長崎の西空の夕日 ファイル 2から
長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。夕日シリーズは以降も続く。
過去の「長崎の西空の夕日」ファイル 2から。オリジナル画像を保存していないため、撮影年月日データは不明となっている。
長崎の西空の夕日 ファイル 2から
長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。夕日シリーズは以降も続く。
過去の「長崎の西空の夕日」ファイル 2から。オリジナル画像を保存していないため、撮影年月日データは不明となっている。
長崎の西空の夕日 ファイル 1から
長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。夕日シリーズは以降も続く。
過去の「長崎の西空の夕日」ファイル 1から。オリジナル画像を保存していないため、撮影年月日データは不明となっている。
平山から深堀城山と江川尾根へ 2013年6月
2013年6月16日(日)曇りのち快晴。平山から深堀城山(標高350.4m)と江川尾根へ。参加9人。みさき道歩会の例会。平山から深堀城山へ直接登る新ルートを、最近見つけた。
平山9:35—九電鉄塔9:55—180mピーク10:15—深堀城山11:24—愛宕神社跡11:
46(昼食)12:25—江川尾根—テレビ中継放送所13:02—江川総合運動公園13:42(徒歩距離 約8km)
平山バス停交差点から車道を山際の民家まで進む。家裏に九電鉄塔「岳路線12号」の標識があり、山道へ入るとすぐ鉄塔に出る。急な尾根道がまっすぐ続き、30分ほど登ると、国道から見える約180mピークに着く。石英のみの四角の大きな塚があり、不思議な石積みである。地元で聞いても何かわからない。
平坦な尾根道となり、やがて植林地へ出る。登山道は右側の雑木との境を行く。道をまたぐ壕がある。戦時中に掘られた壕で、これは善長カトリック墓地下にあるのと同じ造りである。
白テープを目印に草つきや幼い植林内を、ほぼまっすぐに尾根を上がると、俵石先のきちんとした道と合う。山頂は右でゆるやかに登って行く。城塁へ出てすぐ先が八幡宮を祀る城山山頂である。11:24着。
山頂には近くにあと1本の長崎要塞第二地帯標第八号があるが、ガスがかかり写真はボケた。
愛宕神社跡の広場まで下って昼食。晴れ間が見えてきたが、女神大橋と長崎市街方向は雑木とかずらが高くなり、見渡せなくなったのは残念である。
江川尾根へ下り鶴洋高校前に出て、江川総合運動公園で解散した。梅雨どきの中休みとなり、晴天に恵まれた新ルート歩きができたのは、幸いだった。
大正十一年頃のガラス写真 262ほか 鯉のぼり
「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
「大正十一年頃のガラス写真」
262,81,254 (鯉のぼり)
■ 確認結果
「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。
整理番号262は、小島街道沿いの現上小島2丁目あたりから見た「鯉のぼり」風景と思われる。背景の右側から写っているのは、金比羅山の尾根で、立山の谷間や筑後町方面の寺が確認できる。現在の写真は、市街の見通しが効く街道沿いの駐車場から、適当に撮影している。
あとの2枚は、参考に掲げる。整理番号81も、「鯉のぼり」風景だが、同じ場所の「鯉のぼり」ではない。整理番号254も、背景に写っているのは、金比羅山の尾根と立山方面である。上小島の上部高台と考えられるので、撮影地を調査中。
(2015年4月16日追記)
整理番号81の鯉のぼりが立っている場所は、この付近に大正の同時期あった温室栽培「翠紅園」の一角と思われる。次の記事と重複で、解明している。英彦山(標高385.6m)?の山頂がこのようにわずかに覗く。
大正十一年頃のガラス写真 81 鯉のぼり
https://misakimichi.com/archives/3712
翠紅園は、「八釼神社の上祠」のある場所のあと一段上、現在、「レオパレス21」が建っている場所にあった。写真好きのこの撮影者の父が経営していた。
大正十一年頃のガラス写真 125,127,286,287 翠紅園
https://misakimichi.com/archives/3715
大正十一年頃のガラス写真 221ほか 潮見崎
「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
「大正十一年頃のガラス写真」
221,226 (潮見崎)
■ 確認結果
「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。
整理番号221,226は、現在の長崎市茂木町「潮見崎」の風景と思われる。背景に写っているのは、赤崎鼻である。
HP「NAGASAKI GENEI」長崎古えはがきに、同じような潮見崎海岸の景色がある。
大正十一年頃のガラス写真 11ほか 潮見崎の磯遊び
「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
「大正十一年頃のガラス写真」
11,280,291 (潮見崎の磯遊び)
■ 確認結果
「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。
整理番号11,280,291は、一連の家族写真。現在の長崎市茂木町「潮見崎」の磯遊び風景と思われる。背景に写っているのは、赤崎鼻である。現在の「いけす料理かね万」前あたりの海岸を撮影している。
「かね万」は、昭和7年8月休息所として最初は開業しているので、それ以前の写真であろう。
重篭尾根の九電鉄塔作業道を茂木まで下る 2013年6月
2013年6月2日(日)曇り。重篭尾根の九電鉄塔作業道を茂木まで下る。参加6人。みさき道歩会の例会。旧茂木街道から見て縦走できないか計画したルートだが、考えが甘かった。
大波止10:10—(バス)—重篭10:35—九電3号鉄塔10:49—4号鉄塔11:09—5号鉄塔11:30—ながさき出島道路入口12:42(昼食)13:20—茂木大山祗神社13:54—黒橋バス停14:35(徒歩距離 約8km)
大波止10:10発飯香の浦行き乗車。重篭バス停から歩き出す。霧雨も止む。九電送電線の長崎江川線(長崎丸山線)3号鉄塔から茂木大山祗神社上の12号鉄塔まで、重篭尾根の九電鉄塔作業道を茂木まで下る予定だった。
5号鉄塔まで行って、6号鉄塔の矢印標識が轟の滝少し上流の市道右にあったもののの、先の山道がわからず、途中で断念した。最近の道路事情から廃道となっているものもあり、一概に信じられない古い標識がある。
長崎自動車道の長崎IC側に市道をそのまま下り、ながさき出島道路入口の駐車場で昼食。茂木大山祗神社のヤマモモの大木を見学し、黒橋バス停へ出て帰った。
5号鉄塔と6号鉄塔の間は、若菜川上流の深い谷間になっている。6号鉄塔は高くて遠いピークにある。茂木大山祗神社上の12号鉄塔から逆に登らないと、九電鉄塔作業道を見つけるのはむつかしいようだ。再度、調査したい。
大正十一年頃のガラス写真 222 岩屋山
「長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース」などに収録している長崎の古写真について、撮影場所などタイトルや説明文に疑問があるものを、現地へ出かけて調査するようにしている。順不同。
「大正十一年頃のガラス写真」
222 (岩屋山)
■ 確認結果
「ガラス写真」とは、感光する写真乳剤を塗ったガラス板を写真機にセットして撮影した後、乾板をもとに写真を焼き付ける。フィルムが普及する前の明治から昭和にかけてよく使われた(朝日新聞キーワード解説)。
スタジオアートアイ制作CD「大正十一年頃のガラス写真」は、長崎を撮影していると思われる
308枚の写真。整理番号のみで、撮影地はまったくわからない。心当たりの場所を探してみる。
整理番号222は、背景に長崎市北部の山「岩屋山」(標高475.2m)が写っている。
山の稜線の重なりから撮影地を探すと、現在の長崎市竹の久保町「長崎県立長崎西高等学校」のグランド高台からと思われる。
現在の写真は、グランド裏門からフェンスを少し西側へ行った、岩屋山の見通しの良い場所から確認した。
この地は、1923年(大正12年)4月1日「長崎県立瓊浦中学校」が開校。竹ノ久保の元長崎重砲兵大隊兵舎を仮校舎とした。原爆により全壊。学制改革などあった。
1950年(昭和25年)7月「長崎県立長崎西高等学校」が長崎市竹の久保町(旧・長崎県立瓊浦中学校跡)に木造校舎を新築し、鳴滝から移転した(ウィキペディア沿革)。
私の母校で景色を思い出した。古写真に写る対面木立の中の大きな建物(現岩見町あたり)がどこだったか、ご存知の方は知らせてほしい。