野母崎町教育委員会 「わたしたちの野母崎町」 平成14年

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野母崎町教育委員会 「わたしたちの野母崎町」 平成14年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。野母崎町教育委員会 「わたしたちの野母崎町」平成14年の27〜29頁。野母崎町のうつりかわりをしらべよう「みさき道をももっとくわしくしらべよう」。野母崎町は旧町名。

みさき道をももっとくわしくしらべよう (29頁部分)                
きみたちは、脇岬にある観音寺を知っていますか。このお寺は、たいへん歴史のあるお寺で、長崎からたくさんの人がおまいりにきていました。
朝まだ暗いうちに長崎を出発し、今の戸町、深堀町、蚊焼町へと進むころには、日もすっかりのぼって、そのあたりのとうげで一休みしたそうです。天気のいい日には、伊王島や高島まで見わたせたそうです。
しかしそこからがたいへんで、秋葉山の頂上まで一気にきつい坂道を上ったそうです。そこからは、山の尾根を歩き、殿隠山、堂山峠、遠見山、観音寺へと歩きつづけました。観音寺でお昼ご飯を食べ、長崎にもどると、もう夜になってしまった、ということです。…

この資料は、本会の研究レポート第1集「江戸期のみさき道」平成17年9月発行155〜157頁ですでに紹介済み。
同資料は野母崎町の小学3,4年生の社会科学習の副読本だった。たまたま脇岬公民館にあって目にした。今回の調査による文献史料や道塚からすると、「みさき道」は基本的に、高浜に下り古里から堂山峠を越えて、観音寺に行くコースと思われる。
「野母道」でもあるので、高浜・古里を通らないと、地元には遠回りとなろう。

教材が根拠としているのは、同27、28頁にあるとおり「二人は町民センターで、とても古いむかしの地図を見つけました。このふしぎな地図について話をしていると、係の人が話をしてくれました。…また昔の人が通っていた「みさき道」がかかれています…」から続く。
古い地図とは、元禄14年(1701)「肥前全図」(長崎半島部分)。長崎歴史文化博物館蔵。この図は、正保4年(1647)「肥前一国絵図」とともに、昭和61年「野母崎町郷土誌」の巻頭頁にある。研究レポートでは1集5頁。

この図を後ろに再掲した。図中の陸部の赤細線が道を示している。黒太線は当時の彼杵郡と高来郡の郡界であろう。殿隠山、遠見山の尾根に、赤細線の街道の道は通っていない。「みさき道」自体まだ不明? 正保4年(1647)「肥前一国絵図」も参考のため。赤二重線は村界。
郡界の黒太線などを「みさき道」と見誤った考察を、野母崎町教育委員会がしたものと思われる。長崎市中から脇岬観音寺まで1日で往復するのも、特別に頑強な人しか考えられない。

「みさき道」がまだ教材となっているなら、県立高校生用の山川出版社刊「長崎県の歴史散歩」と同じく、記述は再考願えればと思う。