妙覚寺の石階段  多久市南多久町下多久 ( 佐賀県 )

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

妙覚寺の石階段  多久市南多久町下多久

サイト「近世以前の土木・産業遺産」佐賀県リストによるデータは、次のとおり。
多久聖廟入口となる「市民病院前」交差点から県道25号線を小城の方へ向う。南部小学校先のJA多久グリーンセンター前からまっすぐ山手へ上がった桐野集落に寺はある。古びた仁王門が迎える。

妙覚寺の石階段 みょうかく
多久市 妙覚寺・参道 石階段 長約50m 江戸期? 市教委 保存状態良好 1 C

本ブログ次も参照。  https://misakimichi.com/archives/910
妙覚寺HPによる寺の縁起は、次のとおり

桐野山最尊院妙覚寺は今を去る一二五〇年程前、天平年間僧正行基によって天下安全の勅願所として開創された。その後聖武、桓武、平城の三帝より相継いで勅を稟け「帝祚鞏固」、国家安全の祈願所となり末寺百二十坊を数えるようになった。降って天正元年(四百年余前)火災にあい焼失したが時の多久邑主龍造寺長信によって寺領五十意志を附與せられて再興、いらい邑主の武運長久の祈願所として栄え寛文年間には観音堂、護摩堂、鐘桜、仁王門、客殿、茶室等七堂伽藍相整い隆盛を極め京都竹151内門跡の末寺となる。更に降って明治維新の廃仏毀釈の法難に遭遇し、加うるに堂十四年山火事により類焼し全山悉く烏有に帰し、古文書什器等殆んど焼失したが旧民家を移転改修して庫裡としその一部を本堂に代用していたが明治三十年観音堂を建立し昭和八年十月本堂を再建、同三十四年観音堂を改修、同四十四年五月庫裡を改築、仁王門を補修して今日に至っている。因みに胎金両部曼茶羅は県立博物館の調査により鎌倉時代の中末期の作と判ぜられ昭和五十三年同五十四年の二ケ年に亙り、これを京都の博物館の専門家の手によって修復され、県重要文化財に指定される見込にて、但し県費によって修復されし、代償として二十ケ年博物館に保管の契約を締結した。