烽火山下の「傴僂巖」(カウコウイハ)は、七面山入口にあった

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烽火山下の「傴僂巖」(カウコウイハ)は、七面山入口にあった

「長崎市史」の烽火山の記述は、次のとおり。「長崎市史 地誌編 名勝舊蹟部」(昭和13年発行 昭和42年再刊)の第三章 舊蹟 四、国防に関する史跡 一、烽火山御番所の項である。
534〜545頁に烽火山に関わるおもしろい記述がある。

「南畝石」においては、「文化元年九月長崎奉行肥田豊後守手附勘定役として来崎した南畝太田直次郎は翌年此の峯に昇り絶景を賞して一詩を賦した。
滄海春雲捲簾瀾、崎陽囂市一彈丸、西連五島東天艸、烽火山頭極目看
此の詩は後年山頂西側の巨石に鐫刻せられ今に嚴存す。此の石は何時の頃よりか當地詩客の間に南畝石と名づけられて居る。此の他人面巖 山の東に在り人の顔に似たりとて名を得たり 傴僂巖(カウコウイハ) 山の下にあり などがある」と記す。

烽火山山頂かま跡近くに「南畝石」、山の東の妙相寺からの登山道に「人面巌」、烽火山山頂の南畝石近くに烽火山十景の「亀石」の存在がわかった。染筆松の碑石は、旧時の正道(番所道)の新番所前にあったが、今は失われたようだ。
石や岩の調査の最後は、「傴僂巖」(カウコウイハ)。「山の下にあり」。 

長崎文献叢書「長崎名勝図絵」27頁は、次のとおり記す。南畝の「春日野に…」の歌は烽火山の末尾に載せているが、「南畝石」は記してない。「図絵」は文化、文政年間の執筆であったとされる。
49人面巖 烽火山の東。奇峻にして形ははなはだ怪しと書かれている。
50傴僂巖 烽火山の下。その形からこの名がある。(せむしのことを、長崎では、こうごうという)

「傴僂巖」が烽火山の下とは、場所がはっきりしない。烽火山というより、「七面山」の下にあった。同じく長崎文献叢書「長崎古今集覧 上巻」(松浦東渓著 校訂森永種夫)450〜452頁の「七面権現祠」は、次のとおり。記述を見つけてくれたのは、中尾先生(西山)である。
「長崎記云、七面権現ハ中川村二在リ…中川郷カウガウ岩ト云処ハ、七面谷ノ古名也、今其巌ハ善兵衛宅ノ裏手二在リ、長崎図志云、人面岩、存二烽火山東、奇峻形甚恠、又曰傴僂巖在二烽火山下ト、コノ傴僂巖ノ事ナラン」

「長崎市史 地誌編 仏寺部 下巻」135頁の「七面山妙光寺 明治四十八年創立」にも記述があった。
「所在 七面山妙光寺は長崎市中川郷字七面谷四百弐蛮地に在る。即ち烽火山の西南麓なる七面山の森の中に在りて、前は深渓に臨み、風光の佳なる、亦崎陽の一名勝たるを失はず。
沿革 …男子は通称を吉右衛門と云ひ、初め本大工町で酒屋を営んで居たが、後烽火山の麓なるコウゴウ岩 七面谷の古名である。長崎図誌に傴僂巖とあるは之を謂うのであらう の邊に隠居し、名を宗受と改めて農作を業とした。…」 

「傴僂巖」の場所は、鳴滝の奥まで進み、七面山妙光寺の参道坂段登り口の橋と寺への車道が分かれるところである。七面谷とわかったので、私が現地調査したのは、研究レポート第3集発行後、平成19年4月末頃である。
渓谷沿いに車道を挟んで、数台の駐車場スペースがある後ろ山手は、孟宗竹の林となっていた。竹越しに大きな岩の輪郭が見える。場所の記述と「せむしのことを、長崎では、こうごうという」形から、この岩が古書に記す「傴僂巖」に間違いないだろうと確信した。祭祀物が少し残る。

妙光寺を訪ね寺に確かめたが、古い歴史までご存知ない。文献の本を見せるとかえって喜び、数日後には、孟宗竹を伐り開き、大村まで運ばれた。「傴僂巖」は、昔の姿となっていた。寺も名所の岩ができたであろう。
岩の上部も登って調べたが、特に遺跡らしいものはなかった。