「慶長肥前国絵図」明治前期再写本に見る「みさき道」
財団法人鍋島報效会「徴古館」(ちょうこかん 佐賀市松原2−5−22)は、旧佐賀藩主・侯爵鍋島家伝来の歴史資料・美術工芸品を展示する博物館。
同館所蔵品紹介HPに、「慶長肥前国絵図」の天保模写本と、それをもとにした明治前期再写本がある。解説は次のとおり。
掲載図は、国絵図がはっきりした明治前期再写本の長崎半島部分拡大図。河川は青、道路は赤、国界は黒、郡界は白、藩領界は茶で色分けされている。
小さな街道は表れていないが、「みさき道」(「御崎道」ないし「野母道」)は、当時から高浜へ下り殿隠山・遠見山尾根は通っていないことがわかるだろう。
この項は、次の記事も参照。 https://misakimichi.com/archives/3077
慶長肥前国絵図 江戸時代 竪234cm 横249cm
けいちょうひぜんくにえず
慶長10年(1605)諸大名は幕府の命により国絵図と郷帳を作成・提出した。天保8年(1837)の模写本と、それをもとにした明治前期の再写本の2本が現存する。河川は青、道路は赤、国界は黒、郡界は白、藩領界は茶で色分けされ、地名は長方形の枠内に記入され、その横に石高が付されている。また郡別に大きな長方形の枠をつくり、その総石高・田畑面積・寺社領石高・物成・小物成が記されている。
筑後との境から長崎までのいわゆる長崎街道の経路は、田代・瓜生野宿・轟木宿村・寒津・竜蔵(造)寺城・八戸・加世(嘉瀬)・牛津町・山口で分かれ、一方は六角・須古郷・高町・常広城(鹿島)の先で分かれ、一方は塩田・大草野・嬉野へ、常広城の先でもう一方は浜町・長田村(高木郡)へ、山口で分かれたもう一方は小田・大町・焼米・志久・北方・高橋町・花島・志田・塩田へつながる。江戸時代初期の街道の状況がうかがわれる。