月別アーカイブ: 2014年9月

岩渕上の隧道  肝付町新富神之市

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

岩渕上の隧道  肝付町新富神之市

肝付町HPの「町指定文化財」による説明は、次のとおり。

岩渕上の隧道(昭和59年8月23日指定)

肝付町新富神之市、二階堂屋敷の西側を流れる用水路に隧道があります。
江戸時代初期、米作りの振興増産が奨励され、第19代島津光久(みつひさ)の命により、治水工事、新田開発、地籍などの農政に力が注がれました。
高山郷の地頭に宮之城島津家第4代図書久通(ずしよひさみち)が任命され、高山用水路や用水池を完成させ、新富、野崎の両村にわたり、高2000石の開田を成し遂げました。工事は、寛文元年(1661年)に起工、寛文
11年(1671年)に完成しました。

完成までにおよそ10年の歳月を要した大工事で、永山井手の取入れ口から池之園に至る約10キロメートルの予定地には、ところどころに堅い岩盤があり、工事は困難を極めたといいます。
第一次産業が盛んな肝付町にとって、その基礎を築いた工事であったと言っても過言ではありません。
岩渕上の随道の近くに「高山新溝記」(寛文11年建立)の石碑があります。

関連リンク:
湛水院の供養塔(平成22年3月16日町指定)  (宮之城島津家第4代図書久通の供養塔)

近くにある「高山新溝記」(寛文11年建立)の石碑は、本ブログ次を参照。
https://misakimichi.com/archives/4234

内之浦宇宙空間観測所(2 宇宙科学資料館分)  肝付町南方

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

イメージ 22

イメージ 23

イメージ 24

イメージ 25

内之浦宇宙空間観測所(2 宇宙科学資料館分)  肝付町南方

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。(2)は、主な施設の「宇宙科学資料館」展示品を掲げる。

内之浦宇宙空間観測所

内之浦宇宙空間観測所(うちのうらうちゅうくうかんかんそくしょ、Uchinoura Space Center 、略称USC)は、日本の宇宙空間観測施設・ロケット打ち上げ施設である。世界でも珍しい山地に立つロケット発射場である。
2007年にDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選ばれた。

主な概要
内之浦宇宙空間観測所は、宇宙航空研究開発機構(JAXA)の施設の一つで、科学観測用衛星の打ち上げと追跡・管制を行っている。日本国内のロケット打ち上げ施設としては種子島宇宙センターと並ぶ存在である。立地条件が、市街地から離れ、物資輸送が便利で、東側が開け、国内で地表の自転速度が速い地域ということで、種子島とともに選ばれた。

前身は文部省宇宙科学研究所(ISAS)付属の鹿児島宇宙空間観測所で、JAXA統合後に現在の名称に改められた。秋田ロケット実験場に続く日本で2番目のロケット打ち上げ施設として1962年に起工され、1963年12月9日に開所された。旧名称の英略はKSCでケネディ宇宙センターと同じであった。しかし、命名はこちらの方が先であるという経緯もあり、かつては元祖KSCを名乗っていた。

日本最初の人工衛星である「おおすみ」(内之浦のある大隅半島にちなんで名づけられた)の打ち上げなど、ISASが独自に開発した固体燃料ロケットであるカッパ、ラムダ、ミューなどを用いての宇宙観測や技術試験、天文観測衛星・惑星探査機の打ち上げ、また、それらの追跡・管制を行っている。

内之浦では大型ロケットの打ち上げとしては世界的に珍しい傾斜発射を行うことを特徴としていた。これは、ロケットを早く海上に放出することで、万一事故が発生した場合の被害を少なくするためである。この傾斜発射台はイプシロンロケットでは不要な為、通常の垂直発射台に改造された。

主なロケット打ち上げ実績
・カッパロケット – K-8, K-9M, K-10 他 全100機以上
・ラムダロケット – L-2, L-3, L-4S, 他 全25機
・ミューロケット – M-4S, M-3SII, M-V 他 全32機
・イプシロンロケット – 1機
・観測ロケット等の多種多様な小型ロケット 全200機以上
計約400機が打ち上げられている。

主な施設
・Mセンター(ミューセンター)
・KSセンター
・打ち上げ管制センター
・レーダーセンター
・テレメーターセンター
・10メートルアンテナ
・20メートルアンテナ
・34メートルアンテナ
・宇宙科学資料館
ロケットや科学衛星、科学機器のモデルなどが展示されている。開館時間 08:30〜16:30、原則として年中無休、入館料無料。

所在地
鹿児島県肝属郡肝付町南方1791-13  三州自動車内之浦バス停からタクシーで約5分

内之浦宇宙空間観測所(1)  肝付町南方

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

内之浦宇宙空間観測所(1)  肝付町南方

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

内之浦宇宙空間観測所

内之浦宇宙空間観測所(うちのうらうちゅうくうかんかんそくしょ、Uchinoura Space Center 、略称USC)は、日本の宇宙空間観測施設・ロケット打ち上げ施設である。世界でも珍しい山地に立つロケット発射場である。
2007年にDOCOMOMO JAPAN選定 日本におけるモダン・ムーブメントの建築に選ばれた。

主な概要
内之浦宇宙空間観測所は、宇宙航空研究開発機構(JAXA)の施設の一つで、科学観測用衛星の打ち上げと追跡・管制を行っている。日本国内のロケット打ち上げ施設としては種子島宇宙センターと並ぶ存在である。立地条件が、市街地から離れ、物資輸送が便利で、東側が開け、国内で地表の自転速度が速い地域ということで、種子島とともに選ばれた。

前身は文部省宇宙科学研究所(ISAS)付属の鹿児島宇宙空間観測所で、JAXA統合後に現在の名称に改められた。秋田ロケット実験場に続く日本で2番目のロケット打ち上げ施設として1962年に起工され、1963年12月9日に開所された。旧名称の英略はKSCでケネディ宇宙センターと同じであった。しかし、命名はこちらの方が先であるという経緯もあり、かつては元祖KSCを名乗っていた。

日本最初の人工衛星である「おおすみ」(内之浦のある大隅半島にちなんで名づけられた)の打ち上げなど、ISASが独自に開発した固体燃料ロケットであるカッパ、ラムダ、ミューなどを用いての宇宙観測や技術試験、天文観測衛星・惑星探査機の打ち上げ、また、それらの追跡・管制を行っている。

内之浦では大型ロケットの打ち上げとしては世界的に珍しい傾斜発射を行うことを特徴としていた。これは、ロケットを早く海上に放出することで、万一事故が発生した場合の被害を少なくするためである。この傾斜発射台はイプシロンロケットでは不要な為、通常の垂直発射台に改造された。

主なロケット打ち上げ実績
・カッパロケット – K-8, K-9M, K-10 他 全100機以上
・ラムダロケット – L-2, L-3, L-4S, 他 全25機
・ミューロケット – M-4S, M-3SII, M-V 他 全32機
・イプシロンロケット – 1機
・観測ロケット等の多種多様な小型ロケット 全200機以上
計約400機が打ち上げられている。

主な施設
・Mセンター(ミューセンター)
ミューロケットの発射台地(打ち上げ施設)で、ロケット組立、打ち上げ管制、発射装置(発射塔とランチャー)などの機能を持つ。固体燃料ロケットとしては世界最大級のM-Vロケットの打ち上げに使用されていた。M-Vロケット廃止に伴いイプシロンロケット打ち上げ用に改修が行われた。2001年までは2基目のラムダ発射台が設置されており、ロケットセンターがKSセンターに改修された後のラムダロケットの打ち上げに使用されていた。
・KSセンター
小型のS-520ロケット、S-310ロケット、MT-135型観測ロケットの発射台地で、ロケット組立、打ち上げ管制のコントロールセンター、ランチャーなどの機能を持つ。ラムダ発射台(国立科学博物館前に展示がある)等の設備を有していたロケットセンターの跡地に建設されたものである。ランチャーは高さ約17mの鉄筋コンクリート製ランチャードームの屋内に設置されている。打ち上げ時には天井が開く仕組みとなっており、ロケットはドーム内で打ち上げ態勢に入り、そのまま打ち上げられる。
・打ち上げ管制センター
内之浦宇宙空間観測所で打ち上げられるロケットの打ち上げ管制を行う施設。最悪の場合の爆破指令もここで行う。ロケットの最終段燃焼終了後、衛星・探査機の管制は宇宙科学研究所(神奈川県相模原市)内の管制センターに引き継がれる。
・レーダーセンター
60cm反射式天体望遠鏡及びシュミットカメラ – 主として、打ち上げた衛星の追跡を行う望遠鏡。
・テレメーターセンター
・10メートルアンテナ
地球周回軌道の科学衛星との交信を行うアンテナ。UHF帯及びS帯に対応している。2010年現在あけぼのの運用のみに使用されている。
・20メートルアンテナ
主に地球周回軌道の科学衛星との交信を行うアンテナ。S帯の送受信及びX帯の受信に対応している。宇宙探査機の電波捕捉用として用いられる場合もある。1989年度に完成した。
・34メートルアンテナ
地球周回軌道の科学衛星及び宇宙探査機との交信を行うアンテナ。S帯及びX帯の送受信に対応し、Ka帯の受信にも対応している(受信装置は未整備)。1998年度に完成した。臼田宇宙空間観測所64mアンテナのバックアップとしても位置づけられている。
・宇宙科学資料館
ロケットや科学衛星、科学機器のモデルなどが展示されている。開館時間 08:30〜16:30、原則として年中無休、入館料無料。

所在地
鹿児島県肝属郡肝付町南方1791-13  三州自動車内之浦バス停からタクシーで約5分

岸良浜と久保田川  肝付町内之浦

イメージ 1

イメージ 2

岸良浜と久保田川  肝付町内之浦

ふるさと元気風ネットによる説明は、次のとおり。私は田代から国道448号を逆に北上、内之浦岸良浜を通って宇宙空間観測所へ向かっている。

岸良の風景 肝付町内之浦

高田の滝 岸良浜 久保田川 湯の谷温泉
自然が豊かな岸良の町は内之浦宇宙空間観測所入り口地点から約8km離れた場所にある。国道448号線を岸良地区に南下し、「女石」「根性の松」を過ぎ、更に進むと国道右手道路沿いに「高田の滝」と書かれた看板が目に付く。周辺にはハイビスカスが赤い花を付け南国の情緒を漂わせている。滝近くの国道沿いから眺める岸良の海岸と砂丘の景色は絶景である。「高田の滝」から少し下り進んだ地点に岸良の海と町がある。岸良は大隅半島の南東部に位置し,三方を大隅山系に囲まれ,東南には太平洋を臨み、美しい自然と温暖な気候に恵まれた風光明媚な地域である。町の中心部を久保田川が流れる。久保田川に沿って県道542号線を進むと「湯ノ谷温泉」があり、近くを流れる久保田川の渓流が美しい。

岸良浜海岸と砂丘
国道448号線を車で南下しながら太平洋を望む。眼下には断崖の絶壁と巨岩・奇岩の織りなす絶景の海岸線が続く。久保田川河口から南側海岸線一帯は一変して白い砂丘が続く。
岸良海岸と久保田川河口。この地点より南側海岸線は美しい白い砂丘が続く。
真夏の岸良の浜は白く輝き、まぶしい。砂浜と海、空の色のコントラストが強烈である。

岸良の浜と国見山系
国道448号線沿いの木々の間から岸良の浜と海を眺める。

花瀬自然公園  錦江町田代川原

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

花瀬自然公園  錦江町田代川原

ふるさと元気風ネットによる説明は、次のとおり。

花瀬自然公園・花瀬公園まつり錦江町(旧田代町)

大隅南部県立自然公園内の花瀬川の川床は、指宿カルデラからの溶結凝灰岩が、幅約100m、距離約2kmにわたってちょうど石畳を敷き詰めたようになっている。そのため、そこを流れる水がさざ波を立てて、まるで白い花が流れているかのような文様を作り出し美しい景観をなす。雄川のこの一帯を花瀬川と呼ぶのは、この美しい景観にちなんでのことだそうだ。清流に沿って遊歩道が整備され、四季折々の景観を楽しむことができる。春は桜・藤の花の名所としても知られ、江戸時代には島津斉彬公も訪れ、景を愛し、曲水の宴を楽しんだ記録が残る。花瀬公園にはキャンプ場、花瀬バンガロー村、花瀬オートキャンプ場、花瀬でんしろう館等の施設があり、公園全体がレクレーション村として整備され、毎年4月の第一日曜日に花瀬公園まつりが盛大に開催される。

石畳の間をぬって流れる花瀬川
バンガロー村の遊歩道上流点には幾段にも連なる絶景の滝があり、清生しい空気を滝と一緒に満喫できる。

花瀬でんしろう館・オートキャンプ場
田代の新名所。車がそのまま横付けできる手軽さが好評で夏は大にぎわい。

花瀬の史跡「お茶亭跡」「花瀬神社」
花瀬は、三国名勝図会にも記されるほどの景勝地で、島津18代久光・二十四代重年・二十八代斉彬も来遊し、14個の釜を湯わかし・煮炊きに利用したとされる。その釜跡が「お茶亭跡」として保存されている。
幕末の頃の花瀬の風景 薩摩藩編集の「三国名勝図会」より
三国名勝図会には「流七町56間 横三十余間」と記してある。ちなみに尺貫法で1町は60間(約109m)、1間は6尺(約1.82m)。

※大隅南部県立自然公園は,南大隅町外之浦から肝付町火崎に至る太平洋に面した海岸部分と,雄川及び花瀬川流域の一部が指定されている。
※注;「でんしろう館」の「でんしろう」は地名の「田代」を「でんしろ」と読めることに由来するそうだ。多目的ホール、パネル展示室、特産品展示販売コーナーなどを備え、地域の交流の拠点になっている。

大泊の風景・佐多岬ふれあいセンター  南大隅町佐多馬籠

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

大泊の風景・佐多岬ふれあいセンター  南大隅町佐多馬籠

ふるさと元気風ネットによる説明は、次のとおり。

大泊の風景・佐多岬ふれあいセンター  南大隅町

大泊は九州本土最南端、佐多岬近くの南大隅町佐多馬籠に位置し、中心地の伊座敷から南へ約14キロメートル。年間平均気温19度の無霜地帯でソテツやヘゴなどの植物が自生する亜熱帯生の気候である。1958年(昭和33年)に県道が開通し、佐多岬へのロードパーク(当時の岩崎産業)の開発が大泊発展の起点となった。大泊港は漁業だけでなく天然の避難港としてもその任をなしている。
かつて国民宿舎だったデラックスな宿舎、佐多岬ふれあいセンター「ホテル佐多岬」が現在も威容を誇り、大泊の海を見下ろしている。館内のロビーには徳富蘇峰が毛筆で書いた徳富蘆花の作品が展示されている。ふれあいセンターの近くには野営キャンプ場や海水浴もあり、海岸砂丘には縄文後期の貝塚が発見されている。

この項は、本ブログ次の記事を参照。今回の鹿児島旅の主な目的。古写真撮影地を調査に行った。
左端の高い山は、2013年4月佐多地区の学校統廃合により閉校となった大泊小学校校歌にもある「つつじヶ丘」という山らしいと考えられたが、現地確認した限り山の形が違う。
指宿や山川港、池田湖(最後の写真)などから見た「開聞岳」でもない。全体の景色からもどこも確証に至らず、この件はまだそのまま保留としたい。

長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 912 海岸の風景(1)
https://misakimichi.com/archives/3108
第2表 長崎大学附属図書館が所蔵する「The Far East」の写真目録の中
通し番号  26  (掲載)年月日  1871.8.16  
欧  名  ODOMIWARRA-NEAR  CAPE  CHICHAKOFF
和  名  大泊村ーチチャコフ岬付近
整理番号  19−28
タイトル  海岸の風景〔不詳〕

(2014年10月21日追記)
後ろ6枚の写真は、南大隅町大泊港を10月18日再び訪ね、先端の岸壁(昔の海岸線あたり)からパノラマ写真風に全景を写した。
前回の写真が主に272.9mの山のある北側を撮影してあり、北西方向が欠けていた。三角の山は「大泊の北西にある107.2mの山だと思うのですが、低すぎますか?」という疑問を受けたので、その山を確認したが、これでもないようである。

佐多岬  南大隅町佐多馬籠

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

佐多岬  南大隅町佐多馬籠

ウィキペディアフリー百科事典による説明は、次のとおり。

佐多岬
佐多岬(さたみさき)は、鹿児島県肝属郡南大隅町佐多馬籠に位置し、大隅海峡に面する岬。北緯30度59分10秒、東経130度39分42秒。大隅半島のみならず、九州本島の最南端にあたる。霧島錦江湾国立公園(旧霧島屋久国立公園)に含まれる。

佐多岬先端部は2012年10月29日まで一帯を管理していた岩崎産業が運営する佐多岬展望公園として入園料を徴収していたが、10月30日付で譲渡され南大隅町の所有となり、無料で入園できるようになった。また、入場時間制限も撤廃され、いつでも訪れることができるようになった[1][2]。佐多岬展望公園には展望台やレストハウスが設置されていたが、老朽化のため撤去された。公園入口前の佐多岬駐車場には九州最南端の公衆電話がある。

地理
岬の北約600 mの所を北緯31度線が通過しており、ニューデリーやカイロと同緯度である。北東から伸びてきた大隅半島が細まり海へと没する地点で、岬の先にもしばらく岩礁が続く。中生代の砂岩や頁岩が互層を成した海食崖が見られる。

岬の東方に枇榔島(びろうじま)が、岬から岩礁を隔てて南方100mに大輪島(おおわじま)が浮かぶ。岬の背後に控える山塊は御崎山あるいは蘇鉄山と呼ばれており山腹に御崎神社がある。また岬の先端からは、天候によっては種子島・馬毛島・屋久島や三島村の島々、薩摩半島南部の開聞岳などを望むことができる。

一帯に群生するソテツは「鹿児島県のソテツ自生地」として国の特別天然記念物に指定されている。他にもハマユウ、ビロウなどの亜熱帯植物が自生する。

歴史
708年(和銅元年)、佐多岬近くに御崎神社が創建された。古くは御崎三所権現と呼ばれており、毎年旧暦の正月20日、2月18日、9月19日に祭礼が行われ周辺から多くの人々を集めていた[3]。

1871年(明治4年)、大輪島に佐多岬燈台が設置された。海抜 60 m、光達21.5海里。初代の建物は、明治初期の日本で多くの灯台を手がけた英国人リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計だったが、太平洋戦争で空襲を受けたため、1950年(昭和25年)に再建された。

1964年(昭和39年)3月16日に、霧島国立公園に錦江湾地域および屋久島地域を加えて霧島屋久国立公園とした際に、佐多岬地域も錦江湾地域に含まれ、国立公園となった。また1970年(昭和45年)7月1日には佐多岬周辺が海浜公園にも指定されている。その後2012年(平成24年)3月16日に屋久島地域が分離したため、霧島錦江湾国立公園となっている[4]。

1963年(昭和38年)に岬の近くまで、地元の岩崎グループが道路を建設し、1964年(昭和39年)から佐多岬ロードパークとして私有の有料道路として供用が開始された[5]。これにより観光開発が進むことになった。…

交通
大隅半島の中心地である鹿屋市から、国道269号・鹿児島県道68号鹿屋吾平佐多線・佐多岬ロードパーク経由で佐多岬駐車場まで自動車で到達できる。佐多岬駐車場から佐多岬先端部の展望台跡までは徒歩で移動する必要がある。なお、公園内の歩道はバリアフリー未対応である。

御 岳  南大隅町辺田

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

御 岳  南大隅町辺田

南大隅情報発信ポータルサイトによる説明は次のとおり。国道269号沿いの台場公園から少し進んだ立神公園から東南上に見えた奇峰。

御 岳
御岳は苙(おろ)集落にあり、標高が500mほどの山で、巌石(げんせき)が高くそびえている。御岳は緑豊かな山から、ぎざぎざした巨石が突き出したような奇峰であり、この山は阿多カルデラの外輪山である。
この岩は「ご神体」(立神ドン)とも呼ばれ、「その上に座ってはいけない、恐ろしい祟りがある」と、昔から信じられてきたという。

御岳の麓にイワサカ(磐境)と呼ばれる神石がある。この石としめ縄で、御岳を(神域、区域)として外界とを仕切っているという説もある。(「佐多岬)(野田千尋者)より)
御岳には小さな神社があり、ここは昔の集落民が雨乞いをした場所である。毎年、遠方からお参りに来る方もいるが、一方で山に入ると祟られると信じている方も多い。
また、その奇峰の崖面の形状が適していたからか、国体のロッククライミング競技が行われたこともある。

台場公園(薩英戦争砲台跡)  南大隅町根占辺田

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

台場公園(薩英戦争砲台跡)  南大隅町根占辺田

南大隅情報発信ポータルサイトによる説明は、次のとおり。

薩英戦争砲台跡
・台場
台場公園(薩英戦争当時の砲台(大砲を設置する為の台座)跡地を展示している公園)は、南大隅役場から国道269号線に沿って佐多方面へ車で約10分の原集落にある。辺田海岸沿いにあり、天侯の良い日は、錦江湾、開聞岳をくっきりと見えることができる。
海岸線に沿って花崗岩の石垣が約60m築かれており、中間に、みかげ石(深成岩の一種)の台座の上に乗ったレプリカの大砲2門と、その説明板がある。その他に、島津第28代当主斉彬が巡検(見回って調べること)の際に使用した手洗鉢(手を洗う水を入れて置く鉢)もある。

この台場(台場公園)は文久2年8月21日(1862年9月14日)生麦事件※の翌年、文久3年4月(1863年5月)に、薩摩藩は、イギリスからの攻撃に備え、原集落に薩軍約400人を集め大砲を拡張構築した。山手には、火薬庫を作り、作業隊の兵士はそこに寝泊まりしていた。
薩摩藩は、台場を薩摩半島南端にも、7ヵ所作っている。南大隅町内には、瀬脇台場(津柱神社の裏側)と上ノ山にも作られた。現在の瀬脇台場は、わずかに面影を残す(根占郷土誌より)

文久3年7月2日(1863年8月15日)鹿児島湾で薩英戦争が始まった。暴風雨の中、同3年7月2日〜4日(1863年8月15日〜17日)の3日間、英国艦隊と薩摩の陸上砲台の間で激しい砲戦が展開された。ここの台場は、イギリス海軍が大隅半島沿いに逃げる場合を想定し建てられたが、この戦争では使用されることはなかった。
約150年前のみかげ石の台座等が現存するのはここだけであり、鹿児島県内の貴重な史跡となっている。この台場は、昭和43年12月10日に町指定文化財に指定されている。

※文久2年8月21日(1862年9月14日)相州生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区)で薩摩藩主島津久光の部下が、大名行列に割り込んできたイギリス商人チャールズ・レノックス・リチャードソンら4人を殺傷した事件。

大浜海浜公園  南大隅町根占

イメージ 1

イメージ 2

大浜海浜公園  南大隅町根占

南大隅町HPの観光情報による説明は、次のとおり。

大浜海浜公園
大浜海浜公園は役場より国道269号線を佐多岬方面へ約8分に位置し、本町の「南隅路青い海青い空整備事業」の一環として台場公園、立神公園に次いで平成4年度に建設されたものです。傾斜地を活用したバンガロー、テントサイト等を設置し、家族そろって「遊んで、泊まって、満喫できる」公園です。この公園は、本町の南西部に位置し、霧島屋久国立公園の一部を占めており、錦江湾に広がる大パノラマは熱い感動を呼びます。