校は終戦後間もない昭和21年4月にその使命を終えて廃止されました。 
多くの人材を経済界・実業界に輩出した長崎経済専門学校は、昭和24年4月に国立学校設置法の公布により新制大学制度に組み込まれ、経済学科、商学科の2学科を有する新制長崎大学経済学部として新たに発足しましたが、平成17年には、本学部にとって高商設立以来100周年を記念しました。

トードス・オス・サントス跡  長崎市夫婦川町 春徳寺

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トードス・オス・サントス跡  長崎市夫婦川町 春徳寺

長崎市新大工町商店街からシーボルト通りへ向かう。長崎市立桜馬場中学校の角に出て、学校の石垣に沿った道を上がると「春徳寺」へ着く。
トードス・オス・サントス跡。当時の遺構として井戸が残っているが、写し忘れた。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

トードス・オス・サントス跡(セミナリヨ及びコレジヨを含む)  県指定史跡

指定年月日 昭和41年4月18日  所在地 長崎市夫婦川町135  所有者 春徳寺
トードス・オス・サントス(Todos os Santos)ポルトガル語で「諸聖人」の意。長崎で最初に建てられた教会である。永禄12年(1569)ビレラ神父によって長崎甚左衛門がイルマン・ルイス・アルメイダに与えた土地に建てられた。
慶長2年(1597)セミナリヨの一部コレジヨと金属活字印刷所が一時的にここに移された。その後慶長7年(1602)と慶長10年(1605)修錬院も開かれ、慶長17年(1612)有馬から追放されたセミナリヨはここに移り禁教令まで存続した。
教会の建物は元和5年(1619)まで残り、後に春徳寺が建立された。当時の遺構として井戸が残っている。

長崎学さるく “長崎街道歩きと滝の観音・現川の史跡めぐり” (2)  平成20年10月

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長崎学さるく “長崎街道歩きと滝の観音・現川の史跡めぐり” (2)  平成20年10月

平成20年10月26日(日)実施。参加者はスタッフとも25人。9月21日を雨のため延期。
講師は、諫早郷土館館長織田武人先生。矢上にお住いで街道を詳しく研究されている。
貴重な長崎学さるく行事だったのに、長崎ベイサイドウォークと重なり、参加者が少なくなったのが惜しい。

長崎街道を矢上宿から古賀まで歩き、滝の観音から現川へ旧道の山越えをして、途中の史跡など見る。
午前9時30分矢上バス停集合。矢上神社ー教宗寺ー役の行者ー福端寺ー古賀大村庄屋屋敷跡ー古賀地区市民センター(昼食)ー迎仙閣ー滝の観音ー間の瀬峠ー現川古窯跡ーJR現川駅まで約14kmを歩く。午後3時半着解散。

現地を詳細に調べられている資料と説明があった。昼前から小雨となったが、山道も歩けないことはなかった。
(1)は、古賀大村庄屋屋敷までの前半部と、観音水近くの石窯ピザ屋。食べてはいない。
(2)は、現川までの後半部の写真。

長崎学さるく “長崎街道歩きと滝の観音・現川の史跡めぐり” (1)  平成20年10月

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長崎学さるく “長崎街道歩きと滝の観音・現川の史跡めぐり” (1)  平成20年10月

平成20年10月26日(日)実施。参加者はスタッフとも25人。9月21日を雨のため延期。
講師は、諫早郷土館館長織田武人先生。矢上にお住いで街道を詳しく研究されている。
貴重な長崎学さるく行事だったのに、長崎ベイサイドウォークと重なり、参加者が少なくなったのが惜しい。

長崎街道を矢上宿から古賀まで歩き、滝の観音から現川へ旧道の山越えをして、途中の史跡など見る。
午前9時30分矢上バス停集合。矢上神社ー教宗寺ー役の行者ー福端寺ー古賀大村庄屋屋敷跡ー古賀地区市民センター(昼食)ー迎仙閣ー滝の観音ー間の瀬峠ー現川古窯跡ーJR現川駅まで約14kmを歩く。午後3時半着解散。

現地を詳細に調べられている資料と説明があった。昼前から小雨となったが、山道も歩けないことはなかった。
(1)は、古賀大村庄屋屋敷までの前半部と、観音水近くの明夢工房石窯ピザ。食べてはいない。
(2)は、現川までの後半部の写真。

春徳寺のクスノキ  長崎市桜馬場1丁目

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春徳寺のクスノキ  長崎市桜馬場1丁目

長崎市新大工町商店街からシーボルト通りへ向かう。長崎市立桜馬場中学校の角に出て、学校の石垣に沿った道を上がると「春徳寺」へ着く。
高台の寺の門前にあるクスノキは、市中から眺めても目立つ。石垣の上に立ち幹囲は測れないが、6m近くある大木である。越中先生が書いていたので写しに行った。
県指定史跡「ドウドス・オス・サントス跡」の春徳寺は、史跡の項を参照。 
九州文化図録撰書3「長崎街道」のぶ書房2002年刊、越中哲也氏稿「天領長崎」74頁による説明は次のとおり。
四、桜馬場郷

…石垣の終わる所より右に上る道がある。春徳寺へ行く参道である。このあたりが旧城下町で、長崎氏がキリシタンであった時代、長崎に最初の宣教師として永禄10年(1567)に訪れたポルトガル人のルイス・デ・アルメイダの記念碑が坂の上に建っている。
春徳寺は、その時代、長崎に建てられた教会ドウドス・オス・サントスの跡地に建てられた寺院であり、このあたりには当時のキリシタン遺跡も多く、県の史跡地に指定されている。
寺の門前にある大楠は、樹齢500年というのであるから、当時のことは全て良く見知っているはずである。…

桜馬場天満神社の御神橋  長崎市桜馬場1丁目

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桜馬場天満神社の御神橋  長崎市桜馬場1丁目

長崎市新大工町商店街からシーボルト通りへ向かう。商店街を出た交差点のすぐ先の通りの左に鳥居があり、奥へ行くと「桜馬場天満神社」がある。
史跡の項も参照。御神橋の両側面は家が建てみ、構造確認ができない。暗渠は新大工市場前から入れるが、遠すぎる。

親柱に「大正十三年一月」の銘。御神牛の手前に「石橋改修費寄附連名」碑があった。
fwd−net長崎・諫早HP「石造アーチ橋以外の石橋たちを訪ねて」による説明は次のとおり。

第 k-025 番   桜馬場天満神社の御神橋        長崎市桜馬場1丁目
最初の架橋年は不明。大正13年1月改修  長さ m 幅員 m  スパン m
参道一杯で側面からの確認は困難。

桜馬場と言うより、大手橋からシーボルト通りを歩いて、左手。(05/22/2002)
【神社由来記から】
大生山宝生院威福寺の開山なる射福院高順に源を発する。慶長元年に早岐から長崎に至り、同12年に筋違橋の袂に小堂を構え天満宮の尊像を祀ったのが起源という。
【祭 神】 菅原道真公
【創 建】 慶長12(1607)年
【境内社】 稲荷神社、竃神社、出雲神社

御神牛は道真公の生まれ年の縁と、大変可愛がられた牛が、天満宮をお参りしたことから、天満宮のシンボルのようになっている。
大正6年建立の一の鳥居は、建立当時はこのあたりもスペースが充分あったのであろう。今では写真の通り。
となりのビルは鳥居に遠慮したのか、建物を引っ込めて建設されている。今はこうして近隣の方からも崇敬される天満神社も、創建当時は切支丹の時代。多くの迫害も受け一時は現在の八幡町に疎開もしたが、元和8(1621)年に長崎奉行の肝いりで現在地に敷地を与えたという。
それ以来、長崎街道の起点にあたるところから、多くの参拝者を擁した。

桜馬場天満神社  長崎市桜馬場1丁目

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桜馬場天満神社  長崎市桜馬場1丁目

長崎市新大工町商店街からシーボルト通りへ向かう。商店街を出た交差点のすぐ先の通りの左に鳥居があり、奥へ行くと「桜馬場天満神社」がある。
天満神社大祭の準備をしていて、社殿内部の天上絵を写せた。御神橋は石橋の項を参照。
九州文化図録撰書3「長崎街道」のぶ書房2002年刊、越中哲也氏稿「天領長崎」75頁による説明は次のとおり。
四、桜馬場郷

…長崎の町の入口である新大工町大門に着く。その門のすぐ近くに天満社威福寺があった。この寺は僧高順が慶長12年(1607)に創建した長崎最初の神社で、中に立派な本殿も建ち、寺の名は威福寺といった(現在の桜馬場天満宮)。
その威福寺が有名になったのは、江戸参府のオランダ人が長崎の町を離れる時、必ずこの寺に立ち寄らされ、道中の安全を祈らせられたからである。
このことは『紅毛通詞年番行事』や、シーボルトの『江戸参府旅行記』に詳しく記されている。…

松の森通り・松森神社  長崎市上西山町

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松の森通り・松森神社  長崎市上西山町

諏訪神社の二の鳥居手前から右方へ広い道を松森神社へ行く。この通りが「松の森通り」。長崎歴史散歩道。手づくり郷土賞の通りである。
長崎通詞に英語を指導したインデェアン系「ラナルド・マクドナルド顕彰之碑」ができていた。
古い水路に桁橋が残る。松森神社にも見事な参道橋と職人尽彫板、大楠などがある。

長崎諏訪神社・長崎公園 (2)  長崎市上西山町

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長崎諏訪神社・長崎公園 (2)  長崎市上西山町

諏訪神社は鎮西大社と称えられる長崎の総氏神様。諏訪・森崎・住吉の三社を祀る。長崎くんちの舞台。隣に長崎公園がある。石造物を主に見に行く。
石造橋、石門、噴水池などは、石橋の項を参照

(1)は、肥前鳥居、陰陽石の敷石、山本健吉文学碑、珍しい狛犬など。
(2)は、常夜灯、まよひ子志らせ石、太鼓楼、ピェール・ロチ碑など。