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朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(3〜4) 昭和51年

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朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(3〜4) 昭和51年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」10回シリーズの(3〜4) 陸門氏保存。朝日新聞の昭和51年4〜5月頃の掲載記事。ズーム拡大。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行44〜53頁ですでに紹介済み。

「春の野母道尾根歩き」  昭和51年4〜5月頃の朝日新聞掲載記事 
1  旅ごころ  陽気に誘われて…
2  消えた碑文  石畳の傍らに残る
3  夢のあと  遊女の涙絵しのぶ
4  山手の風情  渓谷の景観に酔う
5  シダの波  山すそに伸び放題
6  光る海  水底に坑夫の呻吟
7  藪こぎ  歯くいしばり踏破
8  命の水  御崎参りの頼りに
9  明 暗  静かな春に出会う
10  旅のおわり  再び見つけた「心」

(注) 1では、「せめて体験者の話だけでもと思って会ったのが長崎市伊良林町の谷山スミさん(73)。37〜8年前、30といくつかの年のころという。いでたちは手甲、脚絆(脚絆)にわらじばき。幼い長男を背に山道をたどった。道連れは講仲間の十数人」。

昭和18年(1943)、県道野母ー長崎間が開通した。戦前のそれ以前の話。スミさんらの記憶は、地図の点線が御崎(みさき)参りのコースである。一部、記事のルートは違うが、これが江戸時代以来、変わらないふつうのコースだろう。
「開けた道ならいざ知らず、七里のうちには難所も多い。雨にたたられ、かさも開けぬ日和だったというから大変だ。…」と、記している。

朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(1〜2) 昭和51年

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朝日新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」(1〜2) 昭和51年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。新聞記事スクラップ「春の野母道尾根歩き」10回シリーズの(1〜2) 陸門氏保存。朝日新聞の昭和51年4〜5月頃の掲載記事。ズーム拡大。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行44〜53頁ですでに紹介済み。

「春の野母道尾根歩き」  昭和51年4〜5月頃の朝日新聞掲載記事 
1  旅ごころ  陽気に誘われて…
2  消えた碑文  石畳の傍らに残る
3  夢のあと  遊女の涙絵しのぶ
4  山手の風情  渓谷の景観に酔う
5  シダの波  山すそに伸び放題
6  光る海  水底に坑夫の呻吟
7  藪こぎ  歯くいしばり踏破
8  命の水  御崎参りの頼りに
9  明 暗  静かな春に出会う
10  旅のおわり  再び見つけた「心」

(注) 1では、「せめて体験者の話だけでもと思って会ったのが長崎市伊良林町の谷山スミさん(73)。37〜8年前、30といくつかの年のころという。いでたちは手甲、脚絆(脚絆)にわらじばき。幼い長男を背に山道をたどった。道連れは講仲間の十数人」。

昭和18年(1943)、県道野母ー長崎間が開通した。戦前のそれ以前の話。スミさんらの記憶は、地図の点線が御崎(みさき)参りのコースである。一部、記事のルートは違うが、これが江戸時代以来、変わらないふつうのコースだろう。
「開けた道ならいざ知らず、七里のうちには難所も多い。雨にたたられ、かさも開けぬ日和だったというから大変だ。…」と、記している。

陸門良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く その二」  平成12年

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陸門良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く その二」  平成12年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。長崎歴史文化協会「ながさきの空」第12集 平成12年から、陸門良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く その二」。十人町から蚊焼間の「その一」は、前の記事とした。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行30〜31頁ですでに紹介済み。写真は、三和行政センター前広場へ移設されている「みさき道の道塚」、蚊焼古茶屋坂の「みさき道入口看板」、みさき観音の「脇岬観音寺本堂」。

陸門 良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く その二」
長崎歴史文化協会「ながさきの空」第12集 平成12年  35〜36頁

私の所属する、あゆみハイキング・クラブは御崎街道歩きの二回目として、蚊焼から脇岬の観音寺までの三里の道を、平成十一年十二月五日に歩きました。私は、街道歩きが自分の天職と公言しているY氏と三回に渉り、調査のため御崎道を歩きました。Y氏は九州の各街道を全部歩いた後、東京の日本橋までを各地の名所、旧跡を訪ねながら歩く事を夢みています。
長崎から脇岬までの街道は、何時の頃からあったのかは、はっきりしていません。それに、時代と共に道筋も変わっていることでしょう。長崎談叢第十九輯『維新前後に於ける長崎の学生生活』関寛斎の日記、司馬江漢の『御崎参詣の記』、および、原田博二氏の『観音信仰と御崎街道』を参考として御崎街道を歩くことになりました。

第一回目は、Y氏と蚊焼より歩きはじめ、旧茶屋跡から、秋葉山の稜線を歩きました。この山中には、現在道塚は一本も残っていません。二百五十四メートルの頂上近くに郷路八幡神社が祀られていて、この神社の近くに平家の残党がこの地で果てたと伝えられ、近くには墓石らしき石塚が残っています。今は雑木に被われて展望はありませんが、江戸時代は雑木が少なかった様で、寛斎の記述には「此の処東西狭くして直に左右を見る。東は天草、島原あり、遥かに其の中間より肥後を見る」と記してあり、私達も木の葉の間から遠く五島列島を見ることが出来ました。この郷路八幡の近くに、ビックーサンと呼ばれている日蓮宗の尼僧の墓が一基あり、「妙道尼信女」「文政三年旧六月廿三日」と刻されています。  

これより下ると、以下宿との別れ道に「長崎ヨリ五里」「御崎ヨリ二里」「文政七年申十一月今魚町」と刻した道塚があり、これより十分進むと川原への分かれ道があり、ここに二本の道塚があります。奥の道塚は「みさき道、今魚町、上川原道」とあり、手前の道塚は「右御崎道、左川原道」と刻してあり、この手前の道塚は墓石を利用した珍しい道塚です。
ここより御崎道は二つのコースに別れます。①二ツ岳、生目八幡、岬木場、長迫、殿隠山、堂山峠に行く道。②以下宿、高浜、古里、堂山峠へと行く道筋があります。しかし①の道筋はゴルフ場となり、通行禁止で、殿隠山から堂山峠に至る道は現在ヤブとなっており、道筋は失われています。

Y氏と一回目の調査の時、①のコースを調べたのですが、どうしても堂山峠に辿り着く事が出来ず、迷った末に遠見山に登りました。この山には時代は不明ですが、狼煙(のろし)場と遠見番所跡が残り、また先の戦時中の観測台跡が頂上近くに残っています。
Y氏と二度目の調査は秋葉山のヤブ払と徳道から以下宿、高浜、古里のコースを歩きました。以下宿に下る道筋に「みさき道、安政四年中秋」の道塚があり、ほどなく毛首の延命水があり、「奉供延命水」「安政四丁巳仲秋吉祥日」「長崎今下町施主中尾民助高浜村」と刻されていて、この場所は駕籠立場であって、御崎詣りの人々の恰好の休み場であったことでしょう。高浜は浦迫が中心となる町で、山城跡に真宗の金徳寺があり、また深堀一族を祀っている浄土宗の正瑞寺があります。

御崎道は毛首から蔭平に進み海沿いの道を古里まで歩きます。今は県道となり車が激しく往来しています。古里は、昔あぐり高浜と呼ばれていたそうです。Y氏と堂山峠の登り道を見た時、これは並大抵のヤブではないと判断し一応この日は引き返しました。
三回目は古里から歩きだしました。Y氏の御両親は脇岬の出身で、現在も墓地は脇岬にあり、Y氏の話では「母は、大正五年脇岬で生まれ、十八の時、当時同村より長崎に出て働いていた父の元に嫁ぐため、堂山峠を歩いて長崎まで行きました。母は下駄を履いて、親類の者に花嫁道具を担いでもらって、大変難儀してこの堂山峠を越えた事を、死の直前まで話していました」とのことでした。関寛斎の日記にも「此峠道中第一の嶮なり、脚労し炎熱蒸すが如く困苦云うべからず、下りて直に観音寺あり」と記述されています。

私とY氏は、古里を出発する時、近くの商店に四人の老婦人が世間話をしておられたので、話の輪の中に入って、堂山峠から観音寺までの道筋を尋ねてみました。道筋はY氏の母上が話しておられたのとほぼ同じでした。その老婦人達の話によると堂山峠越の道は、昭和二十年代まではよく行商に行く道として利用していたとの事でしたが、最近は通る人もなく、大木が倒れ、ダンジクという竹がヤブとなって通れないとのことでした。
老婦人達との話の中で、こんな会話がありました。「おばさん達は、何んの行商にいったとね」「米ば担いで行ったと。脇岬には米んなかもんね」という返事でした。司馬江漢の日記にも「脇津は亦長崎より亦暖土なり。此辺の土民瑠(琉)球イモを常食とす。長崎にては芋カイを食す芋至て甘し。白赤二品あり」と記しています。

Y氏と私は意を決して、このヤブ道を切り開くことにしました。古里から堂山峠の手前までは意外と簡単に行けたのですが、これからが大変でした。たしかに道筋らしき敷石のある道があるのですが、倒れた木と竹をY氏と二人で山刃・ノコ・カマを使い分けて進むのですが、思う様に進まず、約七時間かけて峠から観音寺までの道を切り開きました。その時二人とも話す事もできぬほど疲労していました。二人とも「あした、仕事出来るやろか?」とキズだらけの手を見ながら帰路につきました。

(注) 「みさき道」のルート紹介や、歩いた道が正しかったかは別とし、なんとか脇岬観音寺までたどりついた陸門氏とY氏の、平成11年12月の貴重な踏査記録。
実は文中に、重要なことを書かれている。以下宿の道筋(高浜延命水手前)に「みさき道、安政四年中秋」の道塚があったら13本目の道塚となる。

「みさき道本道」は、ゴルフ場道塚から確かに高浜へ下り、「関寛斎日記」とおりである。
道塚はゴルフ場造成の平成5年頃まで確かにあった。近くに畑を持つ高浜松尾栄氏の証言を得た。平成18年1月に3者で現地調査したが土砂に埋められたか、道塚はもうなかった。
この項は、次を参照。  https://misakimichi.com/archives/154

陸門良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く (その一)」  平成11年

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陸門良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く (その一)」  平成11年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。長崎歴史文化協会「ながさきの空」第11集 平成11年から、陸門良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く (その一)」。蚊焼から脇岬観音寺間の「その二」は、次の記事とする。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行28〜30頁ですでに紹介済み。写真は、十人町石段登り口の「みさき道(御崎道)の道塚」。「この道塚から始まり、かつては「みさき道」と刻まれていた」と、説明している。

陸門 良輔氏稿「岬(御崎)街道を歩く (その一)」
長崎歴史文化協会「ながさきの空」第11集 平成11年  45〜46頁

今、全国各地で旧街道を歩く会が盛んに行なわれています。私が所属している、あゆみハイキングクラブも、山行の一部として街道歩きを取り入れ長崎街道を歩いています。この会では、ただ歩くだけでなく名所旧跡を訪ね、見聞を広めながら歩く事を目的としています。今回は長崎から脇岬の観音寺までの七里の道のりを歩く事となり、第一回目は長崎から西彼三和町までの四里を歩きました。
同行二人の杖をつき、御崎の由緒ある観音寺の千手千眼観音に思いを馳せながら歩きはじめました。起点は十人町である。梅ヶ崎から十人町に上がる石段の付け根の所に、昔はユダヤ教会があったそうです。この教会は第一次世界大戦の際、敵国財産として没収され、その後は荒れるにまかせていたが昭和二十一年に取り壊されてしまいました。
この教会を建立したのはユダヤ人のゴンドレーキが主となり、世話人はレスナーやナフタリー・エスコーンと言うユダヤの人々だったそうです。ユダヤ人は寺院を建てる時には貴金属を祭壇の下に埋めるそうで、ユダヤ人が長崎を引き揚げる時、教会の飾りは全部取り外して持ち帰ったそうですが、祭壇下の貴金属は掘り出す事が出来なかったと言う話ですから、あるいは、今でもそのまま埋まっているかも知れません。

四海楼ガレージの坂道を登り右に曲がり、石段を登った所に長崎から御崎まで、今魚町(現魚の町)の人々が五十数本の道標を建てたのですが、第一番目の道標が、ここ十人町で「みさきみち」「今魚町」と刻まれているはずですが、現在はかんじんの文字は消えて、時の流れを感じます。このあたりは昔の面影が残り石段もゆるやかで、レンガ塀や格子づくりの家などが残りしっとりと落ち着いていました。
坂の途中に小説『お菊さん』を書いた、フランスの作家ピエール・ロチ寓居の地という碑が建っています。ロチは明治十八年長崎に約一ヵ月ほど滞在し、その間十八歳の長崎娘「おきく」と結婚した事になっています。この体験をもととして書いたのが小説『お菊さん』である。安政の開国により、この地区が外国人居留地となり、ここに居留地界の碑が建っています。
洋館群の急な坂を下ると大浦石橋に出ます。江戸時代ここまでが海でした。現在石橋は道路の下になっていますが、今もそのままの型で残っています。少し行くと出雲町の元遊郭街へと出ます。この遊郭街は明治二十五年に浪ノ平から移転して来たもので、現在は一軒のみ残り今にも倒壊しそうになっています。この遊郭街は丸山などと違い、客も一般庶民が多かったとの事、最盛期には十六軒の遊郭と三百五十人の娼妓がいたそうです。

この道を登り、二本松神社に出て少し行くと旧御崎道で唯一の街道らしい場所に出るのですが水道工事のため多くの石畳が破壊されています。なんとか元に修復してほしいものです。この道の中ほどに「みさきみち」の道標がひっそりと立っています。この道を下ると、長崎甚左衛門の一族である長崎氏の墓地があり、今も子孫の方により大切にまつられています。
戸町小学校から新小ヶ倉一丁目にさしかかると、「従是南佐嘉領」の碑があり、これから先は佐嘉藩深堀領となります。ダイヤランド入口手前に「力士墓」の碑があり、この碑の前の植木屋の庭の中に小さく破損した「みさきみち」の道標が人々に忘れさられながらひっそりと立っています。ダイヤランド団地の造成で古道に行く道がなくなり御崎道はここで途切れてしまいます。
今回は磯道町から土井首、毛井首を通り深堀の町へと出た。深堀の町は長崎近郊では唯一城下町的な姿を残している町です。由来記によれば、八百年前までは深堀を中心に戸町から野母崎まで散在する島々を含めて「戸八ヶ浦」と呼んでいました。建長七年(1255)に鎌倉幕府の命を受けた三浦能仲が地頭職として赴任し地名を「深堀」と改め、十七代仲光の代に、諫早西郷家より西郷純賢を養子とし鍋島に改姓し、佐嘉鍋島家の家臣となりました。

深堀を過ぎると、大籠町に至る。上の善長地区は文化年間(1804)に三重の樫山からキリスト教には寛大であったこの地に六家族が旅芸人の風を装い住みついたそうです。住みつく条件は八幡神社の毎月の祭礼及びお水方として領主用の水(お茶の水)汲みの役を果たす事でした。そして表向きは菩提寺の信徒でした。善長とはポルトガル語で異教徒から転化したものです。
この地区の墓地にはキリスト教様式の寝墓が多く、また氏神の新田神社は新田義興を祀っていますが、鳥居には隠し十字があり、奉献の奉の字が となり、神社家紋○一は石祠上部にある○大と○一とが合体されて○となり大神デウスを表していると思われ、石祠の屋根側面は大三角形で三位一体を表すそうです。石祠の屋根前面には蟹の彫塑があり、この地区の人々は蟹を食べないそうです。
この地区の上部が千二百年前頃の朝鮮式の山城で標高三百五十米の頂上付近には五条の空堀と、俵石と言われる柱状節理の円柱状の石群があります。江戸時代中期の画家、司馬江漢の「御崎紀行」には、「皆路山坂にして平地なし」と記されています。三和町に入ると「みさきみち」の道標二本が立っていました。

「慶長肥前国絵図」明治前期再写本に見る「みさき道」

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「慶長肥前国絵図」明治前期再写本に見る「みさき道」

財団法人鍋島報效会「徴古館」(ちょうこかん 佐賀市松原2−5−22)は、旧佐賀藩主・侯爵鍋島家伝来の歴史資料・美術工芸品を展示する博物館。
同館所蔵品紹介HPに、「慶長肥前国絵図」の天保模写本と、それをもとにした明治前期再写本がある。解説は次のとおり。

掲載図は、国絵図がはっきりした明治前期再写本の長崎半島部分拡大図。河川は青、道路は赤、国界は黒、郡界は白、藩領界は茶で色分けされている。
小さな街道は表れていないが、「みさき道」(「御崎道」ないし「野母道」)は、当時から高浜へ下り殿隠山・遠見山尾根は通っていないことがわかるだろう。
この項は、次の記事も参照。  https://misakimichi.com/archives/3077

慶長肥前国絵図      江戸時代 竪234cm 横249cm
けいちょうひぜんくにえず

慶長10年(1605)諸大名は幕府の命により国絵図と郷帳を作成・提出した。天保8年(1837)の模写本と、それをもとにした明治前期の再写本の2本が現存する。河川は青、道路は赤、国界は黒、郡界は白、藩領界は茶で色分けされ、地名は長方形の枠内に記入され、その横に石高が付されている。また郡別に大きな長方形の枠をつくり、その総石高・田畑面積・寺社領石高・物成・小物成が記されている。

筑後との境から長崎までのいわゆる長崎街道の経路は、田代・瓜生野宿・轟木宿村・寒津・竜蔵(造)寺城・八戸・加世(嘉瀬)・牛津町・山口で分かれ、一方は六角・須古郷・高町・常広城(鹿島)の先で分かれ、一方は塩田・大草野・嬉野へ、常広城の先でもう一方は浜町・長田村(高木郡)へ、山口で分かれたもう一方は小田・大町・焼米・志久・北方・高橋町・花島・志田・塩田へつながる。江戸時代初期の街道の状況がうかがわれる。

村岡 豊氏HP 「長崎県の坂」  (現在は「長崎坂づくし」)

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村岡 豊氏HP「長崎県の坂」 (現在は「長崎坂づくし」)

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。平成18年当時の村岡 豊氏HP「長崎県の坂」(現在はHPタイトル「長崎坂づくし」)から、「女の坂」と「しりくい坂」(尻喰坂)。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行35〜37頁ですでに紹介済み。写真は、村岡氏撮影の当時の「女の坂」と、現在の「女の坂」首なし地蔵、「尻喰坂」以下宿側入口の状況。この谷間を左上へ越した。

村岡 豊氏HP「長崎県の坂」 (現在は「長崎坂づくし」)

女の坂(おなごのさか・おんなのさか) 長崎市深堀町5丁目〜長崎市大籠町善長谷

長崎市深堀町5丁目から長崎市大籠町(おおごもりまち)善長谷(ぜんちょうだに)の間に通じる坂道を、いつのころからか「女の坂」と呼んでおり、道ばたには古い石の地蔵があります。
旧藩時代、領主の命を受けて注進の文箱を携えてこの道を往来するとき、もし途中で妨げる者があれば斬り捨てご免を許されていた。ある夜、急ぎの使者がこの坂道にさしかかったとき、たまたま一人の身重の婦人が路傍で休んでいました。
婦人は注進と知るや「決してあやしい者ではございません…」との言葉も終わらぬうちに、一刀のもとに斬り捨てられてしまった。
その後、夜ここを通りかかると、恨めしそうな姿をした女があらわれ通行人に声をかけるようになった。「女の亡霊!女の坂」と、いつとはなしに「女の坂」と呼ぶようになったそうです。
領主のお声がかりで、同志相寄りここに地蔵尊を迎え、女の霊を慰めることになったという。
「長崎県大百科事典」(辻本義典担当) 長崎新聞社 昭和59年
(参考文献 「西海の伝説」山口麻太郎著 第一法規出版 昭和49年)
書籍では「おんなのさか」となっていますが、地元の人は皆「おなごのさか」と言っておられました。

1997/12/31 女の坂・深堀〜善長谷(隠れキリシタンの村・善長谷教会があります)まで、実際に歩いてみました。
深堀小学校の南側にある、川内公民館前の道を墓地の方へ登ります。山腹の途中にある「キリシタン墓地」の前から、右に行きます。杉林の先の谷間にお地蔵様がありました。お地蔵様の前から右にまいて登っていくと、途中に「大きな石」が左手にあります。さらに右の方向へ登っていきますが、この先からが途中でけもの道になりイバラが道をおおっていたりで、山歩きにかなり慣れている人以外は、女の坂を善長谷まで登るのは今では無理です。善長谷のお婆ちゃんに話を伺いましたが、海岸の新道が出来るまでは、女の坂を通って深堀小学校に通学されたそうです。
お地蔵様を一人では見つけることが出来ず、お地蔵様まで深堀町5丁目の高比良せいの様に案内して頂きました。高比良さんはかつて郵便局にお勤めで、女の坂を登って善長谷まで速達の郵便を届けておられたそうです。地元の人は、この道を「とのさん道(殿様道)」と呼んでおられたので、この道も「御崎道」の一部なのでしょう。

御崎道について

長崎から(館内〜戸町〜子ヶ倉〜深堀〜蚊焼)、野母崎・脇岬までの七里(約28Km)の道。江戸時代から、長崎の人たちによる「観音信仰」が大変盛んで、行楽をかねての観音寺参り(御崎詣)でにぎわいました。また、野母の権現山に遠見番所が寛永十五年(1638年)に設置され、外国船を発見すると直ちに長崎奉行に注進され、軍用道路的な性格も有していました。
地元の人々は、とのさん道(殿様道)と呼んでいます。御崎道の詳細については「三和町郷土誌・昭和61年発行・観音信仰と御崎道/原田博二」をご覧下さい。

しりくい坂(しっきぃ坂)   西彼杵郡野母崎町黒浜〜野母崎町以下宿

昔、長崎に出入りする要路が六つあり、その一つが「御崎道(みさきみち)」です。御崎道の、野母崎町(のもざきちょう)黒浜〜野母崎町以下宿(いかやど)の間の山越えの急峻な坂です。
前に行く人の、尻を食いつきそうな急な坂。
〈親和文庫第18号 長崎ぶらり散歩 原田博二著 親和銀行 平成7年4月発行〉
東彼杵郡波佐見町には、尻喰坂という地名があります。「波佐見の地すべり地名には…崩の迫(くえのさこ)、ぬず場、ユルギ、ユルサ、小樽、尻喰坂、八の久保などがある。…」として紹介されています(佐世保の歴史・地理/吉富一)。土石流が襲ってきて、逃げまどう人々をのみ込んでしまったのでしょうか?
地元の人は「しっきぃ坂」と言っておられました。

1997/12/31 しりくい坂を以下宿から、実際に歩いてみました。
海岸沿いの国道499号線の以下宿のバス停から山の方(東側)へ入り、「野母崎町消防団第12分団以下宿倉庫」前から山への道(北へ)です。竹薮の間を通って、谷間の急な坂を登っていきますが、今では道がはっきり分かりませんでした。
以下宿のお婆ちゃんに話を伺いましたが、黒浜に高浜小学校の分校があり、しりくい坂を通って分校に通学されたそうです。〈野母崎町以下宿の山口登さんに、坂の場所を教えて頂きました〉

(注) 平成18年当時の村岡 豊氏HP「長崎県の坂」。「長崎県の坂」またはそれぞれの坂名により検索していた。作成の着眼に感心した資料である。
現在は、HPタイトル「長崎坂づくし」となって、内容は一新している。「女の坂」のみ、東山手と南山手・小島周辺の坂の中に含まれ掲載されている。

「女の坂 深堀〜善長谷 市内からは離れていますが、思い出に残る坂道でしたので収録しました。隠れキリシタンの里・善長谷と深堀をつなぐ道でした。今は途中まで通れますが、善長谷までは草木が生い茂って行けません」とあるが、道はすでに平成17年頃、私たちが切り開き大籠町まで完全復元。長崎学さるく行事「江戸期のみさき道歩き」などで歩いている。

後段の「御崎道について」や「しりくい坂」は、現在のHPでは省略されたが、黒浜〜以下宿間の「しりくい坂」(尻喰坂)は、「岳路みさき道」の区間である。
私たちが同じく平成17年頃、踏査して切り開きルートは確認。一部行事で利用している。

「女の坂」は、次を参照。  https://misakimichi.com/archives/412
「尻喰坂」は、次を参照。  https://misakimichi.com/archives/134

ちゃんぽんコラム「みさき道は、抜け荷の道?」 2003年

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ちゃんぽんコラム「みさき道は、抜け荷の道?」 2003年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。みろくやHP ガイドブックにない長崎 ちゃんぽんコラム 第130号「みさき道は、抜け荷の道?」2003年3月。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第2集平成18年4月発行35頁ですでに紹介済み。

みろくや HP 「みさき道は、抜け荷の道?」 2003年3月
ガイドブックにない長崎 ちゃんぽんコラム  第130号

長崎から長崎半島を南下して西彼杵郡野母崎町脇岬に至る約28Kmの古い街道をご存じですか? この道は「みさき道」と呼ばれ、江戸時代は脇岬にある観音寺へ参詣するための道でした。この観音寺は京都の御室仁和寺(おむろにんなじ)の末寺とされ、当時の観音信仰の一大霊場だったそうです。
鎖国時代の長崎の人々は物見遊山、今でいうハイキングに近い感覚で参詣し、おおむね1泊2日の行程で行き来していました。中には朝早いうちに出発して参詣を済ませ、夕方には戻ったという健脚もいたというから驚きです。

みさき道は唐人屋敷にほど近い十人町から始まります。そこの坂段を上り、東山手から石橋へ下り、出雲町〜二本松〜戸町中学校〜ダイヤランド〜土井首郵便局〜深堀町〜大籠町〜三和町(西彼杵郡)〜蚊焼峠〜黒岳〜野母崎町殿隠山〜堂山峠〜観音寺というルートです。(分カル人ハカナリノ長崎通)
現在のみさき道は、車道になっているところもありますが、山あいや小高い丘をいく土の道も多く、便利なハイキンググッズに身を固めた現代人でもその道のりはかなり大変そうです。道筋にはこの街道の整備に出資した「今魚町」(現在の魚の町)の町名が記された道塚が数カ所残されています。

みさき道のスタート地点、「十人町(じゅうにんまち)」の町名はちょっと変わってます。江戸時代、脇岬にほど近い権現山で長崎港に入港する外国船を見張るための「遠見番所」に勤める役人が10人いて、交代で勤務する彼らの役宅10軒がこの町にあったからだそうです。(通勤ガ大変ダネ)
この「権現山遠見番所」は、島原の乱で一揆軍を攻め落とした直後、幕府がポルトガル船の来航を見張る為に設けたのが始まりです。さらに長崎半島には海防警備のため台場や番所が全国に類を見ないほど何カ所も設置されました。いわばこの一帯は日本屈指の要塞地帯だったのです。みさき道はそういったところに勤める役人らの通る道、いわば軍事の道でもあったといえます。

またみさき道は、抜け荷(非合法な商取引)の道ともいわれています。脇岬が唐船の風待港だったことから、その時を利用して抜け荷をやる人が観音参りと称してこの道を往来したというのです。抜け荷は発覚すると遠島(島流し)などの厳しい処罰を受けましたが、それでも魅力は大きかったらしく、あとを絶ちませんでした。
抜け荷といえば、もと遠見番が、仕事を辞めた後も役宅の近くに住み、そこから唐人屋敷まで穴を掘って品物を得、抜け荷をしたという珍事件が長崎奉行所の犯科帳に記されているそうです。(遠見番ハ薄給デ暮ラシモ厳シカッタヨウデス)

◎参考とした本と資料
「わが町の歴史散歩(1)」(熊弘人著) 「長崎ぶらり散歩」(原田博二著) 「白帆注進」(旗先好紀・江越弘人著) 「第65回みろくや長崎食文化講座〜みさき道って何?〜」(講師 中島 勇)

(注) みろくやHP「ガイドブックにない長崎 ちゃんぽんコラム」は、気のきいた長崎歴史コラム。ただ、この「みさき道は、抜け荷の道?」は、参考とした本と資料に一部、疑問が多い。
「みさき道」のルートや密貿易との関連は、コラム筆者自身で正しく研究してほしかった。

「福田清人と岬(長崎・土井首)の少年たちー寄せ書きー」  平成13年

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「福田清人と岬(長崎・土井首)の少年たちー寄せ書きー」  平成13年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。寺井房夫編 東京 福田はる刊「福田清人と岬(長崎・土井首)の少年たちー寄せ書きー」平成13年3月発行。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行111〜112頁ですでに紹介済み。写真が大山祗神社鳥居前の鹿尾川底に残る飛び石跡?と、長崎市立土井首中学校の前庭石。どの石かはもう不明。

「福田清人と岬(長崎・土井首)の少年たちー寄せ書きー」 19〜20頁
寺井房夫編 東京 福田はる刊 平成13年3月発行

地図に寄せて(2)昭和のカッパ連  取水堰の「ため」
大山祗神社鳥居前の鹿尾川には、「ため」と呼ばれている、取水堰で塞き止められた溜まりがあった。
『私が住んでいた実家は鹿尾川沿いに建っていました。長崎豪雨、昭和57年(1982)7.23の時は床上浸水した程で、川とは切っても切れない縁です。子供の頃は、満ち潮に乗って上って来るボラや、スズキを堰の下で待って、矛で突いたり、ハゼ釣りをしたり、また、上流でフナ釣りをしたりして遊びました。フナがもっとも良く釣れたのが「ため」です。小学校3年生だったと記憶していますが、深い水底を恐る恐るのぞいていたら友達に突き飛ばされて、深みに落ち、無我夢中でバタバタしている中に自然に泳ぎを覚えてしまいました。
中学生になり、長崎市内の中学水泳大会が開催され、この「ため」で練習するようになりました。夏になると、授業が終るとすぐ「ため」に集まり練習に励みます。堰の長さは20メートルはあったと思います。練習は、優勝経験のある先輩がストップウオッチを片手に、何回も何回も往復して、泳がされました。私達が優勝できたのは、プールの無い時代、ここで思い切り練習できたからだと、確信しています。
私にとっては、思い出と自然が一杯つまった取水堰の「ため」ですが、今はどうなっているのでしょうか。上流にダムが出来たとも聞いています。水がきれいで、フナやハヤが泳いでいた風景を今でもはっきり思い出します。 土井首中学校第5回卒(昭和27年3月)横川(小川) 等 千葉市在住』

「ため」は、形を変えて、残っている。取水堰は水害後の河川改修工事で取り壊されたが、その岩石は、土地の篤志家の手によって運び上げられ、土井首中学校玄関の前庭に生きている。取水堰の向こうには、松の木が生え、地蔵も立っていた。その昔、長崎への街道の渡しであったという。
海産物と川・山の産物が集まり、水田も開け、山麓には果樹も実のっていた。海、川が交わるこの地は、土井首に早く発生した集落であろうと、ロマンを語る人が多い。(福田清人の)作品に「私はまだ海に入らぬカノヲ川の中流の岸で、群をなして水流に身をゆだねて下流へ向ふ魚の群をみたことがあった。」とあるのはおもしろい。

(注) 土井首中の前庭石は、教頭先生が地元に聞いてくれた。当時河川工事をした地元兵頭建設の社長が亡くなり不明でこれと断定できない。この渡り場所に後年木橋が少し下流にかかったが、何度か流され、沖縄の人の篤志で黒みかげ石で出来たこともあったという。(磯道中山氏)
今は郵政磯道団地ができ、まだ下流に「互助之橋」が架設されている。大潮の時も海面はこの少し上流までしか来ず、飛び石は十分考えられる。国土地理院旧版地図明治34年測図も「渡渉所」。
上流のダムとは昭和63年できた鹿尾ダム。さらに上流の小ヶ倉水源池は大正15年完成している。両ダムのない時代、鹿尾川はかなりの水流があったと思われるが、ここで渡渉できたのではないか。「ため」のコンクリート片と石は、まだ川底に平らな一部が残っている。

角川書店刊 ”日本地名大辞典 42長崎県”の「古道町」 昭和62年ほか

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角川書店刊 ”日本地名大辞典 42長崎県”の「古道町」 昭和62年ほか

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。角川書店刊”日本地名大辞典 42長崎県”の「古道町」 昭和62年と、熊弘人著”長崎市わが町の歴史散歩(1)東・南部” 新波書房 平成5年の「古道町」。野母崎町などは旧町名。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行102頁ですでに紹介済み。

角川書店 「日本地名大辞典 42長崎県」 昭和62年 867頁

ふるみちまち 古道町 〈長崎市〉
〔近代〕昭和24年〜現在の長崎市の町名。もとは長崎市土井首町の一部。町名のもとになった元来の小字名古道は、鹿尾川の渡り場から北へ字大道(現古道町)の坂を登り山一つ越えた小ヶ倉界の谷間を指し、数軒の農家と水田・畑があったが、現町域は広く鹿尾川以北の山林部を包括する。昭和35年の世帯数10・人口30。昔の古道の谷は南長崎ダイヤランドの造成で埋められた。なお、古道の字名は、江戸期に長崎から野母崎への御崎道が通っていたことによるが、土井首村のコースは字古道から字大道を降りて鹿尾川の渡し場(大山祗神社の北北西150m地点)を渡り、字京太郎からその背後の山を越え、字草住の谷沿いを南下していたという。

(注) 「みさき道」(御崎道)の土井首村コースを記しているが、「渡し場」の表現とも、関寛斎日記や文久元年同村地図などと比べると、特に「字京太郎から背後の山を越え」た部分(現在の草住町杠葉病院分院に回る)は疑問がある。
詳しくは、「地名」等の解釈と特定において説明しているが、今後の考証を待ちたい。

熊弘人著 「長崎市わが町の歴史散歩(1)東・南部」 新波書房 平成5年

古道町(古道町) みさき道               342頁
長崎市十人町から野母崎町脇岬に至る行程七里(27.5キロ)の道をいう。
脇岬は、鎖国時代には中国から長崎に向う唐船の風待港であったことから、長崎の抜荷商人達はみさきの観音寺参りと称して密貿易の利を得るため、このみさき道を利用していた。現在、十人町や新小ヶ倉1丁目に当時の標柱が残っている。
なお、土井首村内のみさき道のコースは、字古道から字大道(磯道町)を降りて鹿尾川の渡し場を渡り、字京太郎から背後の山を越えて草住の谷沿いを南下していたといわれている。

(注) 上記資料などをそのまま引用している。「抜け荷」や「土井首村のコース」については疑問がある。鹿尾川は「渡し場」でなく「渡り場」か。飛び石で渡った。

この項は、本ブログの次の記事を参照。写真が大山祗神社鳥居前、長崎大水害で改修された鹿尾川の川底に残る飛び石跡? 一部は長崎市立土井首中学校の前庭石となっている。
地図は文久元年(1861)「彼杵郡深堀郷図」小ヶ倉・土井首村部分(長崎歴史文化博物館蔵)。
平凡社「日本歴史地理体系43 長崎県の地名」2001年刊 「御崎道」
https://misakimichi.com/archives/29
「古道」という道があったか。また、字「大道」とはどんな意味がありどの位置か
https://misakimichi.com/archives/365
大山祗神社前鹿尾川の奇岩上渡りと京太郎背後の山越えは
https://misakimichi.com/archives/388

山川出版社刊 ”42 長崎県の歴史散歩”の「観音寺」 1989年・2005年

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山川出版社刊 ”42 長崎県の歴史散歩”の「観音寺」 1989年・2005年

「みさき道」に関する関係資料(史料・刊行物・論文等)の抜粋。山川出版社刊 ”42 長崎県の歴史散歩”の「観音寺」 1989年と2005年版。野母崎町などは旧町名。
この資料は、本会の研究レポート「江戸期のみさき道」第1集平成17年9月発行102〜103頁、第2集平成18年4月発行25〜26頁ですでに紹介済み。

新全国歴史散歩シリーズ42「長崎県の歴史散歩」 1989年 71〜72頁
長崎県高等学校教育研究会社会科部会編  山川出版社

みさきの観音禅寺  ■西彼杵郡野母崎町脇岬 JR長崎駅バス脇岬行観音寺入口下車3分
長崎半島の南端に野母崎町がある。その最南端にある権現山(198m)は陸繋島で四方が一望できるので、1638(寛永15)年遠見番所が置かれて、外国船の来航を長崎奉行所に通報した。
東海岸にまわると、弁天島へと陸繋砂州が伸びる脇岬である。その北方の殿隠山の山すそに、709(和銅2)年行基菩薩の開基という観音禅寺(曹洞宗)がある。江戸時代に再建された観音堂には、ヒノキ一木造・半丈六(約2.5m)の千手観音立像(国重文)が、円満な面相を平安時代末期より伝えている。“みさきの観音”と呼ばれ、鎖国時代をつうじて長崎からの参詣者も多く、その道を「みさきみち」と呼んだ。長崎市十人町の活水女子短大への登り口に「みさきみち」と刻まれた標石があり、ここから道は八郎岳(590m)の中腹を南下して観音禅寺に至る。その途中三和町の徳道集落には「長崎より五里、御崎より二里」の道標がたっている。
脇岬は、鎖国時代、長崎にむかう唐船が風待ちのため寄港したことも多く、観音寺は唐商人や乗組員の宿泊所として利用された。長崎の抜荷商人は観音寺詣りと称して、密貿易の利を求めてみさきみちを利用したといわれる。寺内の寄進物には施主の名として中国貿易商人のほかに、長崎の町人や遊女名も多く、観音堂内陣の150枚の天井板絵(県文化)は船津町(現在の恵美須町)の商人が奉納したもので、1846(弘化3)年唐絵目利(めきき)の石崎融思一家や出島絵師川原慶賀の筆になる極彩色の花鳥画は、人の目をみはらせるとともに、当時の抜荷商人の豪勢さをしのばせている。

(注) 「殿隠山の山すそ」は「遠見山(259m)の山すそ」、「みさきみち」は刻面のとおり「みさき道」、「八郎岳(590m)の中腹を南下して」は「八郎岳(590m)のふもとと半島の山を南下して」の表現がよいと思われる。
密貿易は確かに多かったが、通常は長崎から遠く離れた海域で「船」によって行われ、「みさき道」がどのように利用されたかはっきりしない。「長崎犯科帳」も数例しかない。唐貿易の主な輸出品となった海産物の調達のため、この道が利用されたのではないか。
天井板絵を含め、寺への寄進者が「抜荷商人」のようであり、記述は再考願えればと思う。

歴史散歩(42) 「長崎県の歴史散歩」 2005年  66〜68頁
長崎県高等学校教育研究会地歴公民部会歴史文科会編  山川出版社

⑦ 旧炭鉱の島々を望む長崎半島の史跡
観 音 寺(37)   国重文の千手観音立像を安置 行基伝承を付帯
095-893-0844  長崎市野母町脇岬 JR長崎本線長崎駅 バス脇岬行観音寺入口 徒歩3分
長崎半島の南端に野母崎町がある。東海岸へまわると、弁天島へと陸繋砂洲がのびる脇岬である。その北方の殿隠山の山裾に、709(和銅2)年行基の開基という観音寺(曹洞宗)がある。江戸時代に再建された観音堂には、檜一木造・半丈六(約2.5m)の千手観音立像(国重文)が、円満な面相を平安時代末期より伝えている。「みさきの観音」とよばれ、鎖国時代をつうじて長崎からの参詣者も多く、その道を「みさきみち」とよんだ。十人町から活水女子大学へのぼる上り口に、「みさきみち」ときざまれた標石があり、ここから道は八郎岳(590m)の中腹を南下して観音禅寺に至る。その途中、三和町の徳道集落には、「長崎より五里 御崎より二里」の道標がたっている。
脇岬は、鎖国時代、長崎に向かう唐船が風待ちのため多く寄港し、観音寺は唐商人や乗組員の宿泊所として利用された。長崎の商人のなかには観音寺詣りと称して、抜荷(密貿易)の利を求めて、みさきみちを利用したものもいたといわれる。寺内の寄進物には施主の名として中国貿易商人のほかに、長崎の町人や遊女の名も多くみえる。観音堂内陣の150枚の天井絵(県文化)は、船津町(現、長崎市恵美須町)の商人が奉納したものである。1846(弘化3)年唐絵目利(めきき)の石崎融思一族や絵師川原慶賀の筆になる極彩色の花鳥画は、人びとの目をみはらせるとともに、当時の長崎商人の豪勢さをしのばせる。
また樺島には、国の天然記念物に指定されているオオウナギの生息地もあり、体長2mにもなるオオウナギが樺島の共同井戸に古くから住みついている。

権現山展望公園(38) 長崎半島の先端 異国船来航を奉行所へ通報
長崎市野母町野母 JR長崎本線長崎駅 バス野母崎方面行野母 車10分
野母半島県立公園の先端にある権現山(198m)頂上の展望台は、日本本土の最西端にあたり、四方に天草・雲仙、五島灘、高島や香焼、長崎方面、遠くは鹿児島県甑島を一望することもできる。古来,名僧の登山が多かったともいわれているが、1638(寛永15)年遠見番所が設置されて、外国船の来航を発見すると注進船で長崎奉行所へ通報された。
この注進方法をさらに迅速化するため1688(元禄元)年、信号による連絡方法が採用され、小瀬戸や梅香崎、観音寺に番所が設けられ、幕府の異国船警備の一役をになってきた。その後、明治・大正・昭和各時代をつうじて日本海軍の望楼がおかれ、第二次世界大戦当時は、電探基地・高射陣地が設置された。終戦後はアメリカ軍のレーダー基地となり接収されていたが、現在はバーゴラや椿公園、まごころの鐘などの施設の整った公園になっている。

(注) 先の研究レポート資料11刊行本の新版である。2005年6月改定発行されたのを知らず、1989年旧版を紹介していた。字句は一部修正されているが、まだ全体にやや正確さを欠く箇所が感じられる。当時の唐貿易の状況は別資料で紹介してみた。