月別アーカイブ: 2012年1月

「陸軍地」の境界石柱  長崎市西町

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「陸軍地」の境界石柱  長崎市西町

本ブログを最近見はじめた onn*n*miyak**007 さんから、標石の情報コメントをもらった。
「今日(2012/1/29)、西町小学校裏手で、「陸軍地」という標識を見つけました。場所は、わかりずらいですが、西町12の表示板がありました。西町から小江原に抜ける道の手前から、左の小道に入ったところです」
標石に関心を寄せたこんな情報は嬉しい。年末には鹿児島の方が、金比羅山で陸軍要塞標を偶然見つけ、わざわざ知らせてくれた。

長崎市西町の標石は、正面のみ「陸軍地」と刻む。 15cm角、高さ44cmほど。軍の境界石柱と思われる。場所は、長崎市立西町小学校裏手というより、小学校入口前の交差点を直進。最近開通した「市道油木町西町線」を上がる。
長崎大国際交流会館の先に「合同宿舎西町住宅」があり、このビル裏手の高台小道にあるので、市道がUカーブしたところを途中まで登り、左のまっすぐな小道を50mほど下った方がわかりやすい。

10街区「松崎」宅の玄関対面。「西町12」の街区表示板は、街路灯に設置されていた。付近は現在、長崎拘置支所、白鳥公園・大アパート群などもあり、広大な谷間の平野部である。戦時中まで、軍用地として使用されたろう。何の施設だったかは、どなたかに調べてもらいたい。
あたり一帯を広く探したが、ほかに同じ境界石柱は見当らなかった。この1本だけ、原子爆弾や都市開発にのまれず、残った貴重な標石ではないだろうか。
なお、ブログを見たら私を引用し、この標石は2009年5月紹介されていた。髭親父さん。失礼しました。http://blogs.yahoo.co.jp/bikeroyaji/27173474.html

「長崎要塞地帯(区域)標」の外、陸・海軍の軍用地又は境界石柱は、長崎近郊では次の場所にも残っているのを確認している。
浜平1丁目  https://misakimichi.com/archives/232
南山手町   https://misakimichi.com/archives/96
神の島周辺  https://misakimichi.com/archives/113
野母権現山  https://misakimichi.com/archives/56

長崎奉行所立山役所の境石「従是御立山」  長崎市立山1丁目

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長崎奉行所立山役所の境石「従是御立山」  長崎市立山1丁目

長崎市立山1丁目の諏訪公園内。大クスノキ内の急カーブ市道を「六角堂」の広場まで登る。市道左手カーブミラーの石垣下を覗くと、「従是御立山」と刻まれた中くらいの自然石が見える。刻面がこちらを向いている。

長崎webマガジン”ナガジン” 発見!長崎の歩き方「お諏訪の杜の庭園伝説」(2009年12月)による説明は、次のとおり。  http://www.at-nagasaki.jp/nagazine/hakken0912/index.html
地元お住いの井村啓造さんの話。六角堂一帯の“石ヶ原”も、東照宮に対する畏敬の念を現すために造られた庭園だったのではないかと推測している。

…井村さん「子どもながらに、ウチはよその家と何か違うな、と思ってましたね。」
聞くところ、かつては料亭を営んでいたのだそうだ。こんな高台の、当時ではとても不便そうな場所に「料亭」? そんな、子どもの頃の井村さんの遊び場所は、もちろん、お諏訪さんの境内だった。「六角堂」が整備されたのは、今から約30年前。井村さんの子ども時代のこの辺りには、木々がうっそうと茂り、巨大な自然石がゴロゴロ転がった、格好の遊び場。

井村さん「ここ石の上を、ぴょんぴょん跳んで遊んでいたんですよ。」
また、木々に覆われたこの辺り一帯が探検にうってつけの場所だった。仲間達と駆け廻る中、それほど気にも止めずに見ていた石に刻まれた文字。当時は、「…立山」。”立山”の文字しか見えなかった。

井村さん「それが、大人になってから気づいたんですよ。この石に刻まれた字が、“従是御立山”、つまり、ここからが長崎奉行所立山役所の敷地だという境界を示す石だということをね。」

茂った草で下の方は見えづらいが、草をよけると確かにその石には刻まれていた。位置的に何の疑うべきところもない。大きさからいっても、どこからか運んできたものとは思えない。立山役所の時代からこの場所に鎮座してきた石なのだ。そして、周囲には他にも大きな石が散在している。

井村さん「すると、この石を境にして、立山役所と諏訪神社と、くぎられていたってことですよね。当然、この道はまだなく、このような自然石がもっとあったんです。」…

野母崎町・野母崎町教育委員会「のもざき漫歩」 平成5年

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野母崎町・野母崎町教育委員会「のもざき漫歩」 平成5年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。野母崎町・野母崎町教育委員会「のもざき漫歩」平成5年から、3 高浜海岸の今と昔(高浜)と、6 野中の一本松。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行120〜121頁ですでに紹介済み。写真は「浜添」という高浜海水浴場あたりと、先の現料亭「松美」入口にある「忍の地蔵」、そして高浜へ下る途中、「延命水」水場の右側にあったという「野中の一本松」跡。

野母崎町・野母崎町教育委員会 「のもざき漫歩」 平成5年

3 高浜海岸の今と昔(高浜)          8〜12頁
(略)幼い私も、籠を届ける父について行くことがたびたびでした。野母方面へ行くのに、浜添から「忍の地ぞう」の下を通り、その浜へ出ると、なだらかな砂の道となっていました。そこは満潮時になると、潮がガンブリ満ちて通れませんでした。
小古里の浜の小川の尻も、崖地の下に石を並べて飛び石をつくり、その上を跳んで渡りました。海岸沿いは、ほとんど砂浜を歩いたり、石垣で護岸をしている、畑のきしを歩くのが普通でした。長浜から南越にかけて、五百メートルほども長い砂浜が続いていたので、幼い私の目には、物すごく広い砂原のように見えました。父の話によれば当時、小学校の運動会も、この地で催していたということでした。
浜添の海岸は、通称「前の浜」といいます。その砂の丘を「クマン峠」といいました。そこには毎年、夏になるとハマユウが白い花をつけ、快い香りを放って咲きました。渚では、ハマグリとシジミがたくさんとれていました。クマン峠から浜辺まで、なだらかな白い砂の流れが、南手から北へ長く続いた眺めは、海の青と調和して、それはそれは、絵になる光景をそなえておりました。(略)

6 野中の一本松               22〜24頁
現在、毛首の集落から東北の方向に三百メートル程へだてたところに『野中』という字があります。そこは徳道を経て三和町川原の方へ通じる道がひらけています。その途中に大きな松の木が一本あったことから『野中の一本松』と、いつのころからか村人は呼んでいたそうです。
それはそれは大きいばかりでなく、枝振りの美しさも他に類を見ない松でした。てっぺんまでの高さは二十メートル、周りが十五、六メートルもあったろうといわれています。まして、この木の近くに混々(滾々が正)と清水が湧き出て、通行人は言うまでもなく、当時黒浜、以下宿から本村の学校へ通う子供たちの憩いの場所でもありました。
ところで、この松は根ッコから一メートルぐらいのところが空洞になっていて、その中は畳二枚も敷ける程の広さで、おとなが立てるほどの高さはあったといいます。穴の中は自然にできたのでなく「金ノミ」で削りとられていたようで、内側の壁は風化した土はだを見るようでした。当時。村へ出まわる巡礼や、物乞いが、雨風をしのぎ冬の季節をここで過ごしていたようであります。
ところが、北風の強い昼下がりのできごとでありました。もうもうと立ちのぼる黒煙は、『野中の一本松』の方向だと村人たちがさわぎ出しました。もっとも近い毛首の人たちは手に手に手桶を持ってかけ上っていきました。近くの川から水を汲み、穴めがけてヒッかけたので、消し止めるには長くかかりませんでした。後になって村の人の話しでは、穴の中で焚き火をしての不始末からではなかったかということでした。そのことから二日、三日と経ったころ、松葉がだんだん緑を失い、ひと月とたたないうちに枯れ木となってしまいました。
この松の木の近くに、白くコケでおおわれた石碑が建っていますが、さらにそのそばにはお地蔵さまが祭られてあります。この松と碑とお地蔵さまの三体には何か因果関係があるのではないかと思われます。しかし、現在では巨木はなく地蔵さまと碑が、むかしの物語を秘めて、語ることもなく残っているだけであります。

(注) 現在、国道499号となっている県道長崎〜野母間は、昭和18年開通と野母崎町郷土誌年表にある。高浜海岸の話はその以前の思い出で、高浜から古里までの道の様子を伝えている。この頁には昔の海岸線と道を今と比較した地図がある。街道といわれる道と少し違うが、参考となる。浜添は今も字名「浜ゾ」で残る。

砂の丘「クマン峠」の名は不思議である。脇岬の砂丘も「熊根」という。「クマ」は道や川の折れ曲がっている所、あるいは奥の引っ込んだ所を言う古語らしい。曲がった地形をあらわすのか、熊野神社に関係するのか。

野中の一本松は、清水が湧く「延命水」の石祠の右側にあった。松ヤ二採取で戦後、枯れたという。この話は川原道の道筋であったことを伝え、黒浜・以下宿から高浜に行くにもここに上って、「みさき道」と合流していたと考えてよい内容の資料である。
このほか野母の漁師の始まり、観音寺の観音像の由来など史実と民話を平易に収録している。

小長井の毘沙天岳ウォークとかき焼き新年会  2012年1月

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小長井の毘沙天岳ウォークとかき焼き新年会  2012年1月

2012年1月29日(日)快晴。小長井の毘沙天岳(標高161.4m)ウォークとかき焼き新年会。参加14人。みさき道歩会の例会。
長崎8:40−小長井のオガタマノキ10:03ー柳南公民館10:31ー毘沙天岳10:56ー小長井漁協かき焼き小屋12:10ー竹崎城展望台13:59ー有明海の湯14:49ー長崎16:35(徒歩距離 約2km)

長崎から車3台で長崎バイパス、諫早の国道207号新道により小長井へ向かう。JR長里駅から左の谷間の川内集落に入り、日本一のオガタマノキの巨樹を見学する。
小長井のオガタマノキは、次を参照。 https://misakimichi.com/archives/506
そのままレインボーロードへ上がり、毘沙天岳の後ろとなる柳南公民館に車を置く。弘法堂があり、竹崎街道がここを通る。

去年は国道の方から登った。今年はその反対側から。畑道のような車道を15分ほど歩くと毘沙天公園駐車場に着く。山頂へはあと5分ほど坂段の遊歩道を登ると、左の岩場に見晴し台がある。有明海が前面。竹崎半島・小長井町・雲仙岳が広大に望める。
三角点がある山頂とその下りからは、多良連峰や聖母の騎士学園の白い建物が見える。石碑が多い参道をまっすぐ下って行き、一周するような形で、柳南公民館の車に30分ほどで戻った。

長崎ではランタン祭り。きょうは快晴とあって、国道筋のかき焼き小屋はどこも満員だった。小長井漁協かき焼き小屋は、30分ほど待って屋外に席を作ってもらった。地元産は品切れ。岡山産でまかなっていた。屋外はポカポカ陽気、かきと酒が進んだ。
県界を越し、竹崎城展望台で展望を楽しみ、「有明海の湯」に浸かる。長崎へは高速道路を利用し16時35分帰り着いた。

宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/29207109.html

「福田清人と岬(長崎・土井首)の少年たちー寄せ書きー」  平成13年

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「福田清人と岬(長崎・土井首)の少年たちー寄せ書きー」  平成13年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。寺井房夫編 東京 福田はる刊「福田清人と岬(長崎・土井首)の少年たちー寄せ書きー」平成13年3月発行。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行111〜112頁ですでに紹介済み。写真が大山祗神社鳥居前の鹿尾川底に残る飛び石跡?と、長崎市立土井首中学校の前庭石。どの石かはもう不明。

「福田清人と岬(長崎・土井首)の少年たちー寄せ書きー」 19〜20頁
寺井房夫編 東京 福田はる刊 平成13年3月発行

地図に寄せて(2)昭和のカッパ連  取水堰の「ため」
大山祗神社鳥居前の鹿尾川には、「ため」と呼ばれている、取水堰で塞き止められた溜まりがあった。
『私が住んでいた実家は鹿尾川沿いに建っていました。長崎豪雨、昭和57年(1982)7.23の時は床上浸水した程で、川とは切っても切れない縁です。子供の頃は、満ち潮に乗って上って来るボラや、スズキを堰の下で待って、矛で突いたり、ハゼ釣りをしたり、また、上流でフナ釣りをしたりして遊びました。フナがもっとも良く釣れたのが「ため」です。小学校3年生だったと記憶していますが、深い水底を恐る恐るのぞいていたら友達に突き飛ばされて、深みに落ち、無我夢中でバタバタしている中に自然に泳ぎを覚えてしまいました。
中学生になり、長崎市内の中学水泳大会が開催され、この「ため」で練習するようになりました。夏になると、授業が終るとすぐ「ため」に集まり練習に励みます。堰の長さは20メートルはあったと思います。練習は、優勝経験のある先輩がストップウオッチを片手に、何回も何回も往復して、泳がされました。私達が優勝できたのは、プールの無い時代、ここで思い切り練習できたからだと、確信しています。
私にとっては、思い出と自然が一杯つまった取水堰の「ため」ですが、今はどうなっているのでしょうか。上流にダムが出来たとも聞いています。水がきれいで、フナやハヤが泳いでいた風景を今でもはっきり思い出します。 土井首中学校第5回卒(昭和27年3月)横川(小川) 等 千葉市在住』

「ため」は、形を変えて、残っている。取水堰は水害後の河川改修工事で取り壊されたが、その岩石は、土地の篤志家の手によって運び上げられ、土井首中学校玄関の前庭に生きている。取水堰の向こうには、松の木が生え、地蔵も立っていた。その昔、長崎への街道の渡しであったという。
海産物と川・山の産物が集まり、水田も開け、山麓には果樹も実のっていた。海、川が交わるこの地は、土井首に早く発生した集落であろうと、ロマンを語る人が多い。(福田清人の)作品に「私はまだ海に入らぬカノヲ川の中流の岸で、群をなして水流に身をゆだねて下流へ向ふ魚の群をみたことがあった。」とあるのはおもしろい。

(注) 土井首中の前庭石は、教頭先生が地元に聞いてくれた。当時河川工事をした地元兵頭建設の社長が亡くなり不明でこれと断定できない。この渡り場所に後年木橋が少し下流にかかったが、何度か流され、沖縄の人の篤志で黒みかげ石で出来たこともあったという。(磯道中山氏)
今は郵政磯道団地ができ、まだ下流に「互助之橋」が架設されている。大潮の時も海面はこの少し上流までしか来ず、飛び石は十分考えられる。国土地理院旧版地図明治34年測図も「渡渉所」。
上流のダムとは昭和63年できた鹿尾ダム。さらに上流の小ヶ倉水源池は大正15年完成している。両ダムのない時代、鹿尾川はかなりの水流があったと思われるが、ここで渡渉できたのではないか。「ため」のコンクリート片と石は、まだ川底に平らな一部が残っている。

角川書店刊 ”日本地名大辞典 42長崎県”の「古道町」 昭和62年ほか

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角川書店刊 ”日本地名大辞典 42長崎県”の「古道町」 昭和62年ほか

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。角川書店刊”日本地名大辞典 42長崎県”の「古道町」 昭和62年と、熊弘人著”長崎市わが町の歴史散歩(1)東・南部” 新波書房 平成5年の「古道町」。野母崎町などは旧町名。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行102頁ですでに紹介済み。

角川書店 「日本地名大辞典 42長崎県」 昭和62年 867頁

ふるみちまち 古道町 〈長崎市〉
〔近代〕昭和24年〜現在の長崎市の町名。もとは長崎市土井首町の一部。町名のもとになった元来の小字名古道は、鹿尾川の渡り場から北へ字大道(現古道町)の坂を登り山一つ越えた小ヶ倉界の谷間を指し、数軒の農家と水田・畑があったが、現町域は広く鹿尾川以北の山林部を包括する。昭和35年の世帯数10・人口30。昔の古道の谷は南長崎ダイヤランドの造成で埋められた。なお、古道の字名は、江戸期に長崎から野母崎への御崎道が通っていたことによるが、土井首村のコースは字古道から字大道を降りて鹿尾川の渡し場(大山祗神社の北北西150m地点)を渡り、字京太郎からその背後の山を越え、字草住の谷沿いを南下していたという。

(注) 「みさき道」(御崎道)の土井首村コースを記しているが、「渡し場」の表現とも、関寛斎日記や文久元年同村地図などと比べると、特に「字京太郎から背後の山を越え」た部分(現在の草住町杠葉病院分院に回る)は疑問がある。
詳しくは、「地名」等の解釈と特定において説明しているが、今後の考証を待ちたい。

熊弘人著 「長崎市わが町の歴史散歩(1)東・南部」 新波書房 平成5年

古道町(古道町) みさき道               342頁
長崎市十人町から野母崎町脇岬に至る行程七里(27.5キロ)の道をいう。
脇岬は、鎖国時代には中国から長崎に向う唐船の風待港であったことから、長崎の抜荷商人達はみさきの観音寺参りと称して密貿易の利を得るため、このみさき道を利用していた。現在、十人町や新小ヶ倉1丁目に当時の標柱が残っている。
なお、土井首村内のみさき道のコースは、字古道から字大道(磯道町)を降りて鹿尾川の渡し場を渡り、字京太郎から背後の山を越えて草住の谷沿いを南下していたといわれている。

(注) 上記資料などをそのまま引用している。「抜け荷」や「土井首村のコース」については疑問がある。鹿尾川は「渡し場」でなく「渡り場」か。飛び石で渡った。

この項は、本ブログの次の記事を参照。写真が大山祗神社鳥居前、長崎大水害で改修された鹿尾川の川底に残る飛び石跡? 一部は長崎市立土井首中学校の前庭石となっている。
地図は文久元年(1861)「彼杵郡深堀郷図」小ヶ倉・土井首村部分(長崎歴史文化博物館蔵)。
平凡社「日本歴史地理体系43 長崎県の地名」2001年刊 「御崎道」
https://misakimichi.com/archives/29
「古道」という道があったか。また、字「大道」とはどんな意味がありどの位置か
https://misakimichi.com/archives/365
大山祗神社前鹿尾川の奇岩上渡りと京太郎背後の山越えは
https://misakimichi.com/archives/388

山川出版社刊 ”42 長崎県の歴史散歩”の「観音寺」 1989年・2005年

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山川出版社刊 ”42 長崎県の歴史散歩”の「観音寺」 1989年・2005年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。山川出版社刊 ”42 長崎県の歴史散歩”の「観音寺」 1989年と2005年版。野母崎町などは旧町名。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行102〜103頁、第2集平成18年4月発行25〜26頁ですでに紹介済み。

新全国歴史散歩シリーズ42「長崎県の歴史散歩」 1989年 71〜72頁
長崎県高等学校教育研究会社会科部会編  山川出版社

みさきの観音禅寺  ■西彼杵郡野母崎町脇岬 JR長崎駅バス脇岬行観音寺入口下車3分
長崎半島の南端に野母崎町がある。その最南端にある権現山(198m)は陸繋島で四方が一望できるので、1638(寛永15)年遠見番所が置かれて、外国船の来航を長崎奉行所に通報した。
東海岸にまわると、弁天島へと陸繋砂州が伸びる脇岬である。その北方の殿隠山の山すそに、709(和銅2)年行基菩薩の開基という観音禅寺(曹洞宗)がある。江戸時代に再建された観音堂には、ヒノキ一木造・半丈六(約2.5m)の千手観音立像(国重文)が、円満な面相を平安時代末期より伝えている。“みさきの観音”と呼ばれ、鎖国時代をつうじて長崎からの参詣者も多く、その道を「みさきみち」と呼んだ。長崎市十人町の活水女子短大への登り口に「みさきみち」と刻まれた標石があり、ここから道は八郎岳(590m)の中腹を南下して観音禅寺に至る。その途中三和町の徳道集落には「長崎より五里、御崎より二里」の道標がたっている。
脇岬は、鎖国時代、長崎にむかう唐船が風待ちのため寄港したことも多く、観音寺は唐商人や乗組員の宿泊所として利用された。長崎の抜荷商人は観音寺詣りと称して、密貿易の利を求めてみさきみちを利用したといわれる。寺内の寄進物には施主の名として中国貿易商人のほかに、長崎の町人や遊女名も多く、観音堂内陣の150枚の天井板絵(県文化)は船津町(現在の恵美須町)の商人が奉納したもので、1846(弘化3)年唐絵目利(めきき)の石崎融思一家や出島絵師川原慶賀の筆になる極彩色の花鳥画は、人の目をみはらせるとともに、当時の抜荷商人の豪勢さをしのばせている。

(注) 「殿隠山の山すそ」は「遠見山(259m)の山すそ」、「みさきみち」は刻面のとおり「みさき道」、「八郎岳(590m)の中腹を南下して」は「八郎岳(590m)のふもとと半島の山を南下して」の表現がよいと思われる。
密貿易は確かに多かったが、通常は長崎から遠く離れた海域で「船」によって行われ、「みさき道」がどのように利用されたかはっきりしない。「長崎犯科帳」も数例しかない。唐貿易の主な輸出品となった海産物の調達のため、この道が利用されたのではないか。
天井板絵を含め、寺への寄進者が「抜荷商人」のようであり、記述は再考願えればと思う。

歴史散歩(42) 「長崎県の歴史散歩」 2005年  66〜68頁
長崎県高等学校教育研究会地歴公民部会歴史文科会編  山川出版社

⑦ 旧炭鉱の島々を望む長崎半島の史跡
観 音 寺(37)   国重文の千手観音立像を安置 行基伝承を付帯
095-893-0844  長崎市野母町脇岬 JR長崎本線長崎駅 バス脇岬行観音寺入口 徒歩3分
長崎半島の南端に野母崎町がある。東海岸へまわると、弁天島へと陸繋砂洲がのびる脇岬である。その北方の殿隠山の山裾に、709(和銅2)年行基の開基という観音寺(曹洞宗)がある。江戸時代に再建された観音堂には、檜一木造・半丈六(約2.5m)の千手観音立像(国重文)が、円満な面相を平安時代末期より伝えている。「みさきの観音」とよばれ、鎖国時代をつうじて長崎からの参詣者も多く、その道を「みさきみち」とよんだ。十人町から活水女子大学へのぼる上り口に、「みさきみち」ときざまれた標石があり、ここから道は八郎岳(590m)の中腹を南下して観音禅寺に至る。その途中、三和町の徳道集落には、「長崎より五里 御崎より二里」の道標がたっている。
脇岬は、鎖国時代、長崎に向かう唐船が風待ちのため多く寄港し、観音寺は唐商人や乗組員の宿泊所として利用された。長崎の商人のなかには観音寺詣りと称して、抜荷(密貿易)の利を求めて、みさきみちを利用したものもいたといわれる。寺内の寄進物には施主の名として中国貿易商人のほかに、長崎の町人や遊女の名も多くみえる。観音堂内陣の150枚の天井絵(県文化)は、船津町(現、長崎市恵美須町)の商人が奉納したものである。1846(弘化3)年唐絵目利(めきき)の石崎融思一族や絵師川原慶賀の筆になる極彩色の花鳥画は、人びとの目をみはらせるとともに、当時の長崎商人の豪勢さをしのばせる。
また樺島には、国の天然記念物に指定されているオオウナギの生息地もあり、体長2mにもなるオオウナギが樺島の共同井戸に古くから住みついている。

権現山展望公園(38) 長崎半島の先端 異国船来航を奉行所へ通報
長崎市野母町野母 JR長崎本線長崎駅 バス野母崎方面行野母 車10分
野母半島県立公園の先端にある権現山(198m)頂上の展望台は、日本本土の最西端にあたり、四方に天草・雲仙、五島灘、高島や香焼、長崎方面、遠くは鹿児島県甑島を一望することもできる。古来,名僧の登山が多かったともいわれているが、1638(寛永15)年遠見番所が設置されて、外国船の来航を発見すると注進船で長崎奉行所へ通報された。
この注進方法をさらに迅速化するため1688(元禄元)年、信号による連絡方法が採用され、小瀬戸や梅香崎、観音寺に番所が設けられ、幕府の異国船警備の一役をになってきた。その後、明治・大正・昭和各時代をつうじて日本海軍の望楼がおかれ、第二次世界大戦当時は、電探基地・高射陣地が設置された。終戦後はアメリカ軍のレーダー基地となり接収されていたが、現在はバーゴラや椿公園、まごころの鐘などの施設の整った公園になっている。

(注) 先の研究レポート資料11刊行本の新版である。2005年6月改定発行されたのを知らず、1989年旧版を紹介していた。字句は一部修正されているが、まだ全体にやや正確さを欠く箇所が感じられる。当時の唐貿易の状況は別資料で紹介してみた。

江上忍氏県議会だより掲載記事 「みさき道」 平成15〜17年

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江上忍氏県議会だより掲載記事 「みさき道」 平成15〜17年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。江上忍氏県議会だより掲載記事「みさき道」平成15年〜平成17年。野母崎町などは旧町名。
この資料は、本会の研究レポート第1集「江戸期のみさき道」平成17年9月発行153〜154頁ですでに紹介済み。

其の2の「観音参り」は三和町郷土誌850頁、為石の「オカンノン様参り」は852頁にある。これら近郊の行事で「山道を通った」という記述は重要であるが、どのコースを通ったまでは詳細がない。推定できるのは、明治18年「西彼杵郡村誌」にあった「脇岬村路」である。
今回の調査は、野母崎町関係もわからないことが多く協力を依頼した。江上先生もそのひとりである。やはり地元は別の視点があり、たいへん参考となった。川原方面から脇岬に至る半島東回りのコースも多く利用されたようである。川原で明治のその道塚まで見つかった。

しかし今回の調査は、関寛斎の歩いたルートを通し、文久元年のみさき道(御崎道)の本道がどこか、文献・街道図・道塚で考えなければならないので、ご了承をお願いしたい。
特に其の1において、みさき道の本道が「今のゴルフ場から殿隠山、遠見山、堂山を経て」観音寺に至るとする点は疑問が多く、これまで指摘している。

江上忍氏県議会だより掲載記事 「みさき道」 平成15年〜平成17年

「みさき道 其の1」    第1号補足版 平成15年発行
長崎から御崎の観音様に通ずる山道は、「みさき道」と呼ばれています。天明八年(1788)長崎を訪れた江戸の画家司馬江漢の「西遊日記」に長崎の人に誘われて観音詣でをしたことが次のように書かれています。「十二日天気にて朝早く御崎観音へ皆々参ルとて、吾も行ンとて爰より七里ノ路ナリ。(中略)皆路山坂ニして平地なし、西南をむいて行ク。右は五嶋遥カニ見ユ。左ハあまくさ(天草)、嶋原見ヘ、脇津、深堀、戸町など云処あり。二里半余、山の上を通ル所、左右海也。脇津ニ三崎観音堂アリ、爰ニ泊ル。」
又寛政六年(1794)に刊行された「西遊旅譚」には、「(前略)向所比国無、日本の絶地なり。脇津人家百軒余、此辺琉球芋を食とす。風土暖地にして雪不降。」とあります。
長崎の十人町からスタートとして、新戸町、小ヶ倉、深堀、蚊焼峠(秋葉山)、今のゴルフ場から殿隠山、遠見山、堂山を経て観音寺に至る七里の道です。観音寺の上のお堂に上かる石段の右下に、このみさき道の道標五十本を寄付したことを示す石柱があり、「道塚五拾本、今魚町、天明四年」などと刻してあります。
十人町二丁目から右折して石段を昇って自治会掲示板そばに第一号があり、今は読めませんが、「みさき道」と書かれていたといいます。このほか上戸町山中や小が倉二丁目の旧道など六ヵ所が確認されています。高浜山中の自転車道には「長崎ヨリ五里御崎ヨリ二里」とあり、「文政七年申十二月今魚町」と読めます。嶮しい山中に重い道標を五十本も設置した「みさき道」は昔の人にどのように利用されていたのか。国道四九九号と重ね合わせて議会だよりの編集後記の標題とした次第です。(略)

「みさき道 其の2」    第2号 平成16年4月23日発行
前回の県議会だよりにみさき道のことを書きました。長崎から御崎の観音様に通ずる山道のことです。長崎の十人町から二本松、上戸町、新戸町を経て、いったんは鹿尾川に突きあたって磯道にくだり、土井首、深堀、大籠から晴海台と平山台の間を通り、国道499号の晴海台入口道路のちょっと栄上寄りの所に出ます。あとは秋葉山、ゴルフ場、殿隠山、遠見山、堂山と全て尾根道です。途中蚊焼から黒浜、以下宿を通って徳道で尾根道に合流するコースと徳道から高浜、古里を通って堂山峠に至るコースもあったようです。今でいうバイパスだったのでしょう。
寛永15年(1638)老中松平伊豆守が日野山(今の権現山展望公園)に遠見番所を設置して、遠見番十人が長崎から交代で勤務するようになって、みさき道は軍用道路としても重要になってきました。十人町という町名は、遠見番十人の役宅があったことから名づけられたものです。
寛政6年(1794)に刊行された江戸の画家司馬江漢の「西遊旅譚」に「長崎より七里西南乃方、脇津と云所あり。戸町深堀など云所を通りて、其路、山をめぐり、岩石を踏て行事二里半余、山乃頂人家なし。右の方遥に五島見是ヨリ四十八里。左の方天草島、又島原、肥後の国見て、向所比国無、日本の絶地なり。」とあります。最果ての地に50本もの道標を建て、京や江戸の文人墨客まで足を運んだ「みさき道」とはなんだったのでしょう。
三和町郷土誌の年中行事の欄に「脇岬参り」として、「元日の午前中、漁師の男衆はフンドシ裸姿の素足で、船名旗や大漁旗をたてた漁船で脇岬の観音様へ参詣する。脇岬の観音様は古くは肥御崎寺(ひのみさきてら)と記されて由緒のある名山であった。—中略—なお、女性は1月17日に観音様参りをする。」とあります。また為石では毎月17日「オカンノン様参り」をしたとの記録もあります。観音様の話はあとに譲り、みさき道の話を続けます。
なぜ山の上を通ったのかといえば、海岸は絶壁で通れないところが多かったからでしょう。市民病院や湊公園辺りは海で、浪の平や小曽根辺りも絶壁で戸町まで行くのも山越えでした。おかしなことに、「みさき道」を地元の人は知りません。「みさき道」は、長崎や深堀、三和町などの人たちが御崎の観音様にお詣りするための道で、地元の人が長崎に行くための道ではなかったのです。地元の人が長崎に行くには、高浜、岳路を通って蚊焼に出るか、木場、川原を通って為石に出る方が楽なのです。
文久元年の4月に、御崎観音に詣でた長崎医学伝習所生関寛斎は、尾根道から高浜に下り、古里、堂山コースを通ったようで、「下りて高浜に至る、此の処漁場なり、水際の奇岩上を通る凡そ二十丁、此の処より三崎まで一里なりと即ち堂山峠なり、此峠此道路中第一の嶮なり、脚労し炎熱蒸すが如く困苦云ふべからず、下りて直に観音堂あり。」と書いています。尾根道を通って堂山に下るのは易いが、堂山峠を登るのは古里側からも脇岬側からも難所だったのです。
三和町郷土誌には、18ページにわたって「みさき道」のことが詳しくし紹介されているのに、野母崎町の郷土誌にはなにひとつ載っていません。さきの関寛斎についても年表の中に「文久元年4月3日長崎遊学中の関寛斎(のちに医者)、長崎—戸町—加能(鹿尾)峠—小ヶ倉—深堀—八幡山峠—蚊焼峠—長人—高浜—堂山峠—観音寺のコースで歩く。」とあります。「みさき道」の文字はありません。

「これより観音道山道十丁 みさき道(其の3)」  第3号 平成17年4月28日発行
長崎から御崎の観音様へお詣りする人たちは、物見遊山を兼ねて尾根道を歩いたようです。この「みさき道」のほかに海路がありました。野母と脇岬を結ぶ国道脇に「従是観音道山道十丁」と書かれた石柱があります(「従是」は「これより」と読みます。)。野母の港からこの道標のところまでは、畑道や砂浜を通れますがそれから先は切り立った岩盤が海に突き出ており通れませんでした。仕方なく山道に入り、わずか1キロぐらいで海水浴場の近くに出ます。
この石柱には、「元禄十丁丑九月吉日願主敬建」とも書かれており、みさき道に今魚町によって建立された五十本の標柱とは、年代も百年ほど古く、今から三百年ほど前のものです。
長崎野母間の定期船は明治16年に三山汽船(本社時津港)により、一日二便が運航されていますが、それ以前にもなんらかの船便があったようです。長崎遊学中の医学生関寛斎は、文久元年(1861)4月3日みさき道を歩いて観音寺を訪れた翌日、野母に行き、「船場に至り問ふに北風強きに由て向ひ風なる故出船なしと、」と記しています。
漂白の俳人山頭火も、昭和七年二月七日に観音寺を訪れていますが海路だったようです。その前に滞在した長崎の俳友宅は、大浦の酒屋さんで、酒好きの山頭火にとっては、どんなにありがたかったのではないでしょうか。「人のなさけが身にしみる 火鉢をなでる」という句を残しています。「まえにうしろに海の見える 草に寝そべる」は、脇岬の砂丘での句です。

写真は、脇岬海岸にある「従是観音道」「山道十丁」の道塚。本ブログの次を参照。
https://misakimichi.com/archives/97

野母崎町教育委員会 「わたしたちの野母崎町」 平成14年

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野母崎町教育委員会 「わたしたちの野母崎町」 平成14年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。野母崎町教育委員会 「わたしたちの野母崎町」平成14年の27〜29頁。野母崎町のうつりかわりをしらべよう「みさき道をももっとくわしくしらべよう」。野母崎町は旧町名。

みさき道をももっとくわしくしらべよう (29頁部分)                
きみたちは、脇岬にある観音寺を知っていますか。このお寺は、たいへん歴史のあるお寺で、長崎からたくさんの人がおまいりにきていました。
朝まだ暗いうちに長崎を出発し、今の戸町、深堀町、蚊焼町へと進むころには、日もすっかりのぼって、そのあたりのとうげで一休みしたそうです。天気のいい日には、伊王島や高島まで見わたせたそうです。
しかしそこからがたいへんで、秋葉山の頂上まで一気にきつい坂道を上ったそうです。そこからは、山の尾根を歩き、殿隠山、堂山峠、遠見山、観音寺へと歩きつづけました。観音寺でお昼ご飯を食べ、長崎にもどると、もう夜になってしまった、ということです。…

この資料は、本会の研究レポート第1集「江戸期のみさき道」平成17年9月発行155〜157頁ですでに紹介済み。
同資料は野母崎町の小学3,4年生の社会科学習の副読本だった。たまたま脇岬公民館にあって目にした。今回の調査による文献史料や道塚からすると、「みさき道」は基本的に、高浜に下り古里から堂山峠を越えて、観音寺に行くコースと思われる。
「野母道」でもあるので、高浜・古里を通らないと、地元には遠回りとなろう。

教材が根拠としているのは、同27、28頁にあるとおり「二人は町民センターで、とても古いむかしの地図を見つけました。このふしぎな地図について話をしていると、係の人が話をしてくれました。…また昔の人が通っていた「みさき道」がかかれています…」から続く。
古い地図とは、元禄14年(1701)「肥前全図」(長崎半島部分)。長崎歴史文化博物館蔵。この図は、正保4年(1647)「肥前一国絵図」とともに、昭和61年「野母崎町郷土誌」の巻頭頁にある。研究レポートでは1集5頁。

この図を後ろに再掲した。図中の陸部の赤細線が道を示している。黒太線は当時の彼杵郡と高来郡の郡界であろう。殿隠山、遠見山の尾根に、赤細線の街道の道は通っていない。「みさき道」自体まだ不明? 正保4年(1647)「肥前一国絵図」も参考のため。赤二重線は村界。
郡界の黒太線などを「みさき道」と見誤った考察を、野母崎町教育委員会がしたものと思われる。長崎市中から脇岬観音寺まで1日で往復するのも、特別に頑強な人しか考えられない。

「みさき道」がまだ教材となっているなら、県立高校生用の山川出版社刊「長崎県の歴史散歩」と同じく、記述は再考願えればと思う。