長崎外の古写真考 目録番号: 912 海岸の風景(1)

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長崎外の幕末・明治期古写真考 目録番号: 912 海岸の風景(1)

HP「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。長崎以外の気付いた作品も取り上げる。

目録番号: 912 海岸の風景(1)
〔画像解説〕
場所未詳の海岸の漁村。干潮の海岸に漁船と思われる和船が10艘近く置かれ、中央には砂浜で人が写されている。漁村のほとんどの屋根が藁葺きで、僅かに瓦屋根が混じっている。横浜の近くと思われる

■ 確認結果

目録番号: 912「海岸の風景(1)」は、2010/3/2 記事を参照。次のとおり記していた。
https://misakimichi.com/archives/2252

目録番号: 912「海岸の風景(1)」は、かなり大きな漁村の港で、背後に高い山が写っている。
横浜で発刊された英字新聞「ザ・ファー・イースト」の掲載写真とわかった。九州大学デジタルアーカイブを見ていたら、同じ写真が Vol.2 No.6 1871/8/16 にあった。「指宿付近からの開門岳」と説明している。

新聞掲載写真の下には、「ODOMIWARRA-NEAR  CAPE  CHICHAKOFF」の解説英文がある。「NEAR CAPE」は「近く 岬」だろうか。「ODOMIWARRA」「CHICHAKOFF」がわからない。
「指宿付近からの開門岳」では、手前に池田湖があると景色は似るが、海岸とすると指宿の浜あたりとなり、開門岳から遠くなる。参考のため指宿からの写真を、鹿児島県総合観光サイトから載せた。九州大学に撮影場所の見解があれば、教えていただきたい。

長崎大学のデータベース上では、「横浜の近くと思われる」と解説し、イースト写真との説明はない。しかし最近になって、長崎大学古写真研究会編「古写真研究 第1号」長崎大学附属図書館平成6年発行61頁に、当時、岡林助教授らの次の研究があることを見つけた。

第2表 長崎大学附属図書館が所蔵する「The Far East」の写真目録の中
通し番号  26  (掲載)年月日  1871.8.16  
欧  名  ODOMIWARRA-NEAR  CAPE  CHICHAKOFF
和  名  大泊村ーチチャコフ岬付近
整理番号  19−28
タイトル  海岸の風景〔不詳〕

海岸の風景〔不詳〕としているのが、この目録番号: 912「海岸の風景(1)」の作品である。和名「大泊村ーチチャコフ岬付近」とは、さてどこなのだろうか。
HPで調べると、「風景のなかの歴史①: 生きてりゃいいさ」の記事に次があった。英公使館の通訳官、アーネスト・サトウとともに英極東艦隊の外輪船、アーガスに乗り込み、薩英戦争をすべて目撃した英公使館の医官、ウィリアム・ウィリスの記録のようだ。

業を煮やした英国はニール代理公使に極東艦隊を鹿児島に派遣し、直接、薩摩藩と交渉し、英国側の要求を実現するように命じた。キューパー提督の指揮のもと、艦隊は翌1863(文久3)年8月6日、横浜を出港し、鹿児島へ向かった。燃料を節約するために主に帆走に頼り、横浜から約1000キロを航海し、大隅半島の先端、佐多岬(英国はチチャコフ岬と呼んだ)沖に到着したのは5日後の8月11日午後だった。キューパー提督が率い、ニール英国代理公使などが乗艦する旗艦ユーリアラス、それにパール、パーシューズ、アーガス、コケット、レースホース、ハヴォックの計7隻による当時の大艦隊である。艦隊が佐多岬を回り、山川港を通過して鹿児島湾に入ると、大隅・薩摩半島各地から一斉に烽火が上がり、号砲も放たれた。…

この資料から「ODOMIWARRA-NEAR CAPE CHICHAKOFF」は、目録和名どおりとすると、「チチャコフ岬」は大隈半島先端の「佐多岬」。「大泊村」は佐多岬手前、現在の南大隈町大泊港とわかった。横浜近くはあまり考えられない。イースト写真は掲載が1871.8.16だから、ウィリアム・ウィリス記録時のものではないだろう。

撮影場所を「大泊港」とすると、ブログ「大隈半島 時の風 太郎が行く」により、大泊港背後に似たような姿の山の写真があった。古写真どおり撮影できる場所があるかもしれない。
薩摩半島の「開門岳」とすると、「指宿」温泉あたりからでは遠すぎる。近い「山川港」あたりも考えられる。山とともに砂浜の漁村の解明も必要だろう。
現地調査できないので、長崎大学側または地元で検証をお願いしたい。