月別アーカイブ: 2012年8月

豊後森機関庫  大分県玖珠郡玖珠町

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豊後森機関庫  大分県玖珠郡玖珠町

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。国指定文化財等データベースには、まだ掲載されていない。

豊後森機関庫

豊後森機関庫(ぶんごもりきかんこ)は、大分県玖珠郡玖珠町の国鉄(現JR九州)久大本線豊後森駅の東側にあった機関庫である。2009年(平成21年)2月6日に「旧豊後森機関区の関連遺産」として扇形機関庫と転車台とが近代化産業遺産に認定されている。2012年(平成24年)、国の登録有形文化財に登録された。

概 要
大分県玖珠郡玖珠町の豊後森駅の東側に、1934年(昭和9年)の久大線全線開通とともに完成。同時に、豊後森機関区も発足した。鉄筋コンクリート造で1,785m²の面積を有し、最盛時には蒸気機関車21台が所属する大規模な機関庫であった。
太平洋戦争中には、米軍機の機銃掃射によって職員3人が死亡する被害を受け、機関庫の壁面にはその際の弾痕が残っている。
蒸気機関車には前後の区別があったため、方向転換のために大規模な扇形機関庫や転車台が必要であったが、ディーゼル機関車やディーゼルカーへの移行が進んだことにともない、1970年(昭和45年)に廃止された。

その後、2001年(平成13年)に地元の有志によって保存委員会が結成され、登録有形文化財の登録を受けるべく活動した。その一環として行われた「一万人の署名運動」では、目標を上回る約23,000人分の署名が集まった。その結果、2012年に登録された。
2006年(平成18年)3月には、玖珠町が旧機関庫と敷地(10,200m²)を3,466万円でJR九州から買収。2008年(平成20年)には、鉄道記念公園整備計画を策定しており、将来的には鉄道記念公園として整備する計画である。

佐世保市に残るアーチ式石橋 (4)

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佐世保市に残るアーチ式石橋 (4)

佐世保市(世知原町・吉井町・宇久町を除く)に残るアーチ式石橋10橋を、先に紹介していた。
https://misakimichi.com/archives/793 ほか。
その後2011年、別に2橋が見つかっているので、きのう確認してきた。HP「石橋・眼鏡橋・太鼓橋・石造アーチ橋」によるデータは、次のとおり。

写 真  1〜  8  山の田自然歩道の石橋
佐世保市桜木町
橋幅:3.3m  径間:1.8m  拱矢:0.9m
環厚:要石45cm  輪石:11列
基礎H:左岸下流側80cm、上流側44cm  右岸下流側70cm、上流側44cm

東側(山の田貯水池奥)からアクセスしました。800mくらい進んだところにそれらしき場所。
上流側は一見すると桁橋ですが、中は石造アーチ橋。
内部は自然石に近い荒い加工ながら、列はきちんと整っています。
川床には敷石。すぐ下流は山の田貯水池の排水口。

写 真  9〜 16  野中町の石橋
佐世保市野中町
橋幅:2.15m  径間:1.6m  拱矢:0.8m
環厚:要石35cm  輪石:7列
基礎部H:0.49m
架設:明治38年(1905)

MR野中駅の佐世保側約60m。目印は旧国道の線路側に露出した壁石のプレート。
「明治三十八年三月竣工」
下流側から潜り込み、桁橋の奥に石造アーチ橋。奥はMR西九州線のRC橋梁。
末永さんのコメント「このような輪石の削り方が長崎県の橋にあったことに仰天。まるで京都の石橋のようだ。しかしなぜこの作り方が広がらなかったのか。少なくとも県北で見ることはできない。」
長崎縣技師 東島權次郎 設計  長崎縣屬 松本松之丞  長崎縣 工手 木村廣楠 董工
上記HPも参照。  http://5.travel-way.net/~niemon/nagasaki/sasebosi/hasi/nonaka.html

佐世保の弓張岳から将冠岳縦走  2012年8月

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佐世保の弓張岳から将冠岳縦走  2012年8月

2012年8月19日(日)晴。佐世保の弓張岳(標高364m)から将冠岳(標高445.1m)縦走。参加6人。みさき道歩会の例会。長崎を車1台で7:30出発。
弓張岳展望台9:30—但馬岳—但馬越10:14—但馬神社10:26—反射塔10:43—将冠岳11:45(昼食)12:15—参道登山口12:36—車道で弓張岳展望台へ戻る13:25(徒歩距離 約7km)

西海橋パールラインなど通り、鹿子前から弓張岳へ登山道路を上り、展望台駐車場へ車を置く。弓張岳は西海国立公園の有名な展望台。市街地と佐世保港、九十九島、西海を一望できる。砲台跡や市民の森の公園から縦走を開始する。

尾根沿いに木立の中に縦走路があり、アップダウンで但馬越や但馬神社、九電反射塔をなんなく通過。将冠岳への最後の登りは、鞍部三叉路から軍用道路跡のようなジグザクな林道が続き、黒姫神社の鳥居まで着くと、すぐ上が将冠岳山頂だった。
岩のある山頂。展望がやっと広けるが、弓張岳から相の浦火力発電所方面だけだった。

昼食後、参道登山口の方へ下る。横尾町から上がってきた車道で、「金乃比羅神社」の赤鳥居がある。帰りはこの車道により弓張岳へ戻る。九州自然歩道の標識がある所から木道の坂道を上がると、弓張岳展望台の駐車場へ出た。

後ろの写真は、山の田貯水池自然歩道でアーチ式石橋を確認(別記事とする)後、瀬戸越町の名所「眼鏡岩」を見学に行った。海食洞穴の隆起。自然にできた見事な造形だろう。
眼鏡岩は、本ブログ次を参照。 https://misakimichi.com/archives/773

高知城跡  高知県高知市丸ノ内

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高知城跡  高知県高知市丸ノ内

国指定文化財等データベースによる解説は、次のとおり。

名称: 高知城跡
ふりがな: こうちじょうあと
種別1: 史跡
指定年月日: 1959.06.18(昭和34.06.18)
追加年月日: 2007.07.26(平成19.07.26)
指定基準: 二.都城跡、国郡庁跡、城跡、官公庁、戦跡その他政治に関する遺跡
所在都道府県: 高知県
所在地(市区町村): 高知市丸ノ内
解説文:
慶長5年山内一豊は土佐国に封ぜられ、翌6年1月掛川城から浦戸城に移ったが、大高坂山の地を選んで築城することとなり、9月鍬初を行い、同8年8月入城した。城の成ったのは子忠義のとき、同16年頃と思われる。
大高坂山は、南に鏡川が、北に江ノ口川がそれぞれ東流する間に挾まれた平地中に屹立する独立丘陵であって、南北朝時代には大高坂松王丸が、降って天正年間には長曽我部氏もここに拠ったことがあり、要地であったことがうかがわれる。
最高所を本丸とし、その北に通路を兼ねた空堀を隔てて稍々低く2の丸を配し、2の丸の東に一段低く3の丸を置く。本丸、2の丸の西から北をめぐり、3の丸の東にわたって獅の段や帯郭状等の平地を連ねている。城壁はすべて石垣をもって固められ、大手口は南東麓に東に向って開き、搦手口は西麓に位する。堀は山裾をめぐって北方江ノ口川の邊に達していたが、いま追手門から南麓居館跡をめぐってその面影をとどめている。
規模必ずしも雄大と称すべきものではないが、その郭、通路等の配置は巧みで、要を得、就中詰門を構えた本丸、2の丸間の通路の設計はひろく賞讃されているところである。
もとより変改のあともあるが、縄張は略々全容をとどめ、天守を始め、本丸書院、詰門、追手門等建物も多く、近世城郭の遺構として、学術上貴重である。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

高知城
高知城(こうちじょう、Kōchi Castle, Kōchi-jo)は、高知県高知市(土佐国土佐郡高知)にあった城。別名、鷹城(たかじょう)。
江戸時代、土佐藩の藩庁がおかれた。江戸時代に建造された天守や追手門等が現存し、城跡は国の史跡に指定されている。日本100名城に選定されている。

概 要
高知市のある高知平野のほぼ中心に位置する大高坂山(標高44.4m)上に築かれた、梯郭式平山城。山の南を流れる鏡川、北の江の口川をそれぞれ外堀として利用している。

戦国時代以前には大高坂山城(おおたかさかやまじょう/おおたかさやま-)[1]または大高坂城と呼ばれる城が築かれていた。現在見られる城は、江戸時代初期に、土佐藩初代藩主・山内一豊によって着工され、2代忠義の時代に完成し、土佐藩庁が置かれた。4層6階の天守は、一豊の前任地であった掛川城の天守を模したといわれている。一豊により河中山城(こうちやまじょう)と名付けられたが、高智山城と名を変えたのち、現在の城名となった。

高知城は本丸の建物が完全に残る唯一の城として知られている。明治6年(1873年)に発布された廃城令や、第二次大戦による空襲を逃れ、天守・御殿・追手門など15棟の建造物が現存し、国の重要文化財に指定されている。現在これらは高知県の所有物となっている。また、この15棟の現存建造物に加えて、土佐山内家宝物資料館に丑寅櫓の一部であると伝わる部材が収蔵されている。

城全域は高知公園として開放されており、本丸御殿・天守は懐徳館という資料館として利用されている。城の周辺には、高知市役所、高知県庁、地方裁判所、地方検察庁などの行政機関や司法機関が立ち並び高知県の行政の中心地となっている(県庁舎のみ実質的には公園内にある)。
また、城内には山内一豊と妻・千代(見性院)、板垣退助の銅像が立つ。

長崎への帰路は、須崎市から国道381号などにより愛媛県八幡浜港へ出て、別府港へフェリーで渡った。

杉の大スギ  高知県長岡郡大豊町

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杉の大スギ  高知県長岡郡大豊町

国指定文化財等データベースによる解説は、次のとおり。

名称: 杉の大スギ
ふりがな: すぎのおおすぎ
種別1: 特別天然記念物
指定年月日: 1924.12.09(大正13.12.09)
特別指定年月日: 1952.03.29(昭和27.03.29)
指定基準: (一)名木、巨樹、老樹、畸形木、栽培植物の原木、並木、社叢
所在都道府県: 高知県
所在地(市区町村): 長岡郡大豊町
解説文:
天然紀念物調査報告(植物之部)第四輯 一〇一頁 參照 天然紀念物解説 一六一頁 二株ノ杉ノ巨樹相接近シテ立テリ其中南方ニアルヲ南大杉ト云ヒ北方ニアルヲ北大杉ト言フ 南大杉ノ根廻リ五丈二尺四寸幹ト根ノ境界部ノ周圍五丈五尺二寸境界部ヨリ五尺上ノ幹圍四丈九尺アリ 北大杉ノ根廻リ五丈三尺幹ト根ノ境界部ノ周圍四丈四尺境界部ヨリ五尺上ノ周圍三丈五尺アリ 南大杉ハ杉ノ最大巨樹ノ一ニシテ石徹白ノ杉ト伯仲ス 二株の杉の巨樹相接近して立ち、夫々南大杉、北大杉という。 南大杉の根廻り15.87メートル、幹と根の境界部の周囲圍16.72メートル、境界部より1.50メートルの幹囲11.81メートルあり。北大杉の根廻り16メートル、幹と根の境界部の周囲10.60メートルあり。南大杉はわが国における最大の杉として貴重なものである。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

杉の大スギ

杉の大スギ(すぎのおおスギ)は、高知県長岡郡大豊町杉の八坂神社境内に生育しているスギの巨木である。推定の樹齢は3000年以上といわれ、1924年には国の天然記念物、1952年には国の特別天然記念物に指定された[1][2][3]。根元で「北大スギ」と「南大スギ」の2本の株に分かれており、神社にみられる木としては、日本最大のものとされ、古来から信仰の対象となっていた[2][4][5]。大豊町(旧大杉村)出身の軍人山下奉文は、この木に因んで「巨杉」(きょさん)という雅号を使用していた[2][6]。著名人の参拝記録が多く、幕末には山内容堂や坂本龍馬、第2次世界大戦後には美空ひばりなどがこの木を訪れている[2][4][7][8]。特にひばりとこのスギにまつわる逸話は名高く、その縁によって遺影碑と歌碑が彼女の没後に建立された[2][4][7]。

由 来
この木は素戔嗚尊が植えたという言い伝えがあり、推定樹齢の根拠とされる[2][4][9]。古文書には、10世紀初めの延喜12年(912年)に京都から来た杉本太郎義家という武士が、木の根元に祇園牛頭天王、貴船大明神、行基菩薩の三尊像を祀ったとの伝承が記されている[2][3][9]。木は根元で2本に分かれ、それぞれ「北大スギ」、「南大スギ」と呼ばれる[2][9]。

2本のうちでは南大スギの方がやや大きく、根周りが約20メートル、樹高が約60メートルあり、日本最大のスギとされる[10]。北大スギは根周りが約16.5メートル、樹高が約57メートルあり、岐阜県郡上市に生育する国の特別天然記念物「石徹白の大スギ」に匹敵する巨木である[4][10]。このスギは「神代スギ」「天王スギ」「夫婦スギ」などと、異名を多く持つ[2][9]。受胎・安産や護身のご利益があるとしてこのスギの樹皮をひそかに剥ぎ取る者が多かったために、樹皮が薄くなったところが盛り上がって不整形の形状をなしている[11]。

このスギの所在地はもともと旧大杉村の杉という地名だったところで、村の名、字名、そして土讃線の駅名もこのスギに由来している[9][8][10]。…
杉の大スギは1954年9月26日の台風9号、1970年8月21日の台風10号によって大枝が折れるなどの被害を受けた[3]。とりわけ1954年に大枝が折損したときは、枝1本でトラック7台分になるほどであった[9]。近年の観光客増加によって根元付近の踏み付けによる樹勢の衰えが懸念されるため、高知県や文化庁の援助のもとに大豊町が保護対策を行い、施設整備協力費としてこのスギやひばりの歌碑を観覧する観光客から大人1人につき200円を徴収している[5][7]。

杉の大スギは1924年12月9日に国の天然記念物に指定され、第2次世界大戦後の1952年3月29日には、特別天然記念物に改めて指定された[1][3][14]。1990年に開催された「国際花と緑の博覧会」に合わせて企画された「新日本名木100選」にも選定されている[2][15][16]。

所在地  高知県長岡郡大豊町杉 八坂神社境内
交 通  JR四国土讃線・大杉駅下車、徒歩800メートル

豊楽寺薬師堂  高知県長岡郡大豊町

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豊楽寺薬師堂  高知県長岡郡大豊町

国指定文化財等データベースによる解説は、次のとおり。

名称: 豊楽寺薬師堂
ふりがな: ぶらくじやくしどう
員数: 1棟
種別: 近世以前/寺院
時代: 平安後期
年代: 仁平元頃
西暦: 1151頃
構造及び形式等: 桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、こけら葺
指定番号: 00100
国宝・重文区分: 国宝
重文指定年月日: 1904.08.29(明治37.08.29)
国宝指定年月日: 1952.11.22(昭和27.11.22)
所在都道府県: 高知県
所在地: 高知県長岡郡大豊町寺内
所有者名: 豊楽寺
解説文:
豊樂寺は聖武天皇の勅願によって行基菩薩の開基と伝える。今の藥師堂の建立年次は明らかでないが、様式手法上より藤原時代の建立と思われる。変った平面を持っているが当初からこうした計画であったようである。
比較的太い疎垂木に大きい小舞の軒廻り、内陣の佛壇及び勾欄等よく時代の特徴を示している。この堂は四国地方最古の建築として貴重である。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

豊楽寺
豊楽寺(ぶらくじ)は高知県長岡郡大豊町にある真言宗智山派の仏教寺院。正式名は太田山大願院豊楽寺、別名は柴折薬師で、日本三大薬師[1]の一つに数えられる。国宝薬師堂内に安置される伝行基作の薬師如来を本尊とする。

歴 史
724年(神亀元年)、吉野川北岸の険しい丘に聖武天皇の勅願所として行基が開創したと伝わる。寺号は聖武天皇が薬師本願経説の一節「資求豊足身心安楽」より名付けたとされる。

文化財
薬師堂国宝
薬師堂 – 平安時代末期建立の四国最古の建造物。入母屋造り、柿葺き、単層、正面5間、側面5間。内陣に如来像3体を安置。1952年に国宝指定。堂正面は中央3間を観音開きの板扉、両端間は連子窓に横板壁とする。側面は前端間を板扉とするほか横板壁、背面はすべて横板壁である。組物は舟肘木、垂木は疎垂木で全体に簡素な構えとする。堂内安置の薬師如来像の胎内に仁平元年(1151年)の年記とともに「五間四面薬堂造立」云々の記があり、この頃に建立されたものと推定される。

拝観情報  開門時間 – 9〜16時
交通アクセス – 土讃線 大田口駅 徒歩30分
所在地 – 〒789-0234 高知県長岡郡大豊町寺内314

吉野川中流と大歩危・小歩危  徳島県三好市山城町ほか

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吉野川中流と大歩危・小歩危  徳島県三好市山城町ほか

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

大歩危峡

大歩危(おおぼけ)は、吉野川中流域に位置する渓谷(先行谷)。
吉野川西岸の徳島県三好市山城町西宇地区の歩危茶屋付近から高知県長岡郡大豊町大久保地区の一部までと、その対岸となる徳島県三好市西祖谷山村の一部を指す総称でもある。峡谷そのものを指す場合は大歩危峡(おおぼけきょう)と呼ばれることが多い。夏季には多くのラフティング・カヤック愛好者を集めるほか、百年以上の歴史がある大歩危峡遊覧船で知られている。数km下流の小歩危(こぼけ)と共に、大歩危・小歩危(おおぼけ・こぼけ)として一括りにされることが多い。剣山国定公園に含まれている。
大歩危駅から下流側1キロメートルの国道32号線沿いに「ラピス大歩危」という、岩石・鉱物を展示した博物館がある。
なお、那賀川上流域の徳島県那賀郡那賀町にも歩危峡(ほききょう)という峡谷があるが、大歩危とは関係ない。

地名の由来
川沿いに変成岩類が露出する一般には漢字説(「大股で歩くと危険」)が有名であるが、昔から現在の漢字で表記していたわけではなく間違いである。 「ほき、ほけ」は断崖を意味する古語である。「おおぼけ」という音に対して、文化12年(1815年)編纂の阿波史では「大嶂」の字を充てており、明治6年(1873年)の地租改正の際に当時の三名村は「大歩怪」の字を充てている。地租改正の際に「こぼけ」には「小歩危」の字を充てており、後に「小歩危」に合わせて「大歩危」と表記するようになった。

大歩危峡の特徴
この地域の地質は三波川帯に属し、変成岩類で構成されている。大歩危は砂質片岩および黒色(泥質)片岩を主体として構成され、吉野川沿いは砂質片岩が多く露出する。変成岩中に礫(れき)の原型を留めた礫質(れきしつ)片岩が含まれているものもある。大歩危の礫質片岩は含礫片岩として徳島県天然記念物に指定されている。

加茂の大クス  徳島県東みよし町加茂

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加茂の大クス  徳島県東みよし町加茂

国指定文化財等データベースによる解説は、次のとおり。

名称: 加茂の大クス
ふりがな: かものおおくす
種別1: 特別天然記念物
指定年月日: 1926.10.20(大正15.10.20)
特別指定年月日: 1956.07.19(昭和31.07.19)
指定基準: (一)名木、巨樹、老樹、畸形木、栽培植物の原木、並木、社叢
所在都道府県: 徳島県
所在地(市区町村): 三好郡東みよし町
解説文:
天然紀念物調査報告(植物之部)第二輯 一二四頁 參照  第六輯 三九頁 天然紀念物解説 一四四頁 本樹 Cinnamomum Camphora Nees. et Eberm. ハ田圃ノ間ニ立テリ地上五尺ノ幹圍四丈、地上二間ノ處ヨリ十二本ノ太キ枝ヲ分ツ枝ハ七八十尺ヅヽ四方ヘ擴リ樹形壯大ナリ

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』による解説は、次のとおり。

加茂の大クス
加茂の大クス(かものおおクス)は、徳島県東みよし町加茂(旧三加茂町)にあるクスノキの巨木。国の特別天然記念物に指定されている。新日本名木百選選定。

概要・歴史
吉野川南岸のJR徳島線阿波加茂駅の北東にる、旧若宮神社の社地跡にあり、源平の頃よりあると伝わっている。1926年(大正15年)内務省告示第58号により天然記念物に指定され、1956年(昭和31年)に文化財保護法に基づき国の特別天然記念物に指定された。
昭和以降、周辺の開発の影響により樹勢が低下したため、県や町により周囲の水田を買い取り、周囲に土を入れるなどして、樹勢の回復につとめている[1]。

データ
平成19年11月1日の環境省による計測値
所在地:東みよし町加茂1482番地
樹齢:約1000年
根回経:23.35m 幹経:16.72m(環境省巨樹測定基準) 14.10m(地上1.3m凹凸を含まない)
樹高:26m 枝張東西:52m 枝張南北:42m

中山路のイチョウ  徳島県美馬市美馬町

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中山路のイチョウ  徳島県美馬市美馬町

美馬市HPの市指定文化財1(史跡名勝天然記念物)による解説は、次のとおり。

中山路のイチョウ(なかやまじのいちょう)

所在地:美馬市美馬町字銀杏木69
平成13年12月7日 市指定

郡里廃寺跡〔国史跡〕の中心部に位置する樹周約12mの銀杏の巨樹。樹齢は、約700年といわれている。数十年前に主幹が伐採されてしまったが、過去には32m程の樹高があったそうである。
この銀杏は雌の木であり、秋には大量の実をつける。雌の木としては全国でも屈指の規模である。

郡里廃寺跡  徳島県美馬市美馬町

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郡里廃寺跡  徳島県美馬市美馬町

国指定文化財等データベース及び美馬市HPによる解説は、次のとおり。

名称: 郡里廃寺跡
ふりがな: こおざとはいじあと
種別1: 史跡
指定年月日: 1976.03.22(昭和51.03.22)
追加年月日: 2006.07.28(平成18.07.28)
指定基準: 三.社寺の跡又は旧境内その他祭祀信仰に関する遺跡
所在都道府県: 徳島県
所在地(市区町村): 美馬市
解説文:
S50-12-042[[郡里廃寺]こうざとはいじ]跡.txt: 吉野川の北岸、扇状地上に営まれた白鳳時代創立の寺院跡である。早くから立光寺跡として知られていたものであり、調査の結果法起寺式伽藍配置をとるものであることが判明した。塔跡基壇は各辺12メートルをはかり、塔軸部初重の1辺は中の間が2.3メートル、両脇間はそれぞれ2.08メートルと復原することができる。塔心礎は旧地表下に据えたものであり、中央に径13センチ、深さ6.5センチの舎利孔が穿たれている。心礎上に据えた心柱は、南北径1.06メートル、東西径1.08メートルをはかる不整八角形を呈し、心柱四周を根巻板で囲むことが知られた。金堂跡は東西18メートル、南北15メートル前後と復原される。塔、金堂間の心を東西に47メートルへだてた位置に石敷列が走り、その下方に土塁を発見しており、また塔、金堂心より南北に60メートルをへだてた位置で同様な遺構を発見し、寺域をほぼ知ることができる。
現段階では徳島県下最古の寺院の一つとして、また、遺構をよくとどめている寺院跡として、きわめて重要な寺院といえるであろう。

(美馬市HP解説)

国指定史跡「郡里廃寺跡」
郡里廃寺跡は、白鳳時代(約1300年前)に創建された県内最古の寺院跡として昭和51年に国史跡に指定されています。これまでの発掘調査で、塔跡、金堂跡や寺域が判明しており、塔と金堂を東西に並べた法起寺式伽藍配置であることが明らかとなっています。
特に塔跡は、心礎が基壇下におかれる地下式の構造であり、これは古代寺院跡などでも古いタイプのものにみられる特徴であり、注目されます。
郡里廃寺跡のもつ遺跡の重要性は、創建年代の古さのみでなく、段の塚穴や郡衙関連地名などとの時間的、地理的関係にもあります。郡里廃寺跡と段の塚穴の太鼓塚古墳は、約100年の時期差、約2㎞という近接した立地であり、郡を治める役所である郡衙を示唆する地名である「郡里」や交通の要衝である駅屋の存在の存在を示唆する「駅」「馬次」も近隣に存在します。これらのことから郡里廃寺跡は、太鼓塚古墳の被葬者の子孫が一族の氏寺として建立したものであり、郡里廃寺跡を建立した一族が美馬郡を統括した郡司であったことが想像されます。