隠居岳・オサイ観音の海軍省昭和五年「佐世保軍港境域標」

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隠居岳・オサイ観音の海軍省昭和五年「佐世保軍港境域標」

次は、同標石を調査されている佐世保市の高橋輝吉氏から送られてきた資料。隠居岳・オサイ観音の海軍省昭和五年「佐世保軍港境域標」の詳しい所在地図がある。
佐世保市の隠居岳(標高670m)ウォーカーズパークへ出かける際は、宇戸越・オサイ峠方面へも行き、標石を見てもらいたい。

高橋輝吉氏稿  隠居岳・オサイ観音の海軍省昭和五年「佐世保軍港境域標」

軍港は山から守るか。海から守るか。それとも標石で守るか。
明治三十五年 → 海と山に標石有り。  大崎町(9号) 隠居岳右下に(67号)
明治四十五年 → 海岸近くに標石有り。
昭和   五年 → 山に有り。
柚木村時代に、海軍省通達で別紙のとおり資料としてあります。特に昭和五年の標石は、八天岳から隠居岳に。第293号より → 第298号と有り。
第293、297号なし。第294、295、296、298号有り。
途中に「山」と書いた小さな石有り。海軍省の標石を見た事ない人は、軍の石とも言う。   

標石の資料は次のとおり。「佐世保軍港境域標」に関係する一及び四の部分だけ抜粋する。(研究レポート「江戸期のみさき道 第2集」163〜167頁に資料全文を掲載)
なお、この資料六において、柚木村の「長崎要塞第三地帯標」所在地を掲げ、「これから察すると第一号標石は多分石盛岳に所在するように考へられる」とあるが、事実は違う。
柚木村の標石はすべて「第二地帯標」(「第三地帯標」は誤字と思われる)。石盛岳(「八天岳」のこと)は「第七号」移設して個人所有。「第一号」は個人の畠の中、「第二号」は道端にあることを高橋氏は確認している。

(資 料)  三間 十郎氏稿 「長崎要塞地帯標石の一資料について」
佐世保史談会発行 「談 林」 第14号 昭和47年9月   21〜26頁
一、
何といっても私共の郷土にとって消えがたいのは、旧日本の影像でもあった佐世保軍港のことである。が今私がここにとり上げてみようとしているものは、その偉大な軍港、海軍といったかげに隠れたような存在であった陸軍の要塞についてである。
はなばなしい存在ではなかったが、この地域住民にとっては密接不可分的な陸軍省のお役所があった。その要塞法の遺物である標石がまだあちこちに見かけられるようである。
山登りのついで等フト道わきに見かけるそれらの標石の前に佇んでみたりして、なつかしいという程の思い出の種にはならぬにしても、そのあとづけに何がしかの興味を覚えられる方もあるだろう。…
四、
要塞地帯標とは別に軍港境域標と云うものがある。参考までに一部資料にふれておく。
佐建財第二一四號
昭和五年十一月七日               佐世保海軍建築部長
軍港境域標柱及標札建設二関スル件照会
今回佐世保軍港境域改正ノ結果貴村内(註柚木村)二於テ別図指定ノ民有地内二境域標柱及標札ノ建設ヲ要スル事ト相成候就テハ地主ノ承諾ヲ要スル義二付乍御手数別紙書式二依リ地主ノ承諾書ヲ徴シ回付方御取計相煩度(終)
(附図上二図示)
栗木越〜八天岳。第六一号〜六五号
八天岳〜隠居岳。第二八六号〜二九八号
(註)この間オサヨ越南〜隠居岳間第二九三より二九八号までをこの時新設した。
(参考)
昭和五年十月二十四日               海軍大尉 田中 健介
(軍港境域決定ノ件)
来ル廿七日(月曜日)ヨリ三日間貴村二関スル佐世保軍港境界線(西ノ岳—八天岳—ヲサエ越—隠居岳ヲ通ズル区間)ノ決定ヲ致度就而貴村吏員一名御立会ヲ得度右通知ス(以下略)
(註)右に掲げた田中海軍大尉の書簡中に境界線(西ノ岳—八天岳—ヲサエ越—隠居岳ヲ通ズル区間)と示してあるところの「西ノ岳」と云うのは所謂国見岳のことであろう。我々地元では「西ノ岳」と云へば通常隠居岳のことを指して謂うのであるが、而しながら国見岳のことを「西ノ岳」と云う例もある由。…