月別アーカイブ: 2016年12月

妙相寺・富川渓谷の紅葉 2 ( 長崎県 )

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妙相寺・富川渓谷の紅葉 2

2016年12月10日(金)快晴。妻が近所の知人と、長崎市本河内町妙相寺と諌早市富川渓谷へ紅葉見物に。2は富川渓谷の続き。

この項は、本ブログ次も参照。富川渓谷には、次の名木もあるが、場所を忘れたか訪ねていないようだ。
富川渓谷大雄寺のヤブツバキ  https://misakimichi.com/archives/1401
富川渓谷のイロハカエデ・スタジイ  https://misakimichi.com/archives/601
富川渓谷のカツラ  https://misakimichi.com/archives/382

妙相寺・富川渓谷の紅葉 1 ( 長崎県 )

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妙相寺・富川渓谷の紅葉 1

2016年12月10日(金)快晴。妻が近所の知人と、長崎市本河内町妙相寺と諌早市富川渓谷へ紅葉見物に。写真1〜5枚目が妙相寺。6枚目以降が富川渓谷。2へ続く。

この項は、本ブログ次も参照。富川渓谷には、次の名木もあるが、場所を忘れたか訪ねていないようだ。
富川渓谷大雄寺のヤブツバキ  https://misakimichi.com/archives/1401
富川渓谷のイロハカエデ・スタジイ  https://misakimichi.com/archives/601
富川渓谷のカツラ  https://misakimichi.com/archives/382

祖納岳の猪垣  竹富町西表 ( 沖縄県 )

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祖納岳の猪垣  竹富町西表

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。西表島南東部、大原「ヤッサ地区の猪垣」に続き、これは西表島北西部、祖納「祖納岳の猪垣」調査である。
ここの猪垣は、蛯原一平氏(国立民族学博物館・外来研究員)の研究紀要「沖縄八重山地方における 猪垣築造の社会的背景」があるので、参照していただきたい。
http://hist-geo.jp/pdf/050/051/245_044.pdf#search=’%E8%A5%BF%E8%A1%A8%E5%B3%B6%E3%81%AE%E7%8C%AA%E5%9E%A3′ 地元で聞くと、昔の猪垣は学校田の奥にあり、水路を渡るという。与那田橋の脇から護岸上を最奥まで行き、新猪垣フェンスの柵入口をやっと探した。このあたりでも猪垣らしく感じるところは、フェンスに沿ってあった。

施錠のない柵入口から、なるべく明瞭な踏み跡の山道を山手へ上がる。切り土と思われる地点があり、ここがCの場所と思われるが、大雨が降り出し雨中の踏査となり、カメラが濡れるのが一番心配で、この先の調査を打ち切った。ヤブを払いながら行くので、ツワブキのバカ付着もひどい。ズボン・上着は散々だった。
翌朝も雨。切り土Cの中をもう少したどると、やがて石垣のB地点猪垣に到達したと思われるが、私には何の確証もなく、再び出かける気は起こらなかった。
北西風も強くなり、鳩間島は欠航続きで断念。それよりもまず石垣島へ戻られるかが問題で、調査も終りに近づき、沖縄にも帰路寄らねばならず、急に里こころがついた。西表島の船は、また大原港からしか出なかった。

従って、今回調査「祖納岳の猪垣」の私の正しい撮影画像はない。遺産サイトからの連絡によると、都合の良いことに、12月10日(土)、「第9回シシ垣サミットin西表」が、西表島祖納で開催される。巡検ツアーも翌11日(日)あるらしいから、画像提供はこの関係者に依頼してみるとのことだった。

祖納岳の猪垣 そない、シィー
(八重山)竹富町(西表島) 猪垣(石塁) 延長約1㎞ 1728年 WEB 2016年12月にシシ垣サミットが開催された 西表島の特徴 2 B

大平井戸  竹富町西表 ( 沖縄県 )

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大平井戸  竹富町西表

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。西表島の北東部、西表の祖納集落にある。県道215号祖納バス停先、祖納郵便局の先となる路地から右集落内へ入る。右下に大平井戸があり、そのまま進むと、「ピサダ道」の正面登リ口に出る。

大平井戸 ウヒラ・カー
(八重山)竹富町(西表島) 祖納 石積井 15世紀? 町有形民俗 現地解説板 保存状態良好 「ピサダ」と呼ばれる水田地帯に所在 1 C

現地説明板は、HP「西表島の石碑・説明看板 (西部)」によると、次のとおり。

竹富町指定有形民俗文化財  太平井戸(ウーヒラカー)
この井戸は、伝承によると今から約500年前、まだ祖納の集落が祖納半島の高台「上村」にあった当時、高台で水に不自由していたところ、慶来慶田城用緒がこれを解消するために掘ったものといわれています。その後、飲料水用の井戸として祖納の人々の生活を支え続けてきたことから水恩に感謝する儀式が行われるようになり、今日では、節祭の3日目に水恩感謝の儀式と奉納芸能がこの大平井戸で行われます。
指定年月日 平成10年3月31日    竹富町教育委員会

ピサダ道  竹富町西表 ( 沖縄県 )

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ピサダ道  竹富町西表

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。石垣港から高速客船により西表島大原港に渡ったので、島内バスにより西表島の北東部、西表の祖納集落に移動した。
県道215号祖納バス停先、祖納郵便局の先となる路地から右集落内へ入る。右下に大平井戸があり、そのまま進むと、「ピサダ道」の正面登リ口に出る。

ピサダ道
(八重山)竹富町(西表島) <慶来慶田城翁屋敷〜大平井戸> 石段道 長約100m 16世紀初頭 町史跡 現地解説板 保存状態良好/日本軍による改変の可能性 「ピサダ」は大平井戸の周辺にあった水田の地名に由来/16世紀初頭の石畳 2 B

現地説明板は、HP「西表島の石碑・説明看板 (西部)」によると、次のとおり。

竹富町指定史跡 ビサダ道 平成19年9月28日指定
ピサダ道は、16世紀初頭に活躍した西表島の英雄、慶来慶田城用緒が屋敷を構えたと伝えられる町指定史跡「慶来慶田城翁屋敷跡」(昭和48年9月12日指定)と、町指定有形民俗文化財「大平井戸」(平成10年3月31日指定)を結ぶ道で、祖納集落がまだ祖納半島の高台の上、通称「上村」にあった当時に、集落から井戸や水田へ往来するのに利用されていた古道です。
ピサダ道のピサダとは、大平井戸周辺にあった水田の地名に由来するもので、大平井戸も節行事の時以外の平時はピサダカーと呼称されています。節祭が上村を中心に行われていた大正13年頃までは、アンガマ行列が上村から前泊浜まで降りてくるのに、このピサダ道を通っていました。その際にピサダ道の急坂を、旗頭を立てて降りてきたという武勇伝も語り継がれています。
去った大戦時、昭和16年に完成した船浮要塞建設に際して祖納半島にも砲台が配置されましたが、大砲を引き上げるために旧日本軍により石段状の道が平らに敷きならされる、という改変も行われました。
このピサダ道は、祖納集落の長い歴史を物語る歴史の道であり、祖納集落の人々の生活と深いかかわりのある貴重な史跡です。                  竹富町教育委員会

ヤッサ地区の猪垣  竹富町南風見 ( 沖縄県 )

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ヤッサ地区の猪垣  竹富町南風見

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。石垣港から高速客船により西表島大原港に着く。仲間川の河口域北岸の中州に位置するヤッサ地区は、航空写真のとおり。県道215号大原バス停先GSのところから直進。しばらく進み「大原一般農道」標識の道へ右折する。
農道をヤッセ橋など3つの小橋を渡り奥まで行くと、広大なサトウキビ畑が全面に広がる。ここが「ヤッサ地区」である。

猪垣はサトウキビ畑周辺の雑木林の中にあるようだが、どこかウロウロした。農道行き止まりとなる柵のところで、それらしき土盛りを見たが、これが猪垣かわからない。帰りにやっと農作業中の人と会った。猪垣は中洲のほぼ外周の川沿いにあり、手前に新猪垣フェンスが設置されフェンスから遠く、立ち入りできず草刈りしないことには撮影不能と聞いた。
地元で猪垣修復をしたのは、もう10年前の話である。当時の代表が現武富町長となられているらしく、画像提供は武富町に遺産サイトから依頼してもらうこととし、現地を切り上げた。

ヤッサ地区の猪垣 いがき
(八重山)竹富町(西表島) 猪垣(石塁) 高約1.2m 1768年頃 WEB 2006年に初めて修復 西表島の特徴 2 B

琉球新報2006年6月18日付地域版の「ヤッサ地区の猪垣修復」記事は、次のとおり

よみがえれ、猪垣 240年前築造、初めて修復 西表・ヤッサ地区
【西表島=竹富】竹富町・西表島の仲間川の河口域北岸の中州に位置するヤッサ地区で9日、約240年前に猪(いのしし)による農作物被害防止対策のため積まれた石垣「猪垣(いのがき)」の修復作業が行われた。大雨や台風などで猪垣の一部が崩壊しており、農家約10人が参加して、手作業で崩壊した部分を修復した。

八重山では、猪が生息するのは石垣島と西表島だけで、両島では猪が農作物を食い荒らさないように猪垣が造られた。このうち、1900年ごろ風土病のまん延などの影響で一度、廃村となったヤッサ地区では、畑の周囲を囲むようにして雑木林の中に猪垣が積まれている。
琉球王府の検使として八重山に派遣された与世山親方らの八重山視察後に作成された「与世山親方八重山嶋規模帳」などによると、1768年ごろ、「仲間村の耕作地は仲間村の負担で猪垣を築くこと」とあり、猪垣が築造された記録が残されている。

ヤッサ地区のサトウキビ農家の西大舛高旬さん(58)は「猪による被害は後を絶たず、鉄線や網を張るなどして対策を講じてきたが、間に合わなかった。やはり昔の人の知恵で造った猪垣をそのまま引き継ぐことが一番の対策になると思い、初めて修復作業をすることになった」と話した。
猪垣はサトウキビ畑周辺の雑木林の中で、約1・2メートルほどの高さで積まれており、参加者らが崩落した石を猪垣に積み直した。作業には、県八重山支庁や竹富町の農林水産担当者や、文化財担当者が同行し、写真やメモを取るなどして作業の様子を記録していた。

小 城 盛  武富町武富 ( 沖縄県 )

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小 城 盛  武富町武富

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。武富東港から島の中心、仲筋集落へ向かう。武富郵便局から西側の路地へ右折しまっすぐ進み、赤山公園「なごみの塔」手前の駐車広場から右折。この通りを北へ上がると、園地の中に「小城盛」のピークがある。
頂上部の石段にロープが張られ、立入禁止だった。丸石が摩耗のためコンクリートで復元された方位板のよう。場所は所在図参照。

小城盛 クスク・ムイ
(八重山)竹富町(竹富島) 遠見台、火番盛 (珊瑚石積、円盤状2層) 1644年以降 国史跡 WEB/町教委 よく整備されている(階段が、整然としすぎ、頂部が平坦) 先島諸島の火番盛群/代表的なものの一つ/きれいな円筒形の石積 2 B

HP「竹富島の石碑・説明看板 (西集落・西)」による説明は、次のとおり。

2.「小城盛(クスクムリ)」の碑
小城盛の碑
小城盛(クスクムリ)
正保元年(一六四四)尚賢王時代 火番所として建てられた。海上の監視や出入りする船の通報のため烽火を揚げた。
指定 昭和四十七年八月三十日
この碑は、小城盛に上がる階段横に建てられています。

3.小城盛 記念物指定碑
小城盛 記念物
指定碑(左)
(正面) 記念物小城盛(クスクムリ・火番盛)
(左側) 指定昭和四十七年八月三十日
(右側) 竹富町教育委員会
(裏面) 建設昭和四八年二月二八日
小城盛は世持御嶽の裏手(東側)にあります。

4.「小城盛の由来」の碑
小城盛の由来の碑
(正面)
小城盛の由来
正保元年 一六四四年 尚賢王の世代琉球本土の冠船の航海路にある諸離島に命じて烽火台として設けられた火番盛である  碑文並びに揮毫 上勢頭廣
(裏面)
復元記念
父松久の遺志を継ぎ親族知友の協力をえて復古をなす 採石は存命中に自分の手で採工せるものなり  昭和三十六年六月十日建立
老朽化して崩落の著しかった小城盛は、有志によって昭和36(1961)年に復元されました。

5.方位板
方位板
この方位板は、小城盛の頂上部(ハルミ台)に設けられています。
(上面)
子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥
明治4年に竹富島に来島した鹿児島出身の八重山探検隊調査員によって、ハルミ台の円石の上部に十二支を刻み入れて方位を定めたと伝えられています。
その後、摩滅で判別できなくなっていた方位板は、小城盛の復元とともに昭和36(1961)年にコンクリートで復元されました。

なごみの塔の星見石  武富町武富 ( 沖縄県 )

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なごみの塔の星見石  武富町武富

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。武富東港から島の中心、仲筋集落へ向かう。武富郵便局から西側の路地へ右折しまっすぐ進むと、赤山公園「なごみの塔」入口に出る。所在図参照。反対側の登り口のところに「星見石」は立つ。

なごみの塔の星見石 ほしみ
(八重山)竹富町(竹富島) 赤山公園 天体観測石 不明 WEB 竹富島北部の與那国家の畑→昭和28移設 農作業の時期を知るための星の観測に用いられていた石 2 B

HP「八重山の星見石」による説明は、次のとおり。

赤山公園の星見石
立石状の珊瑚石灰岩でできた星見石で、中央下に穴が開いています。かつては竹富島北部の與那国家の畑にあったそうですが、1953年(昭和28年)に赤山丘を公園として整備した際に移設され、現在は赤山公園(なごみの塔の下)にあります。
この星見石の右側にはモルタルが塗られ、そこには「星見石ノ由来:往古ハ暦ナク草木ノ緑ノ模様星ノ出没ノ模様等デ春夏秋冬ノ季節ヲ定メ以テ作物ヲシタト言フ」と、記されています。

※この星見石は一時「石垣島川平の星見石」と混同されていた時期がありました。

幸本井戸  武富町武富 ( 沖縄県 )

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幸本井戸  武富町武富

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。武富東港から島の中心、仲筋集落へ向かう。武富小中学校前の乗合バス発着場広場のところは直進して坂道を上がる。幸本御嶽前を過ぎ、次の右車道角からレンタサイクル武富の方へ入る。柵のある畑内の草場右奥に「幸本井戸」はある。
案内標識や説明板はないから、井戸の場所はわかりにくい。所在図参照。

幸本井戸 コントゥ・カー
(八重山)竹富町(竹富島) 石積井(石灰岩、方形) 不明 町教委 非現役 階段部以外を石灰岩で覆った石積み井戸/上記の「仲筋井戸」に類似 2 B

HP「竹富島のカー(井戸)」による説明は、次のとおり。

16.コントゥカー
仲筋集落の北西部に位置する、割と大きな井戸です。豊かに水を湛えた井戸で(特に雨後は水位が上がり池の様になります)、井戸に降りる石階段(約4m)もよく遺されています。
家並みから少し離れた所に位置しています。訪れた時は、写真中央のマーニ(クロツグ)の花の甘い香りが辺り一面に漂っていました。 付近には、平成8(1996)年、国立歴史民俗博物館により調査された「フージャヌクミ遺跡」があります。同遺跡はコントゥカーを中心に発祥した幸本村に関係する遺跡と考えられ、八重山先史・古代編年の第三期に当ります。
シチニガイ(節祭)では関係者による水恩感謝の祭祀と清掃が行なわれています。

仲筋井戸  武富町武富 ( 沖縄県 )

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仲筋井戸  武富町武富

サイト「近世以前の土木・産業遺産」沖縄県リストによるデータは、次のとおり。武富東港から島の中心、仲筋集落まで行く。武富小中学校前の乗合バス発着場広場のところに「仲筋井戸」はある。所在図参照。

仲筋井戸 ナージ・カー
(八重山)竹富町(竹富島) 石積井(石灰岩、すり鉢状) 長径5m,深7.5m 不明 町教委 観光的整備 ひしゃげた円形をした、急勾配の石積み井戸/竹富島で最大の井戸/底に水が残る 2 B

HP「竹富島のカー(井戸)」による説明は、次のとおり。

10.ナージカー(仲筋カー)
島のほぼ中心部にある井戸で、1976年に石垣島からの海底送水が行われるまでは、島内の飲料水の供給源として利用されていた貴重な井戸です。 大昔は、この井戸の水を使い稲作が行われていたそうです。
この井戸には犬が発見したという伝説があります。それは、昔、犬を連れて井戸を探していた人が、犬のしっぽの先が濡れていることに気がつき、付近を探してこの井戸を見つけたそうです。 そのため、この井戸の石垣は犬が座った形に作られています。この井戸の水は、今では出産祝いの水や元旦の若水などに使われているそうです。

現地説明板は、HP「竹富島の石碑・説明看板 (東集落・北&東)」によると、次のとおり。

仲筋井戸(ナージカー)
その昔、仲筋村の村建ての神である新志花重成(アラシバナカサナリ)が飼っていた犬が、干ばつにもかかわらず尻尾を濡らしていたことで、発見された井戸と伝えられています。島人は、正月の若水や産湯としてこの井戸水を利用してきました。
一九七六(昭和五一)年に石垣島からの海底送水が引かれるまでは、飲料水の供給源として利用されていた貴重な井戸でした。

Naji Ka(Nakasuji well)
Legend tells that Naji Ka was discovered long ago when Arashibana Kasanari’s dog, (kasanari is the deity who built Nakasuji Village), was found with its tail wet, although the island was suffering from a drought. Water from this well has long been used by islandsers to give newborn babies their first bath, and as wakamizu (the first water drawn on New Year’s Day).
It was also important for islanders as drinking water until 1976 when an underwater pipe was laid to provide fresh water from Ishigaki Island.

※ 現在は周囲が塀で囲われていますが、当初はウリカー(降り井戸)でした。