長崎の古写真考 2」カテゴリーアーカイブ

長崎軍団片渕仮病院の位置について  長崎楽会中尾氏私見 ( 長崎県 )

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長崎軍団片渕仮病院(長崎歴史文化博物館所蔵の写真には官軍臨時病院と記載)
の位置についての私見

高橋氏の疑問の元は、松本良順が、仮病院の場所は新大工町であると記述してあることだと思われます。
結論から言えば、仮病院の所在地は間違いなく長崎村片渕郷の内(現・長崎市片渕一丁目)なので、この記述は厳密には言えば、明らかに間違っています。この場所は、新大工町の裏の狭い通路に接する地域で、新大工町側から入る所なので、新大工町裏の……と言えばよいのですが、町の境界は他地区の人にはよくわからず、今でも普通に、新大工町の………と言われたりすることがよくあります。(このような例は、近辺でもみられ、たとえば、片淵に接する夫婦川郷(現在は町)にあった高島四郎兵衛私有地の砲術稽古場は、俗には片渕の射的場と呼ばれていたそうです。)

➀ 仮病院が建てられた新大工町裏手一帯の土地は、私の友人大井氏の研究によると、以前から、幕府(奉行所)が、非常時のため確保していた土地で、天保14年(1843)には、立山奉行所の与力・同心を住まわせる御組屋敷(のち、手附出屋敷と改称)が置かれています。また、文久2年(1862)には岩原官舎に置かれていた英語伝習所が一時的にこの地に移転され英語稽古所となったり(翌年には立山役所に移転)、翌文久3年(1863)には、地役人を訓練するための乃武館(だいぶかん)と言う武術訓練所が設けられています。乃武館の訓練生は、奉行所お抱えの遊撃隊として、幕末長崎の治安活動に従事していたが、ほどなく、幕府が滅亡したため、解体の憂き目に合うが、薩摩藩士松方助左衛門の説得を受け、土佐藩大監察佐々木三四郎の説得を受けた海援隊の長崎残留者と合流、名を振遠隊と替えて、戊申戦争には新政府軍として奥州に出兵し活躍しています。

② 国立公文書館の軍団仮病院(官軍臨時病院)の写真は私も持っていますが、画質がきわめて悪いので、背景などがよくわからず細かい判読が難しいようです。長崎歴史文化博物館の精密画を拡大すれば背景まで鮮明に確認できます。富貴楼や諏訪神社がはっきり写っており、この地域を知っている人が見れば、この写真が新大工町裏手の現在の片渕一丁目辺りだと一目瞭然です。また、写した場所は、諏訪神社と富貴楼の位置関係から見ても、トッポ水横から階段を上った春徳寺裏門辺りより南側の一段下の地、現在シャン・ドゥ・プレ夫婦川マンション(トッポ水横棲登り口辺りの右手に見えるエンジ色のビル、入口は夫婦川横道の方から入る)の敷地南端当たりと思われます。写真でおもしろいのは、仮病院敷地に写っているすべての人物が写真を写している方向を向いていることです。

③ 写した位置が少しずれるが、軍団仮病院が建てられた同じ場所の写真があります。この写真は、明治元年に九州鎮撫総督兼長崎裁判所(行政府)総督として赴任した沢宣嘉が振遠隊の教練を閲兵したときの写真で、『長崎市史』地誌編神社教会下のp431−432梅香崎招魂社の項に掲載されているものです。画像がよくないが、原版は沢家から国会図書館に寄贈されたと聞いている。探せば、もう少しましな画像があるかもしれない。

平成27年6月17日  中 尾

国立公文書館『長崎師団仮病院写真』の真相と撮影地  古写真研究こぼれ話二から ( 長崎県 )

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国立公文書館『長崎師団仮病院写真』の真相と撮影地  古写真研究こぼれ話二から

高橋信一氏(前慶応大学准教授)著「フェイスブック版 古写真研究こぼれ話二 —真実を求めて—」が2015年6月に渡辺出版から発刊されている。
266〜270頁に「282 長崎軍団病院の写真」として、国立公文書館が所蔵する古写真の考察がある。

私は懇意にしてもらっており、現在の撮影地調査に協力した。私や堺屋氏(長崎の古写真研究家)の調査では、この古写真はトッポ(獨鈷)水横から春徳寺裏門へ登る坂段道の高台あたりから、「移設前の旧長崎原爆病院辺りの片淵の畑地に掛け小屋を建てて仮病舎としたと言われる」仮病舎そのものを撮影していると思われる。現在は住宅が建て込み、古写真とまったく同じ写真を写せない。
背景の諏訪神社、松の森神社の大楠、料亭富貴楼、遠く帆掛山・稲佐山稜線などを合わせると、だいたいこの春徳寺付近から、西方の片淵の仮病舎を撮影しているのは間違いない。

詳しい説明は省くが、要点は「仮病院の場所は新大工町である」との記述とか、上野写真撮影局屋上から撮影したとするのは、正確な事実と違い誤解を与える。古写真がこれを正しく記録している。というのが高橋先生の考察である。
長崎文献社刊「アルバム・長崎百年」などにも、同じ古写真が掲載されているので、主なものを参考に載せる。「続・アルバム長崎百年」から明治15年同地にできた長崎監獄(片渕監獄)の位置も参照。
その後、大戦後の日赤長崎原爆病院は茂里町へ移転。済生会病院がここに建っていたが、長崎市立片淵中学校の高台移転へ伴ない、済生会病院の新病院建物は、中学校跡地側へ移っている。

ところでこの広い平地「片淵の畑地」。いわく因縁のある官有地だった。軍団仮病院となる当時は、農民の畑地に一時払い下げられていたようだが、西南戦争拡大に伴いそれをまた買い上げて、長崎軍団片渕仮病院ができたというのが真相のようである。
地元片渕地区に住む私の知人、長崎楽会中尾氏がおもしろい研究をしてくれたので、次の記事「長崎軍団片渕仮病院(長崎歴史文化博物館所蔵の写真には官軍臨時病院と記載))の位置についての私見」によって紹介する。

長崎の古写真考 明治の長崎撮影紀行 16P 神の島海岸からの高鉾島 ほか ( 長崎県 )

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長崎の幕末・明治期古写真考 明治の長崎撮影紀行 16P 神の島海岸からの高鉾島 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「明治の長崎 撮影紀行」 長崎文献社 2014年12月刊

16P 神の島海岸からの高鉾島  (目録番号:3874)
…島の左手に遠くみえている山は唐八景だろう。多くの写真家が登った大平山(星取山)のすぐ近くで、長崎の街を見下ろすいい展望台である。

17P 小瀬戸からの高鉾島  (目録番号:5241)
当時の神の島は、陸つづきでなく、ほんとうに島だった。この写真(5241)はその対岸になる小瀬戸の大悲寺の高台あたりから高鉾島を眺めている。高鉾島の右手後方へみえているのは香焼だろう。…

87P 茂木の町並み  掲載略 (目録番号:1000)
…当時の海岸線が今は国道34号線になっている。のどかな茂木の街の全景をこの寺の背後の丘から見通すことができたのである。

■ 確認結果

森 望氏(前長崎大学附属図書館長)著「明治の長崎 撮影紀行」が、長崎文献社から2014年12月発行されている。脳神経解剖学者の著者が科学的手法で古写真の謎を解く。近来にない本格研究の古写真集であるが、内容において私が直観的に疑問とした作品を取り上げる。
第2版をだすような状況になれば、そのときに改訂しますとのことである。

16P 神の島海岸からの高鉾島 (目録番号:3874)
「島の左手に遠くみえている山は「唐八景」だろう」は、具体的にどの山を指すかわからないが、中央左奥の三角形の高い山は、これこそ「大平山(星取山)」である。
現在の星取山山頂には、NTT長崎無線中継所がある。大きなアンテナ塔数本が建つので確認できる。
1昨日、写真3のとおり星取山の拡大写真を写してきたので、確認のため載せる。「唐八景」はその後ろの低い山で、写真には写らない。星取山右端に少しは低い稜線として写るくらいだろう。
この作品は、本ブログ次を参照。 目録番号:3809 高鉾島(16) ほか
https://misakimichi.com/archives/1687

17P 小瀬戸からの高鉾島 (目録番号:5241)
「神の島は、陸つづきでなく、ほんとうに島だった。この写真(5241)はその対岸になる小瀬戸の大悲寺の高台あたりから高鉾島を眺めている。」
撮影地は、「小瀬戸の大悲寺の高台あたりから」てはなく、視点が低くこのように高鉾島や神ノ島が見えるのは、「神崎鼻の台場」からであろう。
この作品は、本ブログ次を参照。 目録番号:3812 高鉾島(19) ほか
https://misakimichi.com/archives/1552

87P 茂木の町並み (目録番号:1000)
「当時の海岸線が今は国道34号線になっている。」は、何度も言うが「県道34号」が正しい。
この作品は、本ブログ次を参照。 目録番号: 343 茂木(2) ほか
https://misakimichi.com/archives/1513
https://misakimichi.com/archives/2147

92〜97P 小浜・雲仙7点
撮影地の現在の写真がある。まず間違いないと思うが、少し、しっくりしないところもある。私もそのうち現地へ出かけて確認したい。

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 127P 明治初期の長崎市街中心部

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 127P 明治初期の長崎市街中心部

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

127P 明治初期の長崎市街中心部。背後の丘には町年寄の屋敷や諸藩の蔵屋敷などが見える。

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

127P 明治初期の長崎市街中心部。背後の丘には町年寄の屋敷や諸藩の蔵屋敷などが見える。
●町年寄の屋敷、諸藩の蔵など健在
1875(明治8)年に長崎に立ち寄ったアメリカのアジア艦隊の海軍大尉R・E・カーモディが持ち帰ったアルバムの1枚です。大徳寺付近からその頃の市中心部を撮影しています。…

この作品は、「アメリカのアジア艦隊の海軍大尉R・E・カーモディが持ち帰ったアルバムの1枚」とあるが、同じ写真はデータベースにすでにある。
上野彦馬?が大徳寺跡から撮影したとされる目録番号: 6054「大徳寺跡から県庁方面を望む」、目録番号: 6055「大徳寺跡から立山方面を望む」、目録番号: 6078「大徳寺跡から新地と出島を望む」の3枚組のうち、目録番号: 6055「大徳寺跡から立山方面を望む」が、これである。
執筆者は同じ写真と気付いているのだろうか。したがって、撮影者は「上野彦馬?」と考えられる。
この作品は、本ブログ次も参照。 https://misakimichi.com/archives/2173

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 172P 愛宕山から見た丸山・寄合町周辺

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 172P 愛宕山から見た丸山・寄合町周辺

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

172P 愛宕山から見た丸山・寄合町周辺。1871年ごろマンスフェルト撮影

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

172P 愛宕山から見た丸山・寄合町周辺。1871年ごろマンスフェルト撮影
●娼妓解放直前の丸山と寄合町周辺
写真は遊郭の丸山町と寄合町周辺です。1871(明治4)年ごろ、お雇いオランダ人医師マンスフェルトが撮影したもので、「愛宕山からの景色」と紹介されています。
右手の大屋根は正覚寺です。写真中央やや手前を、家並みに沿って横切る道が茂木街道です。
1872年10月、人身売買と売春婦の年季奉公を廃止する娼妓解放令が布告されましたが、…

この作品は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/3515
何度も指摘するが、これは愛宕山の中腹、現高平町の玉成高校旧校舎「榎観音堂近く」から撮影したもので、正覚寺の大屋根の向きは、ここでしか合わない。
娼妓解放直前の丸山と寄合町周辺と盛んに説明するが、ここからは正覚寺及び同寺墓地の背後の斜面谷間となって、丸山町や寄合町の遊郭街はまったく写らない。現地確認もしないで、このような解説をいつまでもするのは、研究者の権威が疑われる。

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 146P 1864年ベアト撮影の麹屋町の筋

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 146P 1864年ベアト撮影の麹屋町の筋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

146P 1864年ベアト撮影の麹屋町の筋。当時の家屋の状況がよくわかる。正面は興福寺の鐘鼓楼

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

146P 1864年ベアト撮影の麹屋町の筋。当時の家屋の状況がよくわかる。正面は興福寺の鐘鼓楼
●麹屋町—石と木と紙の造形
坂本龍馬が勝海舟に従い、豊後から九州を横断して長崎を訪問した1864(元治元)年の春、ベアトはこの麹屋町の筋を撮影しました。湧水に恵まれ、味噌、醤油、酒の麹を作るところから、正保年間(1644〜48)にこの町名となりました。長崎の街中を写した最古の写真として貴重です。
背後の山は風頭。正面は興福寺の鐘鼓楼です。左上の建物は興福寺の永福庵ですが、現存しません。…

データベースでは、目録番号:1293「興福寺開山堂と麹屋町(1)」の作品。超高精細画像の画像解説は次のとおり。
「F.ベアトの撮影。中島川に直交する道路では当時から幅広だった今紺屋・中紺屋町(現在は麹屋町に統合)の通りから興福寺を見通したもの。背後は風頭山。正面の重層の楼閣は、文政8年(1825)に至って荒廃していた開山堂を併合した観音堂であるが、これは戦災で失われ、現在はそこに民家が建て込んでいる。その左上は境内にあった永福庵であろうが、その跡地には明治34年(1901)に鶴鳴女学校が開設され、それが大正11年(1922)に小島地区に移転後は同校の寄宿舎となり、現在に至っている。」

この作品は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/2269
正面の重層の楼閣は、「文政8年(1825)に至って荒廃していた開山堂を併合した観音堂であるが、」とあるのに、なぜ「鐘鼓楼」となるのか。
興福寺の「鐘鼓楼」は、同じ時期ごろF・ベアトが撮影した目録番号:3246「興福寺の鐘楼(2)」があるとおり、本堂前の庭にあるこの建物(正式名称は「鐘鼓楼」)で、現在も現存する。
データベースに対し、変なタイトルの変更や間違った解説にすべきでないだろう。

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 120P 明治天皇巡幸時の長崎の街

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 120P 明治天皇巡幸時の長崎の街

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

120P 明治天皇巡幸時の長崎の街。1872年内田九一撮影

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

120P 明治天皇巡幸時の長崎の街。1872年内田九一撮影
●豊かな町の熱烈な歓迎
1872(明治5)年、西国巡幸の途中に長崎を訪問した明治天皇一行は、長崎の人々の熱烈な歓迎を受けました。組み写真は、随行写真家の内田九一が撮った長崎の街のパノラマです。天皇の行在所が置かれた島原町(行幸を記念して萬歳町と改名された。現在の万才町)の高木邸から撮影されました。元の写真はキャビネ大3枚の鶏卵紙で、着色されています。
この時、長崎の人々は家を提灯で連結して「山」や「奉迎」の文字を浮き出させ、停泊した艦艇はイルミネーションを灯し、近郊の住民はかがり火を焚いて歓迎した、と伝えられています。…

データベースでは、目録番号:6111「市街地パノラマ(1)」、目録番号:6112「市街地パノラマ(2)」、目録番号:
6113「市街地パノラマ(3)」である。
この作品は、本ブログ次を参照。  https://misakimichi.com/archives/1927
目録番号:6113「市街地パノラマ(3)」は、目録番号:3230「長崎市街地」と同じ写真である。私の指摘により、刊行本の解説となったと思われるが、データベースの方でも解説をお願いしたい。

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 113P 1869年ごろの香港の3枚組パノラマ写真 ほか

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 長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 113P 1869年ごろの香港の3枚組パノラマ写真 ほか

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

113P 1869年ごろの香港の3枚組パノラマ写真
114P 上海の古城壁と大境閣。人物の半分は日本人。1874年ごろ撮影

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

113P 1869年ごろの香港の3枚組パノラマ写真
●梅屋と孫文が出会った香港
1869(明治2)年ごろの香港のパノラマ写真です。「山頂」と名がついた山から撮影された3枚組です。洋館が立て込み、繁栄がうかがえます。長崎を撮影した英国人ベアトの写真が収められたアルバムに、追加で貼られたもので、アルバムの所有者が香港寄港中に入手した写真と思われます。対岸は九龍地区で、今は本土と3本のトンネルでつながっています。…

114P 上海の古城壁と大境閣。人物の半分は日本人。1874年ごろ撮影
●上海の望楼に羽織姿の日本人
英文の写真説明で「上海の古城壁」と書かれています。1874(明治7)年ごろ撮影された、上海中心部を取り巻く城壁上にそびえる大境閣(道教の寺院)です。
米海軍のR・E・カーモディ大尉がアメリカに持ち帰ったアルバムに収載されていますが、撮影者は不明です。写っている人物の半分は羽織姿の日本人です。
街を囲む堀割と城壁は古代都市の象徴でした。…

データベースでは見当たらない作品。113Pは「長崎を撮影した英国人ベアトの写真が収められたアルバムに、追加で貼られたもの」、114Pは「米海軍のR・E・カーモディ大尉がアメリカに持ち帰ったアルバムに収載されていますが、撮影者は不明です」とある。
なぜ、このような貴重なアルバムの作品を、長崎大学ではデータベースで公開しないのか。刊行本の執筆者の心得違いもはなはだしい。長崎大学のコレクションは、国民の文化共有財産であって、執筆者の単なる著作のための私有物ではない。
執筆者は前附属図書館長、現在でも同大学「古写真資料室」の研究員である。データベースでまず公開してから発刊すべきではないか。大学はほかにも貴重な古写真を所蔵しながら、隠していると思われても仕方ない。

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 93P 志賀波止と呼ばれた稲佐「ロシア村」の桟橋

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 93P 志賀波止と呼ばれた稲佐「ロシア村」の桟橋

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

93P 志賀波止と呼ばれた稲佐「ロシア村」の桟橋。 1874年ごろ撮影

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

93P 志賀波止と呼ばれた稲佐「ロシア村」の桟橋。 1874年ごろ撮影
●「ロシア村」の志賀波止
稲佐にあった「ロシア村」の志賀波止と呼ばれた船着き場です。撮影は1874(明治7)年ごろ。現在の旭大橋の稲佐側の付け根付近ですが、今はその面影がありません。アメリカ海軍の将校R・E・カーモディのアルバムに収載されていますが、撮影者は上野彦馬か、本人あるいはその弟子に付き添われたアメリカの写真家とも思われます。…

「志賀の波止」を撮影した貴重な写真だが、データベースではまだ公開がない。アメリカ海軍の将校R・E・カーモディのアルバムに収載されているそうだが、アルバムの全作品とも早急に公開してもらいたい。
長崎大学附属図書館では、古写真展『古写真で見る 1874年、激動の長崎—県庁倒壊と科学の黒船』を8月
27日から長崎市立図書館多目的ホールで開催する。これに展示するらしいが、この解説では誤解があろう。

詳しくは、松竹秀雄氏著「ながさき稲佐 ロシア村」長崎文献社2009年刊を参照。現在の旭大橋のたもとには、長崎日ロ協会が建てた「幕末・明治のいわゆるロシア村」の説明板が、稲佐側に2ヵ所ある。
旭大橋へ入る登り口脇の坂段のところにあった船着き場が、いわゆる「ロシア村の上陸桟橋」と考えるべきではないか(写真5,6)。この写真はあくまでその北側の「志賀の波止」の写真で、現在の大橋橋脚下(福田小動物病院側)旭町公園となっているようだ(写真7,8)。

長崎の古写真考 幕末明治の長崎 78P 南山手から見た長崎港と大浦、出島方面

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 78P 南山手から見た長崎港と大浦、出島方面

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

78P 南山手から見た長崎港と大浦、出島方面。 1873年冬、内田九一撮影

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

78P 南山手から見た長崎港と大浦、出島方面。 1873年冬、内田九一撮影
●南山手と下り松
1873(明治6)年冬に、長崎再訪中の内田九一が南山手から撮影した出島、大浦方面と長崎港です。微妙に重なる2枚組で、建物の窓の形が同じです。1枚のモノクロ写真の裏には九一自筆の「長崎六十六」という書き込みかがあります。また、外国人が書いたと思われる「424」という番号もあり、いったん海外に流失して里帰りしたことを推測させます。右は後年の着色写真です。…
背後の松の木は、江戸時代からここが「下り松」と呼ばれた名残です。湾奥は浦上方面、右の船溜りは五島町の海岸付近、左は稲佐渕村の集落です。

データベースでは、右が目録番号:2868「南山手からの大浦居留地と出島(1)」、左が目録番号:3223「グラバー邸付近からの長崎港」である。この作品は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/2270
パノラマ写真となり、「微妙に重なる2枚組」と今頃、紹介している。これは私の古写真考の指摘によりわかったことだろうから、少しは感謝してもらいたい。内田九一撮影と思われる作品が、このように粗末な研究として扱われていたことが、問題であろう。