月別アーカイブ: 2014年12月

「カキ焼き海道」大福丸箱崎店で  太良町伊福箱崎 ( 佐賀県 )

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「カキ焼き海道」大福丸箱崎店で  太良町伊福箱崎

道の駅太良のすぐ側! 鹿島市と太良町の境にあります。
天気がいい日には対岸の大牟田や雲仙普賢岳が望めます!
屋外で海風を感じながら食事を楽しめます。
炭火の香りが食欲をそそります。
食べ方もお教えいたします。店内からも海を楽しめます。
ご来店をお待ちしています。 お問い合わせは大福丸箱崎店まで。(同店HPから)

佐賀新聞ニュース 2008年11月20日更新は、次のとおり。

カキ焼き海道盛況 鹿島と太良の国道沿い
冬の味覚カキのシーズンが到来した。鹿島市や太良町の国道207号沿いは別名「カキ焼き海道」と呼ばれ、道路沿いに点在するカキ焼き小屋では、炭火で殻付きのカキを焼いてほおばる家族連れらでにぎわっている。
国道沿いは20軒以上の小屋がある。太良町の炭火焼「大福丸」では週末を中心に観光客が続々と来店。焼けたカキを軍手でつかみ、ピックで殻をこじあけると店内に磯の香りが漂っていた。
伊万里市から一家4人で訪れた瀬戸剛さん(45)は「太良のカキが好きで年に2、3回は食べに来ている」と話し、海の幸を楽しんでいた。現在は養殖物が主で有明海産は1キロ千円前後、長崎など県外産は2キロで千円ほど。

祐徳稲荷神社  鹿島市古枝 ( 佐賀県 )

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祐徳稲荷神社  鹿島市古枝

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。2日早い初詣でを済ませた。

祐徳稲荷神社
祐徳稲荷神社(ゆうとくいなりじんじゃ)は、佐賀県鹿島市にある神社である。旧社格は県社。別名鎮西日光。伏見稲荷大社などとともに日本三大稲荷の一つに数えられる。年間300万人の参詣者が訪れる。これは九州の神社では太宰府天満宮に次ぐ参拝客数である。衣食住、生活全般の守護神として、商売繁盛、家運繁栄などで尊崇されている。

由緒
鹿島藩主鍋島直朝夫人で、後陽成天皇の孫・左大臣花山院定好の娘の萬子媛(まんこひめ)が、朝廷の勅願所であった稲荷大神の御分霊を勧請したのに始まる。萬子媛が嫁ぐ際、父から稲荷大神の神鏡を授けられていた。貞享4年(1687年)、石壁山に社殿を建立し、萬子媛自ら奉仕していたが、宝永2年(1705年)、石壁山窟の寿蔵にて、断食して入定を果たした。以降、萬子媛の諡名から「祐徳院」と呼ばれるようになり、祭神の稲荷神とともに萬子媛の霊験により信仰を集めた。
明治の神仏分離により仏式の行事を廃し、祐徳稲荷神社に改称した。その際、萬子媛が入定した寿蔵は境内社の石壁神社とされ、萬子媛に「萬媛命」の神号が贈られた。
現在の本殿は、昭和初期に建て直されたものが昭和24年(1949年)に焼失したあと、伊勢神宮造営局長の角南隆が設計して昭和32年(1957年)に再建されたもので、3代目である。主要建物は総漆塗りである。
斎藤茂吉や野口雨情も祐徳稲荷神社を詠った詩を残している。

神社内部
錦波川を境として西側に本殿、神楽殿、楼門がある。楼門から北側には参集殿、更にその北側には日本庭園がある。境内入口より北から祐徳バス門前出張所(祐徳神社前バス停)までの間の参道には門前商店街が軒を並べ、その北端には3000台が駐車できる無料駐車場がある。錦波川東の駐車場脇には神社が所蔵する美術工芸品や鎧・刀・鹿島錦など郷土の資料を展示した祐徳博物館が設置されている。

文化財
県重要文化財
・命婦社
・刀
・古文書

交通
佐賀駅前の佐賀駅バスセンターまたは肥前鹿島駅前の鹿島バスセンターより祐徳バス祐徳神社行き乗車(所要時間は佐賀駅バスセンターから約1時間、鹿島バスセンターから約10分)。特に、年末年始(12月31日の深夜24時1月1日(元日)の午前0時前後より)は百貫橋(杵島郡白石町と鹿島市の境)から初詣客の車で渋滞している事がある。

道の駅厳木と佐用姫像  唐津市厳木町牧瀬 ( 佐賀県 )

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道の駅厳木と佐用姫像  唐津市厳木町牧瀬

多久市西部の山間地船山から県道322号により唐津市厳木へ下った。唐津市観光協会HPによる説明は、次のとおり。

■長者原、厳木
松浦佐用姫、生誕伝承の地 
〜長者原(ちょうじゃばる)〜
肥前風土記」によれば、大伴狭手彦が朝鮮出兵の準備中に滞在したのが篠原村とされ、そこで狭手彦は身の回りの世話をした長者の娘、佐用姫に心ひかれたといわれています。松浦佐用姫祈念碑が立つ長者原は、現在も「篠原」の地名が残っている事から松浦佐用姫、生誕の地といわれています。唐津市とお隣の多久市の市境にあり、近くを通る総延長約2100kmの九州を一周する自然探勝歩道「九州自然歩道」を、自然に浸りながらゆったりのんびりと散策するのもおすすめです。

高さ14mの佐用姫像が出迎えてくれる道の駅
〜厳木(きゅうらぎ)・風のふるさと館〜
道の駅「厳木・風のふるさと館」は、一般道路のサービスエリアとして休憩のためのパーキングエリアの他、お茶やゆずをはじめ安くて新鮮な野菜や山の幸、地元の食材を使った手作り饅頭など、厳木の特産品が豊富に揃っています。高さ14mの白亜の佐用姫像は、台座を中心に15分間で1回転します。地元では、道の駅付近を走行中に、回る佐用姫像の向きでその日の占いをする人もいるそうです。

船山の石垣  多久市西多久町板屋 ( 佐賀県 )

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船山の石垣  多久市西多久町板屋

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。
多久市の西部。県道25号線の西部小前交差点から県道322号により船山集落へ上がる。八幡岳県立公園八幡岳峠への案内標識の道へ少し入ると、この防風石垣があった。
地元識者に聞くと、もともとは自然石の石垣だったが、伊万里への市道改修の際(年代不明)、現在の切石によって築き直されたと言う。

船山の石垣 ふなやま
多久市 石垣 江戸期? 市教委 防風石垣

妙覚寺の石階段  多久市南多久町下多久 ( 佐賀県 )

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妙覚寺の石階段  多久市南多久町下多久

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。
多久聖廟入口となる「市民病院前」交差点から県道25号線を小城の方へ向う。南部小学校先のJA多久グリーンセンター前からまっすぐ山手へ上がった桐野集落に寺はある。古びた仁王門が迎える。

妙覚寺の石階段 みょうかく
多久市 妙覚寺・参道 石階段 長約50m 江戸期? 市教委 保存状態良好 1 C

本ブログ次も参照。  https://misakimichi.com/archives/910
妙覚寺HPによる寺の縁起は、次のとおり

桐野山最尊院妙覚寺は今を去る一二五〇年程前、天平年間僧正行基によって天下安全の勅願所として開創された。その後聖武、桓武、平城の三帝より相継いで勅を稟け「帝祚鞏固」、国家安全の祈願所となり末寺百二十坊を数えるようになった。降って天正元年(四百年余前)火災にあい焼失したが時の多久邑主龍造寺長信によって寺領五十意志を附與せられて再興、いらい邑主の武運長久の祈願所として栄え寛文年間には観音堂、護摩堂、鐘桜、仁王門、客殿、茶室等七堂伽藍相整い隆盛を極め京都竹151内門跡の末寺となる。更に降って明治維新の廃仏毀釈の法難に遭遇し、加うるに堂十四年山火事により類焼し全山悉く烏有に帰し、古文書什器等殆んど焼失したが旧民家を移転改修して庫裡としその一部を本堂に代用していたが明治三十年観音堂を建立し昭和八年十月本堂を再建、同三十四年観音堂を改修、同四十四年五月庫裡を改築、仁王門を補修して今日に至っている。因みに胎金両部曼茶羅は県立博物館の調査により鎌倉時代の中末期の作と判ぜられ昭和五十三年同五十四年の二ケ年に亙り、これを京都の博物館の専門家の手によって修復され、県重要文化財に指定される見込にて、但し県費によって修復されし、代償として二十ケ年博物館に保管の契約を締結した。

多久聖廟  多久市多久 ( 佐賀県 )

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多久聖廟  多久市多久

孔子の里│多久聖廟HPによる説明は、次のとおり。ほか、境内の石橋、名木。

多久聖廟  TAKU The Temple of Confucius

多久聖廟は、宝永5年(1708)多久茂文が孔子像を安置し、領民に「敬」の心を培わせるために建てた孔子廟です。 現存する聖廟としては足利学校(栃木県)、閑谷学校(岡山県)に次ぐ古い建物です。
建築様式は、禅宗様仏堂形式と呼ばれる我が国の代表的な建築様式ですが、彫刻や文様で中国的な雰囲気を出しています。現在は、国指定重要文化財として大切に保全されています。

末広橋(中修寺橋)  武雄市東川登町永野 ( 佐賀県 )

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末広橋(中修寺橋)  武雄市東川登町永野

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。
国道35号武雄町上西山の谷口眼科先から渕の尾ダムへ左折する。ダム先の東川登町永野大山路公民館の老松神社横に、末広橋(中修寺橋)が移設・復元されてある。

末広橋(中修寺橋) すえひろ
武雄市 老松神社<長崎街道/大山路川> 石桁橋 長4.8m(2G),幅2.9m 享保年間(1716-36)以降 市教委/WEB 河川改修によりH8移設・復元/階段は移設時 長崎街道(武雄廻り)に架かっていた橋/橋面石梁を直接横桁で支える一般的な形式 3 C

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」佐賀県の石橋によるデータは、次のとおり。

№3,125  末広橋
武雄市東川登町大字永野 大山路
橋長:4.8m  橋幅:2.9m  桁9列
2径間桁橋

末広橋(旧中修寺橋)復元工事
記念碑
碑文
「江戸時代(1603〜1876)に首都の江戸から長崎に通じる長崎街道が当地の大山路部落を通っていた。その唯一の史跡がこの末広橋である。
長崎街道は小倉から長崎まで五十七里、三十三宿の道程である。
享保二年(1717)までは、江北町、橋町、嬉野町、彼杵を通り長崎に行くコースが一番利用者が多い本かいどうであったが享保二年からは、江北町、北方町、武雄町、大山路、嬉野町、彼杵を通って長崎というコースが本街道となったのである。当時唯一の開港地の長崎に向けて、長崎から江戸に向けての往来者は計り知れない。
我が大山路の住民は、時には街道のロマンにひたり、時には歴史をつくった先人に想いを馳せるよすがとして、この橋を復元建立したのである。
平成八年十一月吉日
特別寄贈者 一金壱百万円也
石川又一殿」

塔の原橋  武雄市武雄町武雄 ( 佐賀県 )

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塔の原橋  武雄市武雄町武雄

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。
国道35号武雄町上西山の谷口眼科先から渕の尾ダムの方へ左折する。すぐ渡る橋の下流に塔の原橋が見える。武雄市上水道事務所の脇。

塔の原橋 とうのはる
武雄市 一般道<長崎街道>/武雄川 石桁橋 長7.0m(4G),幅3.5m 享保年間(1716-36)以降 市教委/WEB 現役の道路橋/低いC高欄/護床敷石もよく残る 長崎街道(武雄廻り)に架かっていた橋/橋面石梁を直接横桁で支える一般的な形式 2 B

HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」佐賀県の石橋によるデータは、次のとおり。

№3,126  塔の原橋
武雄市武雄町大字武雄
橋長:7.0m  橋幅:3.5m  桁10列
4径間桁橋
長崎街道の中で、塚崎(武雄)を通って内田(東川登)に続く道沿い、現在の上西山渕の尾に武雄川に架かる。現役の4径間桁橋です。

水堂安福寺の石階段  佐賀県白石町堤 ( 佐賀県 )

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水堂安福寺の石階段  佐賀県白石町堤

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。
国道207号肥前竜王から大町への県道214号に入り、途中から武雄市への県道268号に入る。安福寺本堂から車で3分の上部に水堂安福寺がある。

水堂安福寺の石階段 すいどうあんぷく
(杵島)白石町 安福寺・旧参道 石階段 長約360m 江戸期? 町教委 保存状態良好(使われていない) 自然石を粗く積んだ長い石階段 1 C

次は水堂安福寺HPから。佐賀新聞平成10年8月7日有明抄よりの記事。

白石町須古の「水堂さん」(安福寺)はお盆を目前ににぎわいを増す。初盆を迎える家族らが仏前に供える霊水を求めてやってくるからだ。ここは白石平野を見下ろす杵島山の中腹にあるわき水が管から流れ出ている小さなお堂は本堂に隣接する。イチョウやクスなどの大木がつくる木陰に、入れ物を手にした順番待ちの列ができる。容器は昔は一升瓶、今は軽くて割れないペットボトルだ。
平安時代、病気に苦しむ高倉天皇の夢の中に観音様が現れる。安福寺の霊水をというお告げに、それを取り寄せて飲んだら治ったという由来がある。参拝者は新仏や先祖の供養に霊水を受けるほか、霊水は腐ることがないと重宝がられている。出水が始まる5月は鹿島地区、7月盆の前は佐世保、有田地区、8月盆の前は白石平野一帯と参拝者に流れがあるのも往時のにぎわいぶりを伝えている。今は茶やコーヒーに最適とミネラルウォーターとしての人気がある霊水信仰は水不足に苦しむ地方にみられるという説がある。
白石平野は有明海が干陸化してできた。水道が普及するまでは飲み水は地下水に頼り、井戸でくみ上げた。日照りが続くと井戸の水は枯れたり、塩辛くなったりした混じり気のない真水に飢えた住民は山のわき水を敬い、霊的なものを感じたというのだ。水は生命の源という切実な思いが込められている。お堂の壁からちょろちょろと流れ出てくる出水はその思いを象徴しているようだ。それにしても今は水をぜいたくに使い過ぎている。