福田村・西浦上村所有権境石 岩屋山登山道にあった

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福田村・西浦上村所有権境石 岩屋山登山道にあった

小江原の警察学校の所から車道が岩屋山中腹まで上がる。途中に岩屋神社の鳥居があり、車道の終点からいよいよ登山道にかかる。東屋やDDI塔を通り、山道を10ほど登った植林地内の道脇の自然石に、見事な字で「福田村西浦上村境石」と刻まれている。ちょうど「西町・油木方面 九州自然歩道 手熊・式見方面」の道標がある地点である。刻面は次のとおり。

所有権
福田村西浦上村境石
大正十四年一月十七日福田村長相川金
三郎西浦上村長柿田介一並手熊
郷岩屋郷民立會境ヲ定ム
所有権

林純夫著「福田村郷土史」平成12年刊、594頁に「七、岩屋山・多以良山の境界争い」があり、次のように概説されている。

福田村(小江・手熊郷)は、文化元年(一八〇四年)、浦上北村・浦上西村及び平宗村とで岩屋山の境界、さらに文政元年(一八一八年)には、浦上北村・浦上西村とで「多以良山」の境界、そして明治に至り再度岩屋山での境界について三度も争っています。三度目となる明治時代の争いでは東京での裁判となりました。その裁判では、結局福田村の主張が認められたようです。
双方同じ大村藩領ではありましたが、その争いは約八〇年間にも及ぶものであり、いかに当時の百姓が自分達の生活のため土地を守り大事にしていたかがよく窺えると思います。

林氏著は、浦上西村「郷村記」も紹介し、争いの場所が「二階岩」近くであることを説明されている。「二階岩」とは、岩屋山案内図から先の車道終点近くにある岩ではないだろうか。そのまたすぐ上方の登山道にあるこの大正14年刻「境石」の存在を、林氏はまったくご存じなかったのだろうか。紹介されていない。山中道脇の珍しい石なのに案内図にも書いてない。
岩屋山における双方の村の所有権争いは、大正時代もまだ続いていたようである。