江戸期のみさき道 (全 般)」カテゴリーアーカイブ

岳路「みさき道」の踏査と草刈り整備  2013年4月

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岳路「みさき道」の踏査と草刈り整備  2013年4月

2013年4月7日(日)小雨のち曇り。岳路「みさき道」の踏査と草刈り整備。参加7人。みさき道歩会の例会だが、新聞により広報し、一般参加行事として実施した。
三和行政センター前9:20—蚊焼西大道道塚9:43—蚊焼—岳路道塚10:54—黒浜八幡神社12:10(昼食)12:35—尻喰坂峠13:00—以下宿地蔵堂13:34—みさき道本道出合14:25—延命水14:37—高浜15:00(徒歩距離 約10km)

「みさき道」の別ルート紹介と草刈り整備は、一般参加行事で4,5月にかけ4回実施の予定。今回はその第1回。きのうの春の大嵐が集合時間の9時まで小雨まじりで残ったが、午後にはおさまるとの天気予報で実施した
悪天のため参加者は少なかったが、精鋭揃い。草刈り整備ははかどった。岳路「みさき道」は、長一尾の山の稜線を行く「みさき道」本道に対し、長崎半島西回りの「みさき道」。岳路を経由する。なぜか1本だけ岳路に「みさき道」道塚があるため、本会が解明したルート。

蚊焼西大道道塚がその分岐。蚊焼に下り蚊焼大川沿いに進む。国道へ出て松長工業奥へ行き、エホバの家前に出るのが旧道である。岳路海水浴場入口バス停下の電柱のところに岳路道塚はある。電話局アンテナ塔の丘を越し、黒浜ダム手前駐車場へ出て、下の川に下る。黒浜集落内を通り、八幡神社で昼食。

黒浜トンネル手前から、尻喰坂(しっくいさか)の登りにかかる。峠に本会のプレートがある。以下宿の地蔵堂まで急な谷間を下る。砂防ダムの方へ行き、右方の旧道を登ると農道へ出る。三叉路は真ん中へ進む。イバラの原が切れるところから右石垣下を探すと旧道の踏跡があり、竹林先の沢に小さな桁石橋が残る。街道の道を示す貴重な石橋である。

まもなく野母崎ゴルフ場の方から下ってきた「みさき道」本道と合流する。ここも道塚があって良さそうだが、どうしても見当たらない。しばらく行って先は竹の密生で踏査できないので、車道へ上がる。車道を下って行くとすぐ「延命水」の水場に着く。
高浜まで下り、きょうは強風と時間が遅くなるのでここまでとした。堂山峠まで登り、旧野母崎町焼却場尾根道を行き、水仙の里公園に下るコースは、後日また計画したい。

きょう踏査・整備した第1回岳路「みさき道」コースは、ルート図を参照。歩いてもらうと、道が荒れない。第2回は、長崎半島東回り「脇岬村路」の踏査。4月21日(日)午前9時三和行政センター前集合。雨天のときは、28日(日)。折込鋸など持参。

「みさき道」を歩こう 第5回  2013年2月

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「みさき道」を歩こう 第5回  2013年2月

長崎新聞カルチャーセンター 2012年度後期野外講座 ”「みさき道」を歩こう”。 企画立案 林先生・現地ガイド 江越先生

江戸時代、長崎の人たちは脇岬の観音寺まで七里の道を歩いて、”観音寺詣で”をしました。その道は長崎半島の尾根筋の山間に現在も残っていて、当時の道塚が数本残っています。
観音寺には、唐絵目利きの石崎融恩や出島絵師の川原慶賀らによって描かれた天井絵もあり、往時の豊かな観音信仰の一端をうかがうことができます。

2013年2月9日(土)曇り。その第5回目。長崎バスで亜熱帯植物園サザンパーク先まで行き、岬木場の「長迫」バス停で降りる。モトクロス場や風力発電風車のある所である。
11:00出発。長崎半島東回りみさき道は、殿隠山の鞍部から脇岬へそのまま下るが、きょうは殿隠山ー遠見山ー堂山峠ー水仙の里公園へ尾根を歩く。山歩きを楽しむコース。

殿隠山を下りかけたら、北へ早くも帰るツルの渡りの声を聞いた。木立が切れ、姿が見えたときは、すでに上昇気流に乗って高く舞い上がり、うまく写せなかった。
遠見山(標高259.0m)には12:30着。きょうは曇りだが、樺島沖の正面に鹿児島県甑島列島が望める。眼下の脇岬ビーチロックも、ちょうど干潮のため全体が見えた。

遠見山で昼食後、堂山峠に13:20着。きょうは観音寺へ下らず、のもざき水仙の里公園へ向けて、西北尾根道を進む。普段は歩けないコースだが、草刈りを先月末していた。
堂山峠から1時間ほどで、前野母崎町焼却場の正門手前に出た。あとはのんびり高台からの海の景色や開花した梅を見ながら、車道を水仙の里公園入口のバス停まで下った。

「みさき道」を歩こう 第4回  2013年1月

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「みさき道」を歩こう 第4回  2013年1月

長崎新聞カルチャーセンター 2012年度後期野外講座 ”「みさき道」を歩こう”。 企画立案 林先生・現地ガイド 江越先生

江戸時代、長崎の人たちは脇岬の観音寺まで七里の道を歩いて、”観音寺詣で”をしました。その道は長崎半島の尾根筋の山間に現在も残っていて、当時の道塚が数本残っています。
観音寺には、唐絵目利きの石崎融恩や出島絵師の川原慶賀らによって描かれた天井絵もあり、往時の豊かな観音信仰の一端をうかがうことができます。

2013年1月12日(土)快晴。その第4回目。高浜海水浴場前に集合。10:00出発。古里まで行き野母道と分かれ、堂山峠を越して脇岬観音寺へ下る。いよいよ観音寺へ到着する「みさき道」の最終コース。長崎から今回の講座では4回に分けて歩いてきたが、文久元年(1861)4月に長崎医学伝習所生関寛斎らは、往路を1日で歩いた。

関寛斎「長崎在学日記」には、この区間を「…〇下リテ高濱二至ル 此ノ処漁処ナリ水際ノ危石上ヲ通ル 凡ソ二十丁此ノ処ヨリ三サキ迄一里ナリト即チ堂山峠ナリ 此ノ峠此ノ道路第一ノ嶮ナリ 脚疲レ炎熱蒸スガ如ク困苦言ベカラス 下リテ直ニ観音堂アリ…」と記す。
「みさき道」の最後の難関だったらしいが、私たちは今回は高浜からなので、楽なコース。堂山峠へ11:23、観音寺には12:07着いた。

本堂を開けてもらい、格子戸越しに千手観音像・天井絵を見学した。境内で13:00まで昼食。
午後は石門を出て、脇岬海岸の墓地にある「抜け荷燈籠」(真偽は不明)を見学。脇岬海水浴場前のバス停で解散した。
希望者のみあと15分海岸国道を歩いて、元禄十年(1697)「従是観音道 山道十丁」の道塚を見に行った。結局、最後は田の子の「野母崎水仙の里公園」まで歩いたが、水仙はまだ5分咲きだった。15:00頃着。

最後の写真は、前中学校地に新築工事中の、野母崎地区小中一貫教育を開始する「野母崎小中学校」完成予想図。来年4月開校予定。

「みさき道」を歩こう 第3回  2012年12月

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「みさき道」を歩こう 第3回  2012年12月

長崎新聞カルチャーセンター 2012年度後期野外講座 ”「みさき道」を歩こう”。 企画立案 林先生・現地ガイド 江越先生

江戸時代、長崎の人たちは脇岬の観音寺まで七里の道を歩いて、”観音寺詣で”をしました。その道は長崎半島の尾根筋の山間に現在も残っていて、当時の道塚が数本残っています。
観音寺には、唐絵目利きの石崎融恩や出島絵師の川原慶賀らによって描かれた天井絵もあり、往時の豊かな観音信仰の一端をうかがうことができます。

2012年12月8日(土)曇りのち小雨。その第3回目。三和行政センター前に集合。10:00出発。きょうは「みさき道」の核心部、蚊焼峠から徳道へ出て、高浜まで下る。
長一尾の尾根は、街道の山道がそのまま一番残り、快適な稜線歩きができる。天気予報はときどき雨。出発時、小雨がすでに降っていた。古茶屋坂入口から木立の道へ入ると、雨はやんだ。

すぐ上では、砂防ダムの取り付け道路が工事中。「みさき道」が分断されたが、深堀城山方面の展望が効くようになった。「妙道尼信女墓」は行き倒れ尼さんの墓。そのため「ビックーさん」と呼ばれる。「年号七十」は享年だろう。墓の刻みを確認した。
展望ベンチのところは、植林が大きくなり、端島(軍艦島)など見えなくなった。

坦々とした長一尾の尾根を進む。水仙は伸びているが、まだ蕾。サイクリング道路へ予定どおり12時に出た。
以下宿三叉路の「長崎ヨリ五里 御嵜ヨリ二里」里程道塚と、野母崎ゴルフ場裏門から入り、茶屋跡の2本の道塚(地蔵墓刻みとその右奥今魚町系)を確認。昼食とした。

午後は高浜へゴルフ場外周道路を下る。ゴルフ場で「みさき道」が喪失した区間。ここでデジカメのバッテリー蓋が外れ故障。延命水の水場などは写せなかった。
高浜へ下り、寄り道して長野観音堂と正瑞寺を見学。やっとデジカメが直った。高浜海水浴場前八幡神社まで行って、きょうの行程は終り。雨が少々降り出した。
海水浴場桟敷は本年で廃業。壊されており、冬の海は荒れていた。

<徒歩距離10km 高低差240m> 参加者11人。私も道案内で同行。
第4回は、新年明けて2013年1月12日(土)。高浜海水浴場から脇岬観音寺まで。

「みさき道」を歩こう 第2回  2012年11月

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「みさき道」を歩こう 第2回  2012年11月

長崎新聞カルチャーセンター 2012年度後期野外講座 ”「みさき道」を歩こう”。 企画立案 林先生・現地ガイド 江越先生

江戸時代、長崎の人たちは脇岬の観音寺まで七里の道を歩いて、”観音寺詣で”をしました。その道は長崎半島の尾根筋の山間に現在も残っていて、当時の道塚が数本残っています。
観音寺には、唐絵目利きの石崎融恩や出島絵師の川原慶賀らによって描かれた天井絵もあり、往時の豊かな観音信仰の一端をうかがうことができます。

2012年11月10日(土)曇り。その第2回目。深堀の長崎記念病院前に集合。10:00出発。
深堀地区の史跡である御船手、円成寺、恵比須様、武家屋敷、貝塚資料館、深堀陣屋跡、菩提寺、五官の墓を通って見学後、みさき道の山道へ入る。
途中の「女の坂」地蔵は、深堀藩の注進侍が、前をさえぎった身重の女を斬った菩提の地蔵堂の伝承がある。文久元年深堀郷図にこの場所に描かれ、地蔵はそれ以前の建立であり、この道が街道と示す。
大籠町の車道へ出たところから、昼食のため善長教会へ上がる。ルルドはさだまさし映画「解夏」のロケ地。隠れキリシタンの移住が許された善長開拓碑から、「ゆうこう」の大木が見え色づきはじめていた。

大籠町の観音堂と新田神社へ下って、再びみさき道へ戻る。平山台団地上のタンク地点は、深堀道と長崎道の重要な分岐と思われる。晴海台団地上までは現在の市道が、そのままのみさき道である。
寿司市衛門先から少し畑道に入ると、岳路みさき道との分岐を示す貴重な道塚が残る。蚊焼入口近くにあと1本あり、国道上に出て、きょうの行程はここまで。三和行政センター前広場で、14:35解散した。明日のサンサンさんわフェスティバル会場だが、雨が降り出した。

<徒歩距離6km 高低差140m> 参加者15人。私も道案内で同行。
第3回は、2012年12月8日(土)。蚊焼から高浜海水浴場まで。

「みさき道」を歩こう 第1回  2012年10月

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「みさき道」を歩こう 第1回  2012年10月

長崎新聞カルチャーセンター 2012年度後期野外講座 ”「みさき道」を歩こう”。 企画立案 林先生・現地ガイド 江越先生

江戸時代、長崎の人たちは脇岬の観音寺まで七里の道を歩いて、”観音寺詣で”をしました。その道は長崎半島の尾根筋の山間に現在も残っていて、当時の道塚が数本残っています。
観音寺には、唐絵目利きの石崎融恩や出島絵師の川原慶賀らによって描かれた天井絵もあり、往時の豊かな観音信仰の一端をうかがうことができます。

2012年10月13日(土)快晴。その第1回目。長崎新聞文化ホールに集合。オリエンテーリングの後、新地町湊公園へ移動。
十人町ー二本松ー上戸町ーダイヤランドー古道町ー柳田町ー深堀町と、当時の「みさき道」をたどった。<徒歩距離8km 高低差150m> 参加者13人。私も道案内で同行。
第2回は、2012年11月10日(土)蚊焼町まで。

「新長崎市史」第二巻の「御崎道」記述の問題点

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「新長崎市史」第二巻の「御崎道」記述の問題点

「新長崎市史」第二巻「近世編」が3月30日発行された。広報ながさき4月号に刊行を大々的に載せ、書店発売を知らせているが、肝心の長崎市施設、地区公民館図書室などに4月10日になっても蔵書がなかった。
市史編さん室と広報広聴課へ苦情を言い、やっと4月19日、地元の公民館へ配本があり借りることができた。市長はこんな事態を知っているのだろうか。意気込みのわりには、おかしなことだった。

私の関心は、今回の刊行で新しく取り上げるとあった第4章「天領・大村藩・佐賀藩領の村々と街道」第4節「長崎の街道」にあった。
「6 御崎道」は、366〜369頁に掲載されている。
平成19年11月発行された長崎歴史文化博物館編「長崎学ハンドブックⅤ 長崎の史跡(街道)」や、平成20年3月発行された長崎伝習所報告書「新長崎市の史跡探訪Ⅰ」の問題点は、すでに指摘している。

今回の「新長崎市史」第二巻「近世編」における「御崎道」の記述も、問題点が多い。せっかくの新市史刊行だから、もう少し信頼性がある研究をお願いしたかった。
全文は掲載できないので、疑問の箇所のみ引用し、私の考察を説明する。
江戸期の「みさき道」詳細ルート地図を、ちょうど本ブログ上で作成したところである。参照してもらい今後の研究に役立ててほしい。

1 368頁左段 「御崎道は、峠からダイヤランド2丁目を経由して磯道町、三和町、毛井首町、鶴見台、江川町などを経由、深堀町へ至った」
毛井首町、鶴見台経由は、明治以降発展しできた道で、遠回りとなりあまり考えられない。長崎往還を草住町へ向かい、江川町から深堀手前の峠(鳥越)を越して、深堀町へ至った。

2 368頁右段 「御崎道は、蚊焼から秋葉山に上り、高浜に下ったが、秋葉山(標高254m)の山頂には火の神秋葉神が祀られている」
御崎道は、秋葉山山頂は通らない。中腹を行く。誤解されかねない記述だろう。

3 368頁右段 「また、『寛斎日記』にも「東西狭くして直に左右を見る、東は天草、島原あり(略)」とあるように〔27〕」
末尾の注〔27〕は、林郁彦稿「維新前後に於ける長崎の学生生活」『長崎談叢 19輯』長崎史談会 1937 21頁。この文献は、関寛斎『長崎在学日記』原本からすると、誤字が多い。引用資料としないようお願いしたい。

4 368頁右段 「また、前掲の道塚は、蚊焼から分岐して岳路を通り以下宿から上って来る道との合流点であり、途中には「みさき道」「今魚町」と刻まれた道塚が残されている」
「前掲の道塚」とは、徳道三叉路の里程道塚。以下宿からここには上がらない。「途中には」とは、岳路の道塚を説明されているが、黒浜から尻喰坂を越し以下宿に下り、南谷を上がって、里程道塚からの道と合流、延命水へ至った。

5 368頁右段 「ほかの御崎道のコースとしては、二ノ岳付近から高浜と脇岬の間の殿隠山、遠見山、堂山峠を経て観音寺に至るコースがあり」
殿隠山、遠見山、堂山峠間の尾根コースは、明治地図でも道の連続がない。街道とは考えられない。郡境・村境の見誤りだろう。(343頁の写4−17、345頁の写4−18の「肥前一国絵図」など参照。道は赤線である)
岬木場から来た道は、殿隠山鞍部で高浜から上がって来た道と合流、脇岬へそのまま下る。

6 368頁右段 「殿隠山コースには、道塚が2本残されている。1本には「みさき道 今魚町」「上川原道」、もう1本には「右 御崎道」「左 川原道」とそれぞれ刻まれている」
野母崎ゴルフ場裏門内の道塚2本を説明されているが、この道塚は殿隠山コースには向かわない。高浜へ下るコースの道塚である。ゴルフ場内の下道に、今魚町道塚がもう1本、確かにあったことを記録と記憶により確認している。

7 368頁右段 「また、観音寺から、山越えして野母に至る、観音道と呼ばれるコースがあった。このコースには元禄10年(1697)と刻まれた立派な道塚があり、「従是観音道」「山道十丁」「元禄十丁丑九月吉日(略)」と刻まれている。なお、野母から舟便を利用、長崎に行くコースもあった」
方向が逆。記述に一工夫してほしい。「また、脇岬海岸にも元禄10年(1697)と刻まれた立派な道塚があり、「従是観音道」「山道十丁」「元禄十丁丑九月吉日(略)」と刻まれている。これは野母まで舟便や歩いて来られたが、ここから観音寺まで十丁の山道にかかる「観音道」を示す道塚である。長崎へ舟便で帰るときや海が荒れた日にも利用された」と説明した方が良い。

8 なお、354頁に「図4−6 長崎の主な街道図」が掲載されている。「(注)御崎道には諸説があるが、ここでは今魚町の道塚のある道について記述した」とし、緑線により「御崎道」、黄緑線により「観音道」のルートを表示している。
1〜7で見たとおり、三和町「三和町郷土誌」昭和61年発行もそうだったが、問題点が多いルート図である。諸説があるならなおさら、関係史料・古地図類を良く研究し、実地踏査のうえ、これらは正しく公表してほしい。

朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(9〜10) 昭和51年

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朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(9〜10) 昭和51年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」10回シリーズの(9〜10) 陸門氏保存。朝日新聞の昭和51年4〜5月頃の掲載記事。ズーム拡大。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行44〜53頁ですでに紹介済み。

「春の野母道尾根歩き」  昭和51年4〜5月頃の朝日新聞掲載記事 
1  旅ごころ  陽気に誘われて…
2  消えた碑文  石畳の傍らに残る
3  夢のあと  遊女の涙絵しのぶ
4  山手の風情  渓谷の景観に酔う
5  シダの波  山すそに伸び放題
6  光る海  水底に坑夫の呻吟
7  藪こぎ  歯くいしばり踏破
8  命の水  御崎参りの頼りに
9  明 暗  静かな春に出会う
10  旅のおわり  再び見つけた「心」

(注) 1では、「せめて体験者の話だけでもと思って会ったのが長崎市伊良林町の谷山スミさん(73)。37〜8年前、30といくつかの年のころという。いでたちは手甲、脚絆(脚絆)にわらじばき。幼い長男を背に山道をたどった。道連れは講仲間の十数人」。

昭和18年(1943)、県道野母ー長崎間が開通した。戦前のそれ以前の話。スミさんらの記憶は、地図の点線が御崎(みさき)参りのコースである。一部、記事のルートは違うが、これが江戸時代以来、変わらないふつうのコースだろう。
「開けた道ならいざ知らず、七里のうちには難所も多い。雨にたたられ、かさも開けぬ日和だったというから大変だ。…」と、記している。

朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(7〜8) 昭和51年

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朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(7〜8) 昭和51年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」10回シリーズの(7〜8) 陸門氏保存。朝日新聞の昭和51年4〜5月頃の掲載記事。ズーム拡大。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行44〜53頁ですでに紹介済み。

「春の野母道尾根歩き」  昭和51年4〜5月頃の朝日新聞掲載記事 
1  旅ごころ  陽気に誘われて…
2  消えた碑文  石畳の傍らに残る
3  夢のあと  遊女の涙絵しのぶ
4  山手の風情  渓谷の景観に酔う
5  シダの波  山すそに伸び放題
6  光る海  水底に坑夫の呻吟
7  藪こぎ  歯くいしばり踏破
8  命の水  御崎参りの頼りに
9  明 暗  静かな春に出会う
10  旅のおわり  再び見つけた「心」

(注) 1では、「せめて体験者の話だけでもと思って会ったのが長崎市伊良林町の谷山スミさん(73)。37〜8年前、30といくつかの年のころという。いでたちは手甲、脚絆(脚絆)にわらじばき。幼い長男を背に山道をたどった。道連れは講仲間の十数人」。

昭和18年(1943)、県道野母ー長崎間が開通した。戦前のそれ以前の話。スミさんらの記憶は、地図の点線が御崎(みさき)参りのコースである。一部、記事のルートは違うが、これが江戸時代以来、変わらないふつうのコースだろう。
「開けた道ならいざ知らず、七里のうちには難所も多い。雨にたたられ、かさも開けぬ日和だったというから大変だ。…」と、記している。

スクラップ(5〜8)に関して余談。本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行14頁に、次のとおり「調査のいきさつ」を私が記している。
昭和38年当時と思われるが、「みさき道」は誰も歩く人がいなく、それこそひどかった。

はじめに ー 調査のいきさつ 

私にとって「みさき道」は、若い日のにがい想い出がある。記憶はおぼろになっていますが、20歳の頃ですから40余年前、昭和38年当時だと思います。NHKテレビか「新日本紀行」のような番組があり、野母半島の美しい海岸が紹介され、「みさき道」というものが、長崎から脇岬観音寺まであることを知りました。(NHKアーカイブスに問い合わせも不明)

山歩きを少ししてましたから、何の予備知識もないまま、五万分の一地図で山道を探し、朝から出発しました。たしか小ヶ倉から深堀に行き蚊焼に出て、秋葉山に登ったようです。それからがどうした道かよく覚えず、木立の藪や身の丈もある竹薮をかき分けかき分け、五島灘へ沈む赤い夕日を見て下ったところが、黒浜か高浜であって、海水浴場の桟敷に寝たようです。

翌日は海岸の道路を歩き、脇岬観音寺から堂山峠へ登り、遠見山に立って景色を眺められたのはよかったのですが、途中も先も、それはまたひどく荒れた道でした。ちょうどこの頃、自衛隊が亜熱帯植物園から岬木場まで県道を切り開いていたようです。殿隠山の尾根道をきちんと通ったかわかりませんが、その工事道に出ました。山道の悪さにあきれて、あとは川原へ車道を下ったようです。…

さて、「8 命の水 御崎参りの頼りに」の延命水水場で、さわやかなセーラー服の少女2人が写っている。県立野母崎高校に合格し、通学路の確認にきた帰り。三和町の自宅まで歩いて1時間かかるという。山間の川原木場か徳道集落の娘さんと思われる。
思い出の写真となるだろう。岡山のmaki♪さん。こころあたりないだろうか。まさか貴女ではないでしょうね。連絡を取って、「消えた道塚」の記憶を聞いてください。

朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(5〜6) 昭和51年

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朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(5〜6) 昭和51年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」10回シリーズの(5〜6) 陸門氏保存。朝日新聞の昭和51年4〜5月頃の掲載記事。ズーム拡大。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行44〜53頁ですでに紹介済み。

「春の野母道尾根歩き」  昭和51年4〜5月頃の朝日新聞掲載記事 
1  旅ごころ  陽気に誘われて…
2  消えた碑文  石畳の傍らに残る
3  夢のあと  遊女の涙絵しのぶ
4  山手の風情  渓谷の景観に酔う
5  シダの波  山すそに伸び放題
6  光る海  水底に坑夫の呻吟
7  藪こぎ  歯くいしばり踏破
8  命の水  御崎参りの頼りに
9  明 暗  静かな春に出会う
10  旅のおわり  再び見つけた「心」

(注) 1では、「せめて体験者の話だけでもと思って会ったのが長崎市伊良林町の谷山スミさん(73)。37〜8年前、30といくつかの年のころという。いでたちは手甲、脚絆(脚絆)にわらじばき。幼い長男を背に山道をたどった。道連れは講仲間の十数人」。

昭和18年(1943)、県道野母ー長崎間が開通した。戦前のそれ以前の話。スミさんらの記憶は、地図の点線が御崎(みさき)参りのコースである。一部、記事のルートは違うが、これが江戸時代以来、変わらないふつうのコースだろう。
「開けた道ならいざ知らず、七里のうちには難所も多い。雨にたたられ、かさも開けぬ日和だったというから大変だ。…」と、記している。

スクラップ(5〜8)に関して余談。本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行14頁に、次のとおり「調査のいきさつ」を私が記している。
昭和38年当時と思われるが、「みさき道」は誰も歩く人がいなく、それこそひどかった。

はじめに ー 調査のいきさつ 

私にとって「みさき道」は、若い日のにがい想い出がある。記憶はおぼろになっていますが、20歳の頃ですから40余年前、昭和38年当時だと思います。NHKテレビか「新日本紀行」のような番組があり、野母半島の美しい海岸が紹介され、「みさき道」というものが、長崎から脇岬観音寺まであることを知りました。(NHKアーカイブスに問い合わせも不明)

山歩きを少ししてましたから、何の予備知識もないまま、五万分の一地図で山道を探し、朝から出発しました。たしか小ヶ倉から深堀に行き蚊焼に出て、秋葉山に登ったようです。それからがどうした道かよく覚えず、木立の藪や身の丈もある竹薮をかき分けかき分け、五島灘へ沈む赤い夕日を見て下ったところが、黒浜か高浜であって、海水浴場の桟敷に寝たようです。

翌日は海岸の道路を歩き、脇岬観音寺から堂山峠へ登り、遠見山に立って景色を眺められたのはよかったのですが、途中も先も、それはまたひどく荒れた道でした。ちょうどこの頃、自衛隊が亜熱帯植物園から岬木場まで県道を切り開いていたようです。殿隠山の尾根道をきちんと通ったかわかりませんが、その工事道に出ました。山道の悪さにあきれて、あとは川原へ車道を下ったようです。…