長崎県の土木遺産・市水道史施設」カテゴリーアーカイブ

立山役所専用の狭田井水源と狭田水樋土管  長崎市水道資料館に展示 ( 長崎県 )

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立山役所専用の狭田井水源と狭田水樋土管  長崎市水道資料館に展示

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストのデータは、次のとおり。長崎市田中町卸団地内の東長崎浄水場3階に「長崎市水道資料館」があり、狭田水樋土管を倉田水樋の木管や支管用土管とともに展示している。
この土管は約37年ほど前、立山公園入口から昔の道を広げて車道を造った際、古い土管が出土したという。
本ブログ次も参照。  立山役所の専用水源 狭田井と椎木泉 長崎市西山1丁目 (倉田水樋は別項)
https://misakimichi.com/archives/1233

狭田井 せばた
長崎市 <立山役所専用水樋?> 湧水井 延宝2(1674) WEB(みさき道人)/長崎市水道九十年の歩みp7 保存状態良好 長崎奉行・牛込忠左衛門が、上記の「倉田水樋」を完成させた回船問屋(水樋役兼)・倉田次郎右衛門吉重に命じて造らせた立山役所(上記参照)の専用水樋(延宝2、長1420m)の水源?/水源は背畠(狭田)山とされるが、現存する「狭田井」との関連がどの程度正しいのかは不明 1 C

立山役所専用水樋の土管 たてやま
長崎市 長崎市水道資料館<立山役所への給水施設> 土管(上水道) 寛政8(1796)以降? WEB(みさき道人)/長崎市水道九十年の歩みp7/館内展示解説 長崎市水道資料館に展示/当初は竹樋だったが、いつの時点からか土管が使われるようになった(ここでは、寛政8に竹樋から土管に布設替えされたとの説を採択) 長崎奉行・牛込忠左衛門が、上記の「倉田水樋」を完成させた回船問屋(水樋役兼)・倉田次郎右衛門吉重に命じて造らせた立山役所(上記参照)の専用水樋(延宝2、長1420m)/水源は背畠山/享保2(1717)には椿原の水源から長1400mの水樋を引く拡張工事が倉田源次兵衛常政により施工/宝暦11(1761)には長600mの支樋、文化7(1810)には長730mの水樋、万延元(1860)には長710mの水樋が完成 4 A

丹羽漢吉氏編「長崎市水道九十年の歩み」長崎市水道局昭和57年刊の特集7頁による説明は、次のとおり。

倉田水立山水系  立山役所専用水樋

立山役所(奉行官宅)は、倉田水樋が完成した延宝元年(1673)に、外浦町にあった奉行所内東西両屋敷の内、東屋敷が分離移転したものであるが、標高の関係があって、倉田水樋の水は引けなかった。
そこで翌延宝2年(1674)奉行牛込忠左衛門は倉田次郎右衛門に命じ、立山役所専用水樋を架設させた。
次郎右衛門は西山郷背畑(狭田)山に水源を求め、水道樋(延長約1,420mという)をもって、立山役所に水を引いた。しわゆる倉田水立山水系とでも呼ぶべきものの始まりである。
これによって次郎右衛門は、水樋役に任命され、本五島町乙名(寛文11年1671任命)とを兼ねることとなった。
一説に、狭田水を立山役所に引いたのは寛政8年(1796)とし、井戸所有者に年銀700目を給したという。
次いで、享保2年(1717)水樋役倉田(4代)源次兵衛常政は、奉行石河土佐守の命により西山郷椿原の水源から、水樋(約1,400mという)をもって、立山役所へ水を引いた。倉田水立山水系の第1次拡張事業である。…

(2015年6月30日 追 記)
入江氏から教示いただいた。国立公文書館所蔵「肥之前州長崎図(ひのぜんしゅうながさきず)」森幸安が寛延から宝暦(1748-63)にかけて書写、収集した地図類の、長崎奉行所岩原御目附屋敷の上のところに、後方に「せばた山」とあり、井戸の名は書かれていないが、「此水長崎第一ノ水トス 龍ノ口」と書かれているようなので、絵図を参考に追加する。

倉田水樋の木管・支管用土管  長崎市水道資料館に展示 ( 長崎県 )

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倉田水樋の木管・支管用土管  長崎市水道資料館に展示

サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストのデータは、次のとおり。長崎市田中町卸団地内の東長崎浄水場3階に「長崎市水道資料館」があり、出土した倉田水樋の木管や支管用土管を展示している。
本ブログ次も参照。  倉田水樋水源跡  長崎市伊良林1丁目  (立山役所水樋狭田井は別項)
https://misakimichi.com/archives/1202

倉田水樋の木管 くらた
長崎市 長崎市水道資料館<長崎開港旧町への給水幹線施設> 木管(上水道) 延宝元(1673) WEB(みさき道人)/長崎市水道九十年の歩みp4-6 長崎市水道資料館に展示/明治24(1891)に本河内水道が完成し自然消滅→銭屋川の堰・揚水のための水車などは一切残っていない/展示されている木管は年代不明(木管の寿命は長くないので、後世の更新時のものの可能性あり) 寛文の大火後に、回船問屋・倉田次郎右衛門吉重が生活用水+消火用水を兼ねた水樋の建設に着手(寛文7)→私財だけでは工事費が足らず、宅地3ヶ所、回送船3隻を売却し、さらに長崎奉行所から銀10貫目を拝借(要・返済)して延宝元に完成(寛文11には商人でありながら水樋役に任命)/水源は銭屋川の伏流水/2本の幹線路と多数の支管から構成(火災の際に、火災現場に多量の消火用水を供給できるよう木製の「堰子」が支管の分岐点毎に設置)/水の恩恵に与った50余ヶ町の人々が感謝を込めて「倉田水」と名付けた/江戸初期の町民による大規模上水は他に例がない 4 A

倉田水樋の支管用土管 くらた
長崎市 長崎市水道資料館<長崎開港旧町への給水支管施設> 土管(上水道) 寛政8(1796)以降?? WEB(みさき道人)/館内展示解説 長崎市水道資料館に展示/木管からの変更時期・規模ともに不明 上記の「倉田水樋の木管」の支管部分を土管に更新したもの 3 C

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

倉田水樋
倉田水樋(くらたすいひ)は、江戸時代に長崎に水を供給した水道。

水道敷設の経緯
この水道は、本五島町の乙名である倉田次郎右衛門が私費を投じて創設したものである。
長崎の町は元々水源に乏しく、生活用水や非常時の消火用水の不足が問題になっていた。そして、寛文3年(1663年)の大火の際に水不足を痛感した次郎右衛門は、長崎のための水道を造る事を決意。寛文7年(1667年)、許可を得て中島川の上流の現・伊良林1丁目付近の銭屋川を水源とする水道の敷設工事に着手した。
この水道工事は市内36町に水樋を引き送水するというもので、多額の工費が必要となり、次郎右衛門が私財のほとんどを売却しても足りなかったため長崎奉行も白銀300枚の資金援助をした。
水道が完成したのは延宝元年(1673年)の事であった。奉行所では水樋係を新設し、その任を倉田氏に世襲させた。以後、明治24年(1891年)に日本初の上水用ダムである本河内高部ダムが完成するまで、倉田水樋は200年余りにわたって長崎の住民に水を供給し続けた。

水樋
工事はパイプである木樋作りから始まった。松や檜の丸太を幹の縦方向に約3分の1切り離し、残りの部分を幹沿いに丸くくり抜く。これに初めに切り取った部分をかぶせてパイプとし、この外に杉皮や桧皮を巻いて、丸太のくり抜き木樋とした。後には板製の箱型木樋も用いられた。
木樋は中島川沿い左岸の八幡町−銅座町、右岸の大井手町−築町に通じる木樋を2幹線とし、町のほぼ中心部に当たる38ヶ所に埋設された。水は町の所々にある溜枡(貯水槽)に流れ、さらに下手に向かって配水された。この溜枡から市民は水を汲む事が出来、また溜枡には塞弁(そくべん)という板がつけられ、必要に応じて一定方向に水量を調節する事が出来るようになっていた。

参考文献
・『長崎 歴史の旅』 外山幹夫著 朝日新聞社 ISBN 4-02-259511-6
・『長崎県大百科事典』 長崎新聞社
・『長崎県の地名 日本歴史地名大系43』 平凡社

小ヶ倉水源池の洪水吐トンネル  長崎市上戸町4丁目

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小ヶ倉水源池の洪水吐トンネル  長崎市上戸町4丁目

長崎市南部の戸町岳の麓、鹿尾川水系鹿尾川にある「小ヶ倉水源池」は、大正15年(1926)完成した。粗石コンクリート重力式ダムで、表面に御影石が張られている重厚な堤体。
完成当時は、日本で堤体が一番高い水道用ダムだった。土木学会の「日本の近代土木遺産〜現存する重要な土木構造物2000選」に選ばれている。
参 照  https://misakimichi.com/archives/1196

ほとんどのダムは堰堤や脇に、洪水の流入に対しダムと貯水池の安全を確保するため、「洪水吐」(こうずいばき)が設けられているが、小ヶ倉水源池は、本来の堰堤とは別のところにも、地形をうまく利用したもう1つの洪水吐トンネルが設けられている。珍しいダムと思われる。

別のところとは、ダム周辺地図のとおり、B地点のダム岸に設けられた洪水吐。尾根下にトンネルや水路を掘って反対側斜面の谷へ水を流す。そうすると湾曲した鹿尾川とまた合流する。もちろん、最初にダムが完成した当時からあったものではない。

昭和57年(1982)7月、未曾有な長崎大水害にダム下周辺の住宅地も見舞われた。治水と新たな水道用水確保のため、下流に昭和62年(1987)「鹿尾ダム」が造られた。
この場所の「洪水吐」は、鹿尾川が大水害に遭った上戸町や新戸町の住宅地を流れるため、ここを避けて直接、鹿尾ダムの上部に流すことによって、きれいな上水道水が鹿尾ダムも得られる。

鹿尾ダムは、長崎県が洪水調整やかんがい用水、水道用水供給を目的として建設した多目的ダム。昭和62年(1987)5月に完成した。
鹿尾ダムにある現地説明板が、「小ヶ倉水源池の洪水吐トンネル」を次のとおり説明していた。

鹿尾川総合開発事業の概要

鹿尾川総合開発事業は、上流にある既設の小ヶ倉ダムに洪水調節容量を確保し、洪水調節を行うため洪水吐トンネルを設置して鹿尾ダムと一帯となって、洪水調節、都市用水の供給及び不特定用水の補給等を目的とするものです。
洪 水 調 節
小ヶ倉ダム地点においては、計画高水流量毎秒110㎥のうち毎秒40㎥の洪水調節を行い、鹿尾ダム地点においては、計画高水流量毎秒270㎥のうち毎秒60㎥の洪水調節を行って、それぞれダム地点下流の水害を防除します。
流水の正常な機能の維持
小ヶ倉ダム及び、鹿尾ダム地点下流の鹿尾川沿岸の維持用水の補給を行う等、流水の正常な機能の維持と増進をはかります。
上水道用水
長崎市に対し、鹿尾ダム地点において上水道用水として1日当たり約7,600㎥の取水を行います。

浅藻隧道他厳原町内の県道トンネル群  対馬市厳原町

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浅藻隧道他厳原町内の県道トンネル群  対馬市厳原町

対馬下島を回る県道24号線(巌原〜豆酘〜美津島線)。この南端となる厳原町安神から浅藻間の山間部に「浅藻隧道」「安神隧道」「久和隧道」がある。
3つのトンネルは、陸軍が軍事目的により昭和13〜17年代に相次いで建設したもの。技術の高さと文化の薫りをとどめ、現在も幹線県道のトンネルとして供用されている。

土木学会編「日本の近代土木遺産(現存する重要な土木構造物2000選)」の中より、九州での河川、道路を主とする公共的な土木施設を紹介した社団法人九州建設弘済会HP「土木遺産 in九州」長崎県の中の説明は次のとおり。

浅藻隧道他厳原町内の県道トンネル群 〔トンネル〕  対馬市

所在地・完成年等
●所在地:長崎県対馬市 下県 巌原町  県道・巌原〜豆酘〜美津島線
●完成年:【浅藻隧道】1938年(昭和13年) 【安神隧道】1939年(昭和14年)
【久和隧道】1942年(昭和17年)
●設計者:不明
●施工者:不明
●管理者:長崎県
●文化財指定等:

施設の形式・諸元
【浅藻隧道】 ●延長:204.0m、●幅:4.5m
【安神隧道】 ●延長:226.2m、●幅:4.5m
【久和隧道】 ●延長:266.0m、●幅:4.5m
●形式:

遺産の説明(社会的背景・歴史的・文化的価値など)
浅藻隧道、安神(あがみ)隧道、そして久和隧道の三つのトンネルは、軍事目的として陸軍が対馬に建設したもので、軍事施設(主に砲台)の建設や物資の運搬に利用されました。対馬は、国境の島として古くから国防の最前線でした。このことから明治、大正、昭和の戦前にかけて、軍は対馬の要塞化を進めていきましたが、この歴史の流れの中で建設されたトンネルです。今では主要地方道として県の管理下にありますが、戦前は、軍の機密事項として公にされていなかったといわれています。
トンネルの坑口は、「笠石に大きくて粗なデンティル風模型のついた統一的なデザイン」であり、一見して優雅、端麗な印象を受けます。当時は、付近の住民らをかり出して行った陸軍の直営工事であったはずですが、なお文化の薫りを留めた設計施工がなされているところに、当時の土木技術者の意気を見た思いがします。
対馬市役所からのおよその距離は、安神(あがみ)隧道まで11.3km、久和隧道までさらに5.9km、浅藻隧道までさらに3.7km。ほぼ21kmの行程です。

交通アクセス  島外との交通手段は、対馬空港からの航空機、比田勝・厳原からフェリー、高速船が運航。

大村線の煉瓦トンネル群  東彼杵郡東彼杵町ほか

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大村線の煉瓦トンネル群  東彼杵郡東彼杵町ほか

大村湾沿いに走る諫早ー佐世保早岐間のJR大村線。明治中期の煉瓦トンネルが原型をよくとどめて残っている。
彼杵駅からハウステンボス駅間がよく見られるから、国道205号線から近くに寄る。写真は順に、彼杵トンネル、川棚(三越)トンネル・宮田(宮津?)トンネル・南風崎トンネル。新谷トンネルは近寄れない。後はハウステンボスの橋下と、千綿トンネルもついでに。

土木学会編「日本の近代土木遺産(現存する重要な土木構造物2000選)」の中より、九州での河川、道路を主とする公共的な土木施設を紹介した社団法人九州建設弘済会HP「土木遺産 in九州」長崎県の中の説明は次のとおり。

大村線の煉瓦トンネル群(彼杵トンネル・川棚トンネル・宮田トンネル他) 〔トンネル〕

所在地・完成年等
●所在地:長崎県東彼杵郡東彼杵町ほか
●完成年:1898年(明治31年)
●設計者:不明
●施工者:不明
●管理者:不明
●文化財指定等:

施設の形式・諸元
●延長:
彼杵:423.0m 川棚;334.5m 新谷;219.4m 宮村;103.6m 南風崎;183.6m
●形式:煉瓦トンネル(煉瓦+石ポータル)

遺産の説明(社会的背景・歴史的・文化的価値など)
大村線の煉瓦トンネル群は、明治31年に九州鉄道長崎線の鉄道トンネルとして完成しました。長崎県の大村湾沿いを走る現在のJR九州大村線は、昭和9年まで、佐世保市早岐から大村を通り諫早市を結ぶ旧国鉄の長崎本線の一部として使われていました。
石橋台や石ポータルの煉瓦アーチが現存しており、明治中期の煉瓦トンネルとして原型をよくとどめて残っている貴重な土木遺産です。

交通アクセス  JR東彼杵駅から1.5km、東そのぎICから2.5km

山の田(貯水池)堰堤、溢流路  佐世保市桜木町

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山の田(貯水池)堰堤、溢流路  佐世保市桜木町

佐世保市街の国道204号線を瀬戸越の方へ向い、西海学園高の手前、春日町交差点から右に入ると、住宅地奥の山手に山の田貯水池と浄水場がある。
HP「ポンコツ写真機 佐世保/山の田水源地は貯水率100%でこうなったぁ…」記事によると、上流すぐダム流れ込みに両岸を石垣で組んだ滝があることを今、写真で知った。ここは行きもれ。

土木学会編「日本の近代土木遺産(現存する重要な土木構造物2000選)」の中より、九州での河川、道路を主とする公共的な土木施設を紹介した社団法人九州建設弘済会HP「土木遺産 in九州」長崎県の中の説明は次のとおり。

山の田(貯水池)堰堤、溢流路  佐世保市佐世保川 〔堰堤〕

所在地・完成年等
●所在地:長崎県佐世保市 佐世保川
●完成年:1908年(明治41年)
●設計者:不明
●施工者:不明
●管理者:佐世保水道局
●文化財指定等:選奨土木遺産

施設の形式・諸元
●高さ:24.5m
●延長:310.0m 
●10段以上のカスケード
●形式:アースダム

遺産の説明(社会的背景・歴史的・文化的価値など)
山の田堰堤・溢流路は、日露戦争直後、佐世保市の海軍施設の増強に伴い、水道施設の拡張が必要となり建設された堰堤と流路で、明治41年に完成しています。以来、数回の拡張工事を経て、様々な施設が設けられています。
特に、存在そのものが珍しい砂倉庫や、浮彫を多用した装飾的な(旧)量水池上屋、ゴシック風の第2配水池入口など、これらの構造物は明治期、大正期の建物の様式を残しており、意匠的な工夫が見られます。これらは、佐世保市の水需要を支えてきた施設群であり、貴重な遺産であることは言うまでもありませんが、その施設群の一部が今なお現役で活躍していることに賞賛を送りたいと思います。(出典・参考 「九州の近代土木遺産」国土交通省九州地方整備局ホームページ)

交通アクセス  西九州自動車道 佐世保みなとICから車で約10分

立山役所の専用水源 狭田井と椎木泉  長崎市西山1丁目

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立山役所の専用水源 狭田井と椎木泉  長崎市西山1丁目

「長崎古今集覧」などに紹介された長崎の主な名水水源が、現存しているのか、いないのか調査した記録が、「長崎水道百年史」長崎市水道局1992年刊30〜32頁にある。
この中から、立山役所の専用水源として使われた、2つの水源を取り上げてみる。

背畠泉(狭畠泉)  井の側に古樹の桜あり因て桜水ともいふ此水は清冷にして甘美也(長崎市西山1丁目ー現存)
この水は、立山奉行所専用の水源として1674年(延宝2)水樋支配役倉田次郎右衛門が奉行牛込忠左衛門の命により立山役所まで1,420mの水樋(竹樋)を布設した。井の所有者には、年銀700匁を使用料として支給された。1796年(寛政8)には、竹樋から土管に布設替えされた。
椎  木  泉   妙見社の上にあり往古瓊々杵尊此地に降遊ましませし時これを汲んで用に供せしといふ味殊に清冷にして茶を煮るに最佳なり傍に椎の木あり枝葉扶疎たり因て此名を得たり(長崎市西山1丁目ー現存)

また、丹羽漢吉著「長崎おもしろ草第二巻 史談切り抜き帳」長崎文献社昭和52年刊の「水は軽いほど上等 昔から長崎の飲み水苦労ばなし」の中、141頁の記述。

…西山方面を見ると、…また、桜井というのもある。傍に桜の老樹が美事に栄えていたから桜井と呼ばれたが別名、狭田(せばた)井ともいった。この水は寛政8年(1796)、ここから約1,400メートルの土管をひいて、立山役所の専用水道となったから、一般人は使えなかった。この桜井については長崎名勝図絵は記載していない。奉行所専用であったからであろう。
それから、西山妙見社の近くに椎の木泉(みず)というのがあった。天孫瓊々杵尊が崇嶽(たかだけ 今の金比羅山上宮)降遊のみぎり、汲んで用いられた、という、味がきわめて佳良、かつ清冷な水であつたため文化7年(1810)、ここから約730mほどの掛樋をひいて、これまた立山役所の専用水となった。この椎木泉は長崎名勝図絵はその名を記し、奉行所専用とは書いていない。それ以前に執筆されたのであろう。…

銭屋川(中島川)を水源とした倉田水樋は、標高の関係から立山役所へは引けなかった。このため立山役所専用水樋が必要となり、倉田水立山水系とでも呼ぶべきものが設置された。その後は、西山郷椿原の水源から引くなど変遷や拡張はあっている。
「椎木泉」は、西山妙見神社へ行くと本殿の右手に手水場があり、山手から水が引かれている。神社が設置した説明板があって、湧水が奉行所の水に使われたことを説明しているので、すぐわかる。

さて、一方の当初設置された桜井こと「背畠泉(狭畠泉)」である。水道百年史に井戸の現存写真があるが、場所は「西山1丁目」としか説明していない。水道局へ尋ねても場所を知る人がもういなかった。
原爆犠牲者慰霊世界平和祈念式典の「献水」に水を汲んでいる立山公園右上の谷の水場を見に行った。写真の井戸とは違う。
(後日、市原爆調査課へ尋ねてわかったことは、ここは「長崎古今集覧」に「立山の後にあり清水也冬夏水の涸るる事なし」と記された「験剤泉」である)

西山3丁目の長崎楽会中尾氏へ聞いてみた。
貴重な昭和12年4月21日付新聞記事の写しを、中尾氏が持っていた。中尾氏はしかし、どうしてこの記事を持っているのか覚えもなく、自分で現地の井戸を確認したことがない。さっそく出かけて調べてくれた。

金比羅山神社への参道は、立山グランドのところに一の鳥居があり、立山からが本道である。あと1つ、上西山から狭田の谷を上がる金比羅山裏道(近道)がある。
「背畠泉」の井戸は、この裏道の参道沿いにある。バス通りを行くなら、立山公園への登り口からすぐ右手の狭い車道に入る。横へ奥まで進むとこの谷に小さな橋があり、これから小川沿いの石段を50mほど登る。家では右方4軒目、石村宅手前の下の段となる畑に、目指す井戸がある。

塩ビ管を結わえた蓋で覆い、井戸は良く保存されている。この辺りは金比羅山から伏流水が多く湧き出ていたのであろう、昔は田が作られていた。「狭田」はそんな字義と考えられる。近くの小川が出合う三角地に今も別の井戸があり、ここに「水神」の石柱が立っていた。
ここまでの途中にも石組みの手の込んだ造りのものを数箇所見た。「狭田井」前の小橋は、下を覗くと桁石橋であった。

現地の昔は、車道小さな橋下の西山1丁目自治会長、田浦稔氏が詳しい。30年ほど前、立山公園入口から昔の道を広げてここまで車道を造った際、古い土管が見つかった。立山役所への水樋土管の一部とわかり、井戸畑の所有者松本氏から長崎市水道局へ寄贈した。現在、長崎市田中町卸団地内の東長崎浄水場3階にある長崎水道資料館に展示されている。
田浦会長は、金星観測の煉瓦観測台は前から知っており原口先生を案内している。展望台下に柱状節理の「鉄砲石」があるとのことで、中尾氏はすぐ調べに行っている。

市に確かめると、「西山1丁目485番地」は、平成7年2月住居表示変更により「西山1丁目32番22号」へ、「せばた」の表記はいろいろあるが、正式な字名としては「瀬畑口」である。小さな橋がある車道上が「瀬畑」の区域らしい。(この項は、一般的な表記「狭田井」をタイトルにした)
HP「名水大全長崎県」によると、「狭田井  長崎市面山?   名水百選候補  井戸」と項目だけ載り、詳細は出てこない。
さるく説明板など設置して、存在を広く知らせてよい史跡と思われる。
後の方写真2枚は、ここが原爆献水用の水場「験剤泉」と思われる。「狭田井」はまだ右方の谷にある井戸で、高さは少し下がる。

中尾氏資料の長崎新聞(今の長崎新聞社とは違う)の昭和12年4月21日記事は次のとおり。本文は旧字体で書かれ、コピーでは字が判読できない。
「長方形の石に文字のあるようだ」とあるが、字らしきものは今見てもまったくわからない。
記事による発見者、長崎観光会山本氏とは、当時の住所長崎市下西山町22番地「山本亀三尾」氏であろう。「柴嶺」とも名のられた。昭和11年頃の長崎観光会史跡めぐりの資料があり、著述者・役員として名前がある。

立山奉行が使用の井戸長崎観光会が発見

長埼市西山町1丁目に西山梅屋敷と称する谷間から金刀比羅宮に登る近道が出来ているが、その六合目位の所に昔は桜の大木がありて土堤が築かれたケ処に清水をこんこんと噴出する井戸が長崎観光会山本氏によって発見された。
この井戸は土管を通じて諏方神社に送り、更に之を奉行所にの供給したものであると言われている。今は桜樹も土堤もなく、畑中に井戸ばかり残されてこの付近一般の飲料に使用されて居るが、今の所有者は西山町1丁目485番地(字瀬畑)松本密太郎である。
因に此の井戸には祈念碑があったものか目下井戸側に使用されし長方形の石に文字のあとあるも字体判明しない。

なお、長崎歴史文化博物館の一部復元された長崎奉行所立山役所に、井戸があったようなので、後日訪ねた。井戸は2箇所にあり、説明板のとおり4の場所に発掘され、敷地内の他の井戸の石も一部使い復元されたのが、最後の写真である。、

倉田水樋水源と水神社跡  長崎市伊良林1丁目

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倉田水樋水源と水神社跡  長崎市伊良林1丁目

立山役所の専用水樋水源であった金比羅山裏道の「狭田井」俗にいう桜井の井戸と、西山妙見社近くの「椎の木泉」を見る前に、倉田水樋水源と水神社跡をもう少し詳しくふれてみる。
長崎市伊良林1丁目の「倉田水樋水源跡」記念碑と「長崎水道百年史」による説明は、次を参照。立山役所は標高の関係から、倉田水樋は引けなかった。
https://misakimichi.com/archives/1202

このときは、若宮稲荷神社境域の川まで暗渠を遡り、そこの写真を載せたが、「倉田水樋水源跡」記念碑が建つ場所は、中島川と合流するところ。現在はやや広い駐車場となり、駐車場奥の路地を隔てた住家の庭先に、古い石柱や石積みを見て写真は撮っておいた。
水神社は銭屋橋近くであったが、民家が密集してきて移転している。丹羽漢吉氏の次の話を読むと、ここあたりがかつてあった水神社跡のはずれになるのではないだろうか。

大正年間の倉田水樋水源「銭屋川」(中島川)の古写真は、「長崎市水道九十年の歩み」5頁から、水樋支管は同101頁の掲載写真から。長崎水道資料館は現在、矢上浄水場4階にある。
倉田水樋の祖、次郎右衛門は銭屋川の伏流水に目を付け、川の中に堰を築き、井筒で汲み上げたところ、堰を越えるような勢いで、水が吹き上がり、これを近くの八幡町地上に引き上げることに成功した。この水車は「倉田車」と呼ばれて名物となった。

ここの「水神社」と八幡町「水神湯」という風呂屋の話はおもしろい。昭和52年の刊本だから、この当時まで「水神湯」はあった。この頃の地元を知る長崎楽会中尾氏へ確かめると、八幡町通りの中にあり、もう「八幡湯」としか言わなかったそうである。
丹羽漢吉著「長崎おもしろ草第二巻 史談切り抜き帳」長崎文献社昭和52年刊の34頁の話は次のとおり。

後の写真は、大正9年に本河内水源池下へ移転、現存している水神神社。宮司は本に登場する渋江家。霊石の「かっぱ石」も一緒に運ばれ、大鳥居は寺町「幣振り坂」のいわれを伴った諏訪神社一の鳥居を移設したものである。

きれいな川に戻してくれ! カッパと水神さんの公害防止運動

八幡町に水神湯というお風呂屋さんがある。薬湯の、きれいな公衆浴場で遠くからもわざわざ湯治に来る客があるそうだ。この水神湯の名の起こりは昔、近くに水神社を祀っていたかららしい。
水神社(大正9年、本河内水源池下に移転、現存)は、はじめ炉粕町の日本銀行支店の並び、諏訪神社寄りのところにあった。元文4年(1739)八幡町に移り、水難守護の霊験きわめてあらたかで、海路安全を願う唐人はもとより阿蘭陀人までも年々財貨を寄贈して厚く尊信したといわれる。…

浦上ダムの岩屋川補水工事  長崎市岩屋町

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浦上ダムの岩屋川補水工事  長崎市岩屋町

浦上ダムには、岩屋川からも補水している。取水口は、長崎工業高校近く。道の尾交差点から入った市道滑石町岩屋町線の谷間を跨ぐ大きな「岩塔橋」の下である。導水管で岩屋中学校横をくぐらせる。出口はJR道の尾駅南の踏切りのところ。「上道の尾橋」の脇にコンクリート暗渠の出口があった。浦上浄水場で聞いたので間違いないだろう。

岩屋川の取水口「岩塔橋」の下から、長崎工業高校横の「かりそこ橋」まで約50mほど、岩屋川沿いにきれいに造った導水路が見られる。先は道路の下となるだろう。
「かりそこ橋」も一見アーチ石橋風で、このあたりの景観となる。
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「長崎水道百年史」長崎市水道局1992年刊344頁による説明は次のとおり。これは「1週間で工事が完成」とあり、1964年(昭和39)11月当時、緊急補水した工事しかふれていない。
現在、岩屋川の取水施設や導水路は立派なものになっており、後の整備工事をいつしたのか、記録を探すが年表など見ても特に記してないようなのでわからない。

第9章 水とのたたかい  第12節 岩屋川補水工事

1週間で工事が完成
戦後における長崎市の水事情にとって1964年(昭和39)からの6年間は、まさに苦難の時期といえる。特に浦上水系は戦災復興後の給水の需要に配水量が追いつかず常時ピンチの事態が続いていた。1964年(昭和39)11月は「2日に6時間」という最悪の事態であった。
長崎市渇水対策本部は冬場にかけてのピンチを切り抜けるため緊急対策として岩屋川上流をせき止めて長さ372mを200mmの管で緊急補水し、岩屋中学校横を通って浦上水源池へ1日1,000㎥導水する計画を立てた。11月7日に着工、同月11日に完成し翌12日から補水を開始した。…

浦上ダムの川平導水路及び導水トンネル  長崎市川平町

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浦上ダムの川平導水路及び導水トンネル  長崎市川平町

日本は昭和初期頃から軍国主義的な方向へ向い、この影響は長崎にも大きく及んだ。造船を始め軍需関係の工場が多くなり、工業用水の確保と人口増加による給水の対応が急務となった。
第3回拡張事業(昭和16年9月〜昭和20年2月)により完成したのが、「浦上ダム」である。当初は家野郷二郷橋付近に建設する計画もあったが、水質が良く集水面積が大きい浦上川支流の現地点の場所にダムが建設された。

浦上ダムの場所は、滑石峠に源を発する滑石川の下流域大井手川。西浦上小学校前で川平方面から来た浦上川本流と合流する。
従って、浦上川本流の水は川平郷に取水堰を設け、導水路及び導水トンネルによって浦上ダムに導かれることとなり、ダム建設と同時にこの工事は施工された。
ダム下には「浦上浄水場」ができた。配水池は地形と防空的関係から地下に造られ、日本最初のトンネル式配水池となったが、資材と労力不足により未完成となった(鹿尾配水池は完成)。

取水堰は、川平町市営住宅先の浦上川本流にある。導水路は同住宅の裏手をまっすぐに通って、けやき台進入道路の下に導水トンネル入口がある。隧道区間は860m。
導水トンネル出口はダム堰堤先のバス停「浦上水源地公園」の所らしい。ここの公園下なのか、湖面にあるのか、見ることはできなかった。

浦上ダムは貯水量増加のため、1958年(昭和33)に堰堤が1m嵩上げされた。三組川内にも取水施設が造られた。
「長崎水道百年史」長崎市水道局1992年刊242頁による説明は次のとおり。

第7章 戦時下の水道  第3節 第3回拡張事業
工事方法
今次計画の第3回拡張事業工事概要を表示すれば次の如し
浦上川水系
水  源  本流導水路 (隧道860m、開渠300m) 支流は直接流入
貯水池  容量1,620,000㎥
堰  堤  混凝土造重力式  堤頂長95m  堤高 河床上17.5m