倉田水樋水源と水神社跡 長崎市伊良林1丁目
立山役所の専用水樋水源であった金比羅山裏道の「狭田井」俗にいう桜井の井戸と、西山妙見社近くの「椎の木泉」を見る前に、倉田水樋水源と水神社跡をもう少し詳しくふれてみる。
長崎市伊良林1丁目の「倉田水樋水源跡」記念碑と「長崎水道百年史」による説明は、次を参照。立山役所は標高の関係から、倉田水樋は引けなかった。
https://misakimichi.com/archives/1202
このときは、若宮稲荷神社境域の川まで暗渠を遡り、そこの写真を載せたが、「倉田水樋水源跡」記念碑が建つ場所は、中島川と合流するところ。現在はやや広い駐車場となり、駐車場奥の路地を隔てた住家の庭先に、古い石柱や石積みを見て写真は撮っておいた。
水神社は銭屋橋近くであったが、民家が密集してきて移転している。丹羽漢吉氏の次の話を読むと、ここあたりがかつてあった水神社跡のはずれになるのではないだろうか。
大正年間の倉田水樋水源「銭屋川」(中島川)の古写真は、「長崎市水道九十年の歩み」5頁から、水樋支管は同101頁の掲載写真から。長崎水道資料館は現在、矢上浄水場4階にある。
倉田水樋の祖、次郎右衛門は銭屋川の伏流水に目を付け、川の中に堰を築き、井筒で汲み上げたところ、堰を越えるような勢いで、水が吹き上がり、これを近くの八幡町地上に引き上げることに成功した。この水車は「倉田車」と呼ばれて名物となった。
ここの「水神社」と八幡町「水神湯」という風呂屋の話はおもしろい。昭和52年の刊本だから、この当時まで「水神湯」はあった。この頃の地元を知る長崎楽会中尾氏へ確かめると、八幡町通りの中にあり、もう「八幡湯」としか言わなかったそうである。
丹羽漢吉著「長崎おもしろ草第二巻 史談切り抜き帳」長崎文献社昭和52年刊の34頁の話は次のとおり。
後の写真は、大正9年に本河内水源池下へ移転、現存している水神神社。宮司は本に登場する渋江家。霊石の「かっぱ石」も一緒に運ばれ、大鳥居は寺町「幣振り坂」のいわれを伴った諏訪神社一の鳥居を移設したものである。
きれいな川に戻してくれ! カッパと水神さんの公害防止運動
八幡町に水神湯というお風呂屋さんがある。薬湯の、きれいな公衆浴場で遠くからもわざわざ湯治に来る客があるそうだ。この水神湯の名の起こりは昔、近くに水神社を祀っていたかららしい。
水神社(大正9年、本河内水源池下に移転、現存)は、はじめ炉粕町の日本銀行支店の並び、諏訪神社寄りのところにあった。元文4年(1739)八幡町に移り、水難守護の霊験きわめてあらたかで、海路安全を願う唐人はもとより阿蘭陀人までも年々財貨を寄贈して厚く尊信したといわれる。…