江戸期のみさき道 (全 般)」カテゴリーアーカイブ

「岳路みさき道」の道塚は無事だった  3月7日現地確認 ( 長崎県 )

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「岳路みさき道」の道塚は無事だった  3月7日現地確認

長崎市三和地区の蚊焼町岳路付近で現在、一般国道499号(長崎・野母崎線)道路改良工事が各所で行われている。急なカーブが多く、バスなど離合が困難な区間の拡幅工事である。
私たちがこの工事で心配だったのは、岳路海水浴場入口バス停下にある「岳路みさき道」を示す貴重な道塚1本(今魚町建立)の所在である。この区間は第16工区で、昨年8月から本年3月までの工事期間となっている。

そろそろ工事が完成に近づき、きのう夕方、この道塚がどうなっているか、現地確認に行った。上の新国道歩道側からも望めるし、工事関係者に了解をもらい、現地を訪ね写真を写してきた。道塚はまったく移設されてなく、無事だった。
バス停から集落へ下る里道は新しく広い道となるようだか、その折り返しカーブ途中にこれからはなる。
永一尾の山の稜線を行く「みさき道本道」に対し、蚊焼・岳路・黒浜・尻喰坂・以下宿へと続く海岸回りの「岳路みさき道」もあったことを示す貴重な道塚である。長崎市の方には史跡指定と説明板をお願いしたい。

岳路の道塚については、本ブログ次を参照。
岳路回りのみさき道(岳路みさき道) https://misakimichi.com/archives/135?type=folderlist
岳路「みさき道」の踏査と草刈り整備 2013年4月 https://misakimichi.com/archives/3650

「岳路みさき道」の私たちの考察は次のとおり。みさき道歩会研究レポート「江戸期のみさき道 第1集」平成17年発行の81〜82頁に掲載。

H 岳路回りのみさき道(岳路みさき道)

1 なぜ「岳路みさき道」というか
岳路に今魚町の道塚があることから、岳路回りのみさき道のコースがあったことが推定される。蚊焼から永一尾の山の稜線を行きゴルフ場の道塚から高浜へ出るいわゆる「みさき道本道」に対する、海沿いの蚊焼・岳路・黒浜・以下宿の集落を通って、高浜毛首の延命水の手前で本道と合流するもう一つの「みさき道」である。私たちが道を区別したり書きものをするとき、そう呼んでいるだけで、正式な名前でないし認知はされていない。

2 「岳路みさき道」とはどういった道か
蚊焼から先の永一尾の稜線に、道塚が見あたらないのは不思議なことであったが、妙道尼信女墓の所に道塚があったと記憶されている人(蚊焼桑原氏)はおり、徳道とゴルフ場にある道塚を結ぶと、この稜線の道が「みさき道」であったことは間違いない。関寛斎は「長人」を通っている。
しかし、このコースを外れて岳路に1本だけ、しかも同じ今魚町の道塚が離れてある。なぜか。わかったいきさつや詳しいコースは後に述べるが、これは海沿いに岳路を回るもう1本の「みさき道」であった。生活道として集落を結ぶ道がまずあったことは、当然なことである。本道との分岐は蚊焼西大道の道塚であることは往路で説明している。この道は実際歩いて楽なのである。
元禄十四年「肥前全図」に描かれている赤線の道は、この道のようであり、明治の後半期に入り栄上から蚊焼に抜ける道が整備されると、かえってこのコースの道が利用されたと考えられる。長崎—野母間の船便が運航され、外海が荒れたときは蚊焼まではなんとか船で来られたが、後は歩いて家に帰ったという体験談を聞く。

3 岳路の道塚とはどこにあるか
岳路グランドの先にある岳路海水浴場入口バス停留所から、岳路の集落へコンクリート舗装をされた道を100mほど下ると左手に電柱があり、斜面の上5m位のところにある。普段は蔓と棘に覆われわかりにくいが、電柱にプレートがあり踏み跡がある。地元の人はよく知っている。
すぐ上は国道で、左に傾いて立っている。正面「みさき道」左側面「今魚町」。下から見るので「今魚町」が正面に見える。

4 岳路の道塚はどこへ続く道か。「尻喰坂」(しっくいさか)とはどこか
道塚の周りは藪で道から離れた場所にあり、向きがおかしい。これまで発表された資料にあまりこの道塚はふれられず、疑問だった。岳路グランド駐車場の公衆便所上に地蔵祠があり、地蔵を関連づけて町境を登りみさき道の本道に合うほどよい道や、黒浜ダムの右尾根を上がり徳道に出る山道が見つかり、これではないかと一時考えた。しかし遠回りである。
無駄足を踏みながら、地図で以下宿に「尻喰坂」(しっくいさか)なる名前の道があることを知った。岳路から黒浜・以下宿と今の国道は海岸の断崖が続く。海岸は通れなかったはずと思い、この坂に分け入った。立派な街道が残り、以下宿の南の谷を上り高浜毛首の延命水へ道は続いていた。
「尻喰坂」とは、黒浜トンネルの手前から以下宿の老人ホーム「永寿園」先の地蔵堂に抜ける峠越えの坂である。厳密には以下宿側をいい、以下宿から上るのがきつく、その状態を言うという。延命水の地点は、往路において「のもざきの漫歩」の民話が紹介したとおり「野中の一本松」があり、黒浜のこどもたちが高浜の学校へ通うのにいつまでも使われた道であった。

5 岳路の道塚は位置を動いてないか
この道塚は、黒浜方面に行く国道とバス停から岳路集落へ下る細道の中間斜面に立っており、国道の路側、法面(のりめん)と思われるところである。しかも左へ大きく傾いている。国道の工事のとき土砂で流された可能性がある。岳路グランド上の地蔵と下の集落へ下る道ともあまり続かない地点である。なぜこの場所なのか、ずっと考えていた。
わかったのは三和町の字名全図を役場で見せてもらった時である。字名でいえば「岳路首」「葉山」「樫木原」の三つの入り組んだ字の境点であった。字の境が街道や古道であったことが多いのは、平山台上長崎道分れから蚊焼峠間ですでに学習をしていた。やはりこの道塚は動いていないし、字の境がここでは街道だったのである。後で明治地図や蚊焼村図を手に入れ見てみても、この地点であった。
ただし、この推定が通用するのは、あくまで道塚や文献など証拠物があるときと考えている。
この岳路あたりも、字境はみごとに古道である。三和町だけの図しか持たないが、蚊焼から岳路を通り野母崎町の町境まで、次の「岳路みさき道」のコースは、ほとんど字境である。海水浴場入口の次のバス停は「岳路」で浦岡商店がある。この家の裏を街道が通っていたと主人が話したが、正にそのとおりであった。そして先に「東道上」「西道上」とも街道に関係すると思われる字名が出てくる。

6 蚊焼から岳路までの道はどうなるか
岳路の道塚とその先高浜延命水につながる道はわかったが、蚊焼から岳路まではどうなるか。これは、蚊焼西大道の道塚から道塚の指す「みさき道」の左道でなく、分岐の右道を試しに歩いていてほぼわかっていた。畑の中を下りながらいったん晴海台へ行く車道を突っ切り、墓地の脇からまっすぐ下ると蚊焼小学校の正門前に出る。途中に地蔵が多い。
蚊焼の大川沿いに左を行き、蚊焼浄水場先は左に折れる上流でなく、古葛根農地造成工事中の右脇を回って国道を横切り、松永建設に上る横の車道に入る。竹林となり先は畑道が続き、しばらく行くとエホバの証人のところで国道に出る。これが昔の街道である。鯨浜へ回る道や今の国道ではないのである。ここで畑をしていた人は元郵便配達で、自転車で毎日この道を通ったと聞かせてくれた。
後は岳路グランドへそのまま行き、駐車場上の地蔵を越して岳路海水浴場入口バス停に出る。

新春「みさき道」初歩き(岬木場経由)  2016年1月 ( 長崎県 )

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新春「みさき道」初歩き(岬木場経由)  2016年1月

2016年1月2日(土)曇り。新春「みさき道」初歩き(岬木場経由)。参加7人。みさき道歩会の例会。一般参加も可。
三和行政センター前9:35発—蚊焼峠10:40—徳道11;48—ゴルフ場入口 昼食(12;16—12:50)—岬木場サイクリングロード終点13:37—モトクロス場14:02—殿隠山林道横巻き終14:54—遠見山15:22—脇岬観音寺16:13着(徒歩距離 約15km)

みさき道歩会毎年恒例の新春「みさき道」初歩き行事のため、写真説明は省く。殿隠山は登らず、殿隠山林道を横巻きした。遠見山からは堂山峠へ回らず、前脇岬小学校尾根を下った。

「わかる!和華蘭」のわからん  長崎市政への提案と回答 ( 長崎県 )

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「わかる!和華蘭」のわからん  長崎市政への提案と回答

ご意見(要旨) 【「わかる!和華蘭」のわからん】  【2015年06月受信】

新長崎市史の普及版「わかる!和華蘭」が、本年3月発行されています。私の理解不足もありますが、内容でわからんのをお聞きします。
35頁 右下の掲載写真の説明は、「戸町氏の居城・戸屋城跡(上戸町)」とあります。一方、長崎学ハンドブックⅡ「長崎の史跡(南部編)」104頁では「鳥屋城跡」となっています。長崎名勝図絵・長崎日記・大村郷村記など古書で、確かにいろいろな表記がありますが、どれが正しいのかわかりません。「鳥屋城跡」を「戸屋城跡」と変えた理由を市民にわかりやすく説明してください。
80頁 長崎の主な街道図で、なぜ「御崎道」はこのようなルートになるのですか。長崎医学伝習所生だった関寛斎「長崎在学日記」文久元年の紀行や、平凡社「長崎県の地名 日本歴史地理体系43」御崎道の解説、道塚の所在、文久・明治地図などからは、まったく考えられない史実に反した説と思います。
「新長崎市史」は、市民が後世へ伝えるなるべく正確なものにお願いします。市史発刊時すでに指摘し、監修の充実を市政へ提案していました。正誤表も必要と要望していました。それはどうなったのですか。

回 答 【統計課】  【2015年06月25日回答】

「新長崎市史」全4巻及び本年3月に発刊しました「わかる!和華蘭 新長崎市史普及版」については、一部、記載内容に誤りが見つかっており、訂正方法を検討しております。読者の皆さまならびに関係各位にご迷惑をお掛けしておりますことを深くお詫び申し上げます。
今回、ご指摘いただきました箇所につきましては、執筆者等と検証することとしておりますので、ご理解いただきますようお願いいたします。
一人でも多くのかたにご活用いただける市史等を目指してまいりますので、お気づきのところがございましたら、統計課へお知らせいただきますようお願いいたします。

江藤新平、脇岬の御崎観音参詣の記録  明治7年2月

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江藤新平、脇岬の御崎観音参詣の記録  明治7年2月

平幸治氏著「肥前国 深堀の歴史」長崎新聞社刊(新装版)608頁から、次の記録を載せる。
脇岬行きは、明治7年(1874)2月のことである、深堀から小舟で日帰りした。古写真は長崎大学データーベースから上野彦馬撮影の明治6年頃の観音寺。
江藤新平が一時逗留した「渡辺聞櫓の別荘豊睡園」は、深堀陣屋御屋敷跡の一段下、アコウ大木がある先の市有地広場のところにあったと思われるが、まだ確証はない(平氏研究中)。
現在は武家屋敷通りの壊された石塀置き場と、カトリック深堀教会新築工事の現場事務所が建っている。  

…さて、深堀における江藤は深堀家士渡辺聞櫓の別荘豊睡園に泊まったり、小舟で脇岬の御崎観音に参詣したり、数日を悠々と楽しんだ。前掲『江藤南白』(下)には、渡辺元(ママ)の実話として次のようにある。ただし渡辺元は渡辺聞櫓の長男であるから、実話はおそらく元でなく聞櫓自身が語ったものであろう。聞櫓の本拠は深海であったから深堀の居宅は別荘と表現したものと思われる。

二月四日、南白(江藤)先生は、江口村吉、浦川丈高、船田次郎の三人を随へて、予が深堀なる別荘豊睡園に来られた。翌五日は無事滞在で六日の朝小舟にて、肥の岬の観音に遊ばれた。肥の岬は野母半島の突出した、風景絶佳の地である。長崎より海上七里、深堀より四里、此行、南白先生は、一泊掛の積で行かれたが、俄に其日に帰られた(同書416頁)。

寛斎帰路長崎往還道の踏査と草刈り整備  2013年5月

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寛斎帰路長崎往還道の踏査と草刈り整備  2013年5月

2013年5月26日(日)快晴。寛斎帰路長崎往還道の踏査と草刈り整備。参加10人。みさき道歩会の例会だが、新聞により広報し、一般参加行事として実施した。19日が雨のため延期した。
三和行政センター前9:35—西大道道塚10:05—平山台団地上分岐10:40—平山地蔵堂11:35—江川総合運動公園12:30(昼食)13:10—鹿尾川渡り地点13:58—ダイヤランド水準点14:41—現右衛門茶屋跡道塚15:00—二本松神社16:30—大浦石橋電停16:45(徒歩距離 約12km)

「みさき道」の別ルート紹介と草刈り整備は、一般参加行事で4,5月にかけ4回実施中。今回はその第4回目。関寛斎日記の帰路である「長崎往還道」を解明する。
国道499号蚊焼入口先の石段を上がり、「みさき道」を平山台団地上の水道タンクまで戻る。途中に2本の道塚がある。平山台団地上の地点は、重要な場所で、深堀道と長崎道の分岐である。関寛斎日記の記述は次のとおりである。
「夫(蚊焼茶屋)より半里許を行て昨日と道を換ふ。西方は深堀、東方は長崎道なり、八幡山峠を西に見八郎ヵ岳を東に見る」。距離や状景から、平山台団地上の水道タンク地点が分岐に間違いなく、明治地図の県道である。

平山へ下る道はさほど荒れていなく、団地北側の側溝に出る。車道を出入りしながら平山地蔵堂に着き、為石からの「長崎往還道」と合する。「長崎往還道」は、現在の国道499号に沿った道だが、ルートは地図のとおり。道はほとんど残って歩ける。江川総合運動公園で昼食。
午後からは、いつも歩く「みさき道」の逆コース。土井首大山祗神社前の鹿尾川渡り地点の跡を見てダイヤランドへ上がる。最近発見した明治地図の水準点、現右衛門茶屋跡道塚、南佐嘉領藩境石を見学しながら、上戸町の一方通行の所から弁慶岩の方へ登る。二本松神社から大浦石橋電停に下って今回の企画は終了した。
こんな道歩きに関心があり、新しい参加者が熱心に草刈り整備に協力してくれたことは、大きな収穫で感謝したい。

長崎半島東回り「高浜村路」の踏査と草刈り整備  2013年5月

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長崎半島東回り「高浜村路」の踏査と草刈り整備  2013年5月

2013年5月3日(金 憲法記念日)快晴。長崎半島東回り「高浜村路」の踏査と草刈り整備。参加11人。みさき道歩会の例会だが、新聞により広報し、一般参加行事として実施した。
川原公園前バス停9:40—小池上道塚9:57—熊の岳中腹—熊の岳遊歩道入口11:40(昼食)12:15—徳道里程道塚13:07—鶴山14:11—旧町境14:45—サイクリング道出合15:01—黒浜ダム尾根—展望ピーク15:22—黒浜16:40(徒歩距離 約11km)

「みさき道」の別ルート紹介と草刈り整備は、一般参加行事で4,5月にかけ4回実施中。今回はその第3回目。明治道塚が残る「高浜村路」を解明する。
川原村から見た「高浜村路」という意味。熊の岳中腹の旧道を通り徳道まで上がる。長崎半島東回りみさき道の1ルート。その先の二の岳麓を行く道は、野母崎ゴルフ場内となって喪失。脇岬へ向えないので、今回は黒浜へ下る。長崎半島を横断した。

川原大池を見て出発。小池を埋立てた三和記念公園上の高台三叉路に、道塚「東高浜 西脇岬」はあった。現在、三和公民館展示ホール中庭に移設されている。「西脇岬」は前回踏査済み。今回は「東高浜」へ向う。
熊の岳中腹の旧道は、現在の車道左右沿い林間内に良く残っている。道幅も広く快適な歩きができる。熊の岳山頂へは登らず、右方へ進むとやがて「熊の岳遊歩道」の途中に出る。トイレがある駐車場で昼食。

午後はサイクリング道路大カーブまで尾根伝いの道を踏査。戻って徳道の人家裏を行く。これが「高浜村路」で、ゴルフ場管理事務所内の地蔵道塚へ通じる。「みさき道本道」に入り、徳道三叉路の里程道塚に出る。
みさき道の途中から、「鶴山」目指し近道を取る。快晴のため「鶴山」からの展望は相変わらず良い。みさき道へ戻り、旧町境まで行く。岳路方面へ急斜面を下るとサイクリング道路へ出る。

そのまま黒浜ダムの稜線尾根道へ入る。五洋建設の測量杭沿いにアップダウンして行くと、やがて標高157.5m三角点ピークに着く。ここの展望もすばらしい。木立を少し切っている。黒浜まであと2つのピークを越して下る。アンテナ塔へ出ると、黒浜ダム駐車場はすぐ近くである。
今回歩いたどおりでないが、参考のルート地図を2枚載せる。

第4回は、「寛斎帰路長崎往還道」の踏査と草刈り整備。5月19日(日)午前9時30分、三和行政センター前広場に集合。西大道道塚—平山—土井首—茶屋道塚—二本松道塚−大浦石橋まで歩く。距離 約10km。折込鋸・軍手・弁当・雨具持参。雨天のときは、5月26日(日)。

長崎半島東回り「脇岬村路」の踏査と草刈り整備  2013年4月

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長崎半島東回り「脇岬村路」の踏査と草刈り整備  2013年4月

2013年4月21日(日)晴。長崎半島東回り「脇岬村路」の踏査と草刈り整備。参加9人。みさき道歩会の例会だが、新聞により広報し、一般参加行事として実施した。
三和行政センター前9:10—為石9:40—宮崎橋10:25—川原小池上道塚地点10:45—川原木場昼食地点12:00(昼食)12:40—川原木場公民館13:05—生目八幡神社前13:
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「みさき道」の別ルート紹介と草刈り整備は、一般参加行事で4,5月にかけ4回実施の予定。今回はその第2回目。長崎半島東回りのみさき道。明治道塚が残る「脇岬村路」を解明する。
為石大川は兵隊さんの別れを飛び石で渡り右岸を行く。どんどん坂という渕上を巻いて為石へ出る。長崎往還道の起点が為石だった。

川原本町へ丘を越し、住吉神社へ寄る。市指定天然記念物の大楠がある。蛭子崎は手前から山道へ入り、モータレ川(馬渡川のこと。現在の宮崎橋のところ)を渡る。川原小池跡の三和記念公園から上の高台に上がる。現在、三和公民館展示ホール奥の中庭に保存している明治道塚は、ここに建っていた。「東脇岬 西高濱」と刻む。小池上が分岐だった。
池田へ下り途中から山道をたどる。谷間に大きな桁石が散乱している。県道へ上り、すぐ植林地の山腹道へ入って、また県道と出合ったところで昼食。

川原木場の集落内は旧道を進む。木場公民館へ上がると、広場奥に「熊川力士碑」がある。昔からの川原村と脇岬村の村境が熊川。長崎半島一と思われる桁石橋「界橋」が今でも残る。
あとは県道や旧道を伝いながら生目八幡神社前へ上り、野母崎ゴルフ場入口に出る。岬木場集落を通り、サイクリング道路終点で休憩。モトクロス場の風車へ向い、殿隠山の鞍部に着く。
誤解があるが「みさき道」は、ここから殿隠山や遠見山へ向っていない。明治地図に道の連続がない。脇岬へそのまま下るのが楽なのである。

カーブした林道に出入りしながら、直線的に荒れた旧道を下ると、まもなく脇岬や樺島が見えてくる。旧野母崎町取水場へ出るのが正しいのだが、最後に道を間違い思わぬ時間を要した。前回は2回に分けたコースを1日で歩いたから、距離も長かった。観音寺前に着いたのは17:15。
第3回は、長崎半島東回り「高浜村路」の踏査。5月3日(金)午前9時30分、長崎市宮崎町の川原公園前バス停に集合。ルート説明と草刈り整備。黒浜まで約10kmを歩く。折込鋸・弁当持参。無料。申し込み不要。雨天のときは、5日(日)に延期。

長崎医学伝習所生「関 寛斎」の日記  文久元年(1861)

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長崎医学伝習所生「関 寛斎」の日記  文久元年(1861)

長崎医学伝習所生「関 寛斎」は、文久元年(1861)4月3日から4日にかけて、仲間3人で1泊2日の御崎観音に詣でた。
原文を解読している陸別町平成6年発行「陸別町史別巻 史料編補稿」などを参考に、現代文を次に掲げるが、字句についてはまだ疑義がある部分があり、正確なものではない。

北海道足寄郡陸別町関寛斎資料館所蔵
関寛斎「長崎在学日記」脇岬紀行部分の抜粋  文久元年(1861)

(4月)三日 日曜日
昨日より佐々木と長嶺氏を案内として相約して三崎行を催す 〇暁を浸して起て晴る明らんとする時微雨忽ち晴る 朝課を終り行囊を作す 佐々木氏を待つ 然れども来らす 故に彼の旅宿を訪ひ未だ朝餐を喫せすと暫時待つにまた雨す 然れども雨を浸して発途す 濱ノ町に至りて止む 南風殊に温熱すること甚し 十町峠にて襯衣を去り単物一枚になる 此の峠頗る嶮東は崎陽を一望し北は港内の諸嶋を観る 且つ峠に路を隔ること一丁許の処に大なる石突起し 峠を抜くこと二十間許 殆ど人工を奪ふ 〇子ヶ倉の入口にて小憩す 右に笠山ヶ岳あり此より加能峠の麓にして良ゝ登る五六町にして平地あり 望遠鏡を用ゆるに最も佳なり 真下は子ヶ倉港内の小嶋眼前に見へ西南は西海緲々たり 〇加能の下り口は海面に張出し望尤も好し 両岸の砲台 或は隠れ或は顕る 両岸は湾あり 張出あり 〇下りて一湾に出て岸上の危石を渡り一の間路を行く 小渚あり一二小魚あり且つ一の烏賊を見る 同行の人直に入り刀を以て切て得たり 自ら携て午飯の料とす
〇迂路して深堀に出つ 入口の峠あり直に下り深堀に至る 小港あり荷船四五個あり且つ佐賀侯の船数十艘あり 此の処は佐賀の臣深堀某の居なり 戸数百口許 一の家に至り艾餅を喫す 且つ温熱偲忍びざるに由て草鞋をとりて襟を開き汗を去る一快を取る后行厨を開き 且つ鯛一尾を調へ煮て行厨の料とす 共に手取の烏賊を供す味極めて佳
〇午後発途す 二十丁許にして八幡山峠あり 上りの中央にて異船を見る 望遠鏡を用ゆるに竪に赤白青の旗号あり 日午殊に峠ゆへ 炎熱蒸すが如く 汗を以て単物を濡すに至る 三十許にして蚊焼峠の入り口の茶店にて喫水して汗を拭ふ 〇西北は港内にて其の西岸は遥へ絶へ 高野木嶋 マゴメ嶋 硫黄嶋 高嶋 遥に松嶋の瀬戸(大角力・小角力岩礁図があり、「高さ六七間」としている)見ゆる 之れを相撲の瀬と言ふ 〇四郎ヵ嶋 かみの嶋 右二嶋は佐賀公の砲台にして最も勝るの由 〇蚊焼峠の上三十丁許を長人(ながひ)と云ふ 此の処東西狭くして直に左右を見る 東は天草 嶋原あり遥に其の中間より肥後を見る 〇下りて高濱に至る 此の処漁処なり水際の危岩上通る 凡そ二十丁此の処より三さき迄一里なりと則ち堂山峠なり 此の峠此の道路第一の嶮なり 脚疲れ炎熱蒸すが如く困苦言べからず 下りて直に観音堂あり 淸人の書にて海天活佛の額あり 〇三四丁にして脇津に至り蒟蒻屋に二百銅を出して鏡鯛を求め 鮮肉を喫す頗る妙 郷里を出るの后初めて生鮮の肉を食し総州に在るか如きを覺ふ 処々蝉鳴を聞く 七ッ時より時々雨ならんとす夜に入りて大雨

四日 晴
雨止む 然れども北風強し 炎熱なし 客舎を発し 往昔蒙古の船此の処に破変し化石となり 其の木板材帆柱の形を存すと 然れども潮満ちて見る事能はすと只聞くのみ西向して海辺を通る 此の時蒸汽船を見る 望遠鏡を用ゆるに白に丸紅の旗号あり 長崎港を向く 此の疾きこと我一丁許を行きに四五里をはしる 四五丁にして野母に届る 船場に至り訪ふに 北風強きに由て向風故出船なしと 由て只一望のみにて漁家にて喫茶す此の処二百戸許漁士なり 南西に高山あり 四五年前は絶へす 此の頂にて望鏡を用て異船を見しと云し長崎迄一望し且つよく遠方を見殊に景地なりと 〇五ッ半時発足し 堂山の西を通り高濱に出て 八ッ時蚊焼峠にて行厨を喫し 且つ「ゴロタメシ」と唱ふる麦米豌豆の飯を一椀つつ喫す 其の味頗る妙 尚コッパ飯と唱へる飯とゴロタ飯は此邊の常食の由 ゴッパ飯はさつま芋を片切れ乾し 兼□とし飯に加ふるなりと 〇夫より半里許を行て昨日の道を換ふ 西方は深堀東方長崎道なり 八幡山峠を西に見 八郎ヵ岳を東に見る 其の中間と見ふ 八郎ヶ岳九州第八の岳なりと 此邊第一の高山なり 一農家に憩して新茶を喫し味最好なり 高低の山路を経て昨日と道を同し加能峠に子ヶ倉にて少憩す 十町峠にて新茶を求め 家産と土産の料とす 〇黄昏大浦に着し飢あり 三人共に一麺店にて三椀つつを喫し別る 予は直に浴室に至り 浴后高禅寺に帰塾す 復習已に終るの后なり

旅する長崎学「21歴史の道 Ⅳ長崎街道・脇往還ウォーキング」が発刊

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旅する長崎学「21歴史の道 Ⅳ長崎街道・脇往還ウォーキング」が発刊

歴史ガイドブック「旅する長崎」は、長崎県が推進する「歴史発見・発信プロジェクト」から誕生したシリーズ本。「21歴史の道 Ⅳ長崎街道・脇往還ウォーキング」が、最終刊として長崎文献社からこのたび発刊された。
時津街道・諫早街道・茂木街道とともに、「みさき道」がこの本に取り上げられているので、一読をお願いしたい。A5判 並製 フルカラー 定価600円。有名書店で発売。

拙文の江戸期の「みさき道」ウォーキングのすすめは、次のとおり。文は一部直されている。ルート図も少し正確さを欠く地図が掲載されているので、あくまで本会の研究レポート(第1〜3集があり、長崎県立図書館や長崎市立図書館などで借りられる)や、本ブログの地図を正しいものとして利用してもらいたい。

江戸期の「みさき道」ウォーキングのすすめ
—医学生関寛斎日記の推定ルート—

「みさき道」(御崎道)は、長崎市中から長崎半島の南端、脇岬へ至る7里(約28km)の道をいいます。古代から道はありましたが、江戸時代盛んになった“みさき観音参り”の道として、整備されました。道筋に今魚町が建てた「みさき道」など刻む道塚が、今でも12本残っています。脇岬は海上交通の要所でした。「観音寺」(曹洞宗)は、行基が開基したという古い寺です。江戸時代に再建されたお堂にある十一面千手観音立像(国指定重要文化財)や、150枚の天井絵(県指定文化財)は有名で、長崎の町人をはじめ遊女たちからも信仰を集めました。

景勝の地である脇岬や野母には、天明8年(1778)画家・文人の司馬江漢や、文化10年(1813)修験者の野田成高が訪れた日記を残していますが、断片的な記述に過ぎません。最も参考となる文献は、文久元年(1861)4月3日から4日にかけて、仲間3人で脇岬観音寺に詣でた長崎医学伝習所生関寛斎「長崎在学日記」(北海道陸別町関寛斎資料館所蔵)の紀行です。簡潔な文章の中に具体的な地名・距離・時間・方角・状景描写が、当時としては驚くような正確さで記されています。

「関寛斎」は、天保元年(1830)千葉県東金市生まれ。ヤマサ醤油当主の知遇を得、長崎医学伝習所にきたのは30歳の頃です。松本良順の63番目の弟子となり、オランダ人医師ポンペに蘭方医学を学びます。後に阿波徳島藩の典医など勤め、晩年は北海道足寄郡陸別町(阿寒湖近く)に渡り、長男とともに未開の地の開拓にあたり、83歳で亡くなりました。同町の駅には開拓の祖として資料館があります(同町HPから)。司馬遼太郎の小説「胡蝶の夢」の主な登場人物です。「みさき道」は、故市川森一先生の小説「蝶々さん」にも登場します。ぜひ読んでください。

今から153年前、「関寛斎」という人がおり日記を残したことによって、「みさき道」が解明できることとなりました。彼の記述を私たちなりに実地で検証しながら、現存する道塚12本を手がかりに、平成17年に調査した結果がこの推定ルート図です。 このほか参考にした資料は、①安政・萬延・文久年間の南佐賀領各村地図及び街道図 ②国土地理院旧版地図(明治34年測図) ③旧町字図・地番図 ④真鳥喜三郎著「ふるさと地名の研究」などです。

「みさき道」のルートは、さまざま諸説が言われます。旧「三和町郷土誌」や最新の「長崎市史 近世編」も読んで感じるのは、時代を混同し推測をもって語られ、史実にない道を説明しています。 私たちが最も知りたいのは、観音参りが盛んだった江戸時代の頃の、道塚が残るほんとうの「みさき道」ではないでしょうか。諸説があるなら、なおさら正しい古道のルートをお互い研究しましょう。私たちにも間違いがありますから、疑問の点は遠慮なく指摘してください。

道は時代とともに変ります。特に長崎半島は海岸埋め立てと消波ブロックによって、直線的な効率のよい新しい国道や県道が完成しつつあります。しかし、自然環境が厳しかった頃の半島の先人の苦労を偲び、ときにはこの古道「みさき道」を歩いていただければと思います。 推定ルート図では、現在荒れて歩けない区間がどうしてもあります。適当に迂回して先へ進み、古道発見を楽しむウォーキングをしてください。長崎学さるく行事でも数回実施しました。
「長崎半島東回りの道」も考えられ、研究レポートやブログにおいて具体的な考察をしていますから、参考としてください。

(注) 関寛斎「長崎在学日記」(北海道陸別町同資料館所蔵)の原文写しは、「みさき道歩会」の研究レポートに掲載しています。
資料名:江戸期の「みさき道」—医学生関寛斎日記の推定ルート
長崎歴史文化博物館の郷土資料閲覧室にも蔵書があります。

昭和7年に脇岬を訪ねた種田山頭火の句

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昭和7年に脇岬を訪ねた種田山頭火の句

旅する長崎学「21歴史の道 Ⅳ長崎街道・脇往還ウォーキング」が長崎文献社から発行され、きょうの新聞で新刊案内があっている。
「みさき道」街道図に重大な印刷間違いがあり、全冊刷り直されるので、しばらく購入は待っていただきたい。

この本の54,55頁「古刹観音寺の魅力」の中に、青線のとおり種田山頭火の1句のみが簡単に紹介されている。脇岬を訪ねた山頭火「行乞記」の詳しくは、次のとおりであるので、「みさき道」に関係し改めて紹介したい。

種田山頭火は、昭和7年(1932)2月7日に脇岬を海路で訪ねた。「行乞記」の記録は次のとおり。
二月七日 (追加)晴、肥ノ岬(脇岬)へ、発動船、徒歩。……
第二十六番の札所の観音寺へ拝登、堂塔は悪くないが、情景はよろしくない、自然はうつくしいが人間が醜いのだ、今日の記は別に書く、今日の句としては、
・明けてくる山の灯の消えてゆく
・大海を汲みあげては洗ふ(船中)
・まへにうしろに海見える草で寝そべる
・岩にならんでおべんたうののこりをひろげる

山頭火の4句の独特な解釈は、タッちゃんへお願いしたので、次のブログ記事を参照。
http://blogs.yahoo.co.jp/turbobf1516/53831246.html
脇岬の海岸風景は、「大正十一年頃のガラス写真」にあった。この写真は脇岬に間違いないだろう。

二月七日(日)
第二十六番の札所の観音寺へ拝登、堂塔は悪くないが、情景はよろしくない、自然はうつくしいが人間が醜いのだ、・・・
この日は旧暦の正月2日に当たり、しかも日曜日。前日に初日の出を拝んだ人たちや、「みさき道」の終着点である観音寺へ初詣に出かける人たち、晴着を着た近隣の人たちでにぎやかだったと思う。

晴着については、次の日に現在の諫早市飯盛町でも見ているから、そうだと想像できる。
山頭火は一応、曹洞宗の修行僧。ふだんはくたくたの法衣を着ている。
時には匂っていたことがあるかもしれない(笑)。ハレの日に、そんな山頭火に対して、汚い言葉が投げつけられたのだろう。それが引用文の一節になったとおもう。

ボクの文庫本には、この日の記述に芭蕉の句が書き込んである:
・薦を着て 誰人います 花のはる   元禄3年(其袋「そのふくろ」)に初出。
(こもをきて たれびといます はなのはる)

「乞食のかっこうをしていても、どんな立派な人かもわからないよね〜」の意味。
西行の撰集抄をふまえて膳所(ぜぜ)で詠んだ歳旦句。京・大津の俳人たちからは揶揄された。
これ以降、京・大津の俳人たちとは距離をおき、蕉風が変化していく。

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この日の山頭火の句は4つ:
・明けてくる 山の灯の 消えてゆく
(夜が明けて、長崎市街の街灯が消えていくんだね。なかなかいい句かも)
・大海を 汲みあげては 洗ふ(船中)
(おそらく、松ヶ枝ふ頭あたりから船に乗り込んで、現在の野母漁港まで行った)
・まへにうしろに 海見える 草で寝そべる
(野母漁港から脇岬にある観音寺まで歩いた。おそらく最短コースを取ったはず。でもそれは本来の「みさき道」とはズレている。途中、道塚があるが崖下の道は、少しでも波が高くなれば洗われて通れない状態だったと思われる。無事通過して、画像の海水浴場あたりでホッと一息したのではないだろうか。ひょっとしたら、このときに怪我・出血でもして、そのままの格好で拝登したから、まわりからののしられたのかも知れない)
・岩にならんで おべんたうの のこりをひろげる
(場所は特定できないが、十返花は同行していたはず、それと敦之も可能性あり)