月別アーカイブ: 2014年1月

宮川雅一氏の長崎郷土史・新“岡目八目”  ピースミュージアム

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宮川雅一氏の長崎郷土史・新“岡目八目”  ピースミュージアム

長崎の明治・大正・昭和を紹介する「宮川雅一氏の長崎郷土史・新“岡目八目”」が、ナガサキピースミュージアム(長崎市松が枝町)で開催されている。
同ミュージアムの企画展資料は、次のとおり。

期  間 *2014年1月28日(火)〜2月23日(日) 入館無料
開  館 *9:30〜17:30  ※最終日は14:00まで
休  館 *2月3、10、17日(月)

郷土長崎をこよなく愛する宮川さんが、宮川家に残る古写真を中心に出版したエッセー<「郷土史・岡目八目」長崎新聞社2013年9月刊>を膨らませて明治・大正・昭和の長崎を紹介します。
親族に写真の元祖上野彦馬に師事した写真家もおり、明治から大正期の中国・上海「街並み」の貴重な写真などを公開します。

長崎学の第一人者である宮川雅一さんは、1986年に長崎市助役を退職後、長崎都市経営研究所を設立するなどして、ふるさと長崎を盛り立てて来られました。
現在も長崎史談会相談役、長崎近代化遺産研究会会長、長崎聖福寺大雄宝殿修復協力会世話人代表など多くの役を担っておられます。

2014長崎ランタンフェスティバル開幕前夜

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2014長崎ランタンフェスティバル開幕前夜

開幕前夜、1月30日午後6時と9時頃のメイン会場、新地湊公園などの様子。長崎観光・宿泊ガイド”あっ!とながさき”は、次のとおり。

2014長崎ランタンフェスティバル

長崎の冬の灯りの祭典である、長崎ランタンフェスティバルが今年も華やかに開催されます。約15000個もの中国提灯(ランタン)や、その年の干支のメインオブジェをはじめとする大型オブジェなどがところ狭しと飾られ、長崎の街を極彩色に彩ります。
期間中は、龍踊りや中国雑技などの中国色豊かなイベントも行われます。毎土曜日は清朝時代に皇帝、皇后が民衆と一緒に新しい年を祝う様子をイメージした皇帝パレード、毎日曜日には江戸時代に長崎に入港した唐船の乗組員達が、航海安全の神である媽祖を媽祖堂まで安置する様子を再現した「媽祖行列」が行われます。

〈開催期間〉 1月31日(金)〜2月14日(金)
〈点灯式〉 1月31日(金) 17:30〜18:00 新地中華街会場、中央公園会場にて行います。
〈皇帝パレード〉 2月1日(土)・8日(土) 14:00〜16:30
〈媽祖行列〉 2月2日(日)・9日(日) 14:00〜17:20
〈会 場〉 新地中華街会場、中央公園会場、唐人屋敷会場、興福寺、鍛冶市会場、浜んまち会場、孔子廟会場
※ステージイベントの時間は各会場、イベントによって異なります。

川原慶賀「長崎眺望」全図と、どこから描かれたか再考

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川原慶賀「長崎眺望」全図と、どこから描かれたか再考

2014年(平成26年)1月5日付の長崎新聞第1面トピックス記事において、日本唯一の道教の寺だった「崇玄観(すうげんかん)」を、川原慶賀「長崎港眺望図」から特定し、位置を現在の椎の木町、創建時期不明とされる「丸尾神社」一帯ではないかと、発表されている。
私たちはこれに疑問を感じ、本ブログで疑問点を先に指摘しているので、次を参照。
川原慶賀「長崎港眺望図」は、どこから描かれたか
https://misakimichi.com/archives/3908
長崎名勝図絵による「崇玄観」の編述
https://misakimichi.com/archives/3909

眺望図は4枚一組。出島のオランダ商館員フィッセルのコレクションとされ、オランダのライデン国立民族学博物館が所蔵している。江戸期の1820年前後の風景とみられる。
長崎新聞では左側の3枚しか掲載がなく、それも左右端の一部をカットして、読者にとってわかりにくい記事と図版である。
西武美術館1980年発行「鎖国の窓を開く:出島の絵師 川原慶賀展」(制作講談社)に、右側の1枚となる金比羅山など続いて描いた部分があった。これで眺望図全体の詳細な画像を見ることができる。
同巻末の解説は、次のとおり。眺望図はライデン博物館HPにも収録されているようである。

●長崎眺望 184〜187                        絹本著色 4枚一組 (B)
長崎の一大眺望である。4枚合せると270センチにもなるこのような眺望図の例を私は知らない。神戸市立南蛮美術館に衝立になった慶賀筆「長崎港図」(絹本69.0×85.5cm)があるが、本図もまた「長崎港図」とあまり時期を隔てずに描かれたものと考えられる。「長崎港図」とは視点を変え、長崎の北東部おそらく彦山からの眺望であろう。
この地点から視野に入るすべてを写している。一つ一つの山や島の形から市街地の家並、道筋にいたるまで、見えるそのままを遠近法を用いて描き、不自然さを感じさせない。慶賀はシーボルトとの出会い以後いっそう洋画的手法による写実性を増していくが、本図は、それ以前にすでに洋画的技法をかなりの程度まで会得していたことを示している。      (兼重 譲)

さて、この川原慶賀「長崎眺望」は、どこから描かれたのだろうか。金比羅山など描いた4枚一組の、右側1枚の存在まであまり調べてなかったので、現地確認調査をし直した。
調査に協力した方のコメントなどが多く推測したとおり、これは「愛宕4丁目」(どこを特定されたか、「弥生町」との町境も説明が不明)や、「彦山」からではない。
絵図のポイントは、稲佐山と岩屋山の稜線重なり具合と、港口の高鉾島や伊王島などが同じように見えるかで、おおよそが判断できる。

「弥生町の高台、長崎女子短期大学背後の標高240mのピーク」から描いたものと、やっと確信できる地図や資料が揃った。
これによると、道教の寺「崇玄観」は、椎の木町「丸尾神社」一帯にあったと考えにくい。茂木村田上名にあった黄檗宗「観音寺」(現在は「徳三寺」)の建物を、眺望図で道教の寺と勘違いされているのではないかと、あらためて感じた。
絵図説明の「星取山」は、ここは「唐八景」と思われる。「長崎名勝図絵」の崇玄観記録は研究されたのだろうか。

現地の現在のピークは、藪の広場となっている。周囲は雑木や竹の高い木立に覆われ、慶賀図どおりの長崎眺望全体は、伐採しない限り確認できない。現在の写真はそのため、図とかなり合わないが、できる限り付近から撮影したものを載せているので、繋ぎ合わせて全体を考え、それぞれが研究を進めていただきたい。詳しい理由や写真説明は省く。
山名や地名などは、主なものだけ表示した。推定地点からのカシミール3D作図は、升本氏、国土地理院地形図による対象山などとの線引き確認は、入江氏の協力による。

(地図線の説明) 地図の北から反時計回りに
青 線  慶賀の絵の右端
赤 線  琴ノ尾岳 金比羅山 風頭山 愛宕山 岩屋山 茂里町新田堤角 正覚寺 出島 稲佐山
青 線  慶賀の絵の中央、二枚繋ぎ(正確には四枚)の中央
赤 線  鍋冠山 天門峰 伊王島と沖ノ島の界 高鉾島 沖ノ島左端 徳三寺(観音寺) 星取山 唐八景 熊ヶ峰
青 線  慶賀の絵の左端

「伊能忠敬測量日記」は、茂木街道の測量を、次のとおり記録している。眺望図に描かれている横黒線は、ピントコ坂を上がって田上を通るこの旧茂木街道なのである。
「文化十年八月二十三日(1813年9月17日) 晴天。
同所(長崎市炉粕町)に逗留して測る。御料所の長崎村小島郷の二印より初めて、茂木村への街道を測る。右に一向宗正覚寺。右に八剱社。地蔵堂。高来郡茂木村枝田上名。百姓の伝蔵宅で小休止。
右は石動山観音寺(現在は徳三寺)。右に浄土宗智恩寺の末寺で松原山田上寺。田上名の在所。字転石。…」

付近の当時の地形を知るため、明治34年測図旧版地図を載せた。図に描かれているという長崎村森田庄屋屋敷側(現在の長崎市立桜馬場中学校)からは、写真では矢の平の谷奥上に見えるのが、このピークである。
長崎全体の眺望が良い「この地点がまだ開発されずに残っていることが驚きです。早急に手を打つべきと思います」との声がある。「川原慶賀大作の地」として、長崎市や長崎女子短大によって、公園化を図ることが考えられる。
長崎新聞の報道姿勢は、読者に理解されやすい記事となるよう一考をお願いしたい。

コスタ・アトランティカ長崎初入港

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コスタ・アトランティカ長崎初入港

松が枝国際観光ふ頭に、クルーズ客船が入港していた。船名は「COSTA ATLANTICA」。長崎には初入港で、中国からの客のようである。1月26日、朝9時頃入港、写真は午後5時頃。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』では、次のとおり。
3、4枚目は、女神大橋の方を見ると、釣人がおり「ヤノウオ」が上がった。左の空にはきれいな光の虹(彩雲とか幻日の一種だろうか)が見えた。右はジェット機雲。

コスタ・アトランティカ(Costa Atlantica)は、コスタ・クルーズが運航しているクルーズ客船。

概 要 コスタ・アトランティカ級の1番船で、2000年6月30日、フィンランドのクヴァルネル・マサ造船所ヘルシンキ工場で竣工。船価は3億7500万ドル。 客室は全部で1,057室あり、そのうちの845室が海側に面している。 7月16日より東地中海クルーズに就航した。 主機には環境に配慮してNOx排出量を低減させたヴァルチーラ 9L46D型ディーゼルを採用し、イタリア船級協会(RINA)が定めた新環境基準を満たした最初の船舶となった。 また本船の各デッキには「La Strada」、「La Dolce vita」等、イタリアの映画監督フェデリコ・フェリーニの作品名が付けられている。 その後同型の2番船が2003年に建造され、さらにカーニバル・クルーズ・ライン向けにほぼ同型船(カーニバル・スピリット級)が4隻建造された。

船 歴
起工
進水 1999年11月11日
竣工 2000年6月30日
その後

主要目
総トン数 85,619 トン
全長 292.6 m
幅 32.2 m
吃水 8.0 m
主機 ディーゼル・エレクトリック
(ヴァルチーラ 9L46D型ディーゼル 6基)
出力 84,800馬力(総出力)
48,000馬力(推進出力)
航海速力 22.0ノット
最高速力 24.0ノット
船客定員 2112名(最大 2680名)
乗組員 920名

長崎名勝図絵による「崇玄観」の編述

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長崎名勝図絵による「崇玄観」の編述

長崎文献叢書「長崎名勝図絵」丹羽漢吉氏訳著(長崎文献社 昭和49年発行)79頁に、「崇玄観」(すうげんかん)の編述があったから、関係部分を抜粋する。
文献社序によると、「長崎名勝図絵」は、長崎奉行の命を承り、当時長崎聖堂助教の儒者らが編述し、執筆は文化、文政年間(1804−30)であったと思われる、とある。
以下は、図絵「◎巻之二上 南邊之部」の編述。茂木村田上を順を追い、説明しているのだろう。

117 合戦場  茂木村の街道、田上峠にある。高く平らにひらけて、遠望がきくので、昔ここを茂木口の要路として、番所を設け、警備の者を置き、物見をさせた。長崎氏の所領時代に、深堀方の密使を捕えたなどというのは、ここである。故に合戦場といった。一説では、砲術の練習場であったから、火箭場(かせんば)といったのが訛ったともいう。どちらが本当か知らないが、あとの説は後世の人が作った話のように思われる。近年は春になると、凧揚げの場所となっている。

118 石動山観音寺  田上村にある。臨済宗黄檗派の禅宗で、天洲和尚の開基とする。天洲は隠元の法孫である。元禄年中(1688−1703)天草代官服部六左衛門が、長崎に近い所に、一寺を建立したいと天洲に相談した。天洲は茂木村がよかろうと答えた。その頃教存という真言僧が、ここに小堂を建てて、祈祷所としていた。天洲はこれを譲り受けて再興し、石動山観音寺と称した。近年は頽廃している。本尊観世音像は唐作。他にも像があり、又、即非や雪广筆の額、聠がある。寺の右の方、石段を上って石の小祠があり、開山天洲の立像がある。鐘は〔銘文は略す〕元禄十三年(1700)天洲の時、安山彌兵衛が鋳造した。

119 楊柳泉  観音寺の林中にある。島原城主高力左近将監が雄浦に別業を持っていて、ここに来た時は必ずこの泉の水で茶を煮たが、味が秀れていた。名づけて楊柳泉という。

120 松原山田上寺  田上松林の中にある。寛永年中僧九誉残岌が建てた。浄土宗である。高力氏が寺領四石を附したことがあった。

121 崇玄観  大江操軒が建てたが、廃絶歳久しく、その趾は不明である。〔長崎先民伝の操軒大江宏隆の項を引用してあるが略す〕

122 千歳亭  向井去来の営むところである。去来は京都から来往して、長崎ではここに住んだ。一説によると、齢百歳に近い老尼がいて、去来はこの老尼のために、これを建てたともいう。今その趾は判らない。〔長崎先民伝及び五升庵文草の去来に関する項があるが、ここには略す〕

次は、もう茂木村の中に入って、「123 石の御前」へと続く。したがって、掲載順からこの「121 崇玄観」は、田上の「観音寺、田上寺、千歳亭あたり」にあったと、推測するべきではないだろうか。
川原慶賀「長崎港眺望図」は、江戸期の1820年前後の風景と見られる。日本唯一の道教の寺とされる「崇玄観」が、大浦「丸尾神社」一帯にあったとするには、考えにくい。
「崇玄観」はあくまで田上付近にあり、「長崎名勝図絵」の執筆当時、すでに「廃絶歳久しく、その趾は不明である」と編述している。

大浦「丸尾神社」一帯とする違いは、絵図の「星取山」の見誤りだろう。この山は正しくは「唐八景」となり、右の山が「星取山」と考えられる。現在の弥生町「高台の旧峠の場所」(長崎女子短大附属幼稚園グランドあたり)から描いたとすると、はっきり対面に見えるのは、「観音寺」(明治維新後、廃寺。現在は「徳三寺」が建っている)の建物だったのではないだろうか。
今後の考証を待ちたい。

2014年(平成26年)1月5日付の長崎新聞第1面トピックス記事は、次を参照。
https://misakimichi.com/archives/3908

コメントにある川原慶賀「稲佐山からの眺望」(写真を追加)は、私の手持ち写真で確認したところ、現在の稲佐山展望台のところから描かれているのに、間違いはないようです。

川原慶賀「長崎港眺望図」は、どこから描かれたか

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川原慶賀「長崎港眺望図」は、どこから描かれたか

2014年(平成26年)1月5日付の長崎新聞第1面トピックス記事は、次のとおり。
日本唯一の道教の寺だった「崇玄観(すうげんかん)」を、川原慶賀「長崎港眺望図」から特定し、位置を現在の椎の木町、創建時期不明とされる「丸尾神社」一帯ではないかと、発表されている。
「昨年9月…本格的な検証を始めた。その結果、愛宕4丁目から眺めると愛宕山や岩屋山などの稜線(りょうせん)が重なることを突き止め、眺望図の位置関係や正確性を確認」したとある。

川原慶賀の作品に道教の寺

江戸時代の絵師、川原慶賀が長崎市街を表現した風景画「長崎港眺望図」に、日本では具体的な場所などが確認されていなかった中国の民間宗教「道教」の寺が描かれていることが分かった。調査に当たっている長崎史談会の原田博二会長(67)は「日本唯一の道教の寺に間違いない」としている。

眺望図は4枚一組。出島のオランダ商館員フィッセルのコレクションとされ、オランダのライデン国立民族学博物館が所蔵している。江戸期の1820年前後の風景とみられ、田上方面の山あいに小さく描かれた建物の詳細が不明だった。

道教の寺は「道観」と呼ばれ、国内で場所が特定されたことはない。原田会長は以前から、17〜18世紀の人物の伝記「長崎先民伝」(1731年、盧千里著)に国学者大江宏隆が長崎奉行所の位置から南の方角の田上に道教の寺を建て、「崇玄観(すうげんかん)」の名を同奉行に与えられたとの記述がある点に着目していた。

眺望図の詳細不明の建物について「正確に描くことで定評のある慶賀が、ありもしないものを描くはずがない」と考えていた原田会長は昨年9月、同博物館のマティ・フォラー研究員の協力で複写、本格的な検証を始めた。その結果、愛宕4丁目から眺めると愛宕山や岩屋山などの稜線(りょうせん)が重なることを突き止め、眺望図の位置関係や正確性を確認。建物の場所が先民伝の記述と一致したことなどから崇玄観と特定した。位置は現在の椎の木町。

一方、長崎総合科学大建築学科の村田明久教授(63)は建物の屋根に注目。「反った屋根は寺院の特徴。手前の屋根は平たんなので住居などだったのでは」とする。
今後、原田会長は調査をさらに進め、村田教授は崇玄観の模型作りに取り組む。道教の考え方を伝える日本道観(総本部・福島県)の早島妙聴副道長によると、道教は老子が開祖し、日本には中国から文字が入ってきたころ伝えられたとされるが広まらなかったという。

早島副道長は「(寺の特定が)日中文化交流のよいきっかけになれば」と期待。崇玄観があった場所一帯には現在、創建時期不明とされる丸尾神社がある。地元の椎の木町第二自治会の山本誠一会長(78)は情報を収集中で「町づくりにつなげたい」と張り切っている。

以上がその記事だが、私は長崎新聞を購読していないから、掲載を知らなかった。ある方から、私ブログにコメントが入った。
「新聞記事にある地名などの場所と、慶賀の絵が違うような気がするのですが…正しい位置関係でしょうか。ご検討いただければうれしいです。…そもそもこれほどの規模の道教の寺院が長崎に存在していたら数ある長崎の古史誌にも記載されていると思うのですが…私見では田上寺のように思われます」という内容だった。

疑問はもっともである。私もすぐ疑問を感じた。絵図の全体的構図の現地確認が、あまりなされていないのではないだろうか。
新聞に掲載された絵図は、小さく3枚?組みとなっている。右端のみ長崎歴史文化博物館HPに、「作品名:長崎湾(港?)眺望図 写真提供:ライデン国立民族学博物館」として公開されており、詳細な絵図が確認された。
これからすると、「出島」など描かれ、たしかに右端の尾根は「愛宕山」のようであり、「岩屋山」との稜線の重なりから、「愛宕4丁目」あたりから描いていると考えられる。

都市計画道路(県道)「愛宕4丁目」バス停あたりのことかと思われるが、ただし、ここからでは、小島方面の高台が見えるだけで、「星取山」、「鍋冠山」、港口の島々(「高鉾島」と「沖ノ島・伊王島」と思われる)は見えない。「長崎港眺望図」は、ずいぶん高度がある位置から描かれている。
私は長崎歴史文化博物館HPに詳細画像があると知らず、最初は「風頭山」の公園展望台からを考えたが、しっくり行かない。右端の稜線が、立山方面となるのである。

正確に調査したわけではないが、これは「愛宕4丁目」というより、むしろ現在の「弥生町」長崎女子短大附属幼稚園グランド側あたりから描かれたように思われる。国土地理院明治34年旧版地形図を確認すると、ここは昔からの重要な高台の峠だったのだろう。旧道の残った道の続きも確認した。現在の車道峠は、南側へ少し移動して建設されていると思われる。
実際、ここからなら川原慶賀の描いた風景が、写真と説明のとおり広がり、全体を確認できる。「高鉾島」の位置が疑問だが、絵図には多少なデフォルメもあるだろう。

これからすると、道教の寺「崇玄観」があったとする場所は、大浦の谷奥にある椎の木町「丸尾神社」一帯とはならない。ここから、「丸尾神社」はまったく見えない。絵図に注釈された「星取山」は、実際は右の山であり、この山の正しくは「唐八景」なのである。
長崎市立博物館「長崎学ハンドブックⅡ 長崎の史跡(南部編)」86頁のとおり、「徳三寺」は、明治維新後、廃寺となった黄檗宗「観音寺」跡に、杉山徳三郎が明治29年に開創した寺である。絵図に描かれているのは、この「観音寺」ではないだろうか。
絵図の制作年代1820年前後には、寺の建物は現存していただろうと、「徳三寺」記録を調べてもらった。小島の高台を左横へ進む黒線は、ピントコ坂を上がった「旧茂木街道」だろう。「観音寺」は街道上部にあった。
あるいは、その左側「田上寺」も考えられるが、竹林で見えない位置にある。 

最近の「新長崎市史 近世編」でも、古写真解説の間違いが感じられた。高名な先生だけに、慎重な研究をお願いしたい。「新長崎市史 近世編」古写真の疑問は、
https://misakimichi.com/archives/3190
長崎新聞も少しは現地確認を行い、読者にわかりやすい記事と図版とするようお願いしたい。絵図の判断に重要な、左右部分の一部をカットして掲載するのは、読者のためにならない。
私の現地調査の結果を、すべて正しいと思っていない。今後の研究のため、あくまで参考資料として掲げるので、詳しい説明を省いたところがある。

長崎名勝図絵による「崇玄観」の編述は、本ブログ次の記事を参照。
https://misakimichi.com/archives/3909

竿浦から八郎岳一周とかき焼き新年会

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竿浦から八郎岳一周とかき焼き新年会

2014年1月19日(日)快晴。竿浦から八郎岳(標高589.8m)一周とかき焼き新年会。参加6人。みさき道歩会の例会。
江川総合運動公園9:45—竿浦サイクリング道路10:11ー落矢ダム尾根10:57—八郎岳
13:10(昼食)13:50—平山分岐14:28—竿浦大山祇神社15:11—土井首中学校前15:45(徒歩距離 約9km)

今回の目的は、竿浦サイクリング道路脇やその上の尾根で見つかっている陸軍省長崎要塞第二地帯標2本の紹介。佐世保市から高橋氏も同行。途中まで歩いた。
落矢ダムからの尾根道と出合い、そのまま八郎岳山頂まで直登する。快晴のため眺望が良い。
平山方面へ下り、竿浦大山祇神社への道を行く。サイクリング道路を歩き土井首中学校前まで出て、かき焼き店へ入る。生ビールを飲んで、1人2000円で済んだ。

一ツ葉杜の由来  長崎市梁川町

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一ツ葉杜の由来  長崎市梁川町

一ツ葉杜(ひとつばのもり)の石塔などのお堂は、長崎市梁川町7街区にある。長崎市立病院成人病センターから梁川公園の方へ、国道の裏通りを進むと、左奥の駐車場のところに見える。
現地説明板は、次のとおり。

一ツ葉杜(ひとつばのもり)由来

今より約四百年前の長崎奉行六代目竹中菜女正重興より召喚され、豊後の国より来崎した二代目当主、志賀親勝宗色は浦上、渕村(西町より神の島)を知行(土地をもらう)され志賀山(護国神社)を拠点に庄屋として行政を掌った(県立図書館渡辺文庫より)。
以後代々庄屋として継承され九代目当主、志賀新左衛門新壽宗貞の時に宗貞がある晩、現在地(当時浦上川川沿)の通路を通りがかった際「志賀!志賀!」と呼び捨てに呼ぶ声が聞こえるので立ち止まり、自分を呼び捨てにする者などいない筈なのに何者かと辺りを見回したが姿は見当たらずその晩は帰宅しました。
しかし、昨晩のことがどうしても不思議に思い、翌朝また現地に来て見るとなんと大友宗麟の腹心、一ツ葉の首がさらし首で川岸にありました。宗貞はびっくり驚き、さっそく『流岸浄生信士』と石塔を刻み建立し手厚く葬りました。その石塔が左側の塔で右横に願主宗貞の名が刻まれてあります。

右側の自然石碑は元公卿様で(官女)通称宝塔様大納言と称され(大臣の位)、石碑には『玉秀命神霊』と刻まれてあります。この碑は長崎二代目市長、横山寅一郎により長崎市建立として建てられた碑で、裏側に明治三十二年十二月長崎市建立と刻まれてあります。(長崎市典歴史編より)
玉秀命(たまひでのみこと)は長崎港湾改良工事、水道増設、長崎商品陳列所の建設等、長崎発展の為に多大な貢献をなされ、その功績を讃え建立された碑です。中央の観音像は皇族の方の名のある祈祷師として山崎教随先生が鎮魂の像として献納されたもので現在、穴弘法山に教随先生の銅像が建立され祭られてあります。
以上のような由来があり首から上の病、頭の神として祭られ入学、入試、神経系統、心の病、ストレス等、無病息災、安全健康等に大変御利益があり信仰祭られてあります。御参拝、御祈祷されてみてください。
(詳細は筆者林田敏博まで)

了願寺墓地近くにあるゆうこうの木  長崎市小ヶ倉町3丁目

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  了願寺墓地近くにあるゆうこうの木  長崎市小ヶ倉町3丁目

おまがりさん(長崎の特徴的な猫「尾曲がり」の意味だろう)の次のブログ記事を参照。「近所で自生?している ゆうこうの木です。 2009年撮影」とある。
http://blogs.yahoo.co.jp/buntyou15/18863281.html
どこにあるゆうこうの木の写真か、参考となる。ゆうこう分布リストも作成している川上氏に聞くと、これは、「長崎市小ヶ倉町3丁目の了願寺後ろの墓地近くにあるゆうこうの木」と、すぐ返事が返ってきた。確認に行くと、間違いなかった。

ゆうこう〜♪  2011/1/24(月)  長崎・うまかもん 食べ物 (おまがりさんブログから)   

長崎には、いたるところに野菜の無人販売がある。
今ならばみかん、季節によってはじゃがいもやピーマンなど様々。
土曜日に市民農園の帰りに見つけたのが これ…
友好?
それとも…UFO?

ゆうこう…長崎市の土井首地区と外海地区を中心に自生していた長崎独自の香酸柑橘(かんきつ)で、産地化を進めています。見た目はユズやカボスに似ており、果肉はやわらかく、酢ミカンらしい味で、香りはザボンやユズに似ています。飲料、調味酢、マーマレード、ローションなど、幅広く利用されており、中性脂肪を下げる働きがあるといわれています。平成20年には味の箱舟に認定されました。 「ながさきの食」HPより

これが「ゆうこう」です。
昔は、長崎南部地方に自生していたようで、
妻父は、昔はそこらへんにあって、実にストロー突っ込んで
汁ば飲んだもんばぃ…と言ってました。
日テレの「ザ!鉄腕!DASH!!」でも紹介されました。→こちら

うちでの食べ?方は
ジュースに絞って、炭酸で割って飲む。
さらに焼酎を加えて飲む。
マーマレードを作る。
そして余った皮は、ネットに入れて お風呂に入れる。
(美肌効果?)
なんて役立ててます。
ジュースは、酸っぱすぎず、さわやかな酸味で美味しいですよ♪

ゆうこうは、自生していたものが改めて新種であるということを
長崎の人が発見しました。
現在では、いろいろなところで栽培されているようですね。
外海の夕日の見える丘の道の駅や、旧三和町役場の横の直売所でも
販売しています。


近所で自生?している ゆうこうの木です。 2009年撮影