蚊焼漁港の師走 長崎市蚊焼町
三和地区の漁業は、蚊焼・為石漁港を中心に、古くから定置網漁業が盛んで、活きのいい蚊焼ぶりやひおうぎ貝は有名です。近年では養殖漁業が中心になり、「獲る漁業」から「育てる漁業」へと様変わりしています。(長崎市HP三和行政センター旧町の紹介)
毎年のことだが、正月用のヒラスを注文していたので、朝から蚊焼漁港へ受け取りに出かけた。活きの良いほかの魚も、安く購入できる。盛大に販売と解体作業が行われていた。
蚊焼漁港の師走 長崎市蚊焼町
三和地区の漁業は、蚊焼・為石漁港を中心に、古くから定置網漁業が盛んで、活きのいい蚊焼ぶりやひおうぎ貝は有名です。近年では養殖漁業が中心になり、「獲る漁業」から「育てる漁業」へと様変わりしています。(長崎市HP三和行政センター旧町の紹介)
毎年のことだが、正月用のヒラスを注文していたので、朝から蚊焼漁港へ受け取りに出かけた。活きの良いほかの魚も、安く購入できる。盛大に販売と解体作業が行われていた。
島原市の風景
年末の休日2013年12月30日(月)、雲仙グリーンロードにより島原市へ往復。
島原城、姫松屋の具雑煮、武家屋敷通りと庭園石橋、レトロな猪原金物店、新山温泉上の湯、島原外港、眉山の遠望、島原温泉ゆとろぎの湯石橋、鯉の泳ぐまちのスナップ。
平幸治氏著「肥前国 深堀の歴史」(新装版)が再刊
地元深堀出身で現在芦屋市在住の、平幸治氏著「肥前国 深堀の歴史」(新装版)が、長崎新聞社から再刊されている。長崎市深堀の異色の歴史について集大成。史料を駆使して克明に描いた本格的郷土史。
2002年(平成14年)に初版発売後、完売。待望の新装版。有名書店などで発売中。
A5版 673頁 定価2,800円+税。
巻頭の平成25年10月著者再刊のことばは、次のとおり。平氏は「みさき道」において、「関寛斎日記」原文解読など、たいへん尽力いただいた。
新装版印行にあたって
『肥前国 深堀の歴史』は限定小部数の自費出版であったためすぐ絶版となり、その後も読みたいという問い合わせがあったが、応えられなかった。
このほど内容はそのままに装を新たにして再刊することとした(ただし明らかな誤植は訂正し、巻末に補注若干を加えた)。
10年も前の、資料を切ったり張ったりの寄せ集めに過ぎないような作物であるにもかかわらず、改装版を印行するのは、わが郷土深堀の歴史に興味関心を寄せ深堀を愛する人が少しでも増えて欲しいと願うからに他ならない。とくに深堀の長い歴史を知って郷土に誇りを持つ子どもたちが増えることを切に希う。
深堀遺跡の発掘は引き続き都度行われ、中世の資料など「多くの重要な調査成果が蓄積されつつ」あり、「発掘資料と文献資料の比較・照合による当該期研究の進展が期待できる」(長崎市教育委員会 2005年『深堀遺跡』)という。さらに平成24年4月、深堀は長崎市の景観形成重点地区に指定され、「長い歴史を有する深堀の歴史と一体となった景観形成」が期待されている。
深堀の歴史を知ることは深堀の町づくりにも資するものと思われる。
この度も長崎新聞社出版室にお世話になった。…(以下、略)
八郎岳登山口の駐車場などの整備について 長崎市政への提案と回答
長崎市平山町の八郎岳登山口に、登山者用駐車場・公衆便所・国道側案内標識などを設置するよう、長崎市へ再び要望した。提案と回答の内容は、次のとおり。
これが長崎市長の最終見解と回答なのだろうか。単なる解決の先送りである。登山者用駐車場や公衆便所などの必要性は、やっと認めたようである。財政的な理由なら、2011年当時から、そう回答するべきである。この項は、本ブログ次も参照。
https://misakimichi.com/archives/3091
それから、もう3年近くなる。財政当局とこれまでどう折衝したのか。地元自治会などとどう話し合いを持ったのか。市民農園入口近くの市有地道路脇や、農園用地の一部転用をすることはできないのだろうか。公衆便所は、市民農園利用者やサイクリング道路利用者も必要としていると思われる。
長崎市長の姿勢がまったく見えない。もう少し気のきいた回答をお願いしたい。
(提案内容 2013/12/9 メール送信)
八郎岳登山口の登山者用駐車場、公衆便所などの整備について
長崎市南部の山、八郎岳は標高589.8m。長崎市内の最高峰。野母半島県立公園で、九州百名山の1つです。市内外から訪れる登山者が多く、2011年8月から、再三、長崎市平山町の八郎岳登山口に登山者用駐車場、公衆便所、国道側案内標識などを設置するよう、長崎市及び長崎県にも要望しましたが、納得できる進展がありませんでした。
周辺案内図が設置されただけで、ほかはそのまま放置されています。財政的な理由は、たしかに理解できますが、あまり予算をかけず実現できる方法をぜひ考え、実行してください。
今回このことを再要望したのは、最近、市民農園関係者が休みのたびに、農園駐車場に張り込み、登山者の駐車を厳しくとがめていると聞いたからです。登山や農作業は、お互い気持ち良く楽しみたいはずです。このような険悪な事態は、長崎市政の評判と評価を落すだけです。公衆便所は、農園利用者も必要としていると思います。
以上のことを良く理解し、長崎市において早急な実現をぜひお願いします。
(回答内容 2013/12/26 長崎市HP掲載)
平山市民農園は、駐車場も含めて長崎市が地権者から土地を借り上げ、入園者は使用料を負担して市民農園を利用しておりますので、入園者以外が農園駐車場を利用することは、ご遠慮いただいています。
登山者の方も駐車されている場合がありますが、植え付け時期や収穫時期は多くの方が来園されますし、また、仕事の都合上、土曜日、日曜日だけしか農園に来られない方もおられ、駐車区画が不足することもあり困っている状況ですので、農園利用者以外の駐車はご遠慮いただいております。
登山者のための駐車場及びトイレ等の整備は、財政的に困難でありますので、国道沿いなど周辺駐車場などをご利用いただきますよう、ご理解とご協力をお願いします。
また、案内標識などにつきましては、前回、回答いたしておりますとおり、八郎岳登山における必要な情報を判りやすく表示する観点から、山岳連盟などの専門家のご意見をお聞きしながら、引き続き検討しており、必要に応じてできるものから修正、新設を行っていきたいと考えています。 (関係所属) 農林整備課・農業振興課
深堀陣屋跡の現況 (4) 長崎市深堀町5丁目
深堀氏の居城だった深堀陣屋跡の現況は、本ブログ前の記事を参照。
現況(1)は、https://misakimichi.com/archives/3862
現況(2)は、https://misakimichi.com/archives/3869
現況(3)は、https://misakimichi.com/archives/3877
長崎市文化財課の2回による発掘調査は、11月29日に終了している。深堀カトリック教会新築の定礎式は、11月24日にあり、現在は広場に工事基礎打ちが行われていた。
なお、深堀陣屋跡などの市文化財指定について、長崎市政への提案による回答は、次のとおり。今回の発掘調査でどのようなものが見つかったか、文化財課は概略でも、回答の中で報告してもらいたかった。深堀陣屋跡の史跡保存に、ひとりでご苦労されている地元出身で現在芦屋市在住の平様(「肥前国 深堀の歴史」著者)の陳情内容にもふれるべきだろう。
平成25年12月10日付 長崎市広報広聴課長・文化財課長回答
ご投稿いただきありがとうございます。ご提案について、次のとおり回答いたします。
1 深堀陣屋跡の市文化財指定について
深堀陣屋跡は、埋蔵文化財包蔵地、すなわち遺跡として保護されています。所有者であるカトリック長崎大司教区からの委託を受けて、平成25年11月8日から平成25年11月29日まで長崎市が発掘調査を実施しました。ご覧になられたのは整地工事ではなく、重機械による発掘調査区の表土掘削と思われます。
平成25年7月22日から8月9日に長崎市が実施した遺跡の確認調査の結果を経て、教会の新築工事が遺跡に影響を及ぼす部分についてのみ発掘調査を実施しております。管理者である深堀カトリック教会も、当地の保護については、新築工事後は現状維持に努めると理解を示しておられます。
なお、史跡指定の必要性については、所有者の意向、発掘調査の結果による遺構の残存度合や価値などを踏まえた上での検討が必要と考えております。
市指定天然記念物「深堀陣屋跡のアコウ」説明板については、深堀カトリック教会から、当地の周辺の伐採の折に破損したため、深堀教会の新築工事と併せて説明板の補修を行いたいとの報告を受けております。
2、3 戸町の石橋およびみさき道の現存する標石の市文化財指定について
戸町4丁目の石橋については、現地を確認させていただきました。
長崎市では、現在、歴史・文化・産業・自然等について、文化財を中心に総合的に把握し、適切に保存活用し、まちづくりに活かしていくため、「長崎市歴史文化基本構想」の策定を進めております。この構想策定の中では、指定・未指定を問わず、市内にあります有形・無形の歴史・文化遺産について、まず、所在や内容に関して調査及び把握を行います。ご提案の石橋のように、これまであまり広く知られていなかった歴史文化遺産についても、その中で整理していきたいと考えております。
なお、文化財の指定を含む取扱いに関しましては、今後、文化財審議会委員など専門家の現地指導を含め、市内における近代の石橋の中での位置付けや文化財的価値を整理し、その可能性について探っていきたいと考えております。
貴重な情報の提供ありがとうございました。今後も本市の文化財保護へのご協力をよろしくお願いいたします。
岩屋山から十郎岳へ 2013年12月
2013年12月22日(日)晴。九州自然歩道により岩屋山(標高475.2m)に登り、十郎岳(標高248m)へ縦走。参加8人。みさき道歩会の例会。
下大橋公園9:40—油木—九州自然歩道—休憩ベンチ11:08—岩屋山12:05(昼食)12:50—展望岩13:34—十郎岳14:28—かきどまり総合運動公園15:05(徒歩距離 約7km)
長崎市北部の山「岩屋山」へ。本年の登り納め。油木から九州自然歩道へ入る。植林地内の休憩ベンチを過ぎ、しばらく行く。山頂への石段登りにかかる所に、大正14年「福田村西浦上村境石」と刻んだ珍しい石がある。
https://misakimichi.com/archives/132
岩屋山頂で昼食。相変わらず登山者が多い。午後は、かきどまり総合運動公園上の十郎岳まで縦走。絶壁の十郎岳は、眼下の手熊・柿泊などの景色が良い。
岩屋山頂近くや十郎岳手前を除き、全体になだらかな植林地や雑木林内の登山道が続く。歩きやすいコースである。
玉園稲荷の「抱き大楠」 長崎市上西山町諏訪神社境内
諏訪神社境内と隣接する長崎公園の、「諏訪の杜」と呼ばれる一帯は、大きなクスノキが多い。
玉園稲荷は、諏訪神社本殿の右上にある。「抱き大楠」が、この森で最も巨樹というわけではない。珍しい説明板があったので、記録しておく。幹周りは、5.6mほど。
これくらいの大きさは、どこでも見る。「諏訪の杜」の正確な巨樹調査を知りたい。
グランド将軍植樹?のアコウ 長崎市上西山町長崎公園内
グランド将軍(アメリカ合衆国第18代大統領)が植樹したというアコウ。長崎公園丸馬場のところにある。長崎市が設置した表示板があり、記念碑が残る。
HP「長崎遊楽 諏訪神社散策 玉園山」による説明は、次のとおり。「榕樹」はアコウのこと。
コメント参照。現在の木は戦後、占領軍があらためて植樹しなおした木のよう。長崎大学古写真データベース目録番号:5102を掲げていたが、HP「NAGASAKI GENEI」長崎古えはがきから、関係作品も確認のため載せる。
長崎市の表示板は、誤解をまねく説明のため、設置場所とも検討をお願いしたい。
19 米国グラント将軍記念樹
グランド将軍手植榕樹記念碑
縣令内海忠勝君の需に應し余室家と與に各自樹木一株を長崎公園内に裁植せり翼くは雙樹繁茂成長し永遠の壽を保ち以て日本の将來を表明せん事を
紀元一八七九年六月二十二日
日本長崎ニ於テ
ユーマス グランド誌
【ユリシーズ・シンプソン・グラント】 (Ulysses Simpson Grant)
(一八二二〜一八八五年)
アメリカ合衆国第一八代大統領。
一八二二年四月二七日 オハイオ州クレアモント郡ポイント・プレザントでジェシー・R・グラントおよびハンナ・シンプソン・グラントの息子として生まれた。
一八四三年(天保一四)、ウェストポイント陸軍士官学校を卒業。南北戦争に活躍。
一八六四年(元治元)、中将となり、合衆国軍司令官に就任し、翌年、南軍のリー将軍をリッチモソドに降し、大将に昇進した。
一八六八年(明治元)、共和党から大統領に当選し、アメリカ合衆国第一八代大統領となる。
一八七二年三月三日には、アメリカを訪問した岩倉使節団と会見し、条約改正交渉に応じた。
一八八五年七月二三日にニューヨーク州サラトガ郡のマウント・マクレガーで死去。北アメリカで最大の廟、ニューヨーク市のグラント墓地に、妻と共に埋葬されている。またグラントの肖像は五〇ドル紙幣に採用された。
グランド将軍は(大統領職二期目の終了後に)米艦リッチモンド号に乗って二年間の世界一周旅行中、日本における最初の訪問地を長崎とし、インド、香港、上海を経て明治一二年(一八七九)六月二一日午前一〇時)長崎に入港、上陸した。
これを、勅使吉田清成全権公使、政府派遣の接待役蜂須賀茂明、伊達宗城、鍋島直大およびビンガム米国公使らが将軍を出迎えた。
長崎では迎賓の準備を整え新町の県立長崎師範学校を将軍の旅館にあてた。一行は上陸後、県立師範学校へ二人引きの人力車で迎えられ、長崎に五日間滞在した。
六月二二日には長崎公園丸馬場に榕樹(ガジュマル)二株を植樹した。翌二三日には長崎県の歓迎会、二四日は市民主宰の歓迎会に臨み二五日は飽の浦の三菱造船所を視察した。
二六日にリッチモンド号で東京に向かって長崎を出航した。
東京では八月一〇日明治天皇と、歓談し琉球問題等について話した。増上寺で松を植樹、上野公園では檜を植樹している。
現在長崎公園にあるのは、この時の手植えの樹及び自筆の記念碑である。
戸町岳の天明藩境塚めぐり 2013年12月
2013年12月8日(日)快晴。戸町岳(標高427.2m)の天明藩境塚めぐり。参加6人。みさき道歩会の例会。佐嘉領小ヶ倉村と大村領戸町村の藩境紛争が、天明七年(1787)解決し築いた藩境石塚を訪ねる。
鹿尾ダム公園9:36—海星学園グランド尾根9:48—戸町岳登山道出合10:54—戸町岳
11:50(昼食)12:50—大山林道13:25—大山カトリック教会13:44—鹿尾ダム公園14:
41(徒歩距離 約9km)
2013年10月20日(日)の大久保山(標高233.7m)の藩境石塚めぐりは、次を参照。
https://misakimichi.com/archives/3790
大久保山の藩境石塚に続き、その延長で今回は、戸町岳の尾根道に残る藩境塚を訪ねる。
大山入口バス停から入った鹿尾ダム公園に集合。橋を渡って西海建設の道路工事現場からすぐ上の尾根に取り付く。右下が海星学園グランドとなるところである。
藩境塚が尾根にはすぐ目につき、2つのピークを越して行く。この区間の塚の存在は、ほとんど知られていない。
やがて、戸町中学校前から上がった竹林の戸町岳登山道と出合う。藩境塚は登山道になおも続く。はっきりしたものは、T型金具に「天明藩境塚」と表示し、ブロック区分と連番号を付していたが、もう6年近く経過した。金具が引き抜かれたり、所在不明となっていたものがあった。
戸町岳山頂まで行って昼食。12月としては、きょうはポカポカ陽気で風もなく、展望が効いた。藩境塚は熊ヶ岳分岐まで続いているが、その縦走は行わず、戸町岳から同じ道を少し戻り、大山林道の小ヶ倉水源池地下隧道がある取水口へ下った。付近で大正二年三月「長崎県模範林」の標柱を発見。
大山カトリック教会に寄ると、クリスマス飾り準備中。教会下の里道には、長崎市立小ヶ倉小学校大山分校跡地があった。
「大久保山から戸町岳に残る天明藩境石塚の調査」は、本ブログ2007年7月記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/85
HP「キリシタンの里をたずねて—長崎の教会」による大山教会の紹介は、次のとおり。
大山教会の紹介<絶えざる御助けの聖母>
(1)現 勢(小教区内数)
世 帯 数 74世帯 信者総数 341人
(2)沿 革
この地の信徒は、嘉永年間、外海の黒崎地区からの迫害を避けて逃れてきたキリシタンの子孫で、明治4年(1871)配流のため佐賀送りとなり、明治6年(1873)太政官達により信仰の自由を勝ち取った信徒たちが、明治29年(1896)、建立した最初の大山教会も老朽化が激しく、昭和27年(1952)改築。5月25日山口大司教のてによって献堂・祝別された。その後、平成6年(1994)6月26日、42年ぶりに島本大司教司式により、教会堂の祝別・落成式が行われた。
当日は歴代のの主任司祭や大山出身のシスターをはじめ、各方面からも大勢の信徒が詰めかけ、新たな歴史の1ページをともに喜び合った。(記事の一部は1994年のカトリック教報を抜粋)
(3)特 色
町内に住む者総てがカトリック信者で、1つの家族のような雰囲気を持ち、住民の9割が大山姓を名乗っている。
(4)区域内修道院
*お告げのマリア修道会大山修道院
カメ大集合? 長崎市淵町の川
長崎市淵町の長崎市立成人病センター右横の橋下。カメが大集合して甲羅干し。ミシシッピーアカミミガメ(別名 ミドリガメ)だろう。こんな野生化し、多くいるのは、恐ろしい。
ペット図鑑は次のとおり。
ミシシッピーアカミミガメ(別名 ミドリガメ)
○最多品種の1つ。
○幼体の時はミドリガメと呼ばれているが、アカミミガメの名前の由来は、頭の側面に赤い模様があるため。
○えさは人工飼料もよく食べる。
○成体は気の荒い個体が多いので、取り扱いに注意が必要。
○飼育者によって放置された個体が野生化し、生態系に問題を及ぼしている。