月別アーカイブ: 2014年11月

出島和蘭商館・跡と同荷揚げ場・跡  長崎市出島町 ( 長崎県 )

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出島和蘭商館・跡と同荷揚げ場・跡  長崎市出島町

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。

出島和蘭商館・跡 でじま
長崎市 人工島 南側233m,北側190m,東・西側70m (当初) 寛永13(1636) 国史跡 WEB(甦る出島)/WEB 中島川の変流工事で北側が削られた以外は、凡そ形を留めている キリスト教の布教阻止を目的に、雑居していたポルトガル人を収容するため幕府が築かせた人工島(「出島町人」と呼ばれる25人の町人の共同出資)/発想・計画・設計・監督名は不明/島原の乱が起こったため、寛永18(1641)和蘭商館をここに移した 3 A

出島和蘭商館の荷揚げ場・跡 でじま
長崎市 石護岸 寛永13(1636) WEB(甦る出島) 復元(下部はオリジナル、上部は同様の技法で想像復元 人工島・出島の西側にあった荷揚げ場 3 C

深澤儀太夫と野岳湖  大村市東野岳町 ( 長崎県 )

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深澤儀太夫と野岳湖  大村市東野岳町

現地説明板は、次のとおり。

深澤儀太夫と野岳湖(全国ため池100選)
〜郷土の発展に貢献した鯨長者〜

野岳湖は、多良岳県立公園内の景勝地で、1663年(寛文3年)に造られた周囲4キロの人造湖、貯水量約
120万t、現在も122haの田畑を潤しています。平成22年3月、農林水産省が選ぶ「ため池100選」に選ばれています。
この大工事を成し遂げたのが深澤儀太夫勝清で、紀州(和歌山県太地町)で捕鯨技術を学び、大村藩に帰って鯨組をつくり、五島、壱岐などで捕鯨を行い巨万の富を得ました。儀太夫は、そのほとんどを藩のために使いましたが、その中で最も大きな功績が野岳湖の造成で、当時この周辺地域は、日照りが続けば干害、雨が続けば水害の困窮に喘いでいました。そこで儀太夫は4200両余りの経費を全て負担しました。
人力と馬だけの昔の工事で村民も協力し1年7か月かけて野岳湖が完成し、併せて新田も開墾されました。
工事をよく見に来ていたといわれる儀太夫は、大事業を成し遂げた直後に80歳で亡くなりました。墓はJR大村駅近くの長安寺にあり、市文化財となっています。毎年春に、堤防横の記念碑前で儀太夫を偲ぶ祭が行われ、その功績が語り継がれています。
野岳湖公園内にある儀太夫記念館にも、古文書などが展示され、湖のそばに建てられた「バス停」は、儀太夫に因みクジラをデザインして建てられました。

◎ 儀太夫の功績
円融寺の建立、東野岳町の平床堤築造、野田町の赤似田堤築造、富松神社の鳥居寄贈、長安寺の宝輪閣門寄贈、長崎街道大村宿に屋敷を寄贈、旧大村藩領内溜池や寺院建立。

深澤儀太夫が築いた三井木場堤、鹿ノ丸堤、中堤、蕪堤  東彼杵町千綿の四つ池 ( 長崎県 )

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深澤儀太夫が築いた三井木場堤、鹿ノ丸堤、中堤、蕪堤  東彼杵町千綿の四つ池

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎リストによるデータ及び現地説明板は、次のとおり。
国道34号東彼杵町平似田郷に千綿渓「いこいの広場」への案内板があり、これを上がると途中で見られる。私は大野原から訪ね、野岳の堤へ行った。

三井木場堤 みいこば
(東彼杵)東彼杵町 千綿高原の四ツ池 溜池 堤長約180m 明暦元(1655) 町教委/WEB 堰堤改修 初代・深澤儀太夫(捕鯨で富を築いた)の献金により築かれた溜池 2 C
鹿ノ丸堤 かのまる
(東彼杵)東彼杵町 千綿高原の四ツ池 溜池 堤長約100m 元禄年間(1688-1704) 町教委/WEB 堰堤改修 二代・深澤勝幸(同上)の献金により築かれた溜池群 2 C
中堤 なか
(東彼杵)東彼杵町 千綿高原の四ツ池 溜池 堤長約160m 元禄年間(1688-1704) 町教委/WEB 堰堤大改修 二代・深澤勝幸(同上)の献金により築かれた溜池群 3 C
蕪堤 かぶら
(東彼杵)東彼杵町 千綿高原の四ツ池 溜池 堤長約110m 元禄年間(1688-1704) 町教委/WEB 堰堤大改修 二代・深澤勝幸(同上)の献金により築かれた溜池群 3 C

深澤儀太夫と新田開発  (現地説明板)
初代儀太夫勝清は、北方町芦原に生まれ、浅井姓を名乗ったが、波佐見に来て中尾姓となった。30余歳のころ全国武者修行の途中、紀州(和歌山県)太地浦で捕鯨の方法を学び、大村に来て鯨組を組織した。勝清は五島方面での捕鯨によって巨万の富を得た。当時の大村藩主純長は、勝清の献金によって新田開発等の大事業を達成できた。平似田郷の三井木場堤はその一つである。
寛永3年(1663)跡を継いだ二代儀太夫勝幸も網取り捕鯨で成功した。彼は巨万の富を新田団地に投じ、蕪堤、中堤、鹿ノ丸堤を築き、蕪郷、中岳郷で水田を開発した。
勝幸の次男儀平次重昌は栃浦(崎戸町)で捕鯨業に従事し、1ツ石郷で網打、大田代堤を築いた。
こうして千綿の新田開発、彼杵の捕鯨と東彼杵町の基礎づくりに代々貢献した。

三井木場堤  25.0ha (写真 4〜 6)
中堤       13.9ha (写真10〜12)
鹿ノ丸堤    19.9ha (写真 7〜 9)
新堤        3.1ha
蕪堤(かぶら) 18.0ha (写真13〜15)
春木堤      1.8ha
綿打堤      6.8ha
(間接)      17.2ha
大田代堤    12.0ha
袖山堤      2.5ha

岩屋川内の標石  嬉野市岩屋川内 ( 佐賀県 )

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岩屋川内の標石  嬉野市岩屋川内

嬉野温泉から大野原へ県道6号へ入る。岩屋川内ダム手前の三叉路で見た標石。「清水ヲ経テ野原學校へ至ル 約十粁」とか読める。他の刻面や佐賀県地名は詳細不明。
後ろの写真は、岩屋川内ダム、大野原小・中学校、自衛隊大野原演習場、龍頭泉上流の渓谷。              

仏坂の境石  波佐見町小樽郷 ( 長崎県 )

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仏坂の境石  波佐見町小樽郷

波佐見町教育委員会「はさみ100選ガイドブック」2007年発行(最新版)の60頁による説明は、次のとおり。
仏坂の境石は、波佐見町から佐賀県武雄市への県道102号矢筈ダム手前の県境にある。左上畑の道に建っているのが見える。MAPは県道反対側に表示していたので修正した。

48 町史跡 境野一本杉跡(野々川郷)、仏坂の境石(小樽郷)

境野一本杉跡の石碑は野々川の境野、お寺の上にあります。ここには昔大杉があって、一目で境とわかりました。それが枯れたため文化12年(1815)に石碑が建てられました。
また、小樽の仏坂には県道の北側から少し登った所に境石が残っています。
いずれも江戸時代の藩領域を具体的に示す貴重な史料と言えるでしょう。三領石は昭和47年(1972)3月29日、境野一本杉跡は昭和56年(1981)3月5日に、町の史跡に指定されています。

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。

小樽の仏坂の境石 こだる
(東彼杵)波佐見町 境界石 江戸期 WEB 原位置 佐賀・大村領の境界を示す標柱 1 C

三領石(村木郷)は、本ブログ次を参照。    https://misakimichi.com/archives/694
境野一本杉跡(野々川郷)は、前記事とした。 https://misakimichi.com/archives/4282

境野一本杉跡  波佐見町野々川郷 ( 長崎県 )

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境野一本杉跡  波佐見町野々川郷

波佐見町教育委員会「はさみ100選ガイドブック」2007年発行(最新版)の60頁による説明は、次のとおり。
境野一本杉跡は、波佐見町から佐賀県武雄市山内への県道104号県境にある。右上の茶畑コンクリート道を100mくらい上がる。

48 町史跡 境野一本杉跡(野々川郷)、仏坂の境石(小樽郷)

境野一本杉跡の石碑は野々川の境野、お寺の上にあります。ここには昔大杉があって、一目で境とわかりました。それが枯れたため文化12年(1815)に石碑が建てられました。
また、小樽の仏坂には県道の北側から少し登った所に境石が残っています。
いずれも江戸時代の藩領域を具体的に示す貴重な史料と言えるでしょう。三領石は昭和47年(1972)3月29日、境野一本杉跡は昭和56年(1981)3月5日に、町の史跡に指定されています。

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。

境野一本杉跡の石碑 さかいの
(東彼杵)波佐見町 境界石 文化12(1815) 町史跡 WEB 原位置 昔ここに老杉があり、それが枯れたので境石を建てたと『郷村記』に書かれている/佐賀・大村領の境界を示す標柱 1 C

三領石(村木郷)は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/694
仏坂の境石(小樽郷)は、次記事とする。 https://misakimichi.com/archives/4283

波佐見町のキリシタン墓碑群  波佐見町野々川郷 ( 長崎県 )

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波佐見町のキリシタン墓碑群  波佐見町野々川郷

長崎県学芸文化課HP「長崎県の文化財」による説明は、次のとおり。県道104号の県境手前に案内板があり、県道カーブ地点から左へ120m入る。集落墓地の奥の方にあった。

波佐見町のキリシタン墓碑群  山奥にひっそりと残るキリシタン墓碑群

史跡(県指定) 
よみがな  はさみちょうのきりしたんぼひぐん
指定年月日  1972年02月04日
所在地  東彼杵郡波佐見町野々川郷字大石の本1406
最寄り駅  西肥バス「大日」バス停 車10分

ここの墓碑は,石工の手によらない粗雑な十字紋を陰刻しただけの自然石立碑で,台石もなく,すべて西に面して地面に立てられている。この地方のキリシタンは,明暦2年(1656)の郡(こおり)崩れ以後の弾圧強化で消滅したと思われるので,現存する墓碑群は明暦以前のものと推定される。厳重なキリシタン検索のなかで残り得たのは,伏碑と異なる自然石立碑であったためであろう。キリシタン分布の実証資料としても貴重である。

野々川ダム  波佐見町湯無田郷 ( 長崎県 )

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野々川ダム  波佐見町湯無田郷

波佐見町教育委員会「はさみ100選ガイドブック」1987年発行の119頁による説明は、次のとおり。主に治水を目的とした小規模ダム。クレストにラジアルゲートを2門使用する。
波佐見町から佐賀県武雄市山内への県道104号沿いにある。

88 野々川ダム

本町の中央部を流れる波佐見川(川棚に注ぐ)は、延長21.8km、流域8,144ha、県下で2番目の河川です。
波佐見一万石(米)の灌漑水源で、古くから私たちの大切な水源として利用されてきました。ところが本町では5年おきぐらいに集中豪雨の被害を受けました。これを防ぐためにその上流にダムを建設しなければという声が高まり、野々川に治水ダムを建設することになりました。
昭和43年ダム対策委員会が生まれ、翌44年に測量やボーリングが始まり地質調査もすみ、45年に用地買収・補償をすませました。46〜47年にかけて県営工事としてすすめられ、48年3月野々川ダムは完成しました。
ダムの完成で洪水調節の役割りを果たし、田や水資源の確保に役立っています。その放流水の一部は上水道に利用されています。ダムの高さは25m、頂上の長さ86m、総貯水量は105万トンです。
ダムの周囲は道路も整備され、春のつつじ・秋の紅葉が美しく、野鳥も多くて緑豊かな自然と調和しすばらしい季節感はハイキングコースにも最適なところでする
大日バス停(東小学校入口)からダム堤頂まで約2kmありますが親子づれや歩こう会グループに好評です。

千綿の石橋  東彼杵町千綿 ( 長崎県 )

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千綿の石橋  東彼杵町千綿

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。JR大村線千綿駅前から早岐側へ旧長崎街道に入る。
この石橋は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/912

千綿の石橋 ちわた
(東彼杵)東彼杵町 人道<長崎街道> 石桁橋 長3.2m(G) 天保年間(1830-44)? WEB 橋面の半分がC補修 天保年間に長崎街道の矢上〜彼杵の間に多くの石橋が掛けられたが、この橋はその時の数少ない現存する石橋だと言われる 3 –

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」長崎県の石橋によるデータは、次のとおり。

№2,877  千綿(橋の浦)の石橋
東彼杵町千綿(旧長崎街道)
橋長:3.4m  橋幅:3.9m  桁厚:24m  桁7列
単径間桁橋
現橋の右手に架かっています。

金浜眼鏡橋と萬松橋  雲仙市小浜町金浜・同千々石町石田 ( 長崎県 )

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金浜眼鏡橋と萬松橋  雲仙市小浜町金浜・同千々石町石田

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。
加津佐からの途中で日没。小浜町「金浜眼鏡橋」はライトアップあり夜景を写したが、千々石町「萬松橋」は今回訪ねていない。2つの石橋の日中の写真は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/641 (金浜眼鏡橋)
https://misakimichi.com/archives/557 (萬松橋)

金浜眼鏡橋 かなはま
雲仙市 人道/金浜川 石アーチ橋 (太鼓型) 長14.5m(A) 弘化3(1846) WEB 平成5解体後、イメージ的再現 架設: 地元の有力者・岡右衛門 4 C

萬松橋 ばんしょう
雲仙市 一般道/下峯川 石アーチ橋 長6.5m,S4.4m A) 江戸末期 WEB 上流側は路面拡幅でアーチ隠れる/高欄ガードレール化 小規模な石アーチ 4 –

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」長崎県の石橋によるデータは、次のとおり。

№1,322 金濱眼鏡橋
雲仙市小浜町 金浜
金濱川
橋長:14.5m  橋幅:3.6m
架設:弘化3年(1846)
県道30号線を北上し、国道251号線へ右折、すぐ左手に金濱眼鏡橋専用駐車場があります。

金濱眼鏡橋由来記
「昔時、金濱川はしばしば氾濫し、洪水のたびに架橋は流失した。ために、人々は苦しみ、その復旧作業に難儀した。北串山の人、岡右衛門はこの窮状を見かね、石橋架橋によって人々の難を救わんと決意し、弘化三年(1846年)遂にこれを完成した。当時の架橋技術の最高を駆使したと言われる。
爾来およそ150年、この石橋は、よく風雪に堪え、橋畔のアコウの樹とともに生きて、時代の流れを見守り続けてきた。
しかしながら永い歳月の間に石材は風化し、欄干や橋底は落ちるなどして、往年の面影を止めないまでに傷みが激しくなった。
かつて、この石橋に通じる道路は「殿様道」とも称されて、藩政時代は重要な街道でもあった。平成の今日、生活道路としての意義は薄れたが、今、往年の金濱眼鏡橋を解体修理して平成金濱眼鏡橋を復元し、併せて河畔を整備する。
そのゆえんとするものは何であるか。それは、一つには、このすぐれた文化財を永く児孫に伝え、その郷土愛の魂に培わんとするためである。
平成5年(1993年)3月31日」 市教育委員会

№1,326  萬松橋
千々石町石田
下峯川
橋長:6.5m  橋幅:5m  径間:4.4m  拱矢:1.65m  環厚:0.4m
架設:江戸末期
旧千々石町役場前から国道389号線を1.3Km西進。橋を渡りすぐ左折。
150m先古松橋を渡り右折、200m先右手に架かっています。