川原慶賀「長崎港眺望図」は、どこから描かれたか
2014年(平成26年)1月5日付の長崎新聞第1面トピックス記事は、次のとおり。
日本唯一の道教の寺だった「崇玄観(すうげんかん)」を、川原慶賀「長崎港眺望図」から特定し、位置を現在の椎の木町、創建時期不明とされる「丸尾神社」一帯ではないかと、発表されている。
「昨年9月…本格的な検証を始めた。その結果、愛宕4丁目から眺めると愛宕山や岩屋山などの稜線(りょうせん)が重なることを突き止め、眺望図の位置関係や正確性を確認」したとある。
川原慶賀の作品に道教の寺
江戸時代の絵師、川原慶賀が長崎市街を表現した風景画「長崎港眺望図」に、日本では具体的な場所などが確認されていなかった中国の民間宗教「道教」の寺が描かれていることが分かった。調査に当たっている長崎史談会の原田博二会長(67)は「日本唯一の道教の寺に間違いない」としている。
眺望図は4枚一組。出島のオランダ商館員フィッセルのコレクションとされ、オランダのライデン国立民族学博物館が所蔵している。江戸期の1820年前後の風景とみられ、田上方面の山あいに小さく描かれた建物の詳細が不明だった。
道教の寺は「道観」と呼ばれ、国内で場所が特定されたことはない。原田会長は以前から、17〜18世紀の人物の伝記「長崎先民伝」(1731年、盧千里著)に国学者大江宏隆が長崎奉行所の位置から南の方角の田上に道教の寺を建て、「崇玄観(すうげんかん)」の名を同奉行に与えられたとの記述がある点に着目していた。
眺望図の詳細不明の建物について「正確に描くことで定評のある慶賀が、ありもしないものを描くはずがない」と考えていた原田会長は昨年9月、同博物館のマティ・フォラー研究員の協力で複写、本格的な検証を始めた。その結果、愛宕4丁目から眺めると愛宕山や岩屋山などの稜線(りょうせん)が重なることを突き止め、眺望図の位置関係や正確性を確認。建物の場所が先民伝の記述と一致したことなどから崇玄観と特定した。位置は現在の椎の木町。
一方、長崎総合科学大建築学科の村田明久教授(63)は建物の屋根に注目。「反った屋根は寺院の特徴。手前の屋根は平たんなので住居などだったのでは」とする。
今後、原田会長は調査をさらに進め、村田教授は崇玄観の模型作りに取り組む。道教の考え方を伝える日本道観(総本部・福島県)の早島妙聴副道長によると、道教は老子が開祖し、日本には中国から文字が入ってきたころ伝えられたとされるが広まらなかったという。
早島副道長は「(寺の特定が)日中文化交流のよいきっかけになれば」と期待。崇玄観があった場所一帯には現在、創建時期不明とされる丸尾神社がある。地元の椎の木町第二自治会の山本誠一会長(78)は情報を収集中で「町づくりにつなげたい」と張り切っている。
以上がその記事だが、私は長崎新聞を購読していないから、掲載を知らなかった。ある方から、私ブログにコメントが入った。
「新聞記事にある地名などの場所と、慶賀の絵が違うような気がするのですが…正しい位置関係でしょうか。ご検討いただければうれしいです。…そもそもこれほどの規模の道教の寺院が長崎に存在していたら数ある長崎の古史誌にも記載されていると思うのですが…私見では田上寺のように思われます」という内容だった。
疑問はもっともである。私もすぐ疑問を感じた。絵図の全体的構図の現地確認が、あまりなされていないのではないだろうか。
新聞に掲載された絵図は、小さく3枚?組みとなっている。右端のみ長崎歴史文化博物館HPに、「作品名:長崎湾(港?)眺望図 写真提供:ライデン国立民族学博物館」として公開されており、詳細な絵図が確認された。
これからすると、「出島」など描かれ、たしかに右端の尾根は「愛宕山」のようであり、「岩屋山」との稜線の重なりから、「愛宕4丁目」あたりから描いていると考えられる。
都市計画道路(県道)「愛宕4丁目」バス停あたりのことかと思われるが、ただし、ここからでは、小島方面の高台が見えるだけで、「星取山」、「鍋冠山」、港口の島々(「高鉾島」と「沖ノ島・伊王島」と思われる)は見えない。「長崎港眺望図」は、ずいぶん高度がある位置から描かれている。
私は長崎歴史文化博物館HPに詳細画像があると知らず、最初は「風頭山」の公園展望台からを考えたが、しっくり行かない。右端の稜線が、立山方面となるのである。
正確に調査したわけではないが、これは「愛宕4丁目」というより、むしろ現在の「弥生町」長崎女子短大附属幼稚園グランド側あたりから描かれたように思われる。国土地理院明治34年旧版地形図を確認すると、ここは昔からの重要な高台の峠だったのだろう。旧道の残った道の続きも確認した。現在の車道峠は、南側へ少し移動して建設されていると思われる。
実際、ここからなら川原慶賀の描いた風景が、写真と説明のとおり広がり、全体を確認できる。「高鉾島」の位置が疑問だが、絵図には多少なデフォルメもあるだろう。
これからすると、道教の寺「崇玄観」があったとする場所は、大浦の谷奥にある椎の木町「丸尾神社」一帯とはならない。ここから、「丸尾神社」はまったく見えない。絵図に注釈された「星取山」は、実際は右の山であり、この山の正しくは「唐八景」なのである。
長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」86頁のとおり、「徳三寺」は、明治維新後、廃寺となった黄檗宗「観音寺」跡に、杉山徳三郎が明治29年に開創した寺である。絵図に描かれているのは、この「観音寺」ではないだろうか。
絵図の制作年代1820年前後には、寺の建物は現存していただろうと、「徳三寺」記録を調べてもらった。小島の高台を左横へ進む黒線は、ピントコ坂を上がった「旧茂木街道」だろう。「観音寺」は街道上部にあった。
あるいは、その左側「田上寺」も考えられるが、竹林で見えない位置にある。
最近の「新長崎市史 近世編」でも、古写真解説の間違いが感じられた。高名な先生だけに、慎重な研究をお願いしたい。「新長崎市史 近世編」古写真の疑問は、
https://misakimichi.com/archives/3190
長崎新聞も少しは現地確認を行い、読者にわかりやすい記事と図版とするようお願いしたい。絵図の判断に重要な、左右部分の一部をカットして掲載するのは、読者のためにならない。
私の現地調査の結果を、すべて正しいと思っていない。今後の研究のため、あくまで参考資料として掲げるので、詳しい説明を省いたところがある。
長崎名勝図絵による「崇玄観」の編述は、本ブログ次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/3909