長崎の三角点・水準点・地理局測点」カテゴリーアーカイブ

上西勝也氏HP「史跡と標石で辿る 日本の測量史」あとがきから ( 長崎県 )

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上西勝也氏HP「史跡と標石で辿る 日本の測量史」あとがきから

以下は、日本の測量史研究をされている京都市在住、上西勝也氏HPのあとがきから。
私たちが協力して2012年11月末、長崎魚見岳台場跡(国指定史跡)上の大久保山登山道途中で見かける、内務省地理寮(刻面は「地理局」)が1876年(明治9)に設置した測点を発掘したことにふれられている。
発掘状況の詳しくと、上西氏HPの報告は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/3503
https://misakimichi.com/archives/3510
先生が今どうされているか、現況をHPで開いてみたら、この長崎の関したあとがきに気付いた。

上西勝也氏 HP「史跡と標石で辿る 日本の測量史」(旧題:三角点の探訪)

このホームページでは地図をつくるための測量の歴史とともに、わたしが探訪した測量の標石や遺跡をはじめ測量や地図に関する話題を紹介します。

あとがき
2013年1月
前年にひきつづき測量関係の切手収集に力を入れました。エクアドルの切手でフランス遠征隊による南米赤道直下の子午線長測定200周年と250周年を記念した1936年と1986年発行の全14種をバラバラで全部入手できました。
夏にはアイルランドへ旅行しましたが、かつて英国が統治した国であり几号水準点も見つけることができました。几号だけでなく文字数字が付刻されているものが多いようでした。
長崎で内務省地理寮が1876年(明治9)に設置した測点を発掘しました。この測点は地上の表示標存在だけが以前から知られていましたが今回は地中の本体を見つけました。2006年(平成18)2月に初探訪についで昨年4月に掘削予備調査、11月に本体測点発掘となりました。現地の皆さまに大変ご尽力をいただきました。

2014年1月
昨年は標石の探索はほとんどやっていませんが測量史跡のほうは国内あちこちを探訪してきました。柏崎市にある北方探検家、松田伝十郎の顕彰碑、佐渡市宿根木にある幕末の地理学者、柴田収蔵の生家、北海道別海町西別川河口の伊能忠敬が到達した最端地点、稚内市声問にある松浦武四郎の宿営地跡などを訪ねました。そのほか文献によって江戸時代以前の測量について調べこのHPを充実しました。

ダイヤランドの水準点  上西氏HPから

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ダイヤランドの水準点  上西氏HPから

HP「史跡と標石で辿る 日本の測量史 (旧題:三角点の探訪)」の製作者、測量史研究の京都市上西先生が、2012年11月27日(火)午後、長崎へ3度目の調査で来られ、私と中尾氏が同行した。
以下は、上西先生同HPから、今回調査分の「大久保山中腹魚見岳の明治9年地理局測点」、「鍋冠山中腹の長崎報時信号所跡地報時球吊柱残骸」、「ダイヤランドの水準点」の報告と写真を紹介するが、理解を深めるため「長崎の測量」、「天門峰の明治9年地理局測点」も項目順により再掲した。
上西先生HPは、次を参照。  http://uenishi.on.coocan.jp/

長崎県 長崎市ダイヤランド  (ライブラリー 九州地方の水準点の項)

標識:5397号
地図:長崎西南部

長崎市南部の高台、近年開発されたダイヤランド一丁目にある長崎市立小ヶ倉中学校の校庭に見られる水準点です。正門の内部東側の電気設備の向かいにある金属標で「一等水準点 基本 No.5397 国土地理院」の刻印があります。点の記によればこの水準点は2003年(平成
15)に「再設」されたことになっています。

旧水準点標石は中学校から西へ500メートル地点のダイヤランド三丁目老人ホーム「オレンジの丘」内の南西角に残置されています。この位置は古い街道沿いにあたり水準点は1897年(明治30)に設置されましたが標石は当初のものかどうか不明です。刻字は薄らと「五三九七号」と読めました。大きな保護石が4個あります。

鍋冠山中腹の長崎報時信号所跡地報時球吊柱残骸  上西氏HPから

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鍋冠山中腹の長崎報時信号所跡地報時球吊柱残骸  上西氏HPから

HP「史跡と標石で辿る 日本の測量史 (旧題:三角点の探訪)」の製作者、測量史研究の京都市上西先生が、2012年11月27日(火)午後、長崎へ3度目の調査で来られ、私と中尾氏が同行した。
以下は、上西先生同HPから、今回調査分の「大久保山中腹魚見岳の明治9年地理局測点」、「鍋冠山中腹の長崎報時信号所跡地報時球吊柱残骸」、「ダイヤランドの水準点」の報告と写真を紹介するが、理解を深めるため「長崎の測量」、「天門峰の明治9年地理局測点」も項目順により再掲した。
上西先生HPは、次を参照。  http://uenishi.on.coocan.jp/

報時球  (本初子午線と標準時の制定の項)

地図:長崎西南部

船舶ではかつてクロノメーターを載せ正確な時刻を保持し天体観測により航海中の船舶の位置を知ることができましたが港湾の埠頭に吊るした「報時球」(Time Ball)を正午に落下させ、それを観測することによって正確な時刻を知りクロノメーターの校正をしました。球は紅色に、柱は白色に塗られ普段は球が下に落ちた状態ですが日祭日をのぞき毎日正午の5分前に球を上に引き揚げて落下する瞬間を報時としました。1903年(明治36)には横浜、神戸に報時球が設置されその後、大阪、門司、長崎などの港でも行われたようです。

わたしは英国エジンバラとオーストラリアのシドニーで残存する実物を見たことがありますが、いずれも観光、装飾のため残置されているもので日本では見られません。しかし報時球の吊柱基礎と思われる残骸だけが長崎市グラバー園東の高台、鍋冠山の北に残っています。鉄製コンクリート充填、根元直径55、長さ65センチメートルの基礎の一部分です。この残骸が報時球基礎であったことの確証は得られていません。この位置は長崎港を望める高台で、もと長崎報時信号所がありその後、長崎海洋気象台の官舎となり現在は住宅地です。報時球は大正時代初期に設置され昭和初期まで実用に供されていたようです。報時球はもはや、つかわれることはなく近年は標準電波による報時になっています。[青木信仰:時と暦 東京大学出版会 1982 p43−
47][朝尾紀幸:観測機器が伝える歴史4 クロノメーターと報時球「水路」151号 日本水路協会 2009.10 p22]

大久保山中腹魚見岳の明治9年地理局測点  上西氏HPから

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大久保山中腹魚見岳の明治9年地理局測点  上西氏HPから

HP「史跡と標石で辿る 日本の測量史 (旧題:三角点の探訪)」の製作者、測量史研究の京都市上西先生が、2012年11月27日(火)午後、長崎へ3度目の調査で来られ、私と中尾氏が同行した。
以下は、上西先生同HPから、今回調査分の「大久保山中腹魚見岳の明治9年地理局測点」、「鍋冠山中腹の長崎報時信号所跡地報時球吊柱残骸」、「ダイヤランドの水準点」の報告と写真を紹介するが、理解を深めるため「長崎の測量」、「天門峰の明治9年地理局測点」も項目順により再掲した。
上西先生HPは、次を参照。  http://uenishi.on.coocan.jp/

大久保山の測点  (民部省・工部省・内務省の測量の項)

地図:長崎西南部

この測点は大久保山の中腹にある魚見岳というピークの近くにあります。女神大橋東端の下水処理場から大久保山への尾根筋を登ると史跡、長崎(魚見岳)台場跡がありその先ピークの手前、登山道の左、雑木林にあり、およそ標高170メートルの地点です。台場の最上部、一ノ増台場から徒歩15分で到達できます。標石はかなり傾斜しており一辺15センチメートル、地上高さ45センチメートル(のちほど全長75センチメートルと判明)、上面は低い角錐形になり、東面に「地理局測點」北面に「明治九年第五月」の縦書きの刻字がはっきり読めます。他の面には刻字はありません。以下、説明の都合上この標石を「表示標」とします。

わたしがこの標石を探訪した2006年(平成18)2月の直後、この表示標近傍の木立のなかで標石の基盤石のようなものが発見されたという情報を得ました。これは後ほど表示標を支持する石枠であることがわかりました。ここでは「支持枠」とします。

初探訪から6年後の2012年(平成24)4月に再訪し支持枠を確かめました。表示標から登山道を挟んで南西3メートルの地点で半分、落葉に隠れていました。一辺40〜42、厚さ10センチメートルの立方体で中心部に一辺16、深さ5センチメートルの角穴が、さらに一辺6〜8センチメートルの角穴がくり抜かれて標柱の底部がぴったりと入る大きさになっています。一隅が少し欠損していました。少し掘ってみると支持枠の真下に一辺46、厚さ15センチメートルのコンクリートのような盤石が現れました。上面は平らに整形されています。盤石は大きく下を確かめることは無理でしたが地上の標石が表示標であり、別に本点として地中標があるならばこの盤石の下にあると考えられ地元の方に機会があれば確かめていただくようお願いしました。この盤石は後ほど本点地中標の「蓋石」であることがわかりました。

再探訪から7ヶ月後、地元のHさんから蓋石の下に標石があるとの連絡があり3度目の現地探訪をし底部まで掘削し全容を確かめました。地元のHさんとNさんにたいへんなご尽力をいただきました。

掘削の結果、この大久保山測點は上から地上に表示標、支持枠、地中に蓋石、本点の順に4段構成になっていることがわかりました。写真上段左からこの順、同下が本点です。材質はすべて安山岩と思われますが支持枠だけはその表面がコンクリートのように整形され材質は不明です。それぞれの諸元は上から順につぎのとおりです。

表示標は一辺15センチメートル、全長75センチメートル、底部は一辺3〜5、長さ4センチメートルの突起があります。支持枠は一辺40〜42、厚さ10センチメートルの立方体で中心部に表示標が収まります。蓋石は一辺46、厚さ15センチメートルの立方体です。支持枠がこの上に載りますが固定はできません。裏面(底)には一辺28、深さ5センチメートルの窪みがあり本点の頭部に被さるようになっています。また北東側面と南西側面には蓋を持ち上げるとき手の入る窪みがあります。本点は上面が一辺25、底面が一辺48、高さ40センチメートルの截頭方錘形で上面には南北方向と東西方向に細い対角線が刻されています。また底から21センチメートルまでは荒削りで、それ以上は整形されていました。

今回の掘削は道具と労力の可能な限り、また標石が傾いたり移動しないよう南東面は底まで他面は一部を掘削しましたが側面には直径20センチメートル大の石が5〜6個入っていました。掘削調査後は標石を復元し安全のために埋め戻しをしました。表示標と支持枠はもともと放置されていたので設置当初の向きは不明ですが収まりのいいように組み立てています。

表示標、支持枠、蓋石、本点の四段構成は京都の清水寺の表示標、蓋石、本点の三段構成と類似していますが本点の大きさは長崎の方がやや大きく、また蓋石と本点の重なり具合は長崎の場合は正方形両面が重なり合っているのにたいして清水寺の場合は蓋石下面と本点上面が45度ずれて収まるように蓋石の窪みがあります。いずれにしても両者とも表示標や蓋石のあること、また対角線の刻み、截頭方錘形など内務省設置の標石の特徴をよく表しています。

天門峰の明治9年地理局測点  上西氏HPから

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天門峰の明治9年地理局測点  上西氏HPから

HP「史跡と標石で辿る 日本の測量史 (旧題:三角点の探訪)」の製作者、測量史研究の京都市上西先生が、2012年11月27日(火)午後、長崎へ3度目の調査で来られ、私と中尾氏が同行した。
以下は、上西先生同HPから、今回調査分の「大久保山中腹魚見岳の明治9年地理局測点」、「鍋冠山中腹の長崎報時信号所跡地報時球吊柱残骸」、「ダイヤランドの水準点」の報告と写真を紹介するが、理解を深めるため「長崎の測量」、「天門峰の明治9年地理局測点」も項目順により再掲した。
上西先生HPは、次を参照。  http://uenishi.on.coocan.jp/

天門峰の測点  (民部省・工部省・内務省の測量の項)

地図:長崎西南部

2006年(平成18)2月に長崎で内務省地理局の標石が2ヶ所に残存していることが分かり現場を探訪しました。その位置は長崎港の港口に新しく架橋された女神大橋をはさみ西の天門峰と東の大久保山中腹にある魚見岳です。

天門峰は標高160メートルの山で神崎(こうざき)神社からの登山道を女神大橋西端から入り
20分程度の急登で達することができます。山頂にある大岩が測点になっています。岩の大きさは幅1.4、奥行0.8、地上高さ1.0メートル、上部中央(「地理局」刻字の真上)には一辺20センチメートルの正方形で深さ2センチメートルのくぼみがあり、さらにその中央には一辺9センチメートルの四角い凸部があり東西、南北方向に対角線が彫られています。やや斜めになった岩盤上の刻字は縦書きで左が「地理局測點」(幅6、全長40センチメートル)右が「明治九年第四月」(「第四」の文字は推定、幅4、全長34センチメートル)と読めます。内務省地理寮が改称され地理局が発足したのは1877年(明治10)ですから実際の観測は1876年(明治9)の地理寮時代に行われ標石の刻字は後年にされたとも考えられます。京都清水寺に残存する内務省の「測點」は地理寮と地理局の両方が彫られています。この標石はかなり以前から知られているようで現地のガイドブックにも載っていました。

山頂の岩に「明治九年第四月地理局測点」と刻んだ三角点があり、10年前までは何とか判読できましたが、現在「地理局」だけがかろうじて確認できます。この岩の上に立って展望する人の登山靴に踏まれて磨耗したのでしょうか。 [林正康:長崎県の山歩き 葦書房 2000 p73]同様の記述は[長崎市教育委員会:長崎市周辺ハイキングコース 1975 p29]

このガイドブックにあるほど磨耗はしてませんが、かなり判読し難い字もあり写真を撮るのに苦労しました。なお山頂には近年設置されたと思われる直径5センチメートルで「+」と「基準点」のみ彫られた金属標が載った地上高さ10センチメートルのコンクリート杭がありました。女神大橋架橋関係の測量に使用されたものかもしれません。

長崎の測量  上西氏HPから

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長崎の測量  上西氏HPから

HP「史跡と標石で辿る 日本の測量史 (旧題:三角点の探訪)」の製作者、測量史研究の京都市上西先生が、2012年11月27日(火)午後、長崎へ3度目の調査で来られ、私と中尾氏が同行した。
以下は、上西先生同HPから、今回調査分の「大久保山中腹魚見岳の明治9年地理局測点」、「鍋冠山中腹の長崎報時信号所跡地報時球吊柱残骸」、「ダイヤランドの水準点」の報告と写真を紹介するが、理解を深めるため「長崎の測量」、「天門峰の明治9年地理局測点」も項目順により再掲した。
上西先生HPは、次を参照。  http://uenishi.on.coocan.jp/

長崎の測量  (民部省・工部省・内務省の測量の項)

1876年(明治9)に発行された内務省第一回年報、1877年(明治10)の同第二回年報にはつぎの記述があります。

長崎三角測量ヲ起業セシハ明治九年四月ナリ本地及全港両岸ヨリ香焼島神ノ島等ノ地ニ於テ測點ヲ二十九箇所ニ撰定シ其新大工町ト片瀕郷ニアル二點間ヲ底線地ト定メ尋テ之レカ造工ヲナシ二十四ノ測点石ヲ埋置シ十二箇所ノ測標ヲ建設スル等六月三十日ニ至リ全ク成ル叉底線地の高低ヲ測定シ及ヒ其ノ長サヲ測量スルノ業ヲ施行ス其經費総計金千七百五拾三圓九拾壹銭八厘ニシテ第二十六號表ノ如シ(表略)[内務省:内務省第一回年報 量地ノ功程 1876 p595−596]

長崎三等三角測量ハ明治九年四月起業九年六月マテノ事業は前周年ノ報告書ニ詳カナリ同年七月底線測量トシテ其長サヲ算定ス夫ヨリ測点石埋設測標臺建築及測角等ノ事業漸次施行シテ十月ニ至リ卒業ス次テ三角諸邊ノ長サヲ算籌シ一万分一比例線三角網圖ヲ製シ十一月極星ヲ測リテ真子午線ヲ定メ十二月補助點ヲ測定シテ三角測量全ク卒業セリ且ツ細形測量ハ該地ヲ區分シテ八部ト爲シ其一部及三部ハ九年九月起業漸次施行中本年一月廃寮置局ノ改革アルヲ以テ各技員歸京僅ニ二員ヲ以テ残業を継續シ方向測量ヲ施行ス然ルニ同年六月ニ至リ實際支障アリ故ニ此二員モ亦歸京セシメ以テ半途休業セリ其經費(中略)前周年(中略)ト合算スレハ七千貳百八拾五圓五拾五銭トナル(以下略)[内務省:内務省第二回年報 量地功程ノ事 1877 p428]

この内務省年報にある「技員歸京」については1877年(明治10年)に西郷隆盛(1828〜1877)をはじめとした反乱、西南の役が勃発したことと関係があるように思われます。司馬遼太郎の小説「翔ぶが如く」では地理寮官員の不穏な動きが察せられます。

林友幸は熊本から長崎に移っていた。そこで落ちあい、十二月二十六日、便船で長崎を出発した。林とは別目的で鹿児島へゆく地理寮の官員三名が同船していたが、林自身はその任務においては単身にひとしい。 [司馬遼太郎:翔ぶが如く 三 文藝春秋 1983(司馬遼太郎全集 第37巻)p246]

1876年(明治9)12月、内務少輔(しょう、しょうゆう)の林友幸(1823〜1907)は西南の役直前に鹿児島の状況視察のため鹿児島県令の大山綱良(1825〜1877)と長崎で落ち合い鹿児島へ入ろうとしていました。「地理寮の官員」が文中に唐突に現れるのはなぜかわかりません。前後の文、小説全体を通じて地理寮はこれだけのようです。なお長崎の三角測量はこのとき終了したところですがこの「地理寮の官員」が長崎に従事したかは不明です。大山県令は西南の役で官金を西郷軍に提供した罪を問われて長崎で斬首されました。司馬は大山県令のつぎの供述を引用したようです。

二十六日少輔ならびに自分、且地理寮の官員三名同船二七日鹿児島に着す。 [徳富猪一郎:近世日本國民史95 西南役緒篇 近世日本國民史刊行會(時事通信社) 1962 p146]

現在、この測量の遺跡として2ヶ所の測点が残存しています。女神大橋をはさみ西の天門峰と東の大久保山中腹です。当時の長崎縣庶務課地理掛の事務簿(長崎歴史文化博物館蔵)によれば内務省出仕、小林一知による大三角測量敷地買上にする文書に測点位置について図面を含めた記録があります。これによればつぎの33ヶ所が記載されていますが現在地との照合が困難なところが多いようです。アバ山と魚見岳はそれぞれ天門峰と大久保山(中腹)のことです。

新大工町、大平山(米国金星測量臺跡)、城ヶ島、萬屋町、出島居留地、大浦居留地、鉄炮石、高鉾島、辻、勝山町、今町、鼡島、アバ山、栁千本、梅ヶ嵜、南町、舩津、竹ノ山、古川辻、小島正覚寺、辻、釜 竹ノ久保、上笠頭、前田、石原久保、御臺場跡、魚見岳、△石(△不明)、影野尾、中番所、原田、嶋ヶ崎、中之間[長崎縣庶務課地理掛:自明治十年至仝十三年事務簿全 大三角測量敷地買上 内務省地理局気象観測臺用地買上測点敷地圖面 長崎縣庶務課 1877 頁なし(長崎歴史文化博物館蔵 整理番号14 721−3)] 

地図については1881年(明治14)内務省地理局が「大日本國全圖」の分轄図として発行した「長崎福岡大分三縣圖」がありますが86万4千分の1と小縮尺で「測點」は載っていません。 [地図資料編纂会編:明治前期内務省地理局作成地図集成 第2巻 日本図編 柏書房 1999]

明治十七年測圖同二十七年製版、陸地測量部の一万分一図、長崎近傍ノ五「福田村」には天門峰の測点位置に三角点記号と標高165,35が、また同長崎近傍ノ六「深堀村」にも大久保山の測点位置に三角点記号と標高158,38、さらにその上に意味不明の「(13)」の記載があります。これらの地図にある三角点記号は地理局の測点そのものと考えられます。明治三十四年測圖同三十六年製版、陸地測量部の二万分一地形圖長崎要塞近傍六號「深堀」では天門峰の測点位置には三角点記号はなくなり標高164,7鰯見(イワセン)嶽と記載があります。また同図幅で大久保山の測点位置にはなにもありません。

明治9年魚見岳「地理局測点」の発掘調査など行う(2)  上西先生(京都)が来崎

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明治9年魚見岳「地理局測点」の発掘調査など行う(2)  上西先生(京都)が来崎

HP「史跡と標石で辿る 日本の測量史 (旧題:三角点の探訪)」の製作者、測量史研究の京都市上西先生が、2012年11月27日(火)午後、長崎へ3度目の調査で来られ、私と中尾氏が同行した。
明治9年魚見岳「地理局測点」の本体である地中埋石の完全発掘が主な目的だったが、そのあと、最近見つかっているダイヤランド団地内の明治地図にあった水準点と、長崎報時信号所跡のタイムボール(報時玉)鉄柱支え台などへ案内した。
詳しくは先生がHPにより報告されるので、調査状況の写真と記事を簡単に載せる。(1)の続き。

写真  1〜  5  長崎報時信号所跡のタイムボール(報時玉)鉄柱支え台

長崎報時信号所跡は、グラバー園スカイロード第2ゲートから、鍋冠山へ100mほど登ったところにある。国から払い下げられた市有地の空き地があったが、最近公売により新しい民家が建った。その工事中、地下から出てきた長崎報時信号所跡の遺物。タイムボール鉄柱支え台であろう。現在は掘り除き庭に置かれているが、原田・宮川先生も調査に来られており、適当なところに保存されるだろう。

長崎報時信号所のタイムボールについては、HP「日本のタイムボール」に詳しくあるので参照。
「九州景勝鳥瞰図《長崎県:長崎市》」吉田初三郎筆(昭和8年)に、ドンの山とも描かれている。
http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/kanko/yoshidamap/index.html
長崎の文献としては、昭和6年長崎市教育會編「長崎市民讀本」に古写真ともあり、
次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/3513
南山手美術館所有の油絵の一部に部分的に描かれていると聞いた。

朝日新聞昭和53年8月26日スクラップ「ドンの山—長崎海洋気象台百年」(ズーム拡大)を、参考に載せる。長崎では1912年(明治45年)2月、鍋冠山中腹にタイムボールが完成、報時業務を開始し、昭和16年?まで存続した。
「報時信号所とは、鍋冠山の中腹に設けられていた港内の船舶向けに正確な時刻を知らせる信号所のことで、正午に赤い玉を落とす。船で赤い玉が落ちる瞬間を見て、備え付けのクロノメータの規正を行ったものである」
上西先生は、HPで午報も調べられている。長崎報時信号所跡のこの遺物について、中央での文献調査をお願いした。

写真  6〜  7  四郎ヶ島東側の小島の「四建三角点」と「四建基準点」

日没まで時間があり、上西先生へ標石の場所を知らせるため訪ねた。神の島から海道を渡った四郎ヶ島台場跡の東側小島に、「四建三角点」と「四建基準点」が別々の場所にある。
ここは長崎港口に当たり、灯台のある沖防波堤が香焼側に突き出ている。この港湾工事のため昭和30〜40年頃、建設省第四建設局が設置した三角点・基準点と思われる。

この項は、本ブログ次を参照。現在行っても藪や竹がまた密生し、私の記憶があいまいになり、小さな標石のためすぐにはもう探しきれなかった。したがって標石写真は、以前の撮影分である。
https://misakimichi.com/archives/99
https://misakimichi.com/archives/1665 

明治9年魚見岳「地理局測点」の発掘調査など行う(1)  上西先生(京都)が来崎

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明治9年魚見岳「地理局測点」の発掘調査など行う(1)  上西先生(京都)が来崎

HP「史跡と標石で辿る 日本の測量史 (旧題:三角点の探訪)」の製作者、測量史研究の京都市上西先生が、2012年11月27日(火)午後、長崎へ3度目の調査で来られ、私と中尾氏が同行した。
明治9年魚見岳「地理局測点」の本体である地中埋石の完全発掘が主な目的だったが、そのあと、最近見つかっているダイヤランド団地内の明治地図にあった水準点と、長崎報時信号所跡のタイムボール(報時玉)鉄柱支え台などへ案内した。
詳しくは、先生がHPにより報告されるので、調査状況の写真と記事を簡単に載せる。

写真  1〜  7  明治9年魚見岳「地理局測点」の発掘

この項は本ブログ次の記事を参照。本体となる上面十字刻みのある角紡錘形の地中埋石を、深さ約50cmほどまで完全発掘し、また埋め戻した。地上標は基盤石の上に乗せ、本来の位置に立てた。
https://misakimichi.com/archives/3494
https://misakimichi.com/archives/3500

まさしく内務省地理寮、地理局のタイプ。地中標、蓋石、標示杭と三段重ねという点では、京都の清水寺に地理寮が設置した測点と同じだった。地中標に4角の穴はなかった。
長崎は明治9年中に測量が終った。京都は明治7年に測量がはじまったが、西南戦争など諸事情から明治10年にいったん中止、明治14年から16年まで測量が再開された。
明治9年魚見岳「地理局測点」を、上西先生と私はやっと6年越しで全容確認した。

写真  8〜 16  ダイヤランド団地内の明治地図にあった水準点

私が「みさき道」調査において、長年、探していた明治地図にあった水準点の標石。関覚斎日記に記す小ヶ倉港を眼下に西海緲々を望む「佳景の平地」の決め手となる。団地造成で失われ、場所がはっきりしなかったが、老人ホーム「オレンジの丘」敷地、西側フェンス内に残されていた。
地元小ヶ倉の前自治会長山下氏が、先日のみさき道講座の翌日、ふれあいセンターを通し、現存を知らせてくれた。「いぼがある標石があり、何か字を刻んでいる。殿様が腰掛けた石で、絶対動かさないよう古老の伝えがある」

これは地元の勘違いで、「水準点」「五三九七」と刻む。明治30年の標石である。新旧地形図を重ね合わせた対比ルート図では、水準点の位置が違う。
老人ホーム「オレンジの丘」敷地へ約200m、西へ下って動かされたと思われる。そのため私は、まさかここに現存しているとは、今まで気付かなかった。
現在の水準点「5397」は、小ヶ倉中学校正門右奥に平成15年(2003)再設され、旧標石は廃止されているのを、上西先生と確認した。

ダイヤランド団地内には、昭和56年(1981)の開発前、「みさき道」の道塚が加能峠・山頭・一本松に3本あった証言がある。この水準点の標石とも、小ヶ倉の郷土誌に調査・記録がないのは、かえすがえすも残念なことだった。

京都・清水寺の地理寮測點  上西氏HPから

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京都・清水寺の地理寮測點  上西氏HPから

長崎・国指定史跡魚見岳台場跡の最上段一ノ増台場から大久保山への登山道を15分ほど登ったところにある明治9年魚見岳「地理局測点」は、2012年11月11日、本体の地中埋石(写真1〜2)が見つかったことを、本ブログ次の記事としている。
https://misakimichi.com/archives/3494

上西先生から「このたびは、大変な朗報をいただきありがとうございました。やはりありましたか。これは、まさしく内務省地理寮、地理局のタイプです。地中標、蓋石、標示杭と三段重ねという点では京都の清水寺に地理寮が設置した測点と同じです」とメールをもらい、今月下旬に長崎へ3度目で来られることとなった。

さて、形状を同じとする京都「清水寺の地理寮測點」だが、どんなものだろうか。上西先生HP「史跡と標石で辿る 日本の測量史  (旧題:三角点の探訪)」内務省 京都の測量による「清水寺の測點」解説は次のとおり。関係写真とともに紹介する。
明治9年魚見岳「地理局測点」は、同じくらいに古く貴重な測量標石であることが、理解されるであろう。

清水寺の測點   地図:京都東南部

清水寺の入口には仁王門と呼ばれている大きな建造物があります。標石は向かって左下(北側)の基壇前にあります。標石の頭部が20センチメートルほど露出しており「地理寮」の文字も「地理」というところまでは現れていたのですが、わたしも50年間、京都に住んでいながら気づきませんでした。

ところが仁王門の修理工事にともない2000年(平成12)3月、国土地理院近畿地方測量部により、この標石が発掘されました。今回の発掘後、清水寺の談話として地元の新聞につぎのように載っていました。

何の石か分からず「仁王さんのへそ石」とも呼ばれていた。寺ということで開発される可能性も少なく、眺望もいいので、この場所が基準点に選ばれたのだろう。表示標は元の位置に戻して保存したい。 [京都新聞:仁王さんのへそ石 2000年11月7日版]

わたしは清水寺におことわりし工事中の現場で京都府教育委員会文化財保護課のお許しを得て見せていただきました。標石は花崗岩で3個の部分から構成されています。まず地理寮などの名称が刻字された標石が最上部にありました。角柱で頭部は錐形です。西面には「測點」南面には「地理寮」東面には「明治八年」北面には「明治十五年八月建 地理局」と刻字があります。四角柱は横一辺25センチメートルの正方形で高さは38センチメートルあり頂部は高さ3センチメートルの四角錘です。この標石はこの下に本点の地中標があるという標示杭に相当しますが、かりに「表示標」と呼ばれています。

ついで、この標石の下には最下層の標石上部を保護するためと思われる平らな「蓋石」がありました。一辺46センチメートルの正方形、厚さ12センチメートル程度あります。蓋石の下面とその下にある本点標石の上面はいずれも正方形ですが45度ずれて収まるように蓋石の窪みがあります。

最深部は上部平面対角線に×しるしが彫られた截頭方錐形の「本点」標石です。上部平面は一辺15センチメートルの正方形、底面は40×30センチメートルの長方形で高さは50センチメートルあります。文字は何も彫られていません。

標石は全体が地中80センチメートル程度埋まっていましたが、発掘時には底部に深さ50センチメートル、直径7センチメートル程度の穴が4本ありました。発掘の後日、穴がふさがれるのを防ぐため、とりあえず新聞紙がまるめて入れてあります。もし基礎を補強するために木杭が打ち込まれたとすれば、その残骸はあるはずですが空洞になっています。この穴の目的はわかりません。

標石が三段重ねで埋まっていたのは発掘時に立ち会った文化財保護課の人からわたしが直接聞いた話で、はじめて知り後日、復元組み立てをしていただきました。

最上部の表示標には1874年(明治7)に発足した地理寮と1877年(明治10)に改称された地理局の両方の文字が彫られているので1875年(明治8)に設置され、その後改埋されたものか、あるいは標石だけ既製品としてあらかじめ地理寮の名前入りでつくられており地理局になってから設置されたものかいずれかでしょう。

この清水寺の発掘は2000年9月には「国土地理院広報」で公表されました。これによると最下部の×印の本点標石の設置時期と最上部の表示標に地理寮と地理局の両方が刻字されている理由としてつぎのように記載されています。

標石の設置は地理寮が測量時の明治8年(1875)頃に行い、地理寮が地理局に改編された後、明治16年まで実測していたことが記録されていることから表示標の設置は地理局が1882年(明治15)8月に設置し、この時に測量の経緯を記録するために組織名を併記したと推測されます。 [中野博美、徳永和典:清水寺で内務省地理寮の基準点が発見される「国土地理院広報」 387号 2000.9 p7]

この報告のように表示標はその刻字にもあるとおり1882年(明治15)に設置されたことは間違いないでしょうが地中の本体までが同時に設置されたかどうか不明です。当初は見通しのきく清水寺の五重塔が三角測量の偏心点とし観測され、のちに本点の位置に表示標が設置されたのかも知れません。

仁王門の改修工事は2003年(平成15)末までかかりましたが、それまでに発掘された標石は元どおりに埋設されています。ただし後年の破損、分解を防ぐため最上部の表示標と蓋石はボルトで固定され、さらに一辺56センチメートルの正方形、地上高さ6センチメートルの新設基盤の上に載せられました。また埋設地点近くには国土地理院により説明板が設置されました。

国土地理院により設置された説明板には英国の技術を導入して京都市街地図を作成するために設置された基準点であること、標石の上端に刻まれている対角線の中心が基準であること、清水寺からは高瀬七条上ル、六角堂、聖護院村に設置された基準点を視準して測量した、などと解説されています。

茨城県つくば市にある国土地理院「地図と測量の科学館」の「地球ひろば」には内務省の標石や現行の基準点などともに清水寺の標石、最上部の表示標の複製品が展示されています。

明治9年魚見岳「地理局測點」の地中埋石が見つかる

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明治9年魚見岳「地理局測点」の地中埋石が見つかる

長崎港口の女神大橋をはさんで、魚見岳(大久保山の中腹)と天門峰山頂岩に残る明治九年「地理局測点」は、日本近代測量史上、全国的にも貴重な標石である。
私は6年ほど前、長崎にあるこの標石の存在に気付いた。京都市上西勝也氏(近代測量史研究)が関心を寄せられ、2006年2月長崎を来訪、本年2012年4月にも現地を再調査され、私が同行した。その状況は、本ブログ次の記事などで紹介している。
https://misakimichi.com/archives/3197
https://misakimichi.com/archives/377

「地理局測点」標石の基盤石の下には、必ず方角を刻んだ本体の地中埋石があるとの確信を、上西先生は最初から持っておられたが、本年2012年4月も時間の余裕がなく、発見するまで至らなかった。そのため私に、いつか基盤石の下を掘ってみるよう指導されて帰られた。
私が意を決したのは、11月11日午後。国史跡魚見岳台場跡の最上段一ノ増台場から大久保山への登山道を15分ほど登る。現地の標石と基盤石は、林間になぜか登山道をはさみ3mほど離れて見つかっている。

発掘状況は写真のとおり。ひとりでは重たい2つの基盤石を動かすと、方角を見事に十字線刻した本体の地中埋石をその下に確認した。形状は末広がりの角錐形。上辺は25cm四方。約8cmほどの高さを掘って、下辺は30cm四方位となった。これ以上掘らず、底辺は確認していない。
基盤石を持ち上げる取っ手の方を掘っていたら、4月に早く発見できたと思われるのに、残念だった。地中埋石は6年越しの発見となった。
私の動きが遅く、上西先生にはたいへん申し訳なかったが、3度目の来崎をお願いしなければならないだろう。

魚見岳の標石にあったのだから、対面の天門峰山頂岩に刻む「地理局測点」の岩下周辺の地中にも、方角を刻んだ本体の地中埋石が現存する可能性もある。
わからないのは、天門峰山頂同岩上に刻む四角枡。往時、交易船への燈火として、石燈籠を置き夜毎灯したものであろうとする史談(長崎市史 地誌編288頁)があるが、やはり明治期となって、「地理局測点」の測量機器を置くため、方角を合わせた岩の刻みではないだろうか。
これが本体だとすると、珍しい岩の測点となる。上西先生が再び来崎できるのであれば、天門峰山頂の方も再度、詳しい調査と確認をお願いしたい。

双方の「地理局測点」とも、日本近代測量史上、全国的にも貴重な標石である。長崎市文化財に指定して保存するよう、烽火山南畝石(蜀山人歌碑)、茂木玉台寺大イチョウとも早くから要望している。長崎市の回答は、思わしくない。
魚見岳では、本体の地中埋石が見つかったことにより、正当性が立証された。天門峰山頂自然岩の刻面の方は、ほとんど風化して文字を読み取れないほどになっている。

長崎の測点標石は、(大日方純夫ほか編)「内務省年報・報告書」第2巻 明治八年七月〜九年六月下に記録がある。同書によれば
「…東京大阪京都横浜兵庫神戸長崎新潟ノ事業ハ全国三等三角測量ヲ各地方二施行シ之レカ各部ヲ聯測シテ国図ヲ画成スルモノ二メ共二全国測量二属ス…長崎三角測量ヲ起業セシハ明治九年四月ナリ本地及全港両岸ヨリ香焼嶋神ノ島等ノ地二於テ測点ヲ二十九箇所二撰定シ其新大工町ト片瀬郷二アル二点間ヲ底線地ト定メ尋テ之レカ造工ヲナシ二十四ノ測点石ヲ埋置シ十二箇所ノ測標ヲ建設スル等六月三十日二至リ全ク成ル又底線地ノ高低ヲ測定シ及ヒ其ノ長サヲ測量スルノ業ヲ施行ス…」
とある。東京・大阪・京都につぎ5港、6鎮台と事業が開始され、重要港湾である長崎港の測量が明治9年4月から施行された。魚見岳と天門峰にある「地理局測点」標石は、この測点標石の1つに違いない。
https://misakimichi.com/archives/81