長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号:6770 ホテルの玄関
HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。
目録番号:6770 ホテルの玄関
■ 確認結果
目録番号:6770「ホテルの玄関」は、玄関に「大東館」の額が掲げられている。同名のホテル・旅館は、伊東温泉、熱川温泉などにもあるが、温泉の歴史から草津温泉の「大東館」が考えられる。
現在の群馬県吾妻郡草津町の「アムスホテルズ草津温泉 大東館」。2011年春、リニューアルオープンする。HP「草津温泉VS野沢温泉」による草津温泉の歴史は次のとおり。
データベース次の、目録番号: 6771「 妙義山中之岳の石段(3)」も、撮影地域:群馬 である。
草津温泉の歴史
草津温泉の場所
草津温泉(くさつおんせん)は、群馬県吾妻郡草津町にある温泉です。正確には温泉のあるところが町になったのでしょう。林羅山の日本三名泉に数えられます。江戸時代の温泉番付では東大関(当時の最高位)にランクされ、名実ともに日本を代表する名泉の一つである。
草津名前の由来
草津の地名はその由来に二通りの解釈があるようです。草津町温泉資料館によると、次のように説明されています。ひとつにはその独特の硫黄成分の強い温泉の臭いから「臭い水」を意味する「くさうず」が変化して草津になったという説。ふたつめは大般若経の中の一文、「南方有名是草津湯」より来ているという説。
草津温泉の歴史
18世紀初頭、「かこい湯」・「幕湯」という内湯が設けられる。日本武尊、行基、源頼朝などの神話の時代から古代の超有名人まで、この草津温泉を発見したという人の名は様々です。時代は古墳時代、奈良時代、鎌倉時代とこの温泉の開湯時期は説により色々ですが、1400年代以降草津温泉を訪れる人は著名人だけを抜粋してもすさまじい数に上ります。
現在でも「将軍おくみ上げの湯」としてその名残が湯畑に残る江戸幕府・庶民派将軍八代吉宗公、俳人・小林一茶、東海道中膝栗毛の十返舎一九、この十返舎一九が実は草津を題材に「上州草津温泉道中続膝栗毛十編」を書いたことはあまり知られていないようです。
江戸時代、交通は不便にもかかわらず、湯治客は年間1万人を超える数を記録している。幕末には、「草津千軒江戸構え」といわれたほどである。また、その強烈な泉質のため、草津温泉での湯治後に肌の手入れのために入る、「草津の上がり湯」なる温泉地が周辺に複数できた。
さらに時代が進むと攘夷はたまた開国・維新と日本が大きく変革を遂げようとした幕末そのまっただ中にいた佐久間象山も訪れている。時が移り国が変わった明治になると時間湯という入浴法が確立され、有名な湯もみが始まる。
このころ(1878)草津とその温泉の効能を高く評価し、かつ世界に広く紹介したベルツ博士が初めて草津温泉に足を踏み入れた記念すべき年でもある。ドイツ人医師ベルツ博士によって、その良さを再発見されます。
草津温泉の湯もみをさらに有名にしたきっかけと言われる平井晩村が草津に来たのは1918年、大正7年と記録に残っている。また、このころ軽井沢から草軽電気鉄道という軽便鉄道が草津まで開通し、後には高崎・渋川などからバスも乗り入れるようになった。
平井晩村はその紀行を表した「湯けむり」を発表し、かつ草津節の原型とも言われている詩を書き残した。これが現在の草津節となり、湯もみをする際の添え歌として温泉地草津のイメージを全国に広く知らしめたと資料館のガイドでは説明している。また町外れには、湯治に来て亡くなった無縁仏が多数ある。明治年間の墓石もあり、効能が広く世間に伝えられていたことが伺い知れる。