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長崎の西の空の夕日  その3

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長崎の西の空の夕日  その3

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電線は邪魔。以下続く。

写真 1〜2  平成19年12月14日の16時40分頃
写真 3〜4  平成20年 2月21日の17時55分頃
写真 5     平成20年 2月24日の 7時00分頃 明け方の月
写真 6〜7  平成20年 2月29日の17時55分頃

小浜町に残るアーチ石橋   雲仙市小浜町金浜ほか

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小浜町に残るアーチ石橋   雲仙市小浜町金浜ほか

雲仙市小浜町に残るアーチ石橋は、5橋である。金浜眼鏡橋は、そばにアコウの巨樹があり、その項で橋も紹介している。雲仙の桜橋は、温泉街入口。有明ホテル脇である。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。

写真 1  第   6 番  金濱眼鏡橋   小浜町金濱川河口近く 殿様道に架かる橋
弘化3(1846)年  長さ14.5m  幅員3.6m
北串山の人、岡右衛門が架橋したと言われる。以来150年余りを経過し痛みが激しいため文化財保護を目的に平成5年大改修が行われた。
なかなか姿の良い橋だが、残念ながら平成5年の大改修は、この橋を外見だけは復元したが、まったく違う橋に作り変えてしまった。この新しい平成の石橋自体は大好きな橋の一つでは有るのだが、「金浜の眼鏡橋」を復元出来なかった物かと淋しく思う。これが文化財保護なのだろうか?
近くの住民が「階段が出来て上りにくいし、滑りやすいから嫌だ。昔の橋が良かった」と話されていたのが心に残る。

写真 2  第  57 番  北串の眼鏡橋  小浜町山畑(北串)
明治中頃  長さ 14.5m  幅員 3.8m
広域農道(雲仙グリーン道路)の山畑大橋の下に眼鏡橋がある。以前、この橋を探して小浜温泉観光案内所を訪ねたが、職員の方は何方もご存じなかった。一時はもう無いかも知れないとは思ったが、近くを通るたびに少しずつ探していた橋に、やっと出会えた。
【ガイド】国道251号線を小浜町から南串山に行くと、金浜の眼鏡橋が有る。そのの先から、県道30号線に左折して、山畑の広域農道の交差点を右折。山畑大橋を渡ってすぐに左折。大橋の下で出会える。

写真 3  第 119 番  安平(あんのひら)橋  小浜町山畑
明治中期  長さ 9.0m  幅員 4.2m
下区若しくは北串山下地区安平と聞くほうが判りやすい。エネオスから右折。下区集会所の先
福岡県在住の薗田さんから掲示板で教えていただいた橋。地元の方に伺ったところ、明治10年から20年ごろの架橋で。戦後まで橋の側には水車小屋があって北串山地区の大切な生活の橋であったそうだ。川は下の部落の名で「湾頭(わんど)川」と呼ばれる。

写真 4  第 122 番  山畑の水路橋  小浜町大亀(北串)。一般に山畑といわれるが正確な住所は大亀となる。
明治中頃といわれるが調査中  長さ 8.0m  幅員 1.6m
長崎県で唯一現存する農業水路の為に造られた水路橋(平成15年6月現在)
北串の眼鏡橋に何度か通っている時に、地元の方から、この上流にもう一つ石橋があったが今はどうなっているか不明だし、行けないだろうと話を聞いていた。
諏訪池は、元和2(1616)年に藩主松倉重政が築いた人造湖。そののち北串山村庄屋の松藤家が新池を造り、その後何度か水路が作り直されて、北串原の農業用水を賄ったという。このとき松平から北串の低地へ流れている川の源流付近で沢を跨ぐ必要から架けられたのが、この石橋。
【ガイド】北串の眼鏡橋が架かる山畑大橋を渡ってすぐに左折。左手に田畑を見ながら作道を上流に向かう。二つ目の別れ道を下って川を越えて上る。棚田で道が無くなったら左手の棚田を登って水路に出て、上流に向かう。季節によっては通路は無い。

写真 5  第 172 番  桜    橋   小浜町雲仙(温泉街に架かる橋)
昭和5年1月  長さ 6.0m  幅員 約5.5m 拡幅されています。
私の好きな福田屋さんの脇、湯川に架かる橋。写真は福田屋さんから撮りました。
雲仙の温泉街の真ん中を通る国道57号線の橋。小浜から上がってくると小地獄の分岐の先に成る。しっかりとした石造アーチ橋。この橋が良く見えるポイントが有ると雲仙温泉街のランドマークになるかも。
ちょっと見た目は、長崎市にある鎮西橋のように石張りのコンクリート橋のような感じを受けるが、これは近年、高欄を付け替えた際に石張りを行ったからだと思える。剥がれかけた化粧張りが違和感を感じさせるのだろう。

小浜町山畑のヤマモモ  雲仙市小浜町山畑

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小浜町山畑のヤマモモ  雲仙市小浜町山畑

雲仙市小浜町山畑のアーチ石橋「安平橋」を見に行って見かけた木。金浜から上がり諏訪の池へ行く県道30号線途中の北串山中・小学校の少し先から広い道に右折する。まだ先のエネオス給油所側からも行ける。福祉施設「かおり」があり、角を左折すると「下区集会所」と墓地がある。

車道を回り込むと石垣に囲まれた家があり、柳本宅である。入り口両側にかなり大きい2本のヤマモモの木が立つ。主人の話では、”マカゼ”と言っているが、ヤマモモの仲間。100年以上は経っているらしい。
雲仙グリーンロード「山畑大橋」の下流の方角となる。石橋「安平橋」はすぐ先である。

加津佐のエノキ  南島原市加津佐町己

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加津佐のエノキ  南島原市加津佐町己

加津佐東小学校近くで見かけたエノキ。学校前の橋から河口を眺めると、左川端の住宅地の上にこの木が目立った。奥の家の庭に生えてるようだが、路地が複雑で門に鍵していた。勝手に入るわけにいかない。
周りを回って裏から眺めると、根元に地蔵堂のようなものがある。少し高いところに生えているから大きく見えるのだろう。根元へ行けず幹周りは確認できない。

加津佐を回って、岩戸山樹叢以外は巨木は見あたらなかった。このエノキと岩戸山入口に行く海岸べたのアコウが目についたくらいである。 

岩戸山樹叢  南島原市加津佐町己

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岩戸山樹叢  南島原市加津佐町己

国道251号線で島原半島の西岸を回る。加津佐に入ると、野田浜海水浴場の先にこの山が見える。海に突き出た陸けい島。山自体が天然の展望台をなしている。山麓に巌吼寺がある。
長崎県HP「長崎県の文化財」による説明は次のとおり。

岩戸山樹叢  天然記念物(国指定)

指定年月日 昭和3年3月31日 所在地 南高来郡加津佐町字岩戸山 所有者 加津佐町
岩戸山は凝灰角礫岩からなる海抜100m余の小山である。その地形は,崩積土からなる山麓の傾斜地と母岩がほとんど露出した山頂の岩角地とから成る。
山麓の傾斜地には,タブノキやスダジイを主木とする照葉樹林がある。その樹高は12〜17m,高木の幹径は70cmに達する。イスノキ・ショウベンノキ・オガタマノキ・ヤマモモ・ヤブツバキなどの照葉樹を混じえ,林下にはアオノクマタケラン・ノシラン・ヤブラン・フウトウカズラ・オオイワヒトデなどの常緑草木が密生する。この林相は,島原半島南部の低地の照葉樹林の原形をよく残している。
山頂の岩角地にはクロマツが広く生育しているが,イワシデ・イワガサ・マツバウツギ・キハギが岩角地特有の群落を形成する。ほかにハカマカズラ・ノグルミもここに分布している。

さるいて健康ライフ   寄稿  H.YAMANAKA

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さるいて健康ライフ   寄稿  H.YAMANAKA

一昨年「退職者の会会報」にみさき道人さんの江戸期のみさき道のこと、東樫山の藩境石塚、大久保山の天明藩境石塚の踏査が3回にわたり掲載されました。歴史のロマンを感じながら興味深く読ませてもらいました。
丁度この頃、公民館講座「町並みの史跡をさるく」が開講されました。この講座は申込者が多く、運よく抽選に当り受講することができました。講師の江越弘人先生(著書「長崎の歴史」などあり)は滑石村とキリシタンの話しから始まります。

さるくのスタートは滑石口道標です。20cm四方、高さ40cm程の石柱が半ば埋もれるように立っています。滑石公民館正門近くにあります。
左へ三重道、右へ時津道の道標です。ここに立てば私たちに何かを語りかけてくるような気がします。当時の行き交う人の話し声、足音、蹄の音、耳を傾け偲ぶ。これより時津方面へ向かえば打坂峠にさしかかる。

今は国道206号線が走り、時津街道最大の難所といわれたそれらしき箇所はなにも見当たらない。その当時の峠の所在は種々の説があるそうです。滑石村が大村藩であったことも、このとき知りました。
滑石の住人になって27年になる。己の無知、無関心に全くあきれるばかりである。滑石地区には30余に及ぶ史跡や由緒ある墓地などがあるそうです。

今からでも遅くない。さるけ、さるけで我が町に強くなろう。せっかく講座で長崎の街のあちこちの史跡を教えてもらいましたので、また、さるいてみようかなと気持ちを掻き立てています。
減退していく脳のリフレッシュのためにも。そして、健康ライフとして、「五快二発」。
一 快眠、二 快食、三 快便、四 快気、五 快動。次に、一 発声、二 発汗。
これを柱に据えてさるきたい。最後に温め酒を少々いただくことを日々是、楽しみにしよう。

(註) 滑石の史跡案内図は、1988年編纂委員会編「長崎滑石郷郷土史誌」156頁から
1 六地蔵と三尊仏石窟
2 岩屋山参道口(旧時津街道遺構)
3 旧萬象園(道の尾ラジューム温泉)
4 岩屋クラブ跡(被爆者仮救護所跡)
5 高谷正蔵墓碑
6 小干の浦殉教者遺骨発見の地(江東家)
7 平宗橋街道道標(川上家)
8 平宗寺跡「庵の木戸」
9 平宗無縁墓碑(重橋家)
10 平宗落武者供養塔(松本家)
11 旧滑石小学校跡
12 横道街道道標(旧時津街道)
13 横道角の庄屋宅(菊池高谷家・現柿田宅)
14 白髭宮と虚空蔵
15 肥塚酒造場跡
16 打坂峠竹林(旧時津街道の難所)
17 仁田尾供養塔残欠墓碑群(市指定有形文化財)
18 元・井手庄屋(井手家)、七つが倉跡
19 岩屋神社(神通寺・神宮寺跡)
20 滑石大神宮・同社叢(市天然記念物) 西浦上小発祥の地・被爆者滑石仮救護所跡
21 まご山(きりしたん寺の跡と伝えられる)
22 大庄屋跡(大村家庄屋屋敷)
23 しょうげん寺跡
24 観音様(残欠墓碑群−山下宅)
25 寺川内稲荷明神
26 庵寺供養塔墓碑群(山田宅裏山)
27 式見追分手熊道入口
28 地蔵様
29 藤の平墓地
30 山ん神様
31 釈迦堂(堂屋敷)と納骨堂 

有喜街道をゆく  諫早市街−小ヶ倉−有喜

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有喜街道をゆく  諫早市街−小ヶ倉−有喜

平成20年2月23日、有喜街道をゆく。諫早市街−小ヶ倉−有喜。本明川沿いで、眼鏡橋・御書院・時鐘楼など見る。
野中町の長崎刑務所跡は正門のみ残し、更地となっていた。あと諫早中央保健所と諫早幼稚園ができる。この角に旧県道の道標石「←有喜 明治三十三年」がある。
小ヶ倉ダムは鴨が羽を休めていた。石橋など見ながら、有喜から唐比へ回った。

恵の丘入口のスギ  長崎市三ツ山町

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恵の丘入口のスギ  長崎市三ツ山町

平成20年2月24日、帆場岳(三つ山)に登った帰りに、ひとり恵の丘へ下った。バスに乗るため、恵の丘入口のカーブのところに来ると、数本のスギが並んで立っていた。
この中の1本は大きい。幹周りはちょうど3mあった。
巨木の定義は、木の根元から1.3mのところを測って、幹周りが3m以上のものを「巨木」といわれる。このスギも何とかセーフだろう。

「恵の丘」は、帆場岳の中腹高台。原爆のときの純心の疎開地。長崎純心聖母会の本部があり、昭和45年(1970)4月まず、被爆孤老の奉仕のため原爆ホームが開設され、その後、老人ホーム・純心大学がここにできている。

区—G 帆場岳(三つ山)山頂直下 (確認 長崎要塞区域標 第三十六号)

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区—G 帆場岳(三つ山)山頂直下 (確認 長崎要塞区域標 第三十六号)

この山の標石は山頂直下、登山道の尾根道から8mほど外れて下にあり、「長崎県の山歩き」に記述なく、あまり登山者に知られていない。標石があることを教えてくれたのは、平成18年1月2日「みさき道」初歩きに参加した大手町木村氏である。
西山台団地から現川峠に上がり、最左の現川山の神へ行く方向の車道を400mほど行くと、帆場岳造林管理用道路が山へ上がり、一般の車はチェーンを張って通行できないが、歩くのはよい。

この終点に標石「長崎要塞区域標」「第三十六号」はある。現川峠に道の案内板がある。帆場岳まで尾根登山道は約1.5kmである。どちらを通ってもよいが30分はかかる。
アンテナ塔がある山頂直下、最後の登りにかかる鞍部の道脇下の植林内に標石はある。林道終点のUターン広場が見え、気をつけて見るとわかる。この山が市内・市外のほとんどから眺められるように、山頂標高506mからの展望は抜群である。

諌早市に残るアーチ石橋

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諌早市に残るアーチ石橋

諌早市に残るアーチ石橋は、5橋である。このうち多良見町幸仏橋はすでに紹介済(下記参照)。少ないのは度重なる大水害のためと思われる。
昭和32年(1957)7月25日の「諫早大水害」は記憶に新しい。本明川に架かっていたさしもに堅固な諫早眼鏡橋は、諫早公園内の池に移築された。
HP「長崎県の石橋を訪ねて」による説明は次のとおり。

写真 1  第  2 番  諫早眼鏡橋    諫早市 諫早公園内
天保十年(1839年)8月12日竣工 国指定重要文化財(石橋第一号)
日本百名橋  長さ49.2m 幅員5.5m
諫早の旧市街の中央に諫早公園があり、この中の池に「眼鏡橋」が架かっている。
長崎の眼鏡橋は中島川に架かっているが、諫早の眼鏡橋はこの公園内に移築されている。実際に目で見てみると長崎の石橋に比べて一回り大きくまた、堅固であることが実感できる。
この堅固さ故に諫早大水害の折に流木等がこの橋で留まり堰となって、大きな市街地の水害を引き起こすことになってしまったために、現在地に移転したのは皮肉と言える。

写真 2  第 10 番  諫早市役所の小ヶ倉橋  諫早市役所の東側の掘割に架かる。
大正12(1923)年 昭和62年現在地へ移築  長さ4.2m 幅員3.7m
現在の諫早市役所の敷地は藩政時代から続き、維新後は郡役場や学校の敷地になったりした歴史のある場所。その東側、裏小路側に架かるこの橋は、小ぶりだが端正で落着きを感じる。昔から此処に架かっていた様な雰囲気だが、元々は小ヶ倉川に架かっていた。
石碑の記載に寄れば架橋の請負人は、徳永勘三、陣野久太郎、村川清一、東八重助、横田鹿之助、村川徳太郎、前田善一と思われる。また当初の架橋時には欄干は無かった。
次の写真は、小ヶ倉橋が架かっていた場所だ。この河川改修の時に現在の場所に移築されました。

写真 3  第 46 番  小 川 橋    諌早市小川町
明治43(1910)年  長さ3.5m 幅員1.8m
小ヶ倉川に架かる。小川の団地前の田の中になる。
現在は農業関係の人しか通らないが、もとは諌早の中心街と有喜を結ぶ幹線道路に架かっていた橋。

写真 4  第 63 番  大渕橋(倉渕橋) 諌早市小川町(小ヶ倉ダム堤防下)
大正15(1926)年  長さ 約7.0m 幅員 約4.0m
既に廃道になっており、石橋自体もコンクリートで覆われてしまっている。
最初は無くなってしまったのかと思っていたら、コンクリートで覆われていました。補修の様子から見るとアーチ石自体に変形があったようにも思えます。

なお、多良見町幸仏橋は次を参照。https://misakimichi.com/archives/291