月別アーカイブ: 2014年11月

白岳の狼煙場・跡  川棚町下組郷 ( 長崎県 )

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白岳の狼煙場・跡  川棚町下組郷

白岳(標高302.2m)は、川棚の町から北西にNHKアンテナ塔が見える山。この近くまで車道が上がる。エレナ前から医療センター角を行き、下組郷公民館や大石垣の家を過ぎ平戸街道へ出て、喜々津牧場の間の林道に入る。往還松の育成をしているところに、登り口の標石と説明板がある。
ここから約800mだが、コンクリート坂道途中の分岐は左へ、林道はアンテナ塔下近くまで入り、駐車可。あと
200mほど歩いて山頂に登る。後ろの写真は、往還松付近から見た虚空蔵山など。
サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータ及び現地説明板は、次のとおり。

白岳の狼煙場・跡 しらたけ
(東彼杵)川棚町 狼煙場 文化5(1808)以降 町教委 場所が特定できる程度 文化5のフェートン号の長崎への不法侵入・乱暴以降に大村領内に8ヶ所程度設置された狼煙場の一つ 4 –

白岳(大隅高野)の狼煙場跡  (800m手前登り口にある現地説明板)
文化5(1808)年8月、イギリスの軍艦フェートン号が長崎に不法侵入して乱暴を働いた。(これが17年後の「異国船打払令」の大きな原因となる)
それで今後長崎に同様な異変が起こった場合の敏速な情報伝達のためその翌年大村領内にも数カ所の狼煙場を設けた。
山頂の狼煙場跡
(直径約5メートルのくぼ地)はその数少ない遺跡の一つで、彼杵の立神狼煙場から合図を受け継いだ。
川棚町教育委員会

平島の古井戸  川棚町下組郷平島地区 ( 長崎県 )

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平島の古井戸  川棚町下組郷平島地区

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータ及び現地説明板は、次のとおり。5枚目の井戸は、所在図2のところにある井戸。

平島の古井戸 ひらしま
(東彼杵)川棚町 平島地区 石井戸 天保4(1833)以降 町教委 史跡(無指定)されているのは1ヶ所のみ 天保4の大火後に碁盤目状の路地が造られ、防火用水を兼ねて20数ヶ所の井戸が掘られた 3 C

平島の古井戸  (現地説明板)
天保4年(1833)4月、平島は大火に見舞われ、住家200棟、小屋26棟、土蔵1棟が焼失した。
復興にあたり、京都の町並みにならって道路を基(碁?)盤の目のように通し、同時に防火用水を兼ねて20数箇所にこのような井戸が掘られた。
これは当時のまま残る井戸であり、現在も家庭用水として利用されている。
平成20年(2008年)   川棚町教育委員会

平島の碁盤目状街路  川棚町下組郷平島地区 ( 長崎県 )

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平島の碁盤目状街路  川棚町下組郷平島地区

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。古井戸は次の記事とする。

平島の碁盤目状街路 ひらしま
(東彼杵)川棚町 平島地区 道路 外周不定形: 東西2本、南北2本 天保4(1833)以降 町教委 当時の区画割がそのまま残る 天保4の大火後に造られた碁盤目状の街路 2 C

ひっぽがし石垣
(東彼杵)川棚町 平島地区 護岸石垣 文政11(1826)以前 町教委 ごく一部を鉄柵で囲んで保存 文政11の台風で被災した護岸石垣 4 C

長崎県都市計画課HPの「まちづくり景観資産」登録制度による説明は、次のとおり。

平島地区 ひらしまちく
登録番号:景資第1-26号  登録日:平成22年3月26日  所在地:東彼杵郡川棚町下組郷
かつては大村湾屈指の漁業集落であった、川棚川右岸の静かな漁業集落である。江戸時代末期から大正にかけて酒屋や問屋、豆腐屋など商業も栄え、地の利を活かした海運業も生業とされてきた。点在する旧家や細い辻道、古井戸に往時の面影を見ることができ、また古材などを再利用した門、石積み・レンガ積みの塀などもよく保存されており、歴史を感じさせるまちなみである。

大村藩・佐賀藩境界石柱(二基)の本来の場所は  長崎市東樫山町 ( 長崎県 )

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大村藩・佐賀藩境界石柱(二基)の本来の場所は  長崎市東樫山町

長崎市三重地区郷土誌編さん委員会編「長崎市三重地区郷土誌」が、2013年9月発行されている。
別冊(写真集)の「史跡・文化財・伝承」の項71頁、現在は東樫山町天福寺前と長崎市三重支所玄関横スロープ庭に移設されている「73 大村藩・佐賀藩境界石柱(二基)」は、(本来の場所は不明)と説明している。

この標石は、本ブログ次を参照。私たちが大村郷村記三重村144頁「佐賀領境傍爾石之事」の記録により、本来の場所は、長崎県立長崎図書館所蔵「彼杵郡三重村東樫山 佐賀領御境絵図」をデジカメ写真に撮って見当をつけ、平成17年9、10月の2日間現地調査のうえ確認している。

その場所は、説明図の「桜の首」Hと「三重崎」A地点の藩境である。地元史談会でも研究をお願いしたい。
大村郷村記の三重東樫山「藩境石塚」の存在を確認  https://misakimichi.com/archives/84
三重東樫山の天福寺へ移設されている藩境石      https://misakimichi.com/archives/2307

深堀陣屋跡の現況 (10)  長崎市深堀町5丁目 ( 長崎県 )

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深堀陣屋跡の現況 (10)  長崎市深堀町5丁目

深堀氏の居城だった深堀陣屋跡の現況は、本ブログ前の記事を参照。
現況(1)は、https://misakimichi.com/archives/3862
現況(2)は、https://misakimichi.com/archives/3869
現況(3)は、https://misakimichi.com/archives/3877
現況(4)は、https://misakimichi.com/archives/3884
現況(5)は、https://misakimichi.com/archives/3922
現況(6)は、https://misakimichi.com/archives/3943
現況(7)は、https://misakimichi.com/archives/3957
現況(8)は、https://misakimichi.com/archives/3966
現況(9)は、https://misakimichi.com/archives/3995

深堀陣屋跡に建設されたカトリック深堀教会は、昨年11月24日定礎式があった。南西側箇所で主に発掘された深堀陣屋御屋敷の礎石の石組みは無残に壊された。ここに建てた建物は、どこにでも建てることができる信徒のための納骨堂なのである。
深堀教会は建設工事が完成し、2014年9月20日(土)に献堂式があった。教会HPによると、5月以降更新がなく、「ホームページの充実は今しばらくお待ちください」と、詳細がわからないので、私が昨日、新しい教会を訪ね全容を写してきた。
広大なアスファルト舗装駐車場ができ、以前の教会建物は壊していた。納骨堂の建物には「ペテロ館」と表示されていた。

「深堀陣屋跡」は、文化財保護法に基づく埋蔵文化財包蔵地として周知されている。昭和35年にカトリック長崎大司教区の所有地となったが、戦国・近世初頭期研究において重要課題である深堀氏研究が進展するためにも、今は深堀氏関連遺跡の保存にできる限り務める必要があるのに、すざましい遺構破壊の実情だろう。市指定天然記念物のアコウの樹の説明プレートも壊されたまま、まだ放置されている。
以下のとおり、私たちが「長崎市政への提案」などで、早くから史跡保存を要望していたのに、まったく配慮されていない。その後、提案は少しは進展があったが、教会の品格と長崎市・県の見識のなさが疑われる。
今となって地元深堀地区連合自治会が、石垣を景観重要建造物に指定するよう働きかけているので、来年2月の審議会に付議されるのではないかと思われる。

長崎市政への提案と回答内容

ご意見(要旨) 【深堀陣屋跡の発掘調査結果の公表と、残された遺構の保存方法】  【2014年04月受信】
深堀陣屋跡に建設されるカトリック深堀教会は、昨年11月24日定礎式があった。現在、教会建設工事が本年秋完成を目指し、急ピッチで進められている。長崎市文化財課の発掘調査は11月末で終了したが、その結果がいまだ公表されない。
南西側箇所で主に発掘された深堀陣屋御屋敷の礎石の石組みは無残に壊された。ここに建てている建物は、どこにでも建てることができる信徒のための納骨堂なのである。
史跡保存については、長崎市と教会側で十分に配慮するとの協議があっているのに、不可解な進展具合である。市民や地元にまったく説明がない。長崎市政への要望や提案を早くから提出しているのに回答をしない。長崎市長が前面に出て強力な指導をするべきでなかったか。
遺構は埋め戻し、65cmかさ上げ施工したというが、基礎工事を見るかぎりあまり信じられない話である。
破壊された遺構は、今更どうしようもない。法の不備と行政の限界、怠慢もあったが、納骨堂前の駐車場とする部分に、礎石石組みはまだ半分位は残っていると思われる。その部分は舗装しなく、柵囲いと配水設備を設置し、礎石を屋外展示してもらう方法がある。
関係者が今から協議し、これくらいは配慮して良いのではないだろうか。それがカトリック教会の品格と言うものだろう。報道機関も問題意識を持って、大いに動いてもらいたい。
深堀の殿様気分では、納骨堂の霊も居心地が悪いだろう。佐賀藩でも諫早や神代と同じような深堀領だった。佐賀の人にも顔向けができない史跡破壊の実情である。

回答 【文化財課】  【2014年05月02日回答】
深堀陣屋跡の調査結果は、平成26年度に発掘調査報告書にまとめ、県内外の公立図書館や大学等の研究機関に配布して公開する予定です。また、地元深堀の皆さまをはじめ、多くの市民の皆さまにも調査結果を知っていただくために、深堀貝塚遺跡資料館の展示コーナーで調査結果と出土品を紹介する予定です。
調査の公表にあたっては、写真・図面・出土品の整理作業が必要であり、整理作業は事業者に調査費用を支出していただき、本年度に実施する予定です。遺跡の発掘調査の整理は、時間と費用を要しますので、ご理解いただきますようお願いします。
今回の発掘調査で発見された遺構等は教会の新築工事に伴い失われましたが、発掘調査を行うことで、遺構等の記録は保存されています。また、工事内容の変更により、教会の敷地には、深堀陣屋跡の遺構が現在も多く地中に保存されています。これは開発行為に伴う埋蔵文化財(遺跡)の取り扱いとして問題ないと判断しております。
残った遺構の取り扱いについては、未来に継承するため、地中に保存することを管理者であるカトリック深堀教会と協議済みです。屋外展示は遺構の保存管理に費用が掛かり、屋外にさらすことで遺構の劣化が懸念されるため、現在のところ、地中に保存することが、後世に継承するうえで最も適切な方法であると考えております。所有者・事業者であるカトリック長崎大司教区に工事内容を変更していただいたことで遺跡への影響は当初の計画よりも小さくなっています。発掘調査費用の支出や、工事前の発掘調査期間についても配慮をいただいており、今後は整理作業の費用も支出していただく予定となっています。文化財の保護について、これ以上の負担を求めることは、行政の指導として適切ではないと考えております。
深堀陣屋跡の保護につきましては、今後とも所有者のご理解ご協力を得ながら取り組んでまいりたいと考えておりますので、ご理解いただきますようお願いいたします。

平戸八景3ヵ所を国の名勝指定へ ( 長崎県 )

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平戸八景3ヵ所を国の名勝指定へ

長崎新聞県内トピックス(2014年11月22日更新)は、次のとおり。
朝日新聞の詳細記事及び私の手持ち写真から今回対象の一部を紹介する。本ブログ次を参照。「大悲観」は、ウィキペディア画像。
潜龍ヶ滝  佐世保市江迎町田ノ元免    https://misakimichi.com/archives/971
福石観音の五百羅漢  佐世保市福石町  https://misakimichi.com/archives/1242

平戸八景3ヵ所名勝指定へ

文化審議会(宮田亮平会長)は21日、「平戸八景」として知られる景勝地「平戸領地方八竒勝(ひらどりょうじかたはっきしょう)」(佐世保市)など10件を国の名勝に新規指定するよう下村博文文部科学相に答申した。
明治時代に建てられた長崎市鍛冶屋町の「料亭 春海(はるみ)」や、同市宿町の古民家、吉田家住宅の「主屋(しゅおく)」と「長屋門(ながやもん)」など133件の建造物を新たに登録有形文化財とすることも求めた。
近く答申通り告示され、県内の名勝は7件(うち特別名勝1件)、登録有形文化財(建造物)は119件となる。

「平戸領地方八竒勝」は、平戸往還(街道)周辺の8カ所の景勝地。江戸後期の1847(弘化4)年、平戸藩主松浦熈(ひろむ)が選定した。文化財指定の条件が整った「潜龍水(せんりゅうすい)」「大悲観(だいひかん)」「福石山」の3カ所を指定する。
「料亭 春海」は1907(明治40)年築の邸宅に昭和期以降の部屋などを増築した建物で、料亭らしい品格が評価された。旧長崎街道沿いに立つ吉田家住宅は「主屋」「長屋門」とも1890年代の建築。格式の高さと重厚な存在感で地域に親しまれている。
このほか、「甑島(こしきしま)長目の浜および潟湖(せきこ)群の植物群落」(鹿児島県薩摩川内市)を天然記念物に、史跡13件と登録記念物5件、重要文化的景観3件を新規で答申した。

ウィキペディアフリー百科事典による「平戸八景」の説明は、次のとおり。詳しくは次を参照。
「平戸八景: 地域遺産の旅」 http://rekisitannbou.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-e37f.html

平戸八景

平戸八景(ひらどはっけい)は、旧平戸藩内にあたる長崎県佐世保市内に散在する8箇所の奇岩からなる景勝地。北宋の瀟湘八景になぞらえた八景の一つである。8箇所とも北松浦半島にあることから、北松八景(ほくしょうはっけい)と呼ばれることもある。
現在伝承されている平戸八景は、天保年間に平戸藩主松浦熈(観中)が京都の沢渡広繁に作画と出版を依頼した「平戸地方(じかた)八奇勝図」をルーツとする。平戸領の本土(地方)に点在する奇岩奇勝から、松浦郡(→北松浦郡)と彼杵郡(→東彼杵郡)から4箇所ずつ、計8箇所を選び、広繁の手による精巧なスケッチと漢詩をセットにした印刷本である。総じて、山水画や浮世絵の素材として優れた風景を採用している。
八景が分布する北松浦半島は、新生代第三紀の砂岩層に第四紀の溶岩台地がかぶさり、浸食によって露出した第三紀層が多様な景観を作っている。松浦熈がそこに着目し、古くからの景勝地に加え、自らが普及に関与した新たな景勝地を加え、世間に広めた。
2009年現在、2箇所が江迎町、6箇所が佐世保市にあったが、市町村合併が進み、2010年3月31日に江迎町が佐世保市に合併したため、八景全てが佐世保市内に位置することになった。

概要

1.高巌(たかいわ
種類:崖
概要:佐世保市江迎町小川内(江迎川下流)に位置する高さ30mほどの断崖。現在では「高岩」と書く。古くより知られた断崖で設定当時の平戸往還は崖の真下を通り抜けていたが、崩落が相次いだため、往還は川の対岸に移設された。現在でも補強処理を施していないため恒常的に崩落しており、直下の道路は通行止めにはなっていないが、通行者はほとんどいない。
最寄の交通機関: 松浦鉄道西九州線高岩駅 – 駅ホームから断崖を眺めることができる。西肥バス「高岩」バス停 

2.潜龍水(せんりゅうすい)
種類:滝
概要:江迎川上流の、高さ20mほどの滝。佐世保市吉井町草ノ尾から江迎町田ノ元に流れ下る所に位置する。現在では「潜竜ヶ滝」や「潜竜の滝」と呼ぶ。伝承ははっきりしないが修験者の道場となっており、明治までは女人禁制であった。女人禁制が明けるまで、結界には鉄の扉と鳥居が設けられており、松浦熈は「龍門」の篆額を揮毫し、この鳥居に飾らせた。
最寄の交通機関: 松浦鉄道西九州線潜竜ヶ滝駅 – 滝までは徒歩20分。渓谷入口に駐車場があり、マイカーで訪問するのが便利であるが、滝付近は道が狭くなるので注意が必要。

3.石橋(いしばし)
種類:海食陸橋
概要:佐世保市吉井町直谷の中腹にある石橋状の奇岩。高さ20mの海食洞の天蓋が抜け落ち、残った部分が全長27m・太さ4mの石橋となって2本並列している。佐世保湾で拾われた光る流木から行基が観音像を彫ってこの地に祀ったとする伝説があり、本尊にちなんで「御橋観音(おはしかんのん)」の通称で知られる。観音像は石橋そばの石橋山御橋観音寺に安置され、石橋付近は同寺の境内である。石橋を渡ることは禁じられている。石橋付近は国の天然記念物に指定されているシダ植物群生地が広がっている。観音寺そばには児童公園が造成され、公園利用者や参拝客用に駐車場が整備されている。
最寄の交通機関: 松浦鉄道西九州線吉井駅 西肥バス「御橋観音入口」バス停

4.大悲観(だいひかん)
種類:海食残丘
概要:佐世保市小佐々町小坂にある高さ20mの残丘。松浦熈が夢枕に立った大悲観音菩薩の託宣に従い、残丘への登頂を試みたが、家臣らに説得されて断念した代わりに、隷書で「大悲観」の大文字を揮毫して刻ませた。以後、観音菩薩などの祠を掘り込んでいる。この書にちなみ、現在でも大悲観と呼ばれている。周辺は大規模な公園が整備されているが、残丘には大きな亀裂が走り、松浦熈の書にも損壊がみられ、最悪の場合は倒壊の危険が噂されている。
最寄りの交通機関: 西肥バス「小島入口」バス停 かつて佐世保鉄道が大悲観駅を設置していたが、国有化・改軌後は廃止されている。

5.眼鏡岩(めがねいわ)
種類:海食陸橋
概要:佐世保市瀬戸越町にある高さ10m・全長20mの石橋状の奇岩。石橋が並列なのに対して、こちらは眼鏡状に直列している。またこちらは、両面を浸食されて薄くなった尾根を波が貫通したもので、石橋とは違った組成である。行基伝説が伝わる石橋と同様に、眼鏡岩は遣唐使派遣の際に立ち寄った空海が千手観音と梵字を記念に刻んだ伝説が伝わっている。かなり風化して見づらくなっているが、拓本を近所の西蓮寺が所蔵している(ただし非公開)。
最寄りの交通機関:西肥バスおよび佐世保市営バス「堺木」バス停。

6.岩屋宮(いわやぐう)
種類:海食洞
佐世保市高梨町にある幅10m・奥行き10m・全長20mの海食洞。現在では「穴妙見」「須佐神社」と呼びならわし、岩屋宮と呼ぶことはほとんどない。戦国時代には信仰の対象となっており、朝鮮の役出陣の折に松浦鎮信が必勝祈願の参拝をした記録がある。洞内は神域として侵入をはばかられたが、太平洋戦争後に空襲で家を失った人々が住み着いたため、侵入者を防ぐためと、参拝者の利便を兼ねて、昭和30年(1955年)頃に洞窟をふさぐように拝殿を建立したため、外部から洞窟の中を覗くことは不可能になっている。

7.福石山(ふくいしやま)
種類:海食洞
概要:佐世保市福石町にある幅50m・奥行き7m・高さ3mの海食洞。石橋の御橋観音に安置された観音像と同じ原木から行基が彫ったという十一面観世音を本尊とする「福石観音」(清岩寺)の中にある。ただし本堂がある谷とは尾根をはさんで裏側にあり、五百羅漢像を安置しているため「羅漢窟」と称されている。岩屋宮と同じく海食洞だが、幅が極端に広く完全に開いている。洞内には「龍門遺跡」という原始〜古代の居住跡が発掘調査で検出されている。現在数十体残っている五百羅漢像は、松浦熈の父松浦清(静山)が命じて安置したものだが、空襲で焼け出された人たちが仮住まいした際に大多数が投棄されている。
最寄りの交通機関:西肥バスおよび佐世保市営バス「福石観音前」バス停。

8.潮目(しおのめ)
種類:海峡
概要:佐世保市早岐1丁目と有福町を隔てる早岐瀬戸の最も狭い地点で、さらに江戸時代の干拓事業で両岸から潮止め堤防を築いたため、幅10mまでに狭められている。潮の干満に応じて激流が起き、夏にはこの激流を活かした手作りいかだ大会も開催される。
最寄りの交通機関: 西肥バス「観潮橋」バス停。JR九州早岐駅からは徒歩約10分。

藤の棟堤  長与町三根郷 ( 長崎県 )

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藤の棟堤  長与町三根郷

三根郷の「藤の棟堤」の場所は、所在地図のとおり。川平や東長崎へ抜ける県道45号のカーブ地点から左の谷間へ入る。本川内郷に近代的な「長与ダム」が完成し、現在ではこれが長与町最大か。
サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。

藤の棟堤 とうのむね
(西彼杵)長与町 溜池 堤長23m 江戸期 長与町郷土誌・上 p519 町内最大の溜池 –

長与町教育委員会編「長与町郷土誌・上巻」平成6年発行のその他の古跡519頁による説明は、次のとおり。

藤の棟堤(とうのむね 別名新堤)
長与川の最上流、三根郷藤の棟というところにある。この堤は、大村藩時代に造られたといわれている。その規模の大きさは長与町随一で、長与町の水田は昔からこの堤に大きく支えられていた。『長与村誌』によれば、
面積・二町六反(約二万五千七八五平方メートル)
貯水量・一三万トン、堤防の長さ・二三メートル八〇
『郷村記』には、土居長・二八間半、根切横・二五間、尺八・一二間、懸田・五二町五段四畝一八歩となっている。いつごろ完成したものかわからないが、この堤の築造もまた昔時としては大変な費用と労役を必要としたであろう。

七葉迫の堤  長与町平木場郷 ( 長崎県 )

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七葉迫の堤  長与町平木場郷

平木場郷の「七葉迫の堤」、次の「藤の棟堤」の場所は、所在地図のとおり。七葉迫の堤の築堤記念碑は、池に向かって堰堤右側のすぐ道脇上の木立内(黄囲線)に立つ。正面は大きな字で「水神」と刻む。隧道がこの横のコンクリート水路か?。
サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。

七葉迫の堤 ななはさこ
(西彼杵)長与町 溜池 慶応2(1866) 長与町郷土誌・上 p517-518 横平地区の水不足解消のために築造 –

長与町教育委員会編「長与町郷土誌・上巻」平成6年発行のその他の古跡517〜518頁による説明は、次のとおり。

七葉迫の堤と築堤碑
平木場郷七葉迫にある大きな堤がある。現在の洗切小学校より東北の方、学校を近距離に望むことができる。ここは文久3年(1863)12月造成に着手し、2年8か月の歳月を費し慶応2年(1866)8月に完成したもので、当時としては大事業であった。堤の池に向って右側の小高い丘に築堤記念碑かが隠れるように立っている。その碑から次のような刻字が読みとれる。
碑文 文久亥十二月
慶応二寅 八月成就
出夫  二九、五三九人
内   二七、一四三人三合 長与村
四三八人    伊木力村
五五六人四合 浦上村
九三五人一合 時津村
四六六人二合 東高田村
この碑文からもわかるように、工事は地元の人々だけの労力ではなく、近郷近在の人々の労力提供もあって完成している。
当時、横平一帯の農民は水不足に悩み、水げんかが絶えなかったといわれるだけに、この堤の完成には関係者のなみなみならぬ期待と、ひとかたならぬ努力のあとがしのばれる。それにしてもこの労役はまた、農民たちにとって極めて過酷なものであったろうことも同時に推察される。
その後長年月のうちに、水もれ等で隧道新設工事の必要に迫られるようになったが、戦争や水利権の問題などで容易に実現せず、ようやく昭和29年に至り、野中市五郎氏を中心とした地元関係者の熱意もあって新設隧道工事に着手、半年を経て立派な隧道が完成した。
この間、工事が南行したが、野中氏の私財を投じての工事完遂のことなどその苦労が今も伝えられている。

洗切継ぎ場・跡  長与町平木場郷 ( 長崎県 )

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洗切継ぎ場・跡  長与町平木場郷

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。

平木場郷の洗切継ぎ場・跡 ひらこばごう
(西彼杵)長与町 <長崎往還> 石垣 江戸期 長与町郷土誌・上 p515-516 石垣のみ残る(個人宅) 長崎奉行や大名の長崎往来の際、馬・わらじの交換、飲水などを行った場所 3 C

長与町教育委員会編「長与町郷土誌・上巻」平成6年発行のその他の古跡515〜516頁による説明は、次のとおり。
この項は、本ブログ次も参照。  https://misakimichi.com/archives/2860

洗切陣屋跡(継場跡)
平木場郷洗切にあり、県道33号線長崎バス洗切停留所のすぐ近くである。現在は古立正明氏(平木場郷206番地)の屋敷になっている。土地の人たちはここを継場と呼んでいる。
藩政のころ、長与村は長崎往還の定助郷として、長崎奉行や諸国の大名が長崎往来の節は、村から人・馬・野菜・たいまつ・ぞうり・わらじなどを提供する定めになっていた。それらはみんなここに集められ、人々は、ここで馬を乗り替えたり、わらじを履き替えたり、のどを潤したりして旅を続けていた。ここには、きれいな清水のわき出る井戸もあった。
また、長崎に急変が起ったときなどは、ここが大村藩士たちの一つの集結地ともなっていた。
今も昔をしのばせる古い石垣や、ため池が残っている。ちなみに、この屋敷が、のち、洗切小学校発祥の地となった。

長崎の古写真考 目録番号:5638 新大工町通り(1) ほか ( 長崎県 )

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5638 新大工町通り(1) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5638 新大工町通り(1)
[画像解説]
明治中期の新大工町の町並みである。通りは広く、人力車があちこちに見える。慶長11年(1606)頃大工が集まって大工町ができた。その後、大工町(本大工町)は手狭になり、当時の町外れに新大工町が分離した。寛永18年(1641)には内町の一つであった。寛文12年(1672)に出来大工町が分離している。旧新大工町は昭和56年
(1981)に伊勢町と分離した。

目録番号:6129 新大工町通り(2) (1)と同じ。掲載略。

■ 確認結果

目録番号:5638「新大工町通り(1)」と、目録番号:6129「新大工町通り(2)」は、長崎明治手彩色写真帖となった同じ作品。キャプションに「新大工町」とあり間違いない。
長崎ケーブルテレビで近年、「NAGASAKI古写真らいぶらり〜」があっている。私の家は視聴してないが、先日は新大工町周辺の放送があった。

知人入江氏がこの番組をいつも見ており、「江戸時代の絵地図を見ると、この場所に「天神」と書かれているものもあれば、「いふくじ」と書かれているものもあります。江戸時代は神仏混淆で両方がこの長崎村桜馬場郷の地に在ったのですが、明治の神仏分離令(神仏判然令)により天満宮だけが残りました」
入江氏からケーブルテレビ放送部へこの内容を知らせ、その後に放送された番組の最後に補足説明があった。他にも新大工町関係の古写真でわかったのは、入江氏の研究によると次のとおり。

「長崎大学古写真、目録番号:5638、目録番号:6129は「新大工町通り」としているのは良いのですが、「NAGASAKI 古写真 らいぶらり〜」での説明は大手橋を渡って新大工町通りに入った付近から撮影されたように話され、右側の窪んだ場所に舞鶴座が建ち、現在玉屋になっていると話されていました。長崎大学古写真の小さな写真を見ると、私もそのように思い込んでいました。
しかし、番組内の拡大した写真には擬宝珠の欄干のある橋が写っていました。新大工町に大手橋の他に橋が在るはずもありません。

そこで見つけたのが添付した写真です。   http://4travel.jp/travelogue/10889685 から。
長崎大学古写真と同じ場所から撮影したもので、前下がりの地形であること、左の角の家の様子、人力車が常駐していることから、撮影地点は諏訪神社一の鳥居前と考えます。私が作成した地図の×の地点です。
江戸時代は橋の手前に木戸があり、木戸番所があったようです。長崎大学の古写真には橋そばに番所小屋(明治期は交番)らしきものが建ち、警察官?が立っています。

この写真をアップした方はそこに気付いておられて、「当時の馬町と新大工町の町並み 中央の石畳は、長崎街道の入り口で、両脇に人力車や荷車が留めてあります。中央に大手橋の親柱が見えています。大手橋の名称は、曾て長崎氏が領主だった頃に、この橋が城の大手方向にあったことに由来しています。」とあります。
しかし、正確には右側は出来大工町で、その後取り壊されて馬町交差点となった場所です。撮影地点の背後が北馬町と南馬町です。」

私も目録番号:5638「新大工町通り(1)」の中央部分を拡大して、両方の古写真を比較した。左奥に同じ擬宝珠の親柱や欄干が、たしかに写っている。これは後、橋拡幅の際、撤去された。右手前のは消火栓?だろう。
親柱のところの道路は、アーチ状に盛り上がり、現在も新大工商店街入口の通り下部に残る西山川(堂門川)のアーチ式石橋「大手橋」に間違いないようである。

現在の「大手橋」は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/578
この記事でもふれているのは、「親柱が、暫らくは付近にあったが、無くなってしまったと聞いていたが、電車通りの向うの曹洞宗光雲寺の門柱になっていると聞いて見に行ってきた。残念ながら文字は確認できなかった。」という話が興味を引く。
「光雲寺にある石橋の親柱」は次を参照。  https://misakimichi.com/archives/249

入江氏から教えてもらったが、「大手橋」親柱のあと1本のその後については、「眼鏡橋の控柱(左岸上流側)に継ぎ石 なぜか1本だけ……!?」というおもしろい実証写真付きの研究がある。
HP「長崎補色 其之参拾伍」の話を参照。 http://f-makuramoto.com/01-nenpyo/02.essay/35/35.html
以上から、入江氏の「大手橋」という指摘はもっともであろう。長崎大学附属図書館でも研究し、目録番号の具体的な解説修正を早くお願いしたい。

なお、最後の古写真は、写真集「目で見る 長崎市の100年」株式会社郷土出版社2002年7月発行の57頁に掲載がある「大手橋から新大工町大通りを見る(新大工町・大正10年頃)」
この写真は、本ブログ次を参照。      https://misakimichi.com/archives/2190
画像解説は、次のとおり。2本の親柱はこの年代、大手橋を渡った右側に保存展示されていたようである。
「欄干の柱頭に擬宝珠のついた大手橋から、連合大売出しでにぎわう新大工町商店街を見る。慶長年間
(1596〜1615)に大工職人が集まってできた町といわれているが、周辺の人口増加とともにその後は食料品・日用品などを売る町並みとなり、現在に至っている。(提供:長崎電気軌道株式会社)」

(2014年11月21日 追 記)
目録番号:5638「新大工町通り(1)」の中央部分拡大は、長崎大学附属図書館に依頼して、写真2の鮮明画像を入手したので差し替えた。なお、画像解説は後段に「写真中央を拡大すると大手橋の擬宝珠の欄干が見えることから、撮影場所は諏訪神社一の鳥居前と思われる。」と挿入し、対処したいとのことである。

この写真2を見ると、新大工町の奥は坂になっていて、左手に大きな建物が見えます。森田庄屋の跡地に建った長崎県尋常師範学校かもしれませんね。Wikipediaによると「 1889年(明治22年)5月 – 西彼杵郡長崎村馬場郷(現・長崎市桜馬場2丁目、長崎市立桜馬場中学校校地)に校舎を新築し移転」とあります。
もしその建物であれば明治22年以降に撮影されたことになります。「長崎古写真ライブラリー」の番組の中の写真説明にも明治20年代と書かれていたようでした。(以上は、入江氏見解)