月別アーカイブ: 2012年11月

明治9年魚見岳「地理局測点」の発掘調査など行う(2)  上西先生(京都)が来崎

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明治9年魚見岳「地理局測点」の発掘調査など行う(2)  上西先生(京都)が来崎

HP「史跡と標石で辿る 日本の測量史 (旧題:三角点の探訪)」の製作者、測量史研究の京都市上西先生が、2012年11月27日(火)午後、長崎へ3度目の調査で来られ、私と中尾氏が同行した。
明治9年魚見岳「地理局測点」の本体である地中埋石の完全発掘が主な目的だったが、そのあと、最近見つかっているダイヤランド団地内の明治地図にあった水準点と、長崎報時信号所跡のタイムボール(報時玉)鉄柱支え台などへ案内した。
詳しくは先生がHPにより報告されるので、調査状況の写真と記事を簡単に載せる。(1)の続き。

写真  1〜  5  長崎報時信号所跡のタイムボール(報時玉)鉄柱支え台

長崎報時信号所跡は、グラバー園スカイロード第2ゲートから、鍋冠山へ100mほど登ったところにある。国から払い下げられた市有地の空き地があったが、最近公売により新しい民家が建った。その工事中、地下から出てきた長崎報時信号所跡の遺物。タイムボール鉄柱支え台であろう。現在は掘り除き庭に置かれているが、原田・宮川先生も調査に来られており、適当なところに保存されるだろう。

長崎報時信号所のタイムボールについては、HP「日本のタイムボール」に詳しくあるので参照。
「九州景勝鳥瞰図《長崎県:長崎市》」吉田初三郎筆(昭和8年)に、ドンの山とも描かれている。
http://www1.city.nagasaki.nagasaki.jp/kanko/yoshidamap/index.html
長崎の文献としては、昭和6年長崎市教育會編「長崎市民讀本」に古写真ともあり、
次の記事を参照。  https://misakimichi.com/archives/3513
南山手美術館所有の油絵の一部に部分的に描かれていると聞いた。

朝日新聞昭和53年8月26日スクラップ「ドンの山—長崎海洋気象台百年」(ズーム拡大)を、参考に載せる。長崎では1912年(明治45年)2月、鍋冠山中腹にタイムボールが完成、報時業務を開始し、昭和16年?まで存続した。
「報時信号所とは、鍋冠山の中腹に設けられていた港内の船舶向けに正確な時刻を知らせる信号所のことで、正午に赤い玉を落とす。船で赤い玉が落ちる瞬間を見て、備え付けのクロノメータの規正を行ったものである」
上西先生は、HPで午報も調べられている。長崎報時信号所跡のこの遺物について、中央での文献調査をお願いした。

写真  6〜  7  四郎ヶ島東側の小島の「四建三角点」と「四建基準点」

日没まで時間があり、上西先生へ標石の場所を知らせるため訪ねた。神の島から海道を渡った四郎ヶ島台場跡の東側小島に、「四建三角点」と「四建基準点」が別々の場所にある。
ここは長崎港口に当たり、灯台のある沖防波堤が香焼側に突き出ている。この港湾工事のため昭和30〜40年頃、建設省第四建設局が設置した三角点・基準点と思われる。

この項は、本ブログ次を参照。現在行っても藪や竹がまた密生し、私の記憶があいまいになり、小さな標石のためすぐにはもう探しきれなかった。したがって標石写真は、以前の撮影分である。
https://misakimichi.com/archives/99
https://misakimichi.com/archives/1665 

明治9年魚見岳「地理局測点」の発掘調査など行う(1)  上西先生(京都)が来崎

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明治9年魚見岳「地理局測点」の発掘調査など行う(1)  上西先生(京都)が来崎

HP「史跡と標石で辿る 日本の測量史 (旧題:三角点の探訪)」の製作者、測量史研究の京都市上西先生が、2012年11月27日(火)午後、長崎へ3度目の調査で来られ、私と中尾氏が同行した。
明治9年魚見岳「地理局測点」の本体である地中埋石の完全発掘が主な目的だったが、そのあと、最近見つかっているダイヤランド団地内の明治地図にあった水準点と、長崎報時信号所跡のタイムボール(報時玉)鉄柱支え台などへ案内した。
詳しくは、先生がHPにより報告されるので、調査状況の写真と記事を簡単に載せる。

写真  1〜  7  明治9年魚見岳「地理局測点」の発掘

この項は本ブログ次の記事を参照。本体となる上面十字刻みのある角紡錘形の地中埋石を、深さ約50cmほどまで完全発掘し、また埋め戻した。地上標は基盤石の上に乗せ、本来の位置に立てた。
https://misakimichi.com/archives/3494
https://misakimichi.com/archives/3500

まさしく内務省地理寮、地理局のタイプ。地中標、蓋石、標示杭と三段重ねという点では、京都の清水寺に地理寮が設置した測点と同じだった。地中標に4角の穴はなかった。
長崎は明治9年中に測量が終った。京都は明治7年に測量がはじまったが、西南戦争など諸事情から明治10年にいったん中止、明治14年から16年まで測量が再開された。
明治9年魚見岳「地理局測点」を、上西先生と私はやっと6年越しで全容確認した。

写真  8〜 16  ダイヤランド団地内の明治地図にあった水準点

私が「みさき道」調査において、長年、探していた明治地図にあった水準点の標石。関覚斎日記に記す小ヶ倉港を眼下に西海緲々を望む「佳景の平地」の決め手となる。団地造成で失われ、場所がはっきりしなかったが、老人ホーム「オレンジの丘」敷地、西側フェンス内に残されていた。
地元小ヶ倉の前自治会長山下氏が、先日のみさき道講座の翌日、ふれあいセンターを通し、現存を知らせてくれた。「いぼがある標石があり、何か字を刻んでいる。殿様が腰掛けた石で、絶対動かさないよう古老の伝えがある」

これは地元の勘違いで、「水準点」「五三九七」と刻む。明治30年の標石である。新旧地形図を重ね合わせた対比ルート図では、水準点の位置が違う。
老人ホーム「オレンジの丘」敷地へ約200m、西へ下って動かされたと思われる。そのため私は、まさかここに現存しているとは、今まで気付かなかった。
現在の水準点「5397」は、小ヶ倉中学校正門右奥に平成15年(2003)再設され、旧標石は廃止されているのを、上西先生と確認した。

ダイヤランド団地内には、昭和56年(1981)の開発前、「みさき道」の道塚が加能峠・山頭・一本松に3本あった証言がある。この水準点の標石とも、小ヶ倉の郷土誌に調査・記録がないのは、かえすがえすも残念なことだった。

南京房義圓墓  長崎市本河内1丁目

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南京房義圓墓  長崎市本河内1丁目

書庫を誤って削除し、現在復旧中。烽火山「南畝石」に関連。長崎奉行所支配勘定役として滞在した大田南畝こと蜀山人が、長崎で残した風流な狂歌。あまり知られない一首。
「南京房義圓墓」は、長崎市本河内1丁目長崎街道沿いにある。現在訪ねても、碁目の線刻や碁笥の花立がこれか不明だった。両資料で狂歌下句が違う。
小森定行氏著「本河内村の史跡」1995年発行の174頁は、次のとおり。寸法図はこれから。

碁盤の墓

昌源の長崎街道筋、原花屋前「ケヤキ」の大木の根元にある。中国から長崎に来た棋士で、長崎囲碁界の草分け、南京房義圓の墓である。宝暦十四年申(1764)年3月23日長崎で没す。
墓石は、一般僧侶の墓に共通な頭部のまるい無縫塔で、蓮華座下の台石が碁盤で、花筒が碁笥(ごけ 碁石入れ)になっている。高さ0.60mの塔身には正面に南京房義圓墓、右面に宝暦甲申年三月廿三日と刻している。
文化元(1804)年蜀山人(太田南畝・本名太田直次郎・長崎奉行所勘定役)がこの地を訪れ次のような歌を残している。
この墓は南京房か珍房か ごけ引きよせてごばん下じき   蜀山人

長崎手帖社「長崎手帖 No.16」昭和33年11月発行の30頁は、次のとおり。

南京房義圓の墓

151 墓の多い長崎で、他に類がないと言われている一つに、南京房義圓の墓がある。この墓は、一ノ瀬旧街道(本河内町1丁目)にある唐金塔の近くの道端に建っている。墓面に宝暦十四年とあるから194年前のもの。墓は「坊んさん塔」だが、珍しいのは381目をひいた碁盤の台石と、碁笥(ごけ)の形をした花立である。
義圓については、当時の碁の名手であったことと、赤寺(唐寺三寺のうち、どの寺であるかは不明)にいた形跡があるとのこと以外は、素性も人となりも寡聞にして知らない。しかし、その後奉行所勘定方として長崎に滞在した太田南畝こと蜀山人は、この義圓の墓に、
南京房か珍房か碁笥(ごけ)引きよせて碁盤すな
と風流な狂歌一首をたむけているそうだ。

「ゆうこう」発見と江戸期の「みさき道」講座

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「ゆうこう」発見と江戸期の「みさき道」講座

長崎市ダイヤランド・小ヶ倉ふれあいセンターの講座。昨年は中尾氏が戸町・女神一帯の史跡探訪をし、好評だった。
世界のスローフードに認定された柑橘類の新種「ゆうこう」発見のきっかけとなった木は、ダイヤランド下方、土井首にある。川上氏からその発見のいきさつと、研究を聴くため、こちらからセンターへ今年の講座を提案した。

ついでに私が、江戸期の「みさき道」のダイヤランド団地内ルートを、長崎医学伝習所生「関覚斎日記」などにより考えるとし、きょう11月23日(金 祝日)、センター第1研修室で午前10時から12時まで開催された。
地元に密着したテーマとしたつもりだったが、参加者25人。私の方が話し過ぎ、川上氏を持ち上げることができなかったのは、申し訳なかった。

京都・清水寺の地理寮測點  上西氏HPから

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京都・清水寺の地理寮測點  上西氏HPから

長崎・国指定史跡魚見岳台場跡の最上段一ノ増台場から大久保山への登山道を15分ほど登ったところにある明治9年魚見岳「地理局測点」は、2012年11月11日、本体の地中埋石(写真1〜2)が見つかったことを、本ブログ次の記事としている。
https://misakimichi.com/archives/3494

上西先生から「このたびは、大変な朗報をいただきありがとうございました。やはりありましたか。これは、まさしく内務省地理寮、地理局のタイプです。地中標、蓋石、標示杭と三段重ねという点では京都の清水寺に地理寮が設置した測点と同じです」とメールをもらい、今月下旬に長崎へ3度目で来られることとなった。

さて、形状を同じとする京都「清水寺の地理寮測點」だが、どんなものだろうか。上西先生HP「史跡と標石で辿る 日本の測量史  (旧題:三角点の探訪)」内務省 京都の測量による「清水寺の測點」解説は次のとおり。関係写真とともに紹介する。
明治9年魚見岳「地理局測点」は、同じくらいに古く貴重な測量標石であることが、理解されるであろう。

清水寺の測點   地図:京都東南部

清水寺の入口には仁王門と呼ばれている大きな建造物があります。標石は向かって左下(北側)の基壇前にあります。標石の頭部が20センチメートルほど露出しており「地理寮」の文字も「地理」というところまでは現れていたのですが、わたしも50年間、京都に住んでいながら気づきませんでした。

ところが仁王門の修理工事にともない2000年(平成12)3月、国土地理院近畿地方測量部により、この標石が発掘されました。今回の発掘後、清水寺の談話として地元の新聞につぎのように載っていました。

何の石か分からず「仁王さんのへそ石」とも呼ばれていた。寺ということで開発される可能性も少なく、眺望もいいので、この場所が基準点に選ばれたのだろう。表示標は元の位置に戻して保存したい。 [京都新聞:仁王さんのへそ石 2000年11月7日版]

わたしは清水寺におことわりし工事中の現場で京都府教育委員会文化財保護課のお許しを得て見せていただきました。標石は花崗岩で3個の部分から構成されています。まず地理寮などの名称が刻字された標石が最上部にありました。角柱で頭部は錐形です。西面には「測點」南面には「地理寮」東面には「明治八年」北面には「明治十五年八月建 地理局」と刻字があります。四角柱は横一辺25センチメートルの正方形で高さは38センチメートルあり頂部は高さ3センチメートルの四角錘です。この標石はこの下に本点の地中標があるという標示杭に相当しますが、かりに「表示標」と呼ばれています。

ついで、この標石の下には最下層の標石上部を保護するためと思われる平らな「蓋石」がありました。一辺46センチメートルの正方形、厚さ12センチメートル程度あります。蓋石の下面とその下にある本点標石の上面はいずれも正方形ですが45度ずれて収まるように蓋石の窪みがあります。

最深部は上部平面対角線に×しるしが彫られた截頭方錐形の「本点」標石です。上部平面は一辺15センチメートルの正方形、底面は40×30センチメートルの長方形で高さは50センチメートルあります。文字は何も彫られていません。

標石は全体が地中80センチメートル程度埋まっていましたが、発掘時には底部に深さ50センチメートル、直径7センチメートル程度の穴が4本ありました。発掘の後日、穴がふさがれるのを防ぐため、とりあえず新聞紙がまるめて入れてあります。もし基礎を補強するために木杭が打ち込まれたとすれば、その残骸はあるはずですが空洞になっています。この穴の目的はわかりません。

標石が三段重ねで埋まっていたのは発掘時に立ち会った文化財保護課の人からわたしが直接聞いた話で、はじめて知り後日、復元組み立てをしていただきました。

最上部の表示標には1874年(明治7)に発足した地理寮と1877年(明治10)に改称された地理局の両方の文字が彫られているので1875年(明治8)に設置され、その後改埋されたものか、あるいは標石だけ既製品としてあらかじめ地理寮の名前入りでつくられており地理局になってから設置されたものかいずれかでしょう。

この清水寺の発掘は2000年9月には「国土地理院広報」で公表されました。これによると最下部の×印の本点標石の設置時期と最上部の表示標に地理寮と地理局の両方が刻字されている理由としてつぎのように記載されています。

標石の設置は地理寮が測量時の明治8年(1875)頃に行い、地理寮が地理局に改編された後、明治16年まで実測していたことが記録されていることから表示標の設置は地理局が1882年(明治15)8月に設置し、この時に測量の経緯を記録するために組織名を併記したと推測されます。 [中野博美、徳永和典:清水寺で内務省地理寮の基準点が発見される「国土地理院広報」 387号 2000.9 p7]

この報告のように表示標はその刻字にもあるとおり1882年(明治15)に設置されたことは間違いないでしょうが地中の本体までが同時に設置されたかどうか不明です。当初は見通しのきく清水寺の五重塔が三角測量の偏心点とし観測され、のちに本点の位置に表示標が設置されたのかも知れません。

仁王門の改修工事は2003年(平成15)末までかかりましたが、それまでに発掘された標石は元どおりに埋設されています。ただし後年の破損、分解を防ぐため最上部の表示標と蓋石はボルトで固定され、さらに一辺56センチメートルの正方形、地上高さ6センチメートルの新設基盤の上に載せられました。また埋設地点近くには国土地理院により説明板が設置されました。

国土地理院により設置された説明板には英国の技術を導入して京都市街地図を作成するために設置された基準点であること、標石の上端に刻まれている対角線の中心が基準であること、清水寺からは高瀬七条上ル、六角堂、聖護院村に設置された基準点を視準して測量した、などと解説されています。

茨城県つくば市にある国土地理院「地図と測量の科学館」の「地球ひろば」には内務省の標石や現行の基準点などともに清水寺の標石、最上部の表示標の複製品が展示されています。

「烽火山番所道」は、越中先生が歩かれていた  長崎手帖1959年の記録

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「烽火山番所道」は、越中先生が歩かれていた  長崎手帖1959年の記録

次は、長崎手帖社「長崎手帖 No.20」(1959年発行)6〜8頁に掲載されていた、「烽火山番所道」の貴重な記録。長崎楽会中尾氏が見つけてくれた資料である。
新、旧番所跡を通って登るこの烽火山旧道は、ほとんど歩かれていないと思っていたが、さすが越中哲也先生。今から53年前にちゃんと調査されていた。

新番所近くにあった「染筆松」石碑(現在は所在不明)、山頂近くの巨岩に彫られた太田南畝(蜀山人)の漢詩碑を記録されている。
やはり山頂の前記「南畝石」近く、烽火山十景「亀石」の所在にまでは、気付かれなかったろうか。山頂東下の「人面岩」、七面山妙光寺参道登り口の「傴僂巖」(カウコウイハ)も、この記録に説明がないのは惜しい。
これら石などは、本ブログ次を参照。書庫を誤って削除しているため、現在復元中。
https://misakimichi.com/archives/3342
https://misakimichi.com/archives/3345
https://misakimichi.com/archives/3346

越中哲也先生稿  私の長崎案内 第9回「春徳寺より烽火山まで」

(前半の春徳寺、焼山部分は、掲載略)

川ぞいに七面山に登ってゆくと、蜀山人が加藤清正を詠んだ詩碑が、清正公様を祀る七面山に向って建っている。この碑もあやうく、なくなるところだったのを、昭和29年、鳴滝町西部町内会の方々のお蔭で、現在の地に立派に建てられたのは欣ばしい。(たしか当時の町内会長さんは中村順作氏であったと記憶している。)

これから、いよいよ山道である。烽火山は本当の山名を斧山といったが、寛永15年(1638)島原の乱に出陣した松平伊豆守信綱が、帰途長崎に立寄り、斧山の地形は四方の連絡に便なる所であるとして、長崎に火急の事変が起った際、大村、諫早、島原をはじめ港内外の台場番所に非常を報知するため、山の頂上に烽火台を作り、番所を設けて、遠見番役人を勤務させたので、山名も烽火山とよばれるになった。この山で最初の烽火があげられたのは、正保4年(1647)6月24日、当時通商禁止のゴアの南蛮船2艘が突如長崎に入港した時であったという。

延宝年間(約270年前)長崎奉行として在勤した牛込忠左エ門は、風雅の道を愛し、この山に烽火十景と題して名勝の地を設け、崎陽の文人墨客を招いて度々佳筵を開いた話は有名である。山道は七面山の方に登らず、旧道の秋葉山ぞいに登ると、昔のおもかげをしのばせる石段がある。然し現在ではこの道は使用されていないので、足よわの人は七面山道に廻られる方がよい。旧道を登ると番所の跡も、「ふでそめの松」も見られる。ふでそめの松と言っても、今では古松は枯れ、牛込奉行が「染筆松」と揮毫した石碑のみが建っている。このあたりより道は急坂となる。

頂上近くの巨岩に「滄海春雲捲簾瀾云々」と烽火山の詩が彫られている。これは文化元年
(1804)9月、長崎奉行支配勘定役として赴任した太田直次郎(蜀山人)に、長崎の豪商中村李囿が、長崎七高山の一つ一つに建てる詩文を書いてもらったものの一つであるが、他の六つの山には建てられなかったものか、現在では烽火山にのみしか見ることが出来ない。頂上にある烽火を焚いた“かま跡”は、年々風雨にさらされ、こわれかかっている。
文化時代(150年前)の古記録によると、「地より凡そ二間程高く築上げ、丸くして縁を石灰にて塗る。中の深さ凡そ三間程、三方の下地より溝道を穿ち火入口とす。唯小屋の方は無し指渡し二間四尺」と記している。

帰途、健脚の人は、雑木林をくぐりぬけて、岩窟にある秋葉大権現に火事除けのおまじないをあげ、下って、享和2年(1717)江戸の亀井戸天神を模して作ったという、石段をふみ、石橋を渡って、紅葉の名所として名高い妙相寺の境内に入る。妙相寺は晧台寺の末寺であり、中国人のあげた聯額や、木喰上人の像などがある。はじめてこの道を下る人は、迷い易いので要心していただきたい。
足に自信のない人は、頂上から左手の峰づたいに、片淵三丁目に出られるとよい。この道は、深々とした松木立の中をゆるやかに下ってゆくので、ちょっと市中の人には味えぬ静けさがある。      (筆者 当時長崎市博物館学芸員)

多良山系の金泉寺から五家原岳へ縦走

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多良山系の金泉寺から五家原岳へ縦走  2012年11月

2012年11月18日(日)快晴。多良山系の金泉寺から五家原岳(標高1057.3m)へ縦走。参加8人。みさき道歩会の例会。
黒木8:30—八丁谷8:56—西野越11:02—金泉寺11:15—中岳13:11 昼食 13:30—五家原岳14:51—横峰越15:51—黒木17:50(徒歩距離 約10km)

多良山系の全山縦走を、各登下山路の現況調査もあり、2年ほどかけ小分けして実施していた。きょうは、メイン区間の金泉寺から五家原岳と横峰越まで歩くと、縦走の全線がつながる。
無風、快晴の絶好の日和。紅葉の山を訪ねてファイナーレとしたかったが、紅葉ははや過ぎていた。距離が長く、起伏が激しい。

私がまたバテてしまった。時間は落伍タイム。黒木へ戻ったのは、まさに日没寸前。暗い山道をやっと歩けた。大モミ見学に行くどころではない。
宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/khmtg856/30301372.html

みさき道歩会は、初期の目的をほぼ果たした。高齢化などによる会員の離脱が進み、新春の「みさき道」初歩き後、そろそろ解散の時期と考えている。
いちばんがっくりきたのは、本年4月刊行された市制120周年長崎市発行「長崎市史 第二巻近世編」の編者内容。私たちの5年以上に及ぶ、「みさき道」の古地図など史資料調査、実地踏査、地元調査に基づく研究が無視され、机上の論がまたしてもまかりとおった。
市民全体で後世へ伝える正しい記録となっていない。長崎大学の古写真研究もしかり。「長崎学」とは言えない。長崎市長がしっかりしてほしい。

御船山楽園の紅葉と陶玲作陶展  佐賀県武雄市ほか

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御船山楽園の紅葉と陶玲作陶展  佐賀県武雄市ほか

2012年11月18日(日)快晴。妻の休日。佐賀県武雄市の「御船山楽園の紅葉まつり」(12月5日まで)と、多久市の陶玲工房作陶展(11月30日まで)へ。
2012全国紅葉最前線|全国旅そうだんHPは、次のとおり。

御船山楽園

1845年、武雄第28代領主、鍋島茂義公が約15万坪(東京ドーム10個分)の広大な敷地の中に、約3年の歳月をかけ創設した「御船山楽園」(旧萩野尾苑)は、山水画を彷彿とさせます。秋は燃えるような約500本の紅葉があり見事な深赤色を彩ります。国登録記念物(名勝関係)。

Yahoo!ブログの改善要望

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Yahoo!ブログの改善要望

Yahoo!ブログは、長年親しんできた画面が広告枠を増やすため、10月17日からメニューの横幅が変更され、広告の内容とともに不評が多く寄せられている。経過は次のとおり。
広告枠は理解するものの、客の意見をなるべく取り入れるため、11月7日に”Yahoo!ブログ やります宣言!!”が出た。「その他の改善を希望されるお客様は、コメント欄に、希望する改善内容を、具体的に明記していただければと思います」とあった。
私の改善要望を以下のとおり、11月8日コメントしている。みなさんの意見も聞きたい。

お客様の記事ページのデザイン(メニューの横幅)を変更させていただきます
2012/10/15(月) 午後 1:48お知らせネットサービス
2012年10月17日(予定)より、パソコン版Yahoo!ブログにて、お客様の記事ページのデザインを変更させていただきます。
メニューの横幅が広がります。※メニューの表示項目に変更はありません。
この変更により、ごく一部のお客様(期間限定の背景画像を使用のお客様)の背景画像が使用できなくなります。
変更後は、初期設定のグレーの背景画像となります。
また、メニューの上部に広告枠が表示されます。
広告の追加に関しては、サービスを継続するための仕組みとなりますので、なにとぞご理解くださいますようお願い申し上げます。

広告表示に関して
2012/10/26(金) 午後 1:41お知らせネットサービス
2012年10月17日より開始させていただいております、広告表示に関して、多くのお客様からご意見をいただいております。
繰り返しになりますが、広告の追加に関しては、サービスを継続するための仕組みとなりますので、なにとぞご理解くださいますようお願い申し上げます。

Yahoo!ブログ やります宣言!!
2012/11/7(水) 午前 10:36お知らせネットサービス
Yahoo!ブログは、お客様の意見を取り入れ、以下の改善に、今後、取り組んでいきます!
1)お客様の好きな背景画像を設定できるようにします!
2)お客様間のメッセージ機能を復活します!
3)アンドロイド用アプリをリリースします!
4)コメントやトラックバックのスパムを減らします!
改善の時期に関しても、追って連絡いたします。
その他の改善を希望されるお客様は、コメント欄に、希望する改善内容を、具体的に明記していただければと思います。
Yahoo!ブログスタッフは、全てのコメントを読んでおります。
全ての希望に答えることはできませんが、できる限りの努力はしていきます!
今後ともYahoo!ブログをよろしくお願いいたします。

(私の改善要望  2012年11月8日コメント)

1 やればできるんではありませんか。ブログ存続のため広告枠を増やしたのは、われわれもある程度は納得します。チカチカして、画面展開が遅くなり、フリーズするのはやめてください。
2 そのため、ブロガーを無視した改悪をし、無益な騒動を起こした社員・管理者の認識のなさは、深く責任を追求してください。
3 背景の画面は幼稚過ぎるものが多い。何も少女・こどものためだけのブログではありません。
4 プロフィール欄の文字配置が悪い。それぞれ1行ずつにきちんとしてください。
5 マイページでは、その人を記事を見て×したら、またマイページの該当行画面に戻るようにしてください。
6 投稿した記事の確認のとき、「こんな記事もあります」は検索の出方がおかしくなっています。以前のとおり戻し、だれの記事かわかるようにしてください。
7 検索マシーンの検索条件がおかしい。せっかく投稿したのに、上位に表れません。見出しは誰でも考えてつけます。見出しの文字で主に検索し、記事内容も適切に表示してください。
8 ブログ人気度は、友だちの数や、コメント・トラバ数だけではないでしょう。記事の内容と訪問者数の多さも重要ではないでしょうか。
9 記事の作成途中、うっかり他のキーを押すと、せっかく入力した記事全体が消えてしまいます。また再入力しなければならず、対策を考えてください。
10 地域情報は、何でたべものだけの情報が多いのですか。地域に役立つもっとましな情報を載せてください。
11 メールも前と比べると、画面が見にくく、余計な手間がかかるようようになりました。改善してください。
12 ヤフーをやめたら、以前のブログ記事はすべて削除されるのですか。それはそれで文化遺産です。貴重な映像も多いです。後世でも閲覧できるよう考えてください。
2012/11/8(木) 午後 7:40

長崎の古写真考 目録番号:5576 稲佐のイサバ船と弁財船(3) ほか

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長崎の幕末・明治期古写真考 目録番号:5576 稲佐のイサバ船と弁財船(3) ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」に収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

目録番号:5576 稲佐のイサバ船と弁財船(3)   撮影者未詳 明治期手彩色小型写真帖

目録番号: 696 稲佐のイサバ船と弁財船(1)   撮影者未詳

目録番号:1206 長崎稲佐海岸(2)   内田九一
〔画像解説〕
対岸には長崎の町並みが見える。民家を背景に3人の人物が座っている屋形船を写している。撮影者は内田九一。ベアトも1864年におなじアングルの写真を残している。
〔画像解説〕 超高精細画像
この写真は、長崎市街地の対岸、当時の渕村稲佐郷平戸小屋・船津付近の入り江を撮影したものである。明治中期の写真である。目録番号5310(整理番号102-16)の写真と同じ場所のものである。潮が引いた船と人物を配して、岬の形の良い松の木と風格のある屋敷が写されている。岬の向こうに、長崎市街地の浦五島町が見える。絵画的な構図を意図した写真である。長崎湾の湾奥は、稲佐地区が長崎市街地側に突き出た地形になっており、そこを過ぎると長崎湾の北側の端である、浦上新田が見えてくる。稲佐地区は、外国人墓地が早くから造られ、長崎市街地の対岸では比較的早くから開けた市域であった。写真左手の岬の対岸が西坂の丘になっている。明治20年(1887)代には、長崎市街地の北の端は、西坂の丘付近であった。写真右に長崎湾の向こうに見えている長崎市街地は、立山の山裾と風頭山の山裾に挟まれた中心部の全域である。

目録番号: 698 長崎稲佐海岸(1)   撮影者未詳
〔画像解説〕
ベアトも1864年におなじアングルの写真を残している。民家を背景に三人の人物が見える屋形船を写したこの写真は、整理番号66-14と同一の写真であるが、当写真では左側が切れている。

目録番号:6664 長崎稲佐海岸(6)   撮影者未詳 ボードインコレクション(4)

目録番号:3233 長崎稲佐海岸(7)   内田九一
〔画像解説〕
長崎、稲佐の舟遊びを撮影したもの。着色されている。目録番号1196、3238と同じく、内田九一により明治天皇の長崎行幸時(1872年)に撮影されたと推測される。

■ 確認結果

長崎港内の入江の風景。現在の旭町にあった「稲佐崎」と、丸尾町にあった「丸尾山」や「大鳥崎」との間に囲まれ、平戸小屋町や江の浦町近くまで湾入し、イサバ船や弁財船の格好の碇泊地となっていた。
この項は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/1557

さてこの一帯の入江が、丸尾山を削り埋め立てられたのは、いつ頃だろうか。HP「舎人学校」の前慶応大学教授高橋先生から照会があり、長崎の伊能忠敬研究会入江氏と先月調査した。
「長崎市制65年史」や「明治維新前後の長崎」(復刻版)に史料があり、埋め立ては長崎港第二期港湾改良工事で、明治31年(1898)10月から始まり、完成は明治37年であろう。

この際、関係古写真を比較していて、入江氏が貴重なパノラマ写真となることに気付いた。上記はすべて同じ写真で、目録番号の上2枚が左部分、下4枚が右部分。
この記事では、松の枝の続きが良い目録番号:5576「稲佐のイサバ船と弁財船(3)」と、目録番号:1206「長崎稲佐海岸(2)」を取り上げ、他は掲載を略した。

入江氏がモノクロ変換し、つないで作成した。パノラマ写真であることは、超高精細画像では特に端がカットされ、私も気付かなかったが、古写真研究関係者もほとんど知らないだろう。
撮影者は、内田九一、上野彦馬、ベアトが考えられ、撮影年代ともいろいろな解説がある。関係者は研究を深めて統一して解説してほしい。