長崎軍団片渕仮病院(長崎歴史文化博物館所蔵の写真には官軍臨時病院と記載)
の位置についての私見
高橋氏の疑問の元は、松本良順が、仮病院の場所は新大工町であると記述してあることだと思われます。
結論から言えば、仮病院の所在地は間違いなく長崎村片渕郷の内(現・長崎市片渕一丁目)なので、この記述は厳密には言えば、明らかに間違っています。この場所は、新大工町の裏の狭い通路に接する地域で、新大工町側から入る所なので、新大工町裏の……と言えばよいのですが、町の境界は他地区の人にはよくわからず、今でも普通に、新大工町の………と言われたりすることがよくあります。(このような例は、近辺でもみられ、たとえば、片淵に接する夫婦川郷(現在は町)にあった高島四郎兵衛私有地の砲術稽古場は、俗には片渕の射的場と呼ばれていたそうです。)
➀ 仮病院が建てられた新大工町裏手一帯の土地は、私の友人大井氏の研究によると、以前から、幕府(奉行所)が、非常時のため確保していた土地で、天保14年(1843)には、立山奉行所の与力・同心を住まわせる御組屋敷(のち、手附出屋敷と改称)が置かれています。また、文久2年(1862)には岩原官舎に置かれていた英語伝習所が一時的にこの地に移転され英語稽古所となったり(翌年には立山役所に移転)、翌文久3年(1863)には、地役人を訓練するための乃武館(だいぶかん)と言う武術訓練所が設けられています。乃武館の訓練生は、奉行所お抱えの遊撃隊として、幕末長崎の治安活動に従事していたが、ほどなく、幕府が滅亡したため、解体の憂き目に合うが、薩摩藩士松方助左衛門の説得を受け、土佐藩大監察佐々木三四郎の説得を受けた海援隊の長崎残留者と合流、名を振遠隊と替えて、戊申戦争には新政府軍として奥州に出兵し活躍しています。
② 国立公文書館の軍団仮病院(官軍臨時病院)の写真は私も持っていますが、画質がきわめて悪いので、背景などがよくわからず細かい判読が難しいようです。長崎歴史文化博物館の精密画を拡大すれば背景まで鮮明に確認できます。富貴楼や諏訪神社がはっきり写っており、この地域を知っている人が見れば、この写真が新大工町裏手の現在の片渕一丁目辺りだと一目瞭然です。また、写した場所は、諏訪神社と富貴楼の位置関係から見ても、トッポ水横から階段を上った春徳寺裏門辺りより南側の一段下の地、現在シャン・ドゥ・プレ夫婦川マンション(トッポ水横棲登り口辺りの右手に見えるエンジ色のビル、入口は夫婦川横道の方から入る)の敷地南端当たりと思われます。写真でおもしろいのは、仮病院敷地に写っているすべての人物が写真を写している方向を向いていることです。
③ 写した位置が少しずれるが、軍団仮病院が建てられた同じ場所の写真があります。この写真は、明治元年に九州鎮撫総督兼長崎裁判所(行政府)総督として赴任した沢宣嘉が振遠隊の教練を閲兵したときの写真で、『長崎市史』地誌編神社教会下のp431−432梅香崎招魂社の項に掲載されているものです。画像がよくないが、原版は沢家から国会図書館に寄贈されたと聞いている。探せば、もう少しましな画像があるかもしれない。
平成27年6月17日 中 尾