長崎の古写真考 幕末明治の長崎 172P 愛宕山から見た丸山・寄合町周辺

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長崎の幕末・明治期古写真考 幕末明治の長崎 172P 愛宕山から見た丸山・寄合町周辺

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。

「古写真に見る幕末明治の長崎」 明石書店2014年6月刊

172P 愛宕山から見た丸山・寄合町周辺。1871年ごろマンスフェルト撮影

■ 確認結果

姫野順一氏著「古写真に見る幕末明治の長崎」が、明石書店から2014年6月発行されている。本書は、2007年から2013年まで朝日新聞長崎版に毎週1回、5年9ヵ月に亘って連載された長崎古写真の解説記事「長崎今昔」から、後半部分をテーマに沿って再編集している。
著者の解説は、新聞掲載時から疑問が多かった。そのつど本ブログ古写真考前の記事で指摘済みで、一部は修正されているが、刊行本の内容で再び問題となる作品を取り上げる。正しい解説をお願いしたい。

172P 愛宕山から見た丸山・寄合町周辺。1871年ごろマンスフェルト撮影
●娼妓解放直前の丸山と寄合町周辺
写真は遊郭の丸山町と寄合町周辺です。1871(明治4)年ごろ、お雇いオランダ人医師マンスフェルトが撮影したもので、「愛宕山からの景色」と紹介されています。
右手の大屋根は正覚寺です。写真中央やや手前を、家並みに沿って横切る道が茂木街道です。
1872年10月、人身売買と売春婦の年季奉公を廃止する娼妓解放令が布告されましたが、…

この作品は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/3515
何度も指摘するが、これは愛宕山の中腹、現高平町の玉成高校旧校舎「榎観音堂近く」から撮影したもので、正覚寺の大屋根の向きは、ここでしか合わない。
娼妓解放直前の丸山と寄合町周辺と盛んに説明するが、ここからは正覚寺及び同寺墓地の背後の斜面谷間となって、丸山町や寄合町の遊郭街はまったく写らない。現地確認もしないで、このような解説をいつまでもするのは、研究者の権威が疑われる。