月別アーカイブ: 2015年12月

佐世保赤崎岳にある長崎要塞第二地帯標「第五一号」とは ( 長崎県 )

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佐世保赤崎岳にある長崎要塞第二地帯標「第五一号」とは

佐世保市高橋輝吉氏から送られてきた赤崎岳(佐世保市赤崎町 標高240.1m)の山中にある長崎要塞第二地帯標「第五一号」の標石資料と写真。内容のわからないところもあるが、そのまま載せる。

高橋輝吉氏稿 ”佐世保赤崎岳にある長崎要塞第二地帯標「第五一号」とは”

佐世保赤崎岳の山中に長崎要塞第二地帯標「第五一号」が有った。場所は明治21年頃より準要塞地に組み込まれ、「油タンク」等の重要地帯だった。
友人の話によると、「ウラ山」に行くときは、用心の上、用心して行って下さい、と。聴いてわかっておりましたが、本当の事になるとは。120年位、人が入っておりません。大きな木が多い。枯れた木なし。山と言っても広く、盆地山です。廻りは高い山です。3時過ぎると、「ウス暗」いです。方向音痴になりやすいです。

同じような木と山。今では米軍用地「フェンス」が目印しかなー。と言った中に「五一号」が有ったのです。
豊村さんという猟師さんが、偶然発見されたそうです。その方に私が行き遭わせたのです。まだ若い方だったので、後でと思っておりましたが、3年前65歳で故人となられ、場所を良く尋ねておりませんでした。1回行く。それからが大変でしたよ。他の方は存じませんと。

何で「五一号」かと。此れは前後が有ると思い、探し廻った。「第五四号」発見する。「五一号」は再度行くけど、迷い事になったので、後でと思った。月2回位は、3時間位で探し廻った。
今年11月にやっと「五一号」を、地図の場所に発見する。寸法は15cm角、高さ82cm。全部で8回位行ったかなー。

松原の煉瓦アーチ庭園  長崎市松原町 ( 長崎県 )

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松原の煉瓦アーチ庭園  長崎市松原町

国道34号松原交差点から左折、長崎市立古賀小学校の後ろ側の市道を山手へ進む。JR長崎本線の高架下をくぐった少し先の市道右脇に、この庭園がある。この道は古賀町に通じる。
小さな煉瓦アーチが組まれて、平石が積まれていた。小ぶりな石橋モニュメントの庭園。

西川内堤改修記念碑  諫早市多良見町西川内 ( 長崎県 )

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西川内堤改修記念碑  諫早市多良見町西川内

諌早市HPの文化財による説明は、次のとおり。国道34号塚原交差点からJR市布駅に出て、市道を西川内の北西側谷奥まで進む。岩川内橋のアーチ式石橋を過ぎ、まっすぐ進むとこの堤がある。

西川内堤改修記念碑

よみがな にしのこうちつつみかいしゅうきねんひ
指定区分 市指定有形文化財
指定年月日  平成16年4月26日
所在地 諫早市多良見町西川内905
交通 県営バス「西川内」 徒歩30分

土堤上に仏像を祀り傍に石碑があります。碑文は「安政六年未春普請堤敷井樋替 指者方 藤田傳蔵 西山末太郎 小目附渡辺又蔵 庄屋清右衛門 横目元一 同徳太郎 水□使平次郎」となっています。藤田、西山、渡辺の三氏は郷(諫早)役人らしく、この普請(井樋替工事)は郷の事業であったと思われます。
この堤の普譜が安政6(1859)年春に行われ、このときの祝に、第十五代諫早領主武春公の前で「銭太鼓」を披露したと語り伝えています。
この堤は現在も灌漑用水として利用され、西川内の水利権者によって維持管理されています。

西川内の小アーチ式石橋  諫早市多良見町西川内 ( 長崎県 )

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西川内の小アーチ式石橋  諫早市多良見町西川内

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」長崎県の石橋によるデータから、諫早市多良見町西川内で最近見つかった「井手口橋」と「岩首橋」を紹介した。きのう、2橋を確認に行ったのだが、西川内においてほかに石橋がないか探してみた。別に小さなアーチ式石橋1つを見つけた。

この石橋の場所は、西川内の石橋所在図のとおり。大正12年春大草村 伊木力村指差し道標がある西の川内旧バス終点の少し手前。北側の小さな谷間へ上がる小川沿いの里道がある。コンクリート製のような石桁橋のすぐ上流に小橋が架かる。下を覗いたらアーチ式石橋だった。橋幅2m、橋長2mくらい。

手前に子宝神の石塔入口があった。近隣に聞くと、当時、谷奥には4軒の民家があり、そのための石橋と思われるが、橋名はわからない。
旧バス終点の指差し道標は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/63
ここには以前来たことがあったが、地区の石橋のことは、多良見町郷土誌に記録がない。深く探したことはなく織田先生もご存知じなかった。

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」長崎県の石橋によるデータに、次のとおり登載された。

№7,918  源八の石造アーチ橋

諫早市多良見町西川内 源八
橋幅:2.2m  径間:1.9m  拱矢:m  環厚:21cm  輪石:11列(右岸:5列 左岸:6列)
11月28日に近くで見つかった岩首橋と井手口橋を確認に来ました。
その後、12月19日に長崎のHさんが2橋を確認の際、この橋を発見されました。

岩 首 橋  諫早市多良見町西川内 ( 長崎県 )

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岩 首 橋  諫早市多良見町西川内

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」長崎県の石橋によるデータは、次のとおり。国道34号塚原交差点からJR市布駅に入り、市道を西川内公民館を過ぎた奥の旧バス終点まで進む。この二差路に大正12年春大草村 伊木力村指差し道標がある。
源八の石桁橋の方へ左側の市道をさらに進むと井手口橋があり、やがて大石垣の民家角から左へ曲がると岩首橋が架かる。この道は谷角バス停に下る。西川内の石橋所在図を参照。

№7,877  岩首橋

諫早市多良見町西川内
西川内川
橋幅:3.6m  径間:3.77m(上流側) 3.71m(下流側)  拱矢:2.04m  環厚:34cm  輪石:19列
「日本の石橋を守る会」副会長、末永さんより「長崎市のK.Mさんからの情報で2基」の連絡あり。
下流側、RC拡幅

井手口橋  諫早市多良見町西川内 ( 長崎県 )

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井手口橋  諫早市多良見町西川内

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」長崎県の石橋によるデータは、次のとおり。国道34号塚原交差点からJR市布駅に入り、市道を西川内公民館を過ぎた奥の旧バス終点まで進む。この二差路に大正12年春大草村 伊木力村指差し道標がある。
源八の石桁橋の方へ左側の市道をさらに進むと、すぐ井手口橋が架かる。西川内の石橋所在図を参照。

№7,878  井手口橋

諫早市多良見町西川内
井手口川
橋幅:3.7m  径間:3.15m(上流側)3.3m(下流側)  拱矢:1.64m  環厚:30cm  輪石:15列
斜橋
「日本の石橋を守る会」副会長、末永さんより「長崎市のK.Mさんからの情報で2基」の連絡あり。

永野金山跡(胡麻目坑口跡)  さつま町永野金山 ( 鹿児島県 )

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永野金山跡(胡麻目坑口跡)  さつま町永野金山

鹿児島県観光サイト「本物。の旅かごしま」による説明は、次のとおり。山ヶ野金山跡から県道50号をさつま町中心部の方へ下っていた途中で見かけた。県道50号は永野で国道504号と合流する。

永野金山跡(胡麻目坑口跡)

寛永17年(1640年)に発見された永野金山は、昭和28年の閉山に至るまで多くの金銀を産出してきました(その歴史については、民俗資料館「ふるさと薩摩の館」に展示してあります)。金山が繁栄していたころの面影を残すのがこの坑口です。なお、鉱業館(金山の本部事務所)の館長として、西郷隆盛の長男「菊次郎」が明治42年から大正8年まで就任していました。

権太郎石  さつま町鶴田ダム公園 ( 鹿児島県 )

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権太郎石  さつま町鶴田ダム公園

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。県道404号などにより鶴田ダムへ行く。左岸を進むと、大鶴の森先に石倉橋があり、橋を渡ってしばらく行った県道左側に「権太郎石」はある。
”おおつる湖情報マップ”の案内板やパンフレットは、石倉橋手前に「⑪権太郎石」を表示しており、場所間違いである。「権太郎」の刻名は、大雨のため私の確認忘れ。

権太郎石 ごんたろう
(薩摩)さつま町 川内川流域県立自然公園/鶴田ダム左岸県道沿い 石碑 天保13(1842) 町史跡 WEB ダム建設のため水没するので、昭和39に割りとって、130m上部に引き揚げて保存した (正面)「山本とりを浪の徒といて/沖せ急流尓して大石/阿末多阿りしを小野村能/権太郎よく水を/せきて/其石/王り能楚き阿類いハ/末きとりて/通船するよう奈し/た里ける尓て其/よし志類しお久/奈り」/川内川の川浚え工事(藩施工: 上流の菱刈・大口地方の年貢米を舟で運べるようにしたもの)の際、現地の岩に刻んだもの/川浚え工事を指揮した石工・福山権太郎が、焼石工法により川底を逐次掘り下げていったとされる→「権太郎石」の名前の由来 2 B

なお、鶴田ダムは再開発事業のため堤頂道路は、平成28年3月末まで通行禁止となっていた。広域農道川薩グリーンロードまで戻り、川内川第二ダム側に迂回して県道404号に入る。

山ヶ野金山火入坑・跡  霧島市横川町上ノ ( 鹿児島県 )

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山ヶ野金山火入坑・跡  霧島市横川町上ノ

サイト「近世以前の土木・産業遺産」鹿児島県リストによるデータは、次のとおり。県道40号霧島市横川町二石田から県道50号に入り、古城から山ヶ野郵便局の方へ入る。山ヶ野金山跡へ下り、史跡案内図により集落の北西側山手へ上がって行くと、火入れ坑・跡がある。
山﨑邸跡の前からまだ左上へ車道を進んだ谷奥に火入れ坑跡、右へ歩いて入ると自稼掘坑跡。

火入坑・跡 ひいれ
霧島市 <山ヶ野金山> 坑道 17世紀末以降 市史跡 WEB 坑口を格子で封鎖/ここ以外はすべて明治期の施設 開坑時期は不明だが、金山開発の早い時期に開かれたと推定される(堅い岩盤→火を焚いて岩をもろくして掘り進んだことに因んだ命名か?) 2 B

山ヶ野金山谷頭精錬所跡  霧島市横川町上ノ ( 鹿児島県 )

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山ヶ野金山谷頭精錬所跡  霧島市横川町上ノ

山ヶ野金山史跡めぐりパンフレットによる説明は、次のとおり。所在場所は史跡案内図のとおり。

谷頭精錬所跡 
島津忠義は、鉱業の振興を図るため明治10年(1877年)フランスの鉱山技師ポール・オジェを招き、この場所に製錬所を設置した。動力は蒸気機関で、昼夜搗鉱(とうこう)精錬作業が行われた。だが、いろいろ問題がおこり思わしくいかず、明治13年ポール・オジェは、当山を去ることになる。以後、従来の方法により島津直営の作業が行われた。明治40年(1907年)永野に電力よる一大製錬所が完成、運転開始とともに、この製錬所は操業を停止した。