月別アーカイブ: 2009年11月

長崎学さるく “橘湾沿岸の江戸期の台場跡めぐり” (2)  平成21年11月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

長崎学さるく “橘湾沿岸の江戸期の台場跡めぐり” (2)  平成21年11月

平成21年11月29日(日)曇り。長崎学さるく幕末編行事 “橘湾沿岸の江戸期の台場跡めぐり” 参加スタッフとも20人。講師は、諌早市郷土館の織田正人先生。
東望道バス停9時半発ー東望陣屋跡ー東望山台場跡ー蛎道台場跡ー戸石地区公民館(昼食)ー飯盛経ヶ岳台場跡ー結の浜(一部解散)ー田結観音寺ー大門バス停15時着(徒歩約10km)

江戸時代、佐賀藩諫早領は異国船来航に備え、橘湾沿岸の警備のため多くの台場を築いた。藩史料からわかっている各台場の配備状況と主な台場跡を訪ねる。
織田先生作成資料は詳しい研究と図があるが、写真説明に必要な部分のみ簡単に載せる。

写真  2〜 11   4 経ヶ岳(経読岳・きょんだけ)台場跡
東望山台場と同じ目的で設置された。幕末の文久年間(1861〜1863)に経ヶ岳台場として設置、その後、慶応3年(1867)に南手に2台場・北手に2台場が設置された。馬蹄形の台座が見られる。

・それぞれの台座の寸法 (経ヶ岳台座の中心軸石の上に乗っている丸石は正体不明)
東 望 山  直径(内径) 360cm  縁石 23.5cm
経 ヶ 岳   直径(内径) 740cm  縁石 33cm 
蛎   道   整理されて原型を留めない  縁石 23cm 

写真 な し       5 田結(高岳)の遠見番所跡
佐賀藩が長崎港の警備を担当した頃より、長崎港出入りの船が、長崎半島の突端椛島が遠望でき見渡せるため、この遠見番所と有喜遠見番所を設置した。

写真 12〜 14   結の浜マリンパーク

写真 15〜 16   補3 田結山観音寺
曹洞宗。本尊は行基作 聖観世音菩薩(諌早市指定有形文化財)。

宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/type2218/9984081.html
のりさんのは、 http://blogs.yahoo.co.jp/type2218/9984081.html

次回の学さるくは、1月2日(土)に”新春「みさき道」を歩く(岬木場経由)” 午前9時30分三和行政センター前広場集合。

(追 記 2015年8月22日)
飯盛町池下「経ヶ岳台場・跡」の場所は、追加の地形図+地点あたり。2枚目写真が台場登り口を撮影していると思われる。サイト「近世以前の土木・産業遺産」長崎県リストによるデータは、次のとおり。詳しい文献は、「諫早史談No.40」にあるようです。

経ヶ岳台場・跡 きょうがたけ
諫早市 飯盛町池下 台場(佐賀台場) 内径7.4m(円形台座:300度) 慶応3(1867) 諫早史談40 直径7.4mの円形台座が残る/中心軸受けに丸石(後から置かれた) 肥前・佐嘉藩が領内の東望・牧島・蠣道の3ヶ所に築いた砲台の1つ/円形台座の上に2個2組の「ころ」(現存せず)で支えた「応変台」を置き、中心軸受けに入れた軸(現存せず)の回りに大砲を回転させたとされる→県内では長崎市の「東望山砲台」の倍の大きさ 2 B  

長崎学さるく “橘湾沿岸の江戸期の台場跡めぐり” (1)  平成21年11月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

長崎学さるく “橘湾沿岸の江戸期の台場跡めぐり” (1)  平成21年11月

平成21年11月29日(日)曇り。長崎学さるく幕末編行事 “橘湾沿岸の江戸期の台場跡めぐり” 参加スタッフとも20人。講師は、諌早市郷土館の織田正人先生。
東望道バス停9時半発ー東望陣屋跡ー東望山台場跡ー蛎道台場跡ー戸石地区公民館(昼食)ー飯盛経ヶ岳台場跡ー結の浜(一部解散)ー田結観音寺ー大門バス停15時着(徒歩約10km)

江戸時代、佐賀藩諫早領は異国船来航に備え、橘湾沿岸の警備のため多くの台場を築いた。藩史料からわかっている各台場の配備状況と主な台場跡を訪ねる。
織田先生作成資料は詳しい研究と図があるが、写真説明に必要な部分のみ簡単に載せる。

写真  2        1 東望陣屋跡
幕末長崎に異国船の入津に伴い、佐賀藩は防備を強化した。諫早もその一部を受け持つため、長崎に近い矢上の地に用員の移住を行った。その用員の陣屋である。又、諫早領の海岸(橘湾)の防備の用員でもあった。

写真  3〜  7   2 東望山砲台跡(長崎市指定史跡)
文化元年(1804)のロシア船来航・文化5年(1808)フェートン号事件により、幕府は沿岸警備の強化を諸藩に命じた。諫早領は、橘湾沿岸警備のため、文化年間(1804〜1817)海岸沿いに警備の為に施設を整えた。幕末の文久年間(1861〜1863)に、東望山に砲台を設置、その後、慶応3年(1867)に5ヶ所設置した。現在の指定砲台は日当平と思われ、馬蹄形の台座が見られる。

写真  8〜 12   3 蛎道(釜崎)台場跡
東望山台場と同じ目的で設置された。幕末の文久年間(1861〜1863)に日当平辻台場として設置、その後、慶応3年(1867)に蛎道の上下段と魚見岳の3ヶ所に設置された。台場の跡形は、琴平神社の台石に利用されている。

宮さんの参加ブログ記事は、 http://blogs.yahoo.co.jp/type2218/9984081.html
のりさんのは、 http://blogs.yahoo.co.jp/type2218/9984081.html

下甑郷土館庭園に残る石橋の橋桁  薩摩川内市下甑町手打

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

下甑郷土館庭園に残る石橋の橋桁  薩摩川内市下甑町手打

鹿児島県の西方海上はるか甑島は、細長い列島の島。川の流れは短くすぐ枯れるのか、小さな桁石橋もまったく見当たらなかった。
最後に寄った下甑島の南端、下甑町手打の武家屋敷通り「薩摩川内市立下甑郷土館」(歴史民俗資料館)の庭園で、やっと歴史ある桁石橋の珍しい材石と出会った。
庭園のベンチなどにされている6本。由来書きは次のとおり。

◇石橋の由来

この石は橋桁で今から約三百年位前、甑島領主小川氏の菩提寺住職丹山観和尚が泉州(現在大阪府堺)の宇兵という石工にたのんで、手打集落内の川の五ヶ所に三本ずつ石橋桁をかけさせたもののうちの一本の石橋の桁です。残りの橋桁の一部は郷土館の庭園に配石しています。
◇五ヶ所とは (城川の上・下、松下川の上・下、長川の一ヶ所)
(刻 銘) 五ヶ所共 元禄十年六月三日丁丑 丹山叟施捨 工者 泉州宇兵   郷 土 館

下甑郷土館の敷地は、建武の中興の忠臣楠木正成の末流楠木和田家(菊水の定紋)がこの地に落ちのびて住みついたといわれる歴史的に由緒あるところで、家屋(お住い・なかい)や庭園・山水池も以前の姿に復元したものである。この池にも復元庭園橋があった。
後ろの写真は、同庭園展示の「洗濯石」と、郷土館前通りの現在の城川「城橋」。

鹿島町の大火のエノキ・梶原家のソテツ   薩摩川内市鹿島町藺牟田(下甑島)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

鹿島町の大火のエノキ・梶原家のソテツ   薩摩川内市鹿島町藺牟田(下甑島)

名木を番号順に紹介中なので、記事は下甑島でも上となる北端部の鹿島町へ戻る。
鹿島港フェリー乗り場から県道349号線を少し南へ下ると、鹿島断崖が見られる「藺落(いおとし)展望台」への案内標識があり、薩摩川内市鹿島支所、鹿島小学校前を通る右の道へ入る。

密集した集落内に車を通すためできた道路で、県道から入ってすぐにJA甑支所スーパーがある。先の角地に小さな建物の徳船寺があり、名木「大火の榎」が寺前の道路中央に立つ。
市鹿島支所まで行くまだ手前。近くに「鹿島小学校発祥之地」と長濱街道の里程標石があった。
「かごしまの名木」リストによる説明及び現地説明板は次のとおり。榎の片面が焼けているのは、アップに写し忘れた。

かごしまの名木  38   愛称 大火の榎   樹種 エノキ
所在地 薩摩川内市下甑町鹿島町藺牟田
幹周 1.9m   樹高 10m   樹齢 850年   本数 1本

鹿島村文化財指定(天然記念物第4号)  名称「徳船寺境内及び周辺樹林」

文化元年(1804年)の10月29日に、「大蔵火事」と呼ばれた大火事があり、村の3分の2にあたる約200戸が焼失した。この榎の片面が焼けているのはその時の名残りである。
大木が殆ど姿を消した本村において、この徳船寺境内及び周辺の樹木は、貴重な緑であり、村内に豊かなうるおいを与えている。
本村ではその後、防火に特に注意し、「道中禁煙」を呼びかけ、村民みんなで防火に心がけるようになった。文化財をみんなで守り大事にしましょう。  平成15年3月  鹿島村教育委員会

ここから県道の裏通りとなる路地を鹿島港フェリー乗り場の方へ歩くと、「かごしまの名木」でないが、やはり同村指定文化財だった「梶原家のソテツ」を見かけた。現地説明板は次のとおり。

梶原家のソテツ   鹿島村指定文化財(天然記念物第3号)

そもそも梶原家は、源平争乱後落ち延びてきた平家の一族とも言われ、この地に住み着き郷士となった。このソテツの西側一帯は風雅な築山であったが、時代と共に次々と削られ、ソテツのみ先祖の遺物として保存されてきた。
当時ここは鈴木流の道場があり、柔・剣術の稽古を行い、このソテツの根本が休息場所であったと伝えられている。
樹齢 760年以上  高さ 3m20cm  周囲 5m40cm   平成16年2月現在
平成16年2月   鹿島村教育委員会

手打小学校のセンダン   薩摩川内市下甑町手打(下甑島)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

手打小学校のセンダン   薩摩川内市下甑町手打(下甑島)

下甑町手打は下甑島南端の集落で、下甑町の中心である。県道349号線により手打海水浴場がある海岸通りに出て、浜の中間ほどの小橋から川沿いの左の道へ入る。武家屋敷通りを通りぬけ、まっすぐ行くと薩摩川内市立手打小学校の校庭側門に出る。下甑郷土館の裏側となる。

名木のセンダンは校庭の中央に立つ。校庭の隅にはイチョウの大木もあった。
「かごしまの名木」リストによる説明は次のとおり。甑島について名木は、町ごとに1本ずつ選定したのではないか。センダンの大木は、上甑島の里町小学校塀のが、後ろの写真とおり幹囲3mほどあり大きかった。

かごしまの名木  37   愛称 手打小学校のセンダンの木   樹種 センダン
所在地 薩摩川内市下甑町手打
幹周 1.5m   樹高 7m   樹齢 120年   本数 1本

長崎の西の空の夕日  09−23

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

長崎の西の空の夕日  09−23

長崎市南部の団地、わが家から見た夕日。電柱と電線は邪魔なので近くにも出かける。以下、続く。

写真  1〜 3  平成21年11月12日の 7時23分頃から  朝明けの空
写真  4      平成21年11月23日の17時19分頃から
写真  5〜 9  平成21年11月25日の17時13分頃から  沖は端島(軍艦島)

平良のエノキ   薩摩川内市上甑町平良(中甑島)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

平良のエノキ   薩摩川内市上甑町平良(中甑島)

上甑島から甑大明神橋と鹿の子大橋を渡って、上甑町平良港フェリー乗り場へ行く。海岸通りをさらに400mほど先へ進むと、右手にエノキの大木がある公園がある。平良公民館の前となる。「かごしまの名木」リストによる説明及び現地説明板は次のとおり。

かごしまの名木  36   愛称 榎   樹種 エノキ
所在地 薩摩川内市上甑町平良
幹周 3.8m   樹高 15m   樹齢 500年   本数 1本

榎 の 由 来

この榎の木は樹齢500年以上と推定されている。ここに三島神社があったころは4本の榎の木が立っていた。戦時中はこの木にサイレンを取り付けたり、戦後は時報・災害時等の報知に利用されたりして永くみんなに親しまれてきた。
これからもこの榎を保護し、憩の場のシンボルとしたい。     上甑村教育委員会

里のアコウ  薩摩川内市里町里(上甑島)

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

里のアコウ  薩摩川内市里町里(上甑島)

「かごしまの名木」リストによる説明は次のとおり。里のアコウは幹周6mの大木であり、地元へ行って聞けばわかるだろうと思って甑島へ渡ったが、人によっていろいろな木を言う。
薩摩川内市観光協会甑島案内所でもわからず、現在、鹿児島県森林整備課、薩摩川内市里支所地域推進課へ問い合わせ中だが、返答がなかなか来ない。

かごしまの名木  35  愛称 里のアコウ  樹種 アコウ
所在地 薩摩川内市里町里  所有者
幹周 6m  樹高 15m  樹齢 400年  本数 1本

他の人のHPでは、里小学校のアコウを書いているのがある。校庭に立ち入れなかったが、そんな大きい木とは見えない。同小学校正門左側の屋敷の石垣にある木の方が幹周は大きい。
そのほか里支所近く海岸通り交差点に植えられた薩摩川内市合併記念の木、そして甑島案内所から画像を送ってもらったが、集落内にも大木はある。

正しい選定木がわかったら、後日、記事と写真を修正したい。番号順があり、項目出しをしておく。里小学校校庭の2枚目、里集落内の7,8枚目のアコウの木の写真は、甑島案内所からの送信画像。

市制120年のあゆみ展  (8) 蚊焼 波戸への道

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

長崎市制120年のあゆみ展  (8) 蚊焼 波戸への道

長崎市制施行120周年記念「長崎市制120年のあゆみ」企画展は、4月に長崎県美術館(出島町)、5月に歴史民俗資料館(平野町)で開催された後、合併各地区を巡回し、11月17日三和地区で終了した。
古写真の展示が主。古写真の内容は会場によって変えている。そして、合併町独自の町を振り返る写真がある。たまたま見学した最終日の三和公民館会場の展示。タイトル・撮影場所・説明など内容に疑問を持った古写真の、現地確認などの結果を報告する。

〔写真説明〕  蚊焼 波戸への道
蚊焼村時代は、江崎から波戸に行く道はまだなかった。

〔写真説明〕  現在の蚊焼波止への道  (平成15年10月)

■確認結果

地名は「三和町字図」を参照。現在写真のタイトルは、「波止」でなく「波戸」が正。
蚊焼小学校から蚊焼海岸通りに出て、左方奥が「波戸」集落。右方へ行くとすぐコミュニティバスの「江村」バス停がある。「江崎」とはあまり聞かないが、「江崎」と「村中」の自治会が合併し、「江村」となったそうである。
字図上では「村中」であるが、「江崎」とは蚊焼海岸通りの江村バス停あたりであろうか。

平成15年現在撮影の写真があり、高台へ行ってみた。バス停の傍にエノキの大木があり、桑原鍛冶工房先から坂段を上がると、波戸への道が良く望める。古写真に写るエノキはこんな大木になっている。現在写真は少し登り過ぎと感じられる。右を見ると小家海岸のすぐ上である。
波戸への海岸通り埋め立て、護岸、道路ができたのは、昭和46年からの蚊焼漁港改修事業のようである。(三和町郷土誌474頁)

波戸への道は、蚊焼村時代から集落内を通って、蚊焼大川を浜津橋や波戸橋を渡って行く道はあったと思われる。〔写真説明〕はわかりやすくするため、「昭和46年頃 江村から波戸へ行く海岸通りの車道はまだなかった」と説明して良いのではないか。

市制120年のあゆみ展  (7) 蚊焼のメインストリート

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

長崎市制120年のあゆみ展  (7) 蚊焼のメインストリート

長崎市制施行120周年記念「長崎市制120年のあゆみ」企画展は、4月に長崎県美術館(出島町)、5月に歴史民俗資料館(平野町)で開催された後、合併各地区を巡回し、11月17日三和地区で終了した。
古写真の展示が主。古写真の内容は会場によって変えている。そして、合併町独自の町を振り返る写真がある。たまたま見学した最終日の三和公民館会場の展示。タイトル・撮影場所・説明など内容に疑問を持った古写真の、現地確認などの結果を報告する。

〔写真説明〕  昭和20年代 蚊焼のメインストリート
(現蚊焼保育所附近)

■確認結果

昭和20年代、蚊焼のメインストリートの古写真。(現蚊焼保育所附近)という説明がまぎらわしい。撮影場所が現蚊焼保育所付近という意味で説明しており、写っている長屋根の建物の説明がない。

2枚目の古写真は、町制施行50周年記念誌○長崎県三和町「さんわの足跡 1955ー2004」25頁の掲載写真。この古写真の撮影場所から道を先へ進んで同じ建物を写した写真が1枚目の写真であろう。年代は「昭和20年代」で合う。

3枚目の古写真は、三和町文化協会写真クラブ編「三和町今昔 Part2」平成2年11月刊12頁の掲載写真。「学び舎 昭和30年ごろの蚊焼小学校」とある。中央に写った長屋根の建物が、1枚目及び2枚目と同じで建物であることが確認できる。

4枚目の古写真は、上段が今度は前集「三和町今昔 Part1」平成元年11月刊31頁の掲載写真。「昭和30年頃 蚊焼小校庭の人文字 カヤキ」とある。この年代は間違っているようである。下段の三和町「三和町郷土誌」昭和61年1月刊606頁の掲載写真には、同じ写真で「航空写真(昭和44年10月)」となっている。

郷土誌の蚊焼小学校沿革によると、「昭和34.3 危険校舎改築(2階建8教室)」とあり、これが人文字の上部に写っている白い校舎のようである。
航空写真を写した昭和44年10月当時も、白い校舎の左側に1枚目古写真と同じ長屋根の校舎(南校舎といい、昭和48年6月解体、7月に体育館が完成している)があったことがわかるであろう。

ところで1枚目古写真の撮影場所。蚊焼小学校へまだ近い感じがする。蚊焼保育所は現在地で昭和41年開所。その先に蚊焼地区公民館(役場蚊焼出張所と併用)が昭和51年3月建った。撮影場所は同公民館前あたりと思われる。小学校との間に三和郵便局が昭和49年新築移転している。小川が流れ、川沿いの道が左右に通じている。
したがって、写真説明は「昭和20年代 蚊焼のメインストリート。蚊焼小学校の通り 長屋根建物は旧木造南校舎」とした方がわかりやすいと思われる。